第2話 一人ずつなら、連れて帰れる
「先に、この人を上へ運ぶ。俺はすぐに下りてくる」
固定帯を広げると、小春はうなずいた。俺の袖をつかんでいた指が、一度だけ強くなる。それから、ゆっくり離れた。
「わかりました。何をすればいいですか」
「そのライトで、俺の手元を照らしてほしい」
男の作業着には、測量会社の腕章がある。名札を受付へ伝えると、同僚につながった。
『地形調査の担当者です。体重は、直近の登録で七十八キロ』
百キロまで、残り二十二。そこへ、この人の衣服と固定具、それに俺が身につけているものも入る。重さに数えなくていいのは、俺自身の身体だけだ。
腰の工具箱を持ち上げると、腕へずしりと来た。管理票には十四キロ。これを抱えたままでは、濡れた衣服や固定具まで足したときの余裕がなくなる。
工具箱を岩の上へ置き、自分の救助袋からも、今使うものだけを抜く。
「荷物はここへ残します。置いた場所を記録してください」
受付から返事が来た。俺は男の身体を包む固定具へ手を入れる。
小春のリュックが、後頭部を水から守っていた。
「中身は重いもの?」
「薬草と、雨具だけです」
「それなら、このまま借りる」
無理に頭を持ち上げず、受付の向こうの隊員と確認しながら支える。軽いリュックまで含めても、上限には届かない。
男は呼びかけに答えなかった。耳のそばで聞こえる息に合わせて、自分の腕の位置を決めた。
「少し、場所を変えますよ」
まず、上の坑道だ。
入口まで一気に戻れば、そのぶん小春を迎えに歩く距離も長くなる。今は水から離せる足場へ一人を運び、すぐにここへ戻りたい。
亀裂から離れた、岩柱の脇。ロープを掛け直したとき、自分で立って床を確かめた場所だ。
俺の足元からそこへ、戻る道がつながる。
「小春さん、ライトを一度下げて」
彼女の顔を最後に確かめ、男を保持する腕に力を込めた。
「『帰還』」
足首を押していた水が消えた。
次の瞬間、膝の下にざらついた岩の感触が来る。
男は、俺の腕の中にいた。
固定具の端から落ちた水が、乾いた床へ黒い染みを作った。
「一名、上がりました」
声に出して、ようやく息を吐く。
岩柱を背に男を横たえ、保温シートで覆う。風の通り道と亀裂の縁は避けた。
『先行隊、北測量坑へ進入済みです。合流まで約二分』
「岩柱の左側に一名。もう一名を迎えます」
胸のカメラを外し、通信担当の指示で岩のくぼみに据えた。男の様子を見てもらえる角度へ向け、映像が届いていることを確かめる。
俺の通信機には、小春の荒い呼吸が残っていた。
「上に着いた。今からそっちへ下りる」
『……はい』
返事がした途端、下から水を叩く音がした。
『ごめんなさい。ちょっと、袋が流れそうで』
「荷物より、自分の体を」
『大丈夫です。引っかけました』
声の終わりに、歯がかすかに鳴った。
俺はロープへ手をかけた。
上へ『帰還』したとき、下からここまでの道は使い終えた。もう一度小春のところへ行くには、自分の足でたどり直すしかない。
腰を落とし、再び亀裂の向こうへ足を出す。
保護布は残っていた。固定した岩柱も動いていない。
ただ、さっき足を置いた壁の出っ張りが、水の中へ消えていた。
「水、どこまで来てる」
『膝の下です。さっき座ってた石は、もう見えません』
小春は壁際の高い岩へ、体をずらしていた。
黄色いヘルメットだけが、下から俺を見上げている。
灯りが左右に振れた。
『三枝さん、右はやめたほうが。水が、穴に吸われてます』
照らされた先で、水面が細くへこんでいた。
上から見るだけなら、平らな床と間違えていたかもしれない。
「見えた。左へ寄る」
壁に足をつけたまま、降りる位置を変える。濡れた手袋の中で、指が滑りかけた。
急ぎたい。けれど、指を掛け直す一呼吸は削れない。
小春のライトが、俺の次の足場を照らした。
光の中に、細い石の棚が浮かぶ。
「そこ、まだ崩れてません。私が寄りかかってるほうです」
「助かる」
靴先で確かめ、体重を移す。
最後は彼女の隣へ、腰を下ろすようにして着地した。
小春が笑おうとして、うまく笑えない顔をした。
「本当に、もう一回来るんですね」
「二人とも運ぶって言っただろ」
「……はい」
彼女の目が、俺の肩越しに上を向く。
そこから差す光は、まだ遠かった。
岩に引っかけてあった救助袋を手元へ引く。小春は濡れたスマホを両手で握っていた。
画面には、読めない速さではない程度に、コメントが増えている。
〈戻ってきた〉
〈あと一人〉
「スマホは胸の留め具に固定できるか。両手を空けたい」
「できます」
留め具を閉じる指が震えて、二度空振りした。
俺が手を添えると、彼女は小さく頭を下げた。
「謝らなくていい。こっちの帯を持って」
固定具を通す間、小春は俺の言ったところを順に押さえた。痛めた足に触れそうになると、自分から位置を教えてくれる。
名前を呼ぶたび、必ず返事があった。
流れてきた細い木片が、俺の靴に当たった。
さっきまで二人がいた場所を越え、水が壁際へ押し寄せている。
「リュックは?」
小春が、さっき男を寝かせていた岩へ目をやった。
「あの人と一緒に上へ運んだ」
「よかった。採った薬草、今日初めて見つけたものもあって」
そこまで言って、小春は水面を見た。
「濡れちゃったから、駄目かもしれないですけど」
「戻ったら確かめよう。袋ごと置いてある」
小春を支えたまま、救助袋を固定具へ留める。残すものがないか見回してから、俺は彼女へ顔を戻した。
小春がうなずく。
俺の腕に預けられた体は、思っていたより冷たかった。
「上で隊員と合流する。揺れないけど、景色が急に変わる」
「目、閉じてていいですか」
「もちろん」
彼女が目を閉じた。
唇が何かを数えるように動き、途中で止まる。
「もう、大丈夫?」
今度の声は、配信にも受付にも向けられていなかった。
「まず、水のないところへ行こう」
俺は固定帯を確かめ、小春の体を引き寄せた。
「『帰還』」
濁った水音が、足元から遠のいた。
肩に冷たい風が触れる。
目を開けた小春は、まず自分の靴を見た。
水に沈んでいない。つま先の下には、乾いた岩がある。
「あ……」
その一音で力が抜けたのか、彼女の額が俺の肩に落ちた。
俺は床に膝をつき、固定具で支えたまま彼女を下ろした。
「二人目、上がりました」
『確認しました。先行隊、間もなく合流します』
返事に重なって、坑道の奥から靴音が聞こえた。
「救助隊です! こちらで合っていますか!」
「二名、ここです!」
俺が手を振ると、白い灯りが二つ、岩の向こうで揺れた。
肩幅の広い隊員が駆け寄り、俺の隣へしゃがむ。もう一人は男のところへ向かった。
「よく上げてくれました。ここから引き継ぎます」
その言葉を聞いてから、俺は自分の腕が震えていることに気づいた。
固定帯から手を離すのに、少し時間がかかった。
小春は隊員に支えられながら、胸元のスマホを見た。
「上に、出られました。二人ともです。救助隊の方が来てくれたので……ここで、切ります」
〈よかった〉
〈ゆっくり休んで〉
〈今の帰還術師の人、名前わかる?〉
最後のコメントに、小春が顔を上げた。
俺は彼女のヘルメットの灯りを、目に入らない向きへ直した。
「返事はあとでいい。今は、帰ろう」
彼女は画面に指を伸ばした。
配信終了の表示が出るまで、俺たちは二人で待った。




