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1/3

第一話 義兄弟

連載のほうで、書き始めたら

終わるまでに何年もかかりそうなので、

短編で出すことにしました。3話でおわります。


 カンの国は、弱かった。弱かったので、よく戦争に負けた。負けるたびに、外国に金を払った。土地も、たくさん取られた。


 国に金がなくなったので、また税を取った。税を取る先は農村しかなかった。



 だが、そのころの農村は、まだ静かだった。


 貧しかった。それでも、朝になれば畑へ行き、昼になれば飯を食い、夕方になれば家へ帰った。子供は走り回り、大人は働いた。


 村の水場では、女たちが洗い物をしていた。


 タクには、好きな場所だった。


 ランが、よくそこにいたからだ。


 ランは、タクの従姉妹だ。


 九つ年上なので、タクは姉ちゃんと呼んだ。



 ある朝も、ランは水場でしゃがんで洗い物をしていた。


 タクは少し離れたところから、その後ろ姿を見ていた。


 耳の上の両側で髪を丸めて、赤い紐で結んでいる。


 今朝も、用もないのに水場へ行った。



「ラン姉ちゃん! おはよう!」


 ランが振り返った。


「タクちゃん、おはよう」


 タクは、そのままランの背中に乗った。


 真ん中で分けた髪の、白い分け目が見えた。


 二つの団子のあいだを、まっすぐ後ろまで通っている。


 白い首が、すぐ目の前にあった。


 後れ毛が何本か、首のあたりで小さく渦を巻いている。


 仕事をしているから、少し汗をかいていた。


 髪から、いつもの匂いがした。


 タクは、その匂いが好きだった。



「重いよう」


 ランが笑った。


「もう大きいんだから、乗らないで」


「まだ乗れるよ」


「乗れないよ」


 ランは水場の石に手をついて、よいしょと立ち上がった。


「ほら」


 タクは背中から降ろされた。


「もう子供じゃないんだから」


「姉ちゃんだって、そんなに大きくないじゃん」


「私は大人なの」


「俺も大人になる」


「なったら背中に乗らないでね」


「なんで?」


「重いから」


 ランが笑った。


 タクは、その笑った顔を見るのが好きだった。


 笑うと、目の下の小さなほくろが、くしゃっと動く。


 タクは、それを見るといつもうれしくなった。


 姉ちゃん、大好き。


 そんなことを、タクは何も考えずに思っていた。



 その年も、徴税の男たちが村へ来た。


 国には、税を取る役人を増やす金がなかった。そこで、税を集める仕事を民間に任せることにした。


 手間賃は払えなかった。


 そもそも、そのための金がないから民間に任せたのだった。


 集めた先で、自分で取れということだ。


 それ以外に、うまくできる方法がなかった。


 仕事を請け負った男たちは、刀を持っていた。



 役人は一人だった。


 男たちは、十人いた。


 男たちが米を量った。


 役人は、横で見ていた。


「その入れ方、おかしいだろう」


 若い男が言った。


 男たちは、手を止めなかった。


「その桝は、官の桝だ」


 役人は、それだけ言った。


「でも、山盛りにしてるじゃないか」


 若い男が言った。


 役人は答えなかった。


 男たちは、腰に刀を差していた。


 若い男は、その刀を見た。


 役人も見た。


 村には、役人が一人。


 男たちは、十人いた。


「名は?」


 年寄りが口を開いた。


「わしが――」


 だが、その前に若い男が答えた。


「……サクだ」


 役人は帳面に名前を書いた。


「下がっとれ」


 サクは黙った。


 少し離れたところで、タクが見ていた。


 サクの手が、震えていた。


 怒っているのか、怖いのか、タクには分からなかった。


 ただ、自分は何も言えなかった。



 米は、荷車に山のように積まれていた。


 村の者が、それを見ていた。


 村に残ったのは、これだけだった。


 次の秋まで、まだ長い。


 その間、何を食べるのか。


 草を食う。木の皮を剥ぐ。それでも足りなければ、何かを売る。


 役人は、それを知っていた。


 だが、男たちの腰には刀がある。


 役人は一人だった。


「……まあ、いい」



 こうして、役所の仕事は順調に進んだ。


 農村では、順調ではなかった。


 米を売った。麦も売った。鍋も売った。着物も売った。


 牛は売らなかった。


 牛を売ったら、来年、畑を耕せない。


 だから、牛だけは残した。


 その次に、何を売るか。


 決まっている。


 人間だった。



「誰だ」


「この子だ」


 男が、少女を指した。


 少女は黙っていた。


 泣いてはいなかった。


 泣いても、値段が上がるわけではない。


 男たちの中に、一人だけ子供が混じっていた。


 カイといった。


 顔は怖い。


 そして、髪が少ない。


 後ろ髪を伸ばして結んではいるが、どう見ても立派な辮髪にはならない。



「名は」


 年嵩の男が言った。


「ラン」


「年は」


「十七」


 男は帳面に書いた。


 それから、金を数えて渡した。


「行くぞ」



 少し離れたところで、タクが足を止めた。


 姉ちゃんが、知らない男たちと立っている。


 タクは走り出した。


「姉ちゃん!」


 ランが振り返った。


「タク」


 それから、笑った。


 目の下の、小さなほくろ。


「どこ行くの?」


 ランは答えなかった。


 答えられなかった。


 カイが、ランの前に立った。


 何も言わなかった。


 ただ、手まねきをした。


 米を積んだ車の後ろについて、二人は歩き出した。


 タクは、その後ろ姿を見ていた。


 見えなくなるまで。



 その日の夜。


 タクは母親に聞いた。


「姉ちゃん、どこに行ったの?」


 母親は少し黙った。


「川下の港のある、シャンの街だよ」


「シャンの街?」


「ああ。金持ちの家に行ったんだ」


「お嫁さん?」


「そうだよ」


「金持ち?」


「そう」


「じゃあ、もう貧乏じゃない?」


「そうだね」


「よかった」


 タクは寝た。


 ランが売られたことを、知らなかった。


 ランの家は、その金で冬を越した。


 春には、また畑に出た。



 それから、何年かが過ぎた。


 毎年、同じ季節に男たちが来た。


 毎年、荷車に米が積まれた。



 ある年、北から学者が来た。


 村を回っている人だった。


 夜、大人たちが集まって、その学者の話を聞いた。


「弱いから、取られるんじゃ」


「みんなでまとまれば、強くなれるんじゃ」


「強ければ、不正を直せる。」


 そういう話だった。


 紙が回された。


 みんな、指に墨をつけて押した。


 まだ一三だったタクは、それを見ていた。


 次の朝、その学者はもういなかった。



 しばらくして、官から触れが出た。


「他の村で、紙が見つかった」


「何人も捕らえられた」


「捕らえるのにかかった金は、その村が払うことになった」


「自ら名乗り出れば、罪に問わない。」


 村は静かだった。大人たちは青い顔をして黙っていた。


 誰も、その話をしなかった。



 その年の徴税の日は、いつもと違った。


 役人が、いままでとは違う顔だった。


 持っている帳面は、同じものだった。


 長老が、先に前へ出た。


 懐から紙を出して、役人に渡した。


 役人は、それを広げて読んだ。


 時間はかからなかった。


「サク」


 役人が名を呼んだ。


 数年前、量り方に意見をした男の名が、帳面にあった。


 長老が出した紙にも、同じ名があった。


 それだけの理由だった。



 近くの村で出た紙にも、同じ(学者の)名前が並んでいた。


 だが、そちらを追って捕まえられるかは分からない。


 それより、この男を捕らえるほうが速い。


 役人には、首謀者が一人必要だった。


 一人捕らえれば、済む話だった。



 サクは、動かなかった。


 計量の男たちがサクの腕を取った。


 誰も、何も言わなかった。


 長老も、サクの家の者も、声を上げなかった。


 タクには、何が起きたのか分からなかった。


 分かったのは、みんなが知っていたということだけだった。



 あのときは、何もできなかった。


 今度は、誰も、何もしなかった。


 ここにいても、誰も弱い者を守らない。


 守れないのではない。守らないのだった。


 学者が、言っていた。


 知らないから、弱い。


 弱いから、取られる。


 だから、学ぶのだ、と。


 七日後の朝、タクは村を出た。


 誰にも言わなかった。


 言う相手が、いなかった。


 北へ行った。



 ランが買われていった先の家は、大きかった。


 確かに、金持ちだった。


 だが、そこには女がたくさんいた。


 客も、たくさん来た。


 ランは、そこで働いた。


 客の前では、笑わなければならなかった。


 酒を注いだ。


 話を聞いた。


 客が笑えば、一緒に笑った。


 嫌なことを言われても、顔には出さなかった。


 それが、仕事だった。


 最初の頃は、よく泣いた。


 だが、泣いても帰れない。


 帰っても、村に食べるものはない。


 やがて、泣かなくなった。



 それから、十年ほど経った。


 カイは、シャンの街にある組織で仕事をしていた。


 組織の交渉は、いつも店で行った。店の奥の席に男たちが座る。その横には、店の女が付いた。


 カイの側にはよくランが付いた。


 ランは客の話をよく聞いた。


 誰が何を欲しがっているのか。


 誰がどこで迷っているのか。


 いつ話を進めればいいのか。


 客は、女には気を許した。


 他の客相手には言わないことを、酒の席では喋った。


 ランは、それを覚えていた。


 どちらの側にも付かない顔で、酒を注いだ。


 カイが困ったときには、注ぐついでに一言だけ言った。


 その一言で、話がまとまった。


 ランのおかげだった。


 カイも、それは分かっていた。


 だから、ランを横に置いた。



 他の女が付いたときは、そうはいかないことが多かった。


 だから、カイの席には、いつもランが付くようになった。


 ランは、カイの隣に座るようになった。


 カイも、それを当たり前のように受け入れた。



 カイは、組織の中で上に行きたかった。だから、仕事を覚えた。人を集めた。金を集めた。人を動かした。戦うことも覚えた。


 戦うと強かった。商売をすると儲かった。人を使うと上手かった。カイは、何をやってもだいたい上手くできた。


 上に行くためなら、何でも覚えた。


 興味のないことは、覚えなかった。


 食べ物にも興味がなかった。服にも興味がなかった。酒も飲まなかった。



「旦那様、お酒はいかがです?」


「いらん」


「少しくらい」


「仕事中だ」


「でも皆さん飲んでますよ」


「俺は飲まない」


「お酒、お嫌いなんですか?」


「好き嫌いじゃない」


「じゃあ、何で?」


「仕事だから」


 ランは笑った。



「旦那様、今日は何を食べます?」


「なんでもいい」


「魚と肉、どちらがいいです?」


「どっちでもいい」


「昨日もそう言いました」


「そうだったか?」


「そうです」


「じゃあ昨日と同じでいい」


 ランは笑った。



「旦那様って、食べ物に興味ないですよね」


「食べられればいい」


「髪にも興味ない」


「ない」


「服にも?」


「ない」


「女にも?」


「ない」


「……それは嘘ですね」


「なんでだ」


「旦那様、女の人にはずいぶん人気がありますよ」


「そうか?」


「そうですよ」


「知らん」


「知らないんですか?」


「仕事をしてるだけだ」


「それが格好いいんですよ」


「そういうものか?」


「そういうものです」


「私がいるじゃないですか」


 カイは黙った。


「……そうだな」


 ランは笑った。



 そのころ、タクは十八になっていた。


 北の、学者のいる街にいた。


 小柄で、顔は子供のままだった。


 髪だけが、やたらと多かった。


 辮髪が、首の太さほどあった。


 朝は学校で子供に字を教えた。学校といっても、部屋が一つあるだけの場所だった。午後は人夫に出た。荷を担ぎ、土を運び、日が暮れるまで働いた。


 学者の家で本を読ませてもらえるのが、給金の代わりのようなものだった。


 タクは、よく学んだ。


 字を覚えると、いろいろなことが分かった。


 なぜ税が上がるのか。


 なぜ村から人がいなくなるのか。


 誰が悪いのか。


 調べていくと、誰も悪くなかった。


 みんな、自分の仕事をしているだけだった。


 仕組みがそのようになっているとわかった。


 それが、いちばん嫌だった。


 何を、どうすればいいのか。


 タクには、分からなかった。


 一人だった。



 村を出てから、村の人間には一度も会っていない。


 そのころ、タクはよくランの夢を見た。


 子供のころの夢ではなかった。


 夢の中のランは、大人だった。


 長い髪をほどいていた。


 月明かりの下で、髪が肩から背中へ流れている。


「タクちゃん」


 振り向いて、笑う。


 昔と同じ笑い方だった。


 それなのに、息が浅くなる。


 ランが近づいてくる。


 一歩。


 また一歩。


 タクは動けない。


 逃げようとしているのか、待っているのか、自分でも分からない。


 いつも、そこで目が覚めた。


 朝だった。


 顔が熱い。体も熱い。


 何の夢だったのか、よく覚えていない。


 ただ、髪の匂いだけが、妙にはっきり残っている。


「……姉ちゃん」


 タクはしばらく天井を見ていた。


 自分が何を考えていたのか、考えたくなかった。


 布団を頭までかぶった。



 ある日。


 学者の用事で、タクはシャンの街へ出た。


 人混みの中を歩いていると、後ろから声がした。


「タクちゃん!」


 タクは振り返らなかった。


 聞き慣れた声だった。


 そんなはずはない。


 もう十年も経っている。


 最近は夢の中で何度も聞いているから、とうとう昼間まで聞こえるようになったのかもしれない。


「タクちゃんてば!」


 今度は、すぐ後ろから聞こえた。


 タクが振り返った。


 女が立っていた。


 ものすごくきれいだった。


 艶のある髪。


 きれいにまとめられた髪。


 着物の着こなし。


 立ち方。


 笑い方。


 何をしても、男の目を引く。


 女は、ためらいもなくタクに近づいてきた。


「タクちゃん」


 両手を握られた。


 タクの体が固まった。


 近い。


 いい匂いがした。


 髪の匂いがした。


 それだけではない。


 女の笑顔が近すぎる。


 タクは、手を振りほどくこともできず、真っ赤になった。


 女は、そんなタクを見て楽しそうに笑った。


「どうしたの?」


 タクは、初めてまともに女の顔を見た。


 きれいな目だった。


 その目の下に――


 小さなほくろがあった。


 タクの頭の中で、十年前の水場がよみがえった。


 白い首。


 後れ毛。


 汗の匂い。


 髪の匂い。


 そして、笑ったときにくしゃっと動く、あのほくろ。


「……姉ちゃん?」


 女は笑った。


「やっと分かった?」


「姉ちゃん……なの?」


「そうだよ。ランだよ」


 タクは、しばらく何も言えなかった。


 夢の中で何度も見た女が、目の前にいる。


 しかも、夢よりずっときれいだった。


 ランは、タクの顔を両手で挟んだ。


「大きくなったねえ」


「姉ちゃんも!」


 タクは少し考えてから言った。


「きれいになったから、分からなかった」


 ランは少し膨れた。


「昔は可愛かったでしょ」


「うん」


「じゃあ、よし」


「ずっと探してた」


「そうだったの?」


「うん」


 ランは少し黙った。


「元気だった?」


「元気」


「よかった」


 それから、ランはタクの髪を見た。


「まあ……」


「何?」


「髪」


「髪?」


 ランは、タクの髪を両手でつかんだ。


「相変わらず多いねえ」


「そうかな」


「昔から多かったけど、もっと増えたんじゃない?」


「そうかな」


「そうだよ」


 ランは笑った。


「こんなに多い人、見たことないよ」


 タクは照れた。


「姉ちゃんだって、昔よく言ってたじゃん」


「言ってたねえ」


 ランは、懐かしそうにタクの髪を撫でた。


「タクちゃんの髪、すごく多かったもんね」


 その手の感触に、タクはまた固まった。


「……姉ちゃん」


「なあに?」


「近い」


「昔は背中に乗ってきたくせに」


「それは子供のころだよ」


「今も子供みたいな顔してるけど」


「……」


 ランは楽しそうに笑った。


「タクちゃんも、いろいろあったんだね」


「うん」


「私はね、元気だったよ」


「そうなの?」


「うん」


 ランは少し得意そうな顔をした。


「旦那様がいるから」


「旦那様?」


「そう」


 ランは嬉しそうに話し始めた。


「強いんだよ」


「へえ」


「仕事もできるし、お金持ちだし。みんな旦那様を頼りにしてるの」


「へえ……」


「ただね」


「ただ?」


「髪が少ないの」


 タクは少し黙った。


「でも、それ以外は本当に格好いいんだよ」


 ランは、そこだけは念を押した。


 そう言ったときの顔を、タクは見ていた。


「……そっか」


「うん」


「ねえ。今日はもう用事ないの?」


「うん」


「じゃあ、ご飯食べていこうよ」


「いいの?」


「もちろん」


「どこで?」


「うち」


「旦那様もいるけど」


「大丈夫だよ」


 ランはタクを連れて歩き出した。



 店に戻ると、カイがいた。


「旦那様、お帰りなさい」


「ああ」


 カイはタクを見た。


「……誰だ?」


 タクが止まった。


「俺です」


「誰だ?」


「タクです」


「……」


 カイは少し考えた。


 思い出せない。


 タクは、昔のことを知っている。


 カイは、昔のことに興味がない。


 だから覚えていなかった。


「昔、村からラン姉ちゃんを連れて帰った人ですよね」


 カイはランを見た。


 ランは、少し笑った。


「そうですよ」


 タクは嬉しそうに言った。


 言いながら、涙が出てきた。


 村を出てから、一度も出たことのなかった涙だった。


「ラン姉ちゃんをずっと守ってくれたんだね」


「……」


 カイは何も答えなかった。


 タクは勝手に納得した。


 この人が姉ちゃんを守ってくれたんだ。


「兄さん」


「なんだ」


 カイがタクを見た。


「兄さんって呼ぶのか?」


「うん」


「そうか」



 三人で飯を食った。


 カイは黙って食べていた。


 タクはよく喋った。


 ランは二人の話を聞いていた。



「兄さん、これ食べる?」


「いらん」


「じゃあ私がもらう」


「ああ」



「兄さん、明日はどこに行くの?」


「分からん」


「じゃあ、旦那様」


「なんだ」


「つけ辮髪の店があるんだけど」


「そうか」


「行ってみない?」


「好きにしろ」


 ランは笑った。


 タクは二人を見ていた。


 なんだか、甘い。


 見ているだけで、口の中が甘くなる。


 タクは苦笑した。



 後日、三人でその店へ行った。


「いらっしゃいませ」


 店主が頭を下げた。


「つけ辮髪をお願いしたいんだけど」


 ランが言った。


「はい。どなたのですか?」


「この人」


 ランがカイを指した。


 店主はカイの後ろ頭を見た。


「ああ……」


 少し考えた。


「今日は申し訳ありません」


「なんだ?」


「材料がないんです」


「材料?」


「はい。ちょうど切らしてしまいまして」


 タクが言った。


「じゃあ、ぼくの髪を使ってよ」


「タクちゃん?」


「兄さんのだもん」


 タクは、もう髪をほどきはじめていた。


「切っていいよ。どこでも」


「・・・そんな」


「いいから」


 タクは生え際を指した。


「ここ、少し剃るから」


 店主は嬉しそうに、タクの頭を見た。


「十人前は取れますよ。」


 それから、剃刀を取った。


 剃ったのは、生え際のほんの少し。


 爪の先ほどの幅だった。


 店主は、取れた髪を束ねた。


 束ねて、驚いた。


 それから、もう一度束ね直した。


「……お客さん」


「なに?」


「これで、足ります」


「よかった」


「というより」


 店主は、束を持ち上げてみせた。


 太さは、親指と人差し指で作った輪ほどもあった。


「立派すぎませんか」


 タクは自分の頭を触った。


「そう?」


 どこを剃ったのか、見ても分からなかった。


 店主は、その髪でカイのつけ辮髪を作った。


 出来上がった辮髪を、カイが後ろから見た。


 ランは目を輝かせた。


「まあ!」


 カイの後ろ姿を、ぐるりと回って見る。


「すごい!」


「そんなにか?」


「すごいよ。旦那様、立派になったねえ」


 ランは嬉しそうだった。


「ほら、タクちゃん。見て」


「うん」


 タクも笑った。


「兄さん、格好いい」


 カイは鏡を見た。


 確かに、以前より立派だった。


「……悪くない」


 ランは嬉しそうに笑った。


「でしょう?」


「ああ」


 ランは懐から赤い紐を出した。


「これ、つけてもいい?」


「好きにしろ」


 ランは辮髪の先に、赤い紐を結んだ。


「ほら」


 赤い紐が、辮髪の先で揺れた。


「かわいい」


「俺の頭だぞ」


「いいじゃないですか」


 ランは満足そうに笑った。


 タクは、その二人を見ていた。


 昔、水場で見た姉ちゃんの髪にも、赤い紐が結んであった。


 あの頃は、こんな日が来るなんて思わなかった。


「……姉ちゃん」


「なあに?」


「いや」


 タクは笑った。


「なんでもない」



 次に会ったとき、カイはもうつけていなかった。


「兄さん、辮髪は?」


「外した」


「なんで?」


「邪魔だ」


「ええ?」


 ランが口を挟んだ。


「せっかく似合ってたのに」


「仕事にならん」


「もう一度つけてくださいよ」


「つけん」


 ランは膨れた。


 タクが笑った。



 その少しあと、カイの仕事が一つ止まった。


 荷が来なかった。


 次の日も来なかった。


「どうなってる」


「北で、止められたようです」


「誰にだ」


「分かりません」


 カイは帳面を閉じた。


「調べろ」


「はい」


 カイは、それ以上何も言わなかった。


 興味がなかったからではない。


 まだ、小さな話だったからだ。


 タクは、その横で茶を飲んでいた。


 何も言わなかった。


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