第5話 再生数より、焼きたて
領収書は、水に濡れると急に読めなくなる。
昨日のうちに袋から出しておけばよかった。管理事務所の机に広げた紙を、俺は窓の光へ透かした。替えの固定帯を買った日付だけが、妙にはっきり残っている。
「品名は購入履歴でも確認できます」
向かいの女性が言った。
俺が携帯電話を出すのを待って、彼女は机の上のコップを自分の側へ移した。書類に飲み物を近づけない、手慣れた動作だった。
「綾瀬環です。出動と施設利用の連絡を担当しています。今後、こちらからお電話することがあります」
「三枝です。昨日は、急に訓練区画を空けてしまって」
「出動時は構いません。荷重袋の返却は確認できています。予約枠を延ばす場合だけ、先に連絡をください」
購入履歴を出すと、綾瀬さんは金額を照らし合わせた。精算には所定の日数がかかる。出動手当も今日受け取れるわけではない。
俺の腹が、小さく鳴った。
「昼休憩前には終わります」
「すみません。催促ではなくて」
「はい。領収書よりは、はっきり聞こえました」
真顔だったので、返事に困った。
手続きはそれから十分もかからなかった。次から領収書を入れるために、小さな透明袋をもらう。俺が礼を言うと、綾瀬さんは机の端の箱を指した。
「皆さん、似たことをなさるので」
廊下の掲示板には、講習や点検の案内が重なっていた。経路調査員の臨時募集もある。戦闘技能不問。現地歩行と記録作成の経験者。
連絡先を撮っていると、画面の上へコメント通知が下りてきた。
〈昨日、そのあと帰ってきましたか〉
配信の終了したところについていた。
変な終わり方をしたとは思う。固定帯を二本並べて、交換するところです、と言った本人が先に消えたのだ。
俺は返答欄を開き、指を止めた。
ひとまず無事です、と書いた。その短い返事が、少し投げやりに見えて消す。
誰も、事故の続きを見せろとは言っていなかった。
◆
戸田さんの店の前には、小さな黒板が出ていた。
『本日も、いつもの時間に開いています』。
その下に、丸パンの絵がある。名刺と同じように、片側だけ大きく膨らんでいた。
扉を押すと、熱を含んだ匂いが顔に当たる。
トングを持ったまま、俺はしばらく立ってしまった。値引きシールはどこにもない。代わりに、紙を敷いた籠から薄い湯気が立っている。
「焼きたて、こちらです」
奥から出てきた店員が、丸パンの籠を手前へずらした。
戸田さんではない。粉のついた前掛けの、知らない人だった。
俺は丸パンを一つ取り、それから塩パンの札を見た。財布にはまだ小銭がある。ただし、帰りの運賃もまだ必要だ。
トングが空中で止まる。
「塩パンは、あとで追加もできますよ」
「あ、はい。まず、これで」
まず、と言うほどの予定はない。
レジの横には予約の紙袋が並んでいた。青い線の引かれた帳面に店員が印をつけ、一人で入ってきた客へ袋を渡す。
「今日は戸田さん、お休み?」
「しばらく、足を治すほうに専念してもらいます。パンはありますから」
「そう。じゃあ、また明日」
客は袋を抱え、扉を開けた。
閉まりかけた扉を、次の客が押さえる。店員はそちらに顔を向けて、いつもの挨拶をした。
戸田さんのいない店で、戸田さんが心配していた、いつもの営業が続いている。
会計を済ませるとき、財布の名刺が目に入った。名刺は残し、小銭だけを取り出した。
「おいしそうですね」
それだけ言うと、店員は当たり前のように笑った。
「ええ。気をつけて。まだ中が熱いですから」
店の脇のベンチで、紙袋を開けた。指に触れる表面が薄く硬い。割ると中は柔らかく、思っていたよりずっと小麦の匂いがした。
携帯電話が鳴ったのは、二口目をかじる直前だった。
小春さんからだった。
『今、お話しして大丈夫ですか』
「大丈夫。パンを食べてるだけです」
『あ、すみません。あとにしましょうか』
「逃げないので」
パンのことを言ったのだが、小春さんは少し笑った。
昨日の配信にコメントがついていたのを見たという。返事を考えている、と伝えると、彼女は俺が入力しかけた文を聞いた。
『無事です、でいいと思います。でも、声があると、もっと安心するかもしれません』
「動画で?」
『短くて。今日は帰ってきました、だけでも。誰かのことを説明しなくても、三枝さんの顔は出せますよね』
顔は、俺の持ち物だ。
通話中の画面に薄く映った顔を、少し遠ざけた。
「何秒くらい?」
『必要なだけでいいです。長くしようとしなくても』
「そっちのほうが難しいな」
俺は紙袋から丸パンを持ち上げた。
小春さんは、足を高くして座っていると教えてくれた。今日は外へ出る用事がなく、家にある写真を整理しているらしい。
電話を切る前に、俺は言った。
「そっちも、昼を食べてください」
『はい。パンの音を聞いてたら、お腹がすきました』
食べる音まで入っていたのか。
俺は電話を離してから、残りを口に運んだ。
◆
帰宅して、壁の前に携帯電話を立てた。
床の洗濯物を画角から外す。外した先に積んである封筒も避ける。そうしてできた狭い背景に座ると、悪いことの説明をする人のようだった。
「昨日は急に終わって、すみませんでした」
録画を止めた。
謝るのが最初でいいのだろうか。救助へ行くために終了したことは、間違っていない。
撮り直す。
「三枝です。昨日の出動から、無事に戻っています。コメント、ありがとうございます」
そこで言葉が途切れた。
いつもの、次の項目を説明する手がかりがない。俺はカメラの横に置いた空の紙袋を見た。
「今日は、帰りにパンを買いました。……ちゃんと、昼も食べました」
それで止める。
再生すると、ずいぶん照れくさい。だが、心配してくれた相手への返答にはなっていた。
患者の情報も、場所の写真もない。確認して公開すると、数分後に一つだけ返事がついた。
〈よかった。おかえりなさい〉
部屋には俺しかいない。
なのに、ただいまと声に出しかけた。
机へ戻り、家賃の引き落とし日を見る。五万八千円。動画を一本増やしたところで、この数字は小さくならない。閲覧数の欄には、小さな数字があるだけだった。
俺は掲示板で撮った募集案内を開いた。明日の受付時間と、応募に必要な経歴書をメモする。
討伐実績、と書かれた古い書式を使うのはやめた。新しい白紙へ、歩いたことのある道と担当した仕事を書き出す。
経歴書の職歴欄で、指が一度止まった。『蒼天』との契約終了、と入力すると、思ったより短かった。その下へ、救助協力員の登録は継続中、と足す。
窓の外で、自転車のベルが鳴った。
紙袋には、食べ終えたあとも匂いが残っている。捨てる前に、店の住所だけもう一度確かめた。
次は塩パンも買えるように、まずは面談へ行こうと思った。




