第二話 同志
カンの国は、削られていった。
北の国に、海沿いの土地を取られた。
西の国々が、港をいくつも取っていった。
西の連中は、髪の色も、目の色も、書く字も違った。
言葉も通じなかった。
だから、ひどいことをするのだと思っていた。
違う生き物なのだと思えば、まだ諦めがついた。
東の島国は、違った。
髪も、肌の色も、同じだった。
字も同じものを使っていた。
書けば、話が通じた。
昔は、こちらから字を教えてやった国だった。
その国が、変わった。
顔は同じままだった。
字も同じままだった。
中身だけが、違う生き物になっていた。
その国と、戦をした。
このときだけは、本気で戦った。
同じ顔をした連中に取られるのが、許せなかった。
少しでも強くなりたくて、借金をして艦を買った。
東洋一の船だと言われた。
これで勝てると、みんなが言った。
それでも、負けた。
その船には、東の島国の旗が立った。
半島を取られた。
タイの島も取られた。
それでも、どうにもできなかった。
カンの政府にできることは、何もなかった。
何年かして、タクは学者たちの集まりで名を知られるようになっていた。
自分でそうしたわけではない。
字を教えていたら、教える人数が増えた。
人が増えると、揉め事が起きた。
揉め事を収めていたら、収める役になった。
誰が困っているか。
何が足りないか。
誰と誰が揉めているか。
誰に何を頼めば、うまくいくか。
タクは、だいたい分かった。
分かる人間のところへ、話が集まってくる。
話が集まる人間が、上になる。
そういうものだった。
ある日、集まりの席で、タクの名が呼ばれた。
前に出ろということだった。
タクは前に出た。
何か言われて、みんなが手を叩いた。
「同志」
そう呼ばれた。
役が付いたらしかった。
「俺は、別に偉くなりたいわけじゃあ」
誰も聞いていなかった。
その集まりは、党といった。
役が付いてしばらくして、タクは南へ行った。
半分は、逃げたのだった。
役が付いたのが嫌だった。
嫌なものは、嫌だった。
もう半分は、頼まれたことだった。
南に大きな組がある。
あれを、こちら側にまとめられないか。
学者たちは、そう言った。
タクは、その組の頭を兄さんと呼んでいた。
それは、誰にも言っていなかった。
シャンの街に着いて、まっすぐカイの事務所へ行った。
「兄さん」
「なんだ」
「置いてください」
「好きにしろ」
それだけだった。
タクは、その日から事務所にいた。
組の連中は、タクを数に入れなかった。
喧嘩ができないからだった。
帳面はつけられる。字も書ける。
使いに出せば話をつけて帰ってくる。
だが、刀を持たせても構えられない。
誰かが凄めば、後ろに下がる。
この組では、それだけで役に立たない男だった。
それでも、誰もタクをいじめなかった。
カイの義兄弟だからだった。
小柄で、童顔で、髪ばかり多い男が、隅で茶を飲んでいる。
北では、その男を同志と呼んでいた。
荷が、また止まった。
三度目だった。
「誰だ」
「分かりません」
「金か」
「取られてはいません」
「じゃあ何だ」
「通さない、と」
カイは黙った。
金なら話が早い。
欲しいものがあるなら、渡せば済む。
通さない、というのは分からなかった。
誰が、何のために。
顔が見えない相手には、手の出しようがなかった。
「兄さん」
隅から声がした。
「俺が行ってきます」
組の連中が振り向いた。
カイもタクを見た。
「お前が?」
「はい」
「刀も持てんのに」
「刀は要りません」
北の街に、その男はいた。
自分の組を持っていた。
党ではない。
だが、同じ側だと思っていた。
南から人が来ると聞いて、待っていた。
来たのは、小柄で童顔の、髪ばかり多い男だった。
男は、村の言葉で名乗った。
「モウの村から出た者です」
サクの手が止まった。
「……あんた、あの村か」
「はい」
「誰の子だ」
タクが答えた。
サクは、しばらくタクの顔を見ていた。
「……あの、ちっこいのか」
「はい」
「大きくなっとらんな」
「よく言われます」
サクは笑った。
久しぶりに笑った顔だった。
それから、自分のことを喋りはじめた。
訊かれてもいなかった。
「わしはな、北の都に長いことおった」
「牢の中だ」
「そこで、字を覚えた」
「本があったんだ。誰かが置いていったやつが」
「読むことしかやることがないからな」
サクは、湯呑みを置いた。
「出てきて、驚いた」
「都に、皇帝がおらんかった」
「わしが入っとるあいだに、倒れとった」
「代わりに政府ができたそうだ」
「その政府を握っとるのが、南の組だと」
「わしを牢に入れた役所は、もうない」
「役所が消えたから、出られた」
「誰も、わしを許しとらん」
「許す相手が、おらんようになっただけだ」
サクは、湯呑みを持ち上げて、また置いた。
「それだけじゃない」
「外国が、この国の中で戦をしとった」
「この国の土地の上でだ」
「うちの国は、どっちにも入っとらん」
「なのに、この国の畑が焼けとる」
「終わったら、勝ったほうが土地を持っていった」
「うちの政府は、何をしとったと思う」
タクは黙っていた。
「見とった」
「それだけだ」
サクは、しばらく黙っていた。
「東北の地には、チョウという組がある」
「あそこは、まだ自分で持っとる」
「この国で、自分の土地を自分で持っとるのは、あそこくらいだ」
それから、サクは顔を上げなかった。
「十年前、わしは桝が山盛りなのはおかしいと言った」
「そしたら牢に入れられた」
「今も同じだ」
「おかしいと言うやつが消える」
「消えるから、誰も言わん」
「誰も言わんから、何も変わらん」
タクは、その言葉を全部聞いた。
それから、言った。
「学がないから、弱いんです」
「弱いから、取られる」
「だから、学ぶんです」
サクは、タクを見た。
「わしは読んだぞ」
「はい」
「それで、何が変わった」
「あなたが変わりました」
サクは、黙った。
「字が読めるようになったから、組が持てたんでしょう」
サクは、しばらく何も言わなかった。
それから、顔を上げた。
「で、何しに来た」
「荷を通してほしいんです」
「どこの荷だ」
「あの組の荷です」
「知っとる」
「今、あそこと揉めるのは損です」
「損か」
「はい」
サクは、しばらく黙っていた。
「……あんたが、わざわざ来たんだ」
「はい」
「そういうことか」
サクは、それで納得した。
党の上の人間が、わざわざ北まで出てきて、揉めるなと言っている。
なら、そういう判断が上にあるのだろう。
タクは、何も言わなかった。
荷は、その月のうちに動いた。
カイは、それだけ聞いて帳面を閉じた。
「そうか」
それだけだった。
タクへの扱いは、何も変わらなかった。
変わったのは、組の連中のほうだった。
隅に座っていると、誰かが茶を注ぐようになった。
通れば、道を空けるようになった。
相変わらず刀は持てない。
誰かが凄めば、後ろに下がる。
それでも、凄む者がいなくなった。
タクは、その変化に気づかなかった。
そのころ、党は農村をまとめていた。
村を回って、話をした。
まとまった村は、言うことを聞かなくなった。
払わない。渡さない。人を出さない。
村から取れる米が、減った。
困ったのは、組だった。
徴税の請負は、まだ組の商売のうちだった。
ある日、事務所でタクが囲まれた。
「村から取れる米が減っとる」
「はい」
「お前んとこが余計なことをしとるからだろう」
「はい」
タクは認めた。
「じゃあ、やめろ」
「やめません」
男たちが立った。
「兄さん」
タクはカイを見た。
「一つ、聞いてください」
カイは黙って見ていた。
「村から米を取ります。取ったら、来年は減ります」
「減った分、また取ります。また減ります」
「もう、払わん村が出てきとるでしょう」
「取れんから、余計に取ろうとする」
「取ろうとするから、余計に払わなくなる」
「十年やったら、村が消えます」
「消えた村からは、一粒も取れません」
「誰が悪いんじゃないんです」
「みんな、自分の仕事をしとるだけです」
「役人も、うちの組も、村の長老も」
「それでも、村は消えるんです」
「消えないようにするには、取る仕組みのほうを変えるしかない」
組の男が言った。
「そんな話は聞いたことがない」
「はい」
「うちは、米で食っとる」
「はい」
「じゃあ、お前が消えろ」
カイは、何も言わなかった。
止めもしなかった。
タクは、その日のうちに出ていった。
北へ戻って、タクは貿易の話を知った。
外国との取引の額を、初めて帳面で見た。
村から取る米の、桁が二つ違った。
三つかもしれなかった。
兄さんとは、あんなもので揉めていたのか。
タクは、党を説いた。
あの組と揉めても、村の米しか取り返せない。
通せば、外国との取引が動く。
桁が違う。
揉めるより、通したほうが百倍も利がある。
誰も、言い返せなかった。
北で止まっていた荷が、止まらなくなった。
道が使えるようになった。
人が集まるようになった。
誰も、なぜそうなったのか知らなかった。
党は、その結果だけを見た。
南の組が、村から手を引いた。
誰も死なず、誰も損をせず、村から取られる米が減った。
「さすが同志だ」
そう言われた。
タクは、何も言わなかった。
兄さんを助けただけだった。
その頃、カイの商売は妙によく回った。
北の荷が止まらない。
道が使える。
人が集まる。
カイは帳面をつけた。
つけて、おかしいと思った。
揉め事が減りすぎている。
誰かが先に片づけている。
「誰だ」
「分かりません」
カイは、自分で数えた。
止まらなくなった時期を数えた。
通るようになった道を数えた。
全部、同じ月からだった。
その月に、何があったか。
カイは思い出した。
あの小柄な男を、追い出した月だった。
何ヶ月かして、タクが事務所に来た。
「兄さん」
「なんだ」
「米、やめたんですね」
「割に合わん」
「そうですか」
カイは、工場を建てた。
村には、食えない者がいくらでもいた。
次男、三男。
畑を継げない者たちだった。
放っておけば、村の口を減らすために売られる。
カイは、それを集めた。
運ぶのは、昔やっていたことだった。
違うのは、売らないことだった。
工場へ入れて、働かせて、給金を払った。
払ったほうが、続くからだった。
売れば、一度きりで終わる。
働かせれば、毎月出る。
カイは、そう数えただけだった。
村の者は、カイを恩人だと言った。
工場に、学者が来ていた。
北で字を教えていた人だった。
工場を回って、話をした。
まとまれば、言える。
言えば、変えられる。
村でやっていたのと、同じことだった。
工員たちは、まとまった。
給金が安い、時間が長い、と言った。
言っていることは、間違っていなかった。
タクは、知っていた。
黙っていた。
止められないと、分かっていたからだった。
カイのところへ、話が上がってきた。
カイは、しばらく黙っていた。
「あいつらは、どこから来た」
「村です」
「村で、何をしとった」
「食えずにおりました」
「今は」
「飯を食っております」
「娘を売ったか」
「売っておりません」
カイは、それだけ確かめた。
「恩知らずめが」
カイは、そう言った。
それだけだった。
組の連中は、頭が不快だと言ったのを聞いた。
不快なものを片づけるのが、仕事だった。
その夜、工場へ人が出た。
多くの人が、死んだ。
カイは、命令していなかった。
組の連中も、命令されたとは思っていなかった。
人だけが、死んでいた。
タクが、間に立った。
働く者と、雇う者のあいだに、党の代表として立った。
そういう役を、誰かがやらなければならなかった。
やれる人間が、一人しかいなかった。
「兄さん」
「なんだ」
「出してください」
「いくらだ」
カイは、額しか聞かなかった。
悪かったとは言わなかった。
思っていなかったからだった。
うちの者が出て、向こうが死んだ。
それは、事実だった。
事実には、始末をつける。
それが、この組のやり方だった。
カイは金を出した。
金では、収まらなかった。
工場の者は、金の話をしていなかった。
タクは、それを説明できなかった。
どちらの言い分も分かるからだった。
分かる人間が、いちばん困った。
結局、タクは金を配った。
死んだ者の家に配り、工場の者にも配った。
配って、頼んだ。
もう言わないでくれ、と。
筋の通った話ではなかった。
金で口を塞いだだけだった。
タクは、それを分かっていた。
それしか、思いつかなかった。
党のほうも、止めた。
止めるには、命じるしかなかった。
同志と呼ばれている男が、動くなと言った。
「あんた、どっちの人間だ」
誰かが言った。
タクは、答えなかった。
答えられなかった。
結局、何も片づかなかった。
党は納得していない。
組の連中も納得していない。
タクは、両方に頭を下げて回った。
下げても、何も動かなかった。
その頃には、組はただの組ではなくなっていた。
港も、船も、鉄も、工場も、組が持っていた。
役所に人を出していたのも、組だった。
金を出していたのも、組だった。
どこまでが政府で、どこからが組なのか、誰にも言えなかった。
カンの政府は、相変わらず何もできなかった。
できることは、全部、組にあった。
ただ、東北の地だけは、手が届いていなかった。
そうしているうちに、東北の地で汽車が吹き飛んだ。
乗っていたのは、東北の地をまとめていたチョウという男だった。
誰がやったのか、分からなかった。
誰も名乗り出なかった。
だが、そのあと東の島国の兵が動いた。
動くのが、早すぎた。
東北の地が、取られた。
カンの政府は、見ていた。
それだけだった。
東北の地から、人が逃げてきた。
ガクの組だった。
汽車で吹き飛ばされた男の、息子だった。
カイは、受け入れた。
カイの組には、東北に顔のある人間が一人もいなかった。
ガクが、そこの窓口になった。
五年、よく働いた。
東北の話は、全部ガクを通した。
そのあいだ、ガクは何度も同じことを言った。
島国と、戦ってください。
カイは、うなずかなかった。
外の敵より、内の敵が先だと言った。
ガクの兵は、東北へは行かせてもらえなかった。
内陸で、同じ国の人間と撃ち合っていた。
タクも、同じことを言い続けていた。
まず党のところへ行った。
「今は、やめてください」
「あれを忘れろというのか」
「忘れなくていいです」
「じゃあ何だ」
「後にしてください」
「あの組と組めというのか」
「はい」
「殺された連中の顔を、忘れたか」
「忘れてません」
タクは、帳面を出した。
鉄がどこにあるか。
船がどこにあるか。
工場がどこにあるか。
誰が動かしているか。
全部、あの組だった。
「戦をするなら、要ります」
「……」
「うちには、何もありません」
それは、本当だった。
誰も、言い返せなかった。
組のほうへ行った。
「兄さん」
「なんだ」
「党と組んでください」
「あいつらとか」
「はい」
カイは、うなずかなかった。
何度頼んでも、同じだった。
その年、カイが捕まった。
外の敵ではなかった。
ガクだった。
ガクは、カイを殺さなかった。
殺せば、済む話だった。
だが、拾ってもらった恩がある。
だから、押さえるだけにした。
要求は、一つだけだった。
島国と、戦ってください。
五年言い続けて、聞いてもらえなかったことだった。
党は、喜んだ。
「今なら殺せる」
「殺してどうします」
「積年の恨みだ」
「殺したら、誰が島と戦うんですか」
誰も答えなかった。
「うちは、農民の集まりです」
「内陸から出たこともない」
「船を持ってますか」
「鉄はありますか」
「あの組が割れたら、この国は誰も戦えません」
党の連中は黙った。
悔しいが、そのとおりだった。
タクは、それ以上言わなかった。
言わなかったことが、一つあった。
村を出てから、ずっと一人だった。
字を覚えて、人をまとめて、同志と呼ばれるようになった。
それでも、帰る場所は一つしかなかった。
あの事務所で、姉ちゃんが茶を注いでくれる。
兄さんが黙って帳面をつけている。
それだけの場所だった。
兄さんが死ねば、姉ちゃんが泣く。
泣かせたくなかった。
それだけは、誰にも言わなかった。
カイが出てきた日、タクが迎えに行った。
「なぜ助けた」
「姉ちゃんが泣くから」
カイは、しばらく黙っていた。
「そうか」
カイは、島国と戦うことになった。
自分から言い出したのではなかった。
押さえられて、要求されて、党に助けられて、外へ出た。
出たときには、そういうことになっていた。
誰の顔も、潰れなかった。
ガクの顔も、党の顔も、カイの顔も。
都合が良すぎるほど、うまく収まった。
カイは、それについては何も言わなかった。
島国の兵は、強かった。
港を取られた。
工場を取られた。
北の都も、シャンの港も街も取られた。
党の兵も、戦った。
武器は、わずかしかなかった。
戦いにはならなかった。
機関銃で撃たれて、隠れた。
朝日の印をつけた飛行機に撃たれて、隠れた。
昼のあいだは、動けなかった。
夜になると、出てきた。
それしか、やりようがなかった。
カイは、内陸へ下がった。
土地を切って、時間を買った。
それしか、やりようがなかった。
海の向こうの、青い星の国が助けてくれた。
物も来た。人も来た。
焼け石に、水だった。
持って出たのは、人と、都の城にあった宝物だった。
車に積んで、何台も連ねて、内陸へ入った。
港も、船も、工場も、置いてきた。
組が三十年かけて積み上げたものは、ほとんど置いてきた。
あの工場も、置いてきた。
タクの側は、何も失わなかった。
元から、何も持っていなかった。
そのうち、東の島国が焼かれた。
青い星をつけた、巨大な爆撃機が、空から、街を焼いたのだという。
二人には、関係のないところで決まったことだった。
島国の兵が、帰っていった。
取られ続けた土地が、戻ってきた。
戦って取り返したのではなかった。
敵が強すぎて、戦いにならなかった。
敵が強ければ、逃げろ。
昔からそう言われている。
カイには、それしかできなかった。
カイの時間稼ぎは、間に合った。
土地を切って、切って、切り続けて、最後まで残った。
残っていたから、戻ってきた土地を受け取れた。
カイは、そのことを誰にも言わなかった。
言う必要がなかった。
数えれば、分かることだった。
その年の秋、ランが倒れた。
ずっと、一度も、村へは帰らなかった。
帰らずに、どこに行くのもカイと一緒だった。
病床にカイが来た。
タクが来た。
二人が枕元に並んだ。
ランは、二人を見た。
それから、笑った。
「旦那様」
「なんだ」
「毛、全部なくなりましたねえ」
カイは黙っていた。
「昔は、少しはあったのに」
「うるさい」
病床のランは、楽しそうだった。
「タクちゃんは、相変わらず多いねえ」
「うん」
「分けてあげればよかったのに」
「分けたよ」
「そうだったねえ」
ランは、笑った。
目の下の、小さなほくろ。
二人は、何も言わなかった。




