第4話 パン屋は、明日も開く
第二層へ下りる階段で、パンの匂いがした。
そんなはずはない。湿った岩と、職員の腰で揺れる消毒液の匂いだ。朝食を抜いた腹が、勝手に仕事をしている。
「三枝さん、こちらです」
職員が灯りを右へ振った。壁際の平らな石に、作業用の上着を着た男が座っている。片足は靴を脱がされ、そばには採集用の籠が二つあった。
同行者が何度も頭を下げた。
「すみません、ほんの段差だったんです。帰りに、籠が引っかかって」
「戻る途中だったんですね。ほかに痛いところは?」
座っている男に尋ねると、足だけだ、と答えが返った。
返事はしっかりしている。指先で岩をつかみ、立ち上がろうとして顔をしかめたので、その肩へ手を添える。
「座ったままで。帰る方法はこちらで考えます」
「歩けなくはないと思うんだが」
「歩くと、つらいんですよね」
男は少し悔しそうにうなずいた。
頭上で足音が重なった。追いついてきた救助隊の先頭は、四日前、地上で隣に座った角張った顔の隊員だった。俺を見るなり片手を上げ、そのまま男の前へ膝をつく。
「戸田さんですね。隊の真壁です。足を見せてもらいます」
俺は半歩退いて、男の荷物を同行者と整理した。採集許可の札をつけた籠には、小さな根茎が並んでいる。売り物というより、両手で数えられる程度の量だ。
「店で使えるか、試すつもりで」
戸田さんが籠を見た。
「パン屋なんです、うち。店が休みの日にまで仕込みのこと考えて、結局これだ」
「籠はこちらで持ちます。中身は揺らさないようにします」
同行者が答える。戸田さんは礼を言い、それでも俺の腕時計へ目を向けた。
昼まではまだ時間がある。だが、彼が気にしているのは今日の昼ではなかった。
「明日の四時には、生地を起こさないと」
真壁さんは手を止めずに聞いていた。
「まず地上へ上がりましょう。足を診てもらってから、その相談です」
「店までだったら、送ってもらえたりは」
「ここを出たあとの足は、ちゃんと決められますよ」
戸田さんはうなずいて、上着の裾を握り直した。
歩いてきた道を振り返る。狭い階段が二つ、斜めに傾いた段が一つ。担いで戻れない道ではないが、痛む足を揺らさずに済むなら、そのほうがいい。
俺は真壁さんに、入口まで戻れると伝えた。
「お願いします。同行の方は、こっちで一緒に上がります」
それで分担が決まった。
戸田さんの申告体重は六十七キロ。二人分の衣服と装備、必要な固定具を足しても、百キロの上限には余裕がある。籠は同行者に任せ、男の腕をどこへ回してもらうかを短く話した。
「急に、浮いたりします?」
「足元が変わります。揺れないように支えるので、肩から手を離さないでください」
「パンの配達より、丁寧だな」
「こっちは、逆さま厳禁なので」
戸田さんが笑いかけ、足に響いたのか途中で止めた。
俺は小さく謝る。真壁さんが戸田さんの足を支える位置を変え、今度は楽になったらしい息が漏れた。
通信機から、管理口の受け入れ担当の声が届く。
入る前に確かめた床が、空いている。向こうには引き継ぐ人がいる。
俺は戸田さんの背を支え、立ち上がった。
「行きます」
『帰還』。
岩壁の冷たさが消え、額へ外の風が当たった。
戸田さんを受け入れの椅子へ移すと、彼はまっ先に上着のポケットを探した。
落ちたのではないかと俺が床を見るより早く、携帯電話が出てくる。握ったまま画面を見つめ、指を動かさない。
「電話、今なら大丈夫ですか」
救護担当に確かめてから、俺は椅子を少し寄せた。
戸田さんは礼を言って番号を押した。呼び出し音のあいだ、空いている手で膝をさすっている。受話口の向こうで声がした途端、背中がまっすぐになった。
「俺。悪いんだが、明日の仕込み……」
続きはすぐに出なかった。
俺は空になった固定帯を巻き始めた。緩く巻いてはやり直す。聞かないようにするには、椅子が近すぎた。
「いや、店を閉めるほどじゃない。俺が立てないだけで」
そこでまた黙る。
電話の向こうの言葉は聞き取れない。戸田さんは口を開きかけ、結局閉じ、鼻から長く息を出した。
「……うん。頼む。いつもの、小さい丸パンは焼いてくれ。予約帳の、青い線のところ」
通話が終わってからも、電話はしばらく耳に当たったままだった。
明日のことが決まったなら、今日はゆっくり休めばいい。そう言いかけた俺に、戸田さんが先に話しかけた。
「代わってくれるって。そいつが前に腰を悪くしたときは、俺が代わりに店へ入ったんだ」
「それはよかった」
「よかったよ。ほんとに」
携帯電話が膝へ下りた。
画面には、店の前らしい写真が見えた。朝の日差しを受けたガラスに、手書きの営業時間が貼ってある。
「休むとね、張り紙をしてても、覗いていく人がいるんだ。いつも同じ時間の人が。あの灯りがついてないと、昼に食べるものを別の店で買わなきゃいけない」
俺は巻き終えた帯を膝へ置いた。
「一日くらい、何とかなるんだけどさ。そりゃ、みんな何とかする。でも、開けられるなら開けたいんだよ」
「その丸パンは、人気なんですか」
「いちばん地味だよ。何も入ってない」
「そういうの、好きです」
「じゃあ、今度買いに来て。閉店前じゃなくて、できたら朝に」
閉店前の値引き狙いだと、顔に書いてあっただろうか。
戸田さんは上着から名刺を出しかけて、折れた角を指で直した。店の住所と電話番号。裏には小さなパンの絵がある。
「助けてもらったから無料、って言いたいところだけど、明日は俺がいないからな」
「普通に買います」
「なら、普通にうまいやつがある」
俺は名刺を救助袋とは別の、財布の薄いポケットへ入れた。
坑道の入口から、籠を持った同行者と真壁さんが戻ってきた。戸田さんが手を上げる。二人は途中の段差の話をし、どちらの籠を先に持つかで少し揉めた。
「改めて。真壁匡です」
戸田さんが救護担当と話し始めたところで、隊員が俺へ手を出した。
握ると、掌に硬いところがある。
「三枝朔です。今日は助かりました」
「そっくり返します。同行者まで全部まとめて飛ばそうとされなくてよかった」
「それは、無理です」
「わかってます。担げるところは、こっちの仕事ですから」
真壁さんの視線が、俺の財布に覗いた名刺で止まる。
「その店、塩パンがいいんですよ」
「詳しいですね」
「早い勤務のあとに寄れます」
急に、勤務表の見方を一つ教わった気がした。
戸田さんの同行者は、根茎の入った籠を車へ積む前に、割れたものを一つ拾い上げた。戸田さんが首を振り、捨てずに端へ寄せてくれと頼む。試作なら、形は関係ないらしい。そんな相談を聞きながら、俺は自分の袋の口を閉じた。
片づけが終わるころ、管理室から精算書類の案内が届いた。差出人は綾瀬環。消耗品の品名と領収書を、明日確認したいという。
俺は明日の予定へ管理事務所と書き、その下に小さく、パン、と足した。




