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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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9/20

第9話 二芯一灯

朝、(あかり)は、まだ私の手を、握ったまま眠っていた。


寝間着の袖に、小さな爪の痕が、いくつも残っている。離すまいと、強く、掴んだ痕だった。


三日、経った。握る力は、弱くなっていない。眠っているあいだだけ、すこし緩む。それでも指のあいだに、隙間はできなかった。


握られたほうの手を、そっと持ち上げてみる。爪の根の焦げ色は、消えていない。皮のすぐ下で、青い筋が透けている。


三日前より馴染んだ気もするし、なにも変わっていない気もした。どちらでもいい、と思うことにした。


起こさないように、指をそっと外す。灯が眠ったまま、眉を寄せた。手を宙へ伸ばしかけて、止まる。空を掴んで、しばらく、そのまま。


その手を、私は握り直してやった。


灯の指が、寝ぼけたまま、私の手の甲を、なぞった。爪の根の、焦げた色を、確かめるみたいに。それから、また眠りの底へ、沈んでいった。


窓の障子に、朝の白さが、滲んでいる。長屋の梁のあたりで、雀が鳴いた。いつもなら、聞き流す音だった。今朝はやけに、はっきり聞こえた。


位は三のまま、動いていない。焚場(たきば)には、あれから、一度も出ていない。出ようとすると、灯の指が、袖を、強く、引くからだった。


行くな、とは言わない。ただ、握る。それだけで、私は動けなくなる。


それでいい、と思う日と、これでいいのか、と思う日が、交互に来た。今朝は、どちらでもなかった。ただ灯の寝顔を、しばらく、見ていた。


顔を洗いに行くときも、灯は、ついてきた。何をするでもなく、戸口に、座っている。前は、なかったことだった。



四日目の朝、私は決めた。


(おき)に、会いに行こう。


位が上がったことを、まだ、報せていない。(ただれ)と当たったことも。それより、聞きたいことが、あった。あの晩、私の手を、いちどきに十年も老いさせたもの。


あの、これまでとは違う速さで駆け上がった熱の、正体を。燠なら、なにか、知っているかもしれない。谷の底であの人だけは、いつも私より先に、私の手を見て、なにかを言い当てた。


灯に話すと、返事より先に、手が動いた。袖の端を、掴んだ。


「私も、行く」


「谷は、遠いよ」


「行く」


短い返事だった。譲る気配は、なかった。私は、頷いた。ひとりで行くよりも、そのほうが、いい気がした。


朝餉を二人分、済ませた。灯の分の粥を、いつもより、多く、よそった。減った量を、目で数えるのを、やめた。数えたところで、何も変わらない。


握り飯を、竹の皮に包んだ。灯のぶんを、大きめに。私のぶんは、いつもどおり、小さく。


澪津(みおつ)を出て、道はだんだん、細くなった。町の音が後ろへ、遠のいていく。灯は、私の、すぐ隣を歩いた。


前を歩くことも、後ろに隠れることもなく、ただ肩が触れる距離を、保っていた。歩幅が合わなくなるたびに、袖を引いた。合わせろ、というより、確かめるための、引き方だった。


道端の草が、風に揺れている。夏の匂いが、濃くなってきた。蝉が遠くで、鳴きはじめていた。去年より、すこし、早い気がした。


谷へ降りる坂で、灯の手が私の手を、探した。指を、絡めてくる。冷たい指だった。


前より、すこしだけ、あたたかい。それでも、まだ本物の体温には、遠かった。


私は、握り返した。



谷の底の火は、記憶より、低かった。


地面すれすれで、燻っている。谷の空気は、澪津より、ひんやりしていた。夏でもこの底だけは、季節が、ひとつ遅れているみたいだった。


初めてこの谷へ来た夜のことを、思い出した。あのときの火は、もっと、大きく見えた。低くても、厚みがあった。今日の火は、同じ低さのはずなのに、なにかが、足りなかった。


猫背の背中が、そこにあった。振り返りもせずに、燠が言った。


「来たか」


「久しぶり」


「久しぶりでもない。四日、経っただけだろう」


燠の目が、動いた。私の手を、見ている。それから、灯と私を結ぶ、あの糸のあるところを、長く、見た。


なにも、言わなかった。


私は、手を隠さなかった。隠したところで、この人には、見えているのだから。


「座れ」


低い声だった。いつもより、すこし、掠れていた。喉の奥に乾いた紙でも、詰まっているような。


近くで見ると、頬の肉が、前より、薄くなっていた。骨の形が皮のすぐ下に、出ていた。(ともしび)の量は、変わっていないはずなのに、纏っている身体のほうが、すこし、小さくなっていた。


目だけが、前と、変わらなかった。奥に燃える、あの熾火(おきび)の色を、まだ、宿していた。


灯が、先に火のそばへ座った。膝を抱えて、燠と、私を交互に、見ている。燠の目が、一瞬、灯へ向いて、また火へ戻った。


灯の目は、そのまま、燠に残った。見たことのない目つきだった。


「その手は、なんだ」


誤魔化す気は、なかった。


「位三位に、勝った。爛に」


「一発でか」


知っていた。噂は谷にも、届くらしい。


「ああ」


燠はそれきり、なにも聞かなかった。火箸を取って、灰の中を、探る。炭を、ひとつ、奥へ押し込んだ。


手がいつもより、ゆっくり、動いた気がした。指の関節のあたりが、震えて、火箸の先が、灰の上で、すこし、逸れた。



「灯が、痛いと、言った」


私は、続けた。


「これまで、一度も言わなかった子が。冷たいとは、言っても痛いとは、言わなかった子が」


燠は火を見たまま、しばらく、動かなかった。


「量は、変わらなかった。十回ぶんを、十回に分けて引くのと、一回で引くのと。総量は、同じはずだった。なのに――」


「なのに、違った」


燠が言葉を、継いだ。私の代わりに。


「速さが、違う」


低い声だった。責める響きは、なかった。それがかえって、こたえた。


灯が私の袖を、握り直した。私はその手に、気づかないふりをした。今、離したら、この続きが、聞けなくなる気がした。


「知ってたの」


私の口から、勝手に、出た。


燠は、答えなかった。答えの代わりに、長く、息を吐いた。息が、すこし、震えていた気がした。見間違いかもしれない。


火が、ひとつ、爆ぜた。



燠はしばらく、黙っていた。


膝の上の手を、いつもの、あの形に畳んだ。それから、ゆっくり、口を開いた。


「昔――」


言葉を選ぶように、間を置いた。


「昔な。二人でひとつの灯を、燃やした奴らが、いたそうだ」


「ひとつの灯」


灯が、膝を抱く腕に、すこし、力を込めた。


縁糸(えにし)を、太く、結んでな。片方が()くんじゃない。両方が一緒に、焚く。そういう、繋ぎ方があった」


燠の目は、私を見ていなかった。火の、いちばん奥の、赤いところに、なにか、遠いものが、映っていた。


「不思議とな。ひとりで焚くより、長く、保ったそうだ。二人ぶんの燈が、ひとつになって、燃える。同じだけ燃やしても、減りがゆっくりだった、と」


二芯一灯(にしんいっとう)


言葉が口から、こぼれた。誰かに教わったことのない、言葉のはずだった。それでも、口が勝手に、それを形にした。


燠の手が、止まった。


「――その名を、知ってるのか」


「今、初めて、言った気がする」


燠は長いこと、私を見ていた。それから、視線を、また火へ戻した。


「そうか。そういう、名だったな」


声が、すこし、遠くなった。過去のどこかへ、行ってしまったような、声だった。


いつもは、言葉を、出し惜しむ人だった。これほど、長く、話すのを、聞いたことがなかった。


「俺も、やったことがある」


火箸を持つ手が、微かに揺れた。抑えようとして、抑えきれない、揺れ方だった。


私は、何も、言わなかった。ただ、その手を、見ていた。


「若い時分だ。谷に来る前の話だ。あいつと――」


名を、言わなかった。


いつもは、死んだ者の名を、ひとつずつ、置くように、漏らすのに。この人だけ、名を置かなかった。


「あいつと、糸を結んだ。太く、結んだ。二人でひとつの灯を、燃やしてみようって、な」


燠の背中が、いつもより、丸く、見えた。喪の鎧の、継ぎ目が、また、ひとつ、緩んだような。


「最初は、うまくいった。二人分の燈が、ひとつになって、燃えた。俺の燈が減る速さが、ひとりのときより、ゆっくりだった。あいつも、そう言った。長く、燃える、って」


その夜のことを、燠は、まだ覚えていた。声の底に、それが、滲んでいた。


「二つの燈が、糸の途中で、混ざるんだ。境目が、なくなる。俺の赤とあいつの、すこし白い光と。混ざって、ひとつの色になる。見たことのない色だった」


火箸を灰の上に、置いた。指先が灰にまみれるのも、構わずに。


「あいつは、笑ってた。こんなにあったかいの、初めてだ、って。俺も、そう思った。生まれてから、いちばん、あったかい夜だった」


燠の目の奥に、火とは別の、小さな光が、あった気がした。遠い夜の、篝火の色。若い二人が、笑っている、一枚の絵。私には見えない絵を、燠だけが見ていた。


灯が、燠の顔を、じっと見つめていた。瞬きも、忘れたように。


「それで」


私は、聞いた。聞かずには、いられなかった。


燠は、答えなかった。


膝の上の手を、また、畳み直した。今度は、深く。指の関節が、白くなるほど、強く。


沈黙が、しばらく、続いた。火の爆ぜる音だけが、間を、埋めていた。



灯が私の袖を、放して、燠のほうへ、身を乗り出した。


「どうなったの」


子どもらしくない、静かな、聞き方だった。


燠は、灯を、見た。長く、見た。それから、また、火へ、目を逸らした。


「知らんでいい」


借りの技を、教わった夜にも、聞いた言葉だった。あのときも、この人はこうやって、逃げた。


燠の呼吸が、すこし、乱れていた。吸って、吐く、その間がいつもより、長い。咳を、ひとつ、殺した。


手の甲で口元を、隠して。喉の奥で鳴った音が、いつもの掠れとは、違って聞こえた。


私はそれを、見なかったふりを、した。


火はいつまでも、低いままだった。燻って、消えかけて、それでも消えない。燠自身に、似ていた。


炉のそばの、燠の手が、またひらきかけていた。焚こうと。前に見たときより、大きく、ひらいた。今度は閉じるまでに、すこし、時間がかかった。


畳み直す手が、震えていた。いつもなら、すぐに隠れる震えだった。今日は、すこし、長く、残っていた。



「なんで」


私は、もう一度、聞いた。


「なんで、二芯一灯は、なくなったの。うまくいったんでしょう。長く、燃えたんでしょう。なのに、誰もやらなくなった。誰も、知らない。なんで」


燠はしばらく、黙っていた。灰の上に、目を落としたまま。


「世が、許さんかった」


短い、答えだった。それ以上を、望んでも無駄なのが、声でわかった。


「奪うか、奪われるかだ、と。誰もが、そう決めた世だ。二人でひとつを、分け合う奴らを、この世は気味悪がった。数えられんもんは、扱いに困る。燈寺(とうじ)は燈寺で、都合が悪かったんだろう。糸を太く結ぶ奴が増えれば、燈を、一人ずつ計って課すやり方が、崩れる」


澱見(よどみ)の顔が、頭の隅に、浮かんだ。数えて、計って、祝う、あの司燈(しとう)の顔が。


それだけ、言った。


「あいつが、どうなったのかは」


「知らんでいい、と言ったろう」


燠の声が、初めて、すこし、強くなった。強くなったことで、逆にその奥にあるものが、見えた気がした。


燠の手が、また、震えていた。今度は、隠そうともしなかった。


私はそれ以上、聞かなかった。


聞けば、この人が、今夜、独りでなにかを、燃やしてしまいそうな、気が、した。


着物の裏で、(なぎ)燈札(ひふだ)が、かすかにあたたかかった。燠の話を聞いているあいだ、ずっと。理由は、わからない。妹の話とは、なにひとつ、繋がっていないはずなのに。



谷を出るころには、日が傾いていた。


灯は、また私の隣を、歩いた。手を、繋いで。振り返って、谷の底の、低い火を一度だけ、見た。それから、なにも言わずに、前を向いた。


「あの人、死ぬの」


灯がぽつりと、言った。


私は、答えられなかった。答えを、持っていなかった。


母を、喪った日のことが、頭の隅を、かすめた。あのときも、私は、同じ問いに、答えられなかった。


灯はそれ以上、聞かなかった。ただ繋いだ手に、すこし、力を込めた。


私も、何も言えなかった。言葉にすれば、それが、そのまま形になる気がした。だから、私も黙っていた。


坂を上りきると、澪津の灯りが、遠くに見えはじめた。夕闇の中に、無数の小さな火が、瞬いている。誰かの燈が、誰かの家で、静かに燃えている。


その一つひとつに、こうして、隣にいる誰かが、いるのだろうか。それとも独りで、燃えている火のほうが、多いのだろうか。


私は自分の手を、見た。爪の根の焦げ色は、消えていない。この手もいつか、燠の手のように、畳んだまま、動かなくなるのだろうか。誰とも糸を結ばず、独りで燻り続けるのだろうか。


燠は、それを選んだ。独りで、生き延びることを。私は、まだ、選んでいない。


二人でひとつの灯を、燃やした人たちが、いた。


うまくいって、長く、燃えて。それでもこの世から、消された。


燠はそれを、知っている。全部は、話さなかった。話せなかったのか、話す気がなかったのか、私にはわからない。ただあの人の畳んだ手が、いつもより、深く、閉じていたことだけが、わかった。


二人でひとつは、なぜ、葬られたのだろう。


いつか、聞ける日が、来るのだろうか。今は、まだ、わからない。


答えのない問いを、胸の奥にしまったまま、私は灯の手を、握り直した。


その指は、朝よりも、すこし、あたたかかった。


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