第3話 ただいまを、映す
「男性を先に、地上へ運べますか」
隊員の問いに、俺は坑道の奥を見た。
ここへ来るまでに越えた土砂と、狭い配管の下を思い出す。人を横たえたまま通すには、時間がかかる道だった。
「入口まで戻れます。到着場所を空けてください」
「こちらから伝えます。女性は私たちが搬送します」
救助隊の一人が、小春の横に搬送具を広げた。彼女は俺を見たあと、隊員へ向き直ってうなずく。
俺は男性の固定具を確かめた。救助袋は隊員に預け、岩のくぼみのカメラも回収を頼む。下に残した工具の場所も、隊員へ伝えた。
男が、かすかに目を開けた。
「……図面」
胸のポケットを探そうとする手が動いた。隊員が防水ケースを見せると、その手が止まる。
「あります。これも一緒に持っていきますよ」
ケースを目で追って、男はまたまぶたを閉じた。
こんなときにも、仕事の心配をするのか。
俺は彼の作業着を固定帯の内側へ収めた。
『北側管理口、受け入れ準備できました。机の前、進入時の位置を空けています』
「戻ります」
小春が口を開きかけた。
俺は先に、軽く手を上げる。
「地上で」
彼女も、小さく手を上げた。
俺は男を支え直し、『帰還』を使った。
管理口へ戻った途端、空気の匂いが変わった。
濡れた岩ではなく、排気ガスと、誰かが持ってきたコーヒーの匂いだった。
「帰還、一名!」
職員の声と同時に、待機していた救護担当が動く。
俺は男を引き渡し、聞かれたことに答えた。気づいた状態、移動した場所、意識が戻ったときの言葉。
担架が運ばれていく。防水ケースも、きちんとその脇に置かれた。
男の同僚らしい人が、一歩だけ追いかけてから俺へ頭を下げた。
「ありがとうございます。連絡が切れて、もう、どこにいるのか」
「小春さんが見つけてくれました。下で、一緒にいた人です」
その人は顔を上げ、今度は坑道の入口を見た。
俺も、同じほうを向く。
湿った階段の奥から声が届くまで、思ったより長く感じた。
腕時計を見て、まだ一分しか経っていないことを確かめる。もう一度見たいのを我慢して、泥のついた手袋を外した。
指の付け根が、白くふやけている。
「三枝さんも、そこに座って」
職員に椅子を押しつけられた。
断ろうとして背筋を伸ばすと、膝が頼りなかった。おとなしく座る。
渡された紙コップを両手で持ったところで、坑道の奥に灯りが見えた。
「搬送、一名。通ります」
小春の黄色いヘルメットが、階段の向こうから上がってきた。
額に泥がついている。肩には新しい毛布。俺を見つけると、口の形だけで何かを言った。
おかえり、と返す声が、思ったよりかすれた。
規制線の外で、薄い上着を抱えた女性が立ち上がった。
「小春」
名前を呼ぶ声に、彼女の顔がくしゃりと崩れた。
「お母さん。ごめん、スマホ、電池なくなって」
「聞いた。ここに来てるって、ちゃんと聞いたから」
救護担当に案内されて、母親がそばへ寄った。
抱えてきた上着は小春の上に置けず、膝の上で握り締められている。小春がそこへ手を伸ばした。
「今日、シチューって言ってたよね」
母親が二度うなずいた。
「あるよ。ちゃんと、取ってある」
俺は紙コップへ目を落とした。
中身はもう、ほとんど残っていなかった。
搬送の車が出ると、手伝っていた隊員が隣の椅子に腰を下ろした。角張った顔に、ヘルメットの跡が赤く残っている。
「北からの経路、助かりました。こちらは第三層の崩落で止まっていて」
「俺も、上で受けてもらえなければ困っていました」
男を置いて下りた、あの短い時間を思い出す。
通信の返事がなかったら、足を動かせただろうか。
「次も一人で抱えないでください。呼んでもらえれば、こっちで担げるところは担ぎます」
「はい。頼みます」
隊員は立ち上がり、同僚の呼ぶほうへ戻っていった。
俺は救助袋の口を開く。空になった保温シートの袋が二つ。擦れた固定帯が二本。
補充するものを書き出そうとして、スマホに残っていた更新講習の通知を見た。
クランの給料は、もう入らない。
それでも、登録を切る気にはなれなかった。
◆
救助から二日たった夜、俺は自宅の机へ救助袋を置いた。
交換する固定帯の値段を調べ、講習代と並べる。どちらも削りたくない。けれど、助けに行けば来月も暮らせる、という計算にはならなかった。
仕事を探すために開いた画面へ、自分にできることを打ってみる。
歩いた道へ戻れる。人を運べる。ただし、百キロまで。
求人欄の『討伐実績』の文字を見て、指が止まる。ここでもゼロと書いたら、その先まで読んでもらえるだろうか。
小春がいた空洞を思い出した。
あの配信を見なければ、俺も場所に気づけなかった。画面には、目立つ魔物も勝利の数字もなかった。それでも、見えたものがあったから動けた。
俺の仕事も、言葉だけでは伝わっていないのかもしれない。
帰る道をどう探すか。人を支えて戻るために、何を持っていくか。実際に見せれば、俺に頼める仕事があると気づく人がいるかもしれない。
チャンネル作成の画面を開いた。
事故の映像を並べるつもりはない。小春が怯えていた顔を、俺の宣伝に使いたくなかった。自分が普段やっていることなら、まず自分を映せばいい。
名前の欄へ『三枝朔の帰還案内』と打つ。
たいそうな名前にしたわりに、最初の動画はまだ一本もない。消そうかと迷い、机の固定帯を見た。これの使い方なら話せる。派手ではないが、知っていることから始めるしかなかった。
作成を押した。
それだけで残高が増えるわけではない。当面は協力員の出動手当と、経路調査の仕事を探してつなぐ。白紙の予定表には、その二つも書いておいた。
◆
翌日、管理事務所の小さな面談室で、小春がスマホを差し出した。
事故の聞き取りが終わったあとだった。左足は固定され、椅子の脇に松葉杖が置かれている。
「配信の録画、一度見られなくしました。こっちを出そうと思って」
画面では、黄色いヘルメットを机に置いた小春が、お礼を話していた。水の音も、倒れた男性の姿もない。俺は画面より先に、向かいの彼女の顔を見た。あの場所の続きを、彼女自身の声で話せることが嬉しかった。
「三枝さんのお名前を出してもいいですか。すごかったところ、もっと話したいんですけど」
「名前はいい。ほかの人が映るところは、今のまま外しておこう」
「はい。受付の方にも確認しました。でも、私が言うだけだと、何ができる方なのか伝わらなくて。ご自身のチャンネルは?」
俺は自分のスマホを取り出した。
「昨日、作った」
『三枝朔の帰還案内』。
動画、ゼロ。登録者、ゼロ。
「まだ俺しか見てない」
小春が小さく吹き出して、すぐに口元を押さえた。
「すみません」
「いや。最初の一人は、ずっと募集中です」
説明欄の『ダンジョン救助配信』という文字を、小春が読んでいる。
「最初は道具の使い方と、帰り道の確かめ方を撮ろうと思ってる。現場を見せるなら、管理側と映る人に、そのつど確かめないといけないし」
言いながら、地味なチャンネルだと思った。どうすれば興味を持ってもらえるか、まだわからない。
「派手なものは、撮れないと思う」
「帰ってきたところ、私は見たいです」
小春はすぐに答えた。
俺が顔を上げると、彼女は自分の膝に置いた手を見ていた。
「待ってる間、ずっと、上に出たあとのことを考えてたんです。何を食べようとか。お風呂に入りたいとか」
そこで一度、唇を結ぶ。
「だから、何も起きないで帰れる道も、見たいです」
俺は画面の説明欄へ目を戻した。
何を書けば地味に見えないか、昨日はずいぶん悩んだ。
今は、削っていい文のほうがよくわかった。
◆
初配信は、その翌日の午前だった。
場所は東都七号の第一層、一般見学路の脇にある訓練区画。管理側に使用を申し込み、通行する人が映らない向きへ、私物のスマホを据えた。
画面の中の俺は、ヘルメットが少し曲がっている。
直してから、配信開始を押した。
「三枝朔です。今日は、人の代わりにこいつを連れて帰ります」
足元の荷重袋を持ち上げる。
視聴者は四人だった。
〈小春さんの紹介から来ました〉
〈中身、砂?〉
「砂です。無口で、練習に付き合ってくれます」
笑った人がいるのかは、画面からはわからない。
俺は袋を置いた位置を指してから、抱え直して十歩、歩いた。後ろには、借りた三脚と入口の灯りがある。
「ここまで来たので、ここからなら戻れます。逆はできません。誰かを迎えにいくときも、まずは歩いていきます」
荷重袋を抱え、『帰還』を使う。
十歩分の距離が消え、三脚の隣へ戻った。
〈おお〉
〈これで人も?〉
「装備込みで百キロまで。ただ、抱えれば何でも安全に運べるわけじゃないです。そのための訓練も受けています」
画面の隅に、小春の名前が出た。
〈ちゃんと映ってます。音も大丈夫です〉
俺はカメラへうなずいた。
次に見せるため、救助袋から擦れた固定帯を出す。新品と並べてみると、あの日に傷んだ場所がよくわかった。
「今日は、こいつを交換するところから。帰るための道具なので、まだ使えそうでも確認します」
視聴者が七人になった。
俺の手元を見ている七人に、話す。剣を振るよりは、ずっと言葉が出てきた。
そのとき、協力員用の通信機が短く鳴った。
受付からの連絡だった。第二層からの帰路で、一人が足を痛めて動けなくなったという。同行者はいる。救助隊は別件から戻る途中で、近くの協力員へ確認している。
俺は配信の音を切って応答した。
場所と状態を聞き、合流できる担当者を確かめる。
それから、もう一度カメラへ向いた。
「迎えの連絡が来たので、今日はここまでにします。緊急の連絡は、概要欄の公式窓口へ。ここのコメントだと、俺が気づけないことがあります」
七人に向かって頭を下げ、終了を押す。
スマホをしまい、新しい固定帯を救助袋へ入れた。
まだ収益はゼロだ。討伐数も、増える予定はない。
入口で待つ職員へ手を上げて、俺は二層への道を歩き始めた。




