第10話 歩いて帰った人の数
机の上に広げると、空欄がよく目立った。
予定の経路は、半分ほどしか確かめられていない。通れたところの幅と所要時間、標識の写真、進入を止めた場所。持ち帰った記録を並べるほど、その先が白く残る。
「ここから先は、入っていません」
俺は調査会社の担当者へ説明した。
同行した調査員が、隣で管理側とのやり取りを補う。古い表示の位置、迷った二人の経路、魔物が現れた方向。事実と、まだ確かめられていないことを分けていく。
担当者は途中で口を挟まず、写真の番号を用紙の脇へ書いた。
「依頼していた地点までは届かなかったんですね」
「はい」
俺は空欄の手前に引いた、中止の線を指した。
「危険が確認されたので、そこで中止しました」
担当者が写真を一枚持ち上げた。
分岐の全体が写っている。近くで見た矢印だけの写真と並べると、同じ標識なのに違う場所のようだった。
「こちらを先に撮ってくれていて、助かります。文字だけなら、次の班も同じ読み方をしたかもしれない」
俺は椅子の背から身体を起こした。
担当者は赤鉛筆を取ったが、空白の奥へ線は引かなかった。確かめた経路の脇に、日付と止まった位置を書き込む。
「進めなかった場所がわかれば、次の準備を変えられます。それと、この戻りの時間。休止を含むものですか」
「二人が息を整えた時間を入れています。歩行だけの時間は、こっちです」
「わかりました。機材を持った班は、短いほうだけを予定に入れないようにします」
「足りないものは、ありませんか」
「写真の向きだけ、一枚確認させてください。そのあとは、これで受け取れます」
担当者が示したのは、退避場所を振り返って撮ったものだった。
俺は用紙を回し、どちらへ顔を向けたか描いた。丸で囲んだ位置を指すと、同行員がうなずく。
それで、その日の仕事は終わった。
一万八千円と経費。支払い予定日が、控えに入る。
財布はまだ厚くなっていない。それでも、俺の一日が、礼だけで片づかなかった。
◆
書類を届けたあと、俺は綾瀬さんへ撮影の相談をした。
迷った二人が見た矢印は、近づけば読めた。離れると別の道を指して見えた。あの違いを、言葉だけで説明するのは難しい。
「人のいない場所で、同じような見え方を撮れませんか」
綾瀬さんが施設担当へつないでくれた。使えるのは入口近くの案内通路と、公開用の説明図。事故のあった枝道へ、見物に来る人を増やしてはならない。その条件なら、俺も安心して見せられる。
返事を待つあいだ、仕事の募集が貼ってある掲示板を眺めた。今回の契約は一日で終わりだ。次の席が用意されたわけではない。
けれど、今度は見てもらえる記録がある。その中で、一般に伝えてもいいことも見つかった。
撮影の許可を受け、俺は案内通路へ携帯電話を持っていった。
足を止め、画面の隅を確かめる。人は映っていない。
看板を近くから撮り、次に離れて通路と一緒に撮る。自分でも意外なほど、どこを撮ればいいかわかっていた。
「この角度だと、矢印が見えません」
ひとりで話すと、声が壁から戻ってきた。
説明を続ける。足が止まる位置、荷物で視線が低くなること、先を知っている人と初めての人の違い。
一度止めて再生した。
同じ看板の前で、俺が延々と喋っている。
話している内容は間違っていない。だが三分目で、自分でも画面から目が離れた。
帰り道を教える前に、見る人が帰ってしまいそうだった。
もう一度、説明を短くして撮る。
今度は必要な言葉まで抜け、何が見えないのかよくわからない動画になった。携帯電話の残り容量だけが、順調に減っていく。
最後に、声を入れずに同じ画角を撮った。
それが今日いちばん見やすかったのは、少し悔しい。
◆
翌日、俺は自宅の机で動画を並べた。
古い実績表を下敷きにしようとして、手を止める。討伐数の欄だけが、黒く太い字で埋まっている。
昨日は魔物がいた。それでも、そこに足す数字はない。
俺は紙を引き出しへ戻し、調査用紙の控えを机に置いた。細かな文字と、小さな矢印が並んでいる。見慣れないが、俺の書いたものだった。
小春さんから、写真の撮り方は役に立ちましたか、とメッセージが届いた。
礼を返して、許可された説明用の動画を見てもらえないか尋ねる。了承をもらって送信したあと、俺は再生画面を閉じた。自分では見慣れすぎて、もう何がおかしいのかわからなかった。
しばらくして、通話がかかってきた。
『すみません。笑うところではないんですが』
「どこでしたか」
『三枝さんが、ここを見てくださいって、画面の外を指すところです』
俺はその部分を再生した。
確かに、見てほしいものだけが映っていない。
「看板は、いい位置にあるんです」
『はい。三枝さんも、もう少し右なら』
「俺の配置が悪かった」
小春さんが笑い、そのあと声を戻した。
『でも、何も話していないところ、すごくわかります。最初に遠くから見せて、次に近い画面へ移れば。それを、説明図と交互にすると』
彼女は時間を示しながら話した。
俺が長く説明した内容のいくつかは、画面を並べるだけで伝わるらしい。看板の字に線を引けば、俺が三回指を振る必要もない。
『人を映さなくても、何を選んだかは見せられます。戻る道を選ぶ前に、何が見えていたか、とか』
俺はメモを取った。三枚目に入る前に、通話時間の表示を見た。
「編集を、仕事として頼めますか」
向こうが少し静かになった。
『お礼なら、そんな』
「お礼をしてほしいんじゃなくて。この動画を、見られるものにしてほしいです」
俺は画面に止まった自分を見た。
看板からはみ出して立ち、真剣な顔で何もない場所を指している。
「俺ひとりだと、明日もここを指していそうなので」
今度の笑いは、少し長かった。
『では、できる範囲をまとめます。一本だけなら、足を休めながらでも』
「急ぎません。料金と、いつならできるかも教えてください」
通話が終わると、部屋はまた静かになった。
送った素材の一覧を作り、撮影場所と使える範囲も一緒に添えた。最初の動画をもう一度再生すると、小さな画面の端に靴先が映った。入ってきた向きと、帰る向きが、一枚の中でようやくつながって見えた。
俺は作業予定の空欄へ、編集相談、と書いた。隣には、調査の支払い予定日がある。
録画の中の俺は、相変わらず空白を指している。
そこへ何を置くかは、明日、二人で考えることにした。




