第6話 その花は、まだ捨てない
透明な袋の中で、葉が一枚、薄い紙に挟まれていた。
あの濡れたリュックから出てきたものだと、言われなければわからなかった。縁に残った薄紫の色を、小春さんは指で触れずに示した。
「これは、間に合いました」
地上の休憩室には、大きな机が一つあった。事故の書類を受け取るために来た小春さんが、少し座って写真を見せたいと言ってくれたのだ。
左足を乗せた椅子の位置を本人に確かめ、俺は向かいへ座った。松葉杖は手の届く壁際にある。
「ほかのは?」
「売るのは、難しくなりました。乾かすまでに時間がかかってしまって」
小春さんは苦笑した。
あのリュックを持ち上げたときには、軽いと思った。俺は袋の中の、一枚だけ残った葉を見た。
「袋のままにしていた時間も、長かったから」
「三枝さんのせいではないです。あのときは、そのままで正しかったんですから」
彼女は早口になって、そこで息をついた。
「でも、悔しくはあります。すごく」
命が助かったんだから。
喉まで出た言葉を、俺は飲み込んだ。
「何日分くらい、かかってたんですか」
彼女は少し驚いた顔をしてから、携帯電話を手元へ寄せた。
「採ったのはあの日です。でも、どこに何があるか調べたり、乾かす場所を用意したり。動画の続きも、考えてました」
画面に、同じ斜面の写真が並んだ。
俺には似たような草に見える。小春さんが一枚を拡大すると、茎の根元に小さな赤い点があった。
「このくらいのときに見つけて、あと何日かなって待つんです。全部採ると次がなくなるので、印をつけたぶんだけ」
「通って見に行く?」
「ほかの仕事の帰りに。空振りも多いです。咲く前に食べられていたり」
「魔物に?」
「小さな虫に。虫のほうが、私より勤勉です」
小春さんは真面目な顔で次の写真へ送った。
今度は、葉の半分がなくなっていた。きれいに切り取られたようで、俺は思わず覗き込む。
「残り半分で、売れるんですか」
「これは撮って、おしまいです。食べ残しを買ってもらうのも、ちょっと」
俺がうなずくと、彼女は初めて声を立てて笑った。
「日記の続きを、出したいんです」
画面を置いて、小春さんが言った。
「お礼の動画だけだと、あの場所で終わったみたいで。あの日より前に撮ったものも、まだあるんです」
「じゃあ、この葉っぱも?」
「はい。失敗した乾かし方は真似してほしくないので、そこは説明を入れて」
彼女は袋の端を持ち、光の当たる位置へずらした。
「窓側、空けます?」
「むしろ、今のままで。光が強すぎると色が飛ぶので、三枝さん、少し影になってください」
人手としての注文が、思っていたのと違った。
俺は窓と机のあいだへ立つ。小春さんは画面を見ながら、もう少し右、そこで、と細かく指示を出した。
「俺、うまく立ててますか」
「はい。とてもいい影です」
「新しい仕事が見つかった」
シャッターの軽い音がした。
撮った写真と、地下で記録した写真を並べると、葉の色がまるで違っていた。
どちらも同じ薄紫だと思っていたのに、一方は青く、一方は土に似た茶色が混じっている。
「地下の灯りの色もあります。でも、泥がつくと、そのぶん隠れるんです。洗ってしまう前の写真も残します」
「売り物にするなら、きれいなほうだけでいいのかと思った」
「見分けるときは、きれいとは限らないので」
俺は自分の携帯電話を出した。
初配信の前に撮った確認用の動画に、訓練区画の案内板が入っている。小春さんの指が、再生した画面の隅を指した。
「三枝さん。まずこれ、横です」
「横で撮ったから」
「見る人が、横にならないといけません」
画面の中の俺が、画面の右端を足場にして立っていた。
編集画面で向きを戻す方法を教わる。二回押しすぎて逆さまになり、小春さんが口元を押さえた。
「帰ってくる前に、落ちそうですね」
「この姿勢では抱えません」
「そこは安心してます」
ようやくまっすぐになった案内板は、文字の半分が光って読めなかった。正面から灯りを当てたためだ。
小春さんは、一時停止してもらっていいですか、と言った。
「この角度だと、白いところばかり見えます。少しずらすと、泥の下の矢印も見えるかもしれません」
俺は画面を見直した。
案内板があることしか、俺の画面からはわからなかった。矢印を探し、もう一度停止位置を戻す。
「今度、撮る位置を変えてみます」
「一枚だけだと、あとで困ることがあります。遠くから、どこにあるか。それから、近くで何が書いてあるか」
採った草の全体と葉先を撮るときと同じだ、と小春さんは言った。
小春さんは自分の写真を一枚戻した。葉の寄りの次に、岩の形と道の端が映っている。詳しい採集位置を一般公開するためではなく、自分がまた見に行くときの控えだという。
「これも、そのまま全部、動画にするわけじゃないんですね」
「ええ。私のノートと、見てもらう日記は、少し違います」
俺はメモに『遠くと近く』と書いた。難しい言葉より、忘れずに済みそうだった。
彼女が写真一覧へ戻すと、水に濡れた壁の写真が見えた。
低い天井の奥へ、黒い横線が続いている。枝道のように見えるが、画面の端で切れていた。
「これも、採集場所ですか」
「その手前です。あの日より前、通ったときに撮っていました。壁の水跡がきれいで」
場所を聞くと、俺の覚えている案内図にはない向きだった。
ただ、写真一枚で通路の形は決められない。撮った向きも、立った位置も確かめる必要がある。
「あとで場所を思い出せたら、管理の人へ伝えておきましょう。俺も地図で確かめます」
「はい。事故のことと関係あるかは、わからないですけど」
「わからないままで、渡していいと思います」
小春さんは、その写真に印をつけた。
休憩室の時計が、約束した時間を指した。小春さんが脚をかばって姿勢を変える。
「片づけますか」
「はい。今日は、ここまでにします」
俺は写真の下敷きにしていた白い紙を集めた。
押し葉の袋だけは、小春さんが自分でノートに挟む。閉じる前に、表紙へ日付を小さく書き足した。
「捨てなくてよかったです」
「次の動画で、見せてもらえますか」
そう聞くと、小春さんはノートを胸へ寄せて笑った。
「はい。ちゃんと、葉っぱが主役のやつを」
俺は松葉杖を手渡し、机の影から退いた。
窓の光が、空いた場所へ細く差し込んだ。




