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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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8/20

第8話 過ぎた一焚き

夜が明けても、手はつないだままだった。


障子の白さが、すこしずつ、確かな朝の色に変わっていく。(あかり)の指は、まだ冷たい。けれど、昨夜よりは、すこしだけ、やわらかかった。


「……ねえ」


灯が目を閉じたまま、言った。


「もう、朝?」


「もう、朝」


灯はしばらく、何も言わなかった。それから、握った手を、ほんの少しだけ、強くした。手放したくない、というふうに。私も同じくらいの力で、握り返した。


それだけで、よかった。


ただ、その「それだけ」が、いつまでも続くわけじゃないことを、私は知っていた。


灯が、先に起き上がった。私の手を、すぐには放さなかった。指のあいだから、するりと抜けていくまで、すこし、間があった。その間に、私は今日のことを、考えていた。


灯には、見せなかった。考えごとは、いつも見せない。



位は、十一。


あれから、焚場(たきば)に二度立った。挑んできた格下を、借りの術で、二度とも灯を減らさずに、退けた。だが位が動くのは、格上を、破ったときだけだ。十位の男は、太い縁糸(えにし)で、二人がかりの相棒と組んでいて、借りる隙が、なかった。


惜しんで、削って、借りて――それでも、進む速さは、亀みたいだった。


灯を買い戻すまでの価は、まだ半分にも、届かない。


夜具を畳みながら、指を折って、数えた。このままの速さで、あと何年かかるのか。十一から、一まで。一段ずつ、減らして、よけて、進む。


答えが怖くて、途中でやめた。


灯の手は、もう出会った夜より、すこし、あたたかい。けれど、まだ本物の体温には、遠い。あと何年、こうして、すこしずつ、温め続ければ、追いつくのか。その算段だけは、いつまでも、答えが出なかった。


灯の指が、冷たいまま、私の頬に触れた。


「考えごと」


「べつに」


灯はそれ以上、聞かなかった。聞かないでいてくれることが、いまはありがたかった。


窓の外で、澪津(みおつ)の朝が、いつもどおり、始まっていた。



焚場へ向かう道の途中、人だかりがあった。


市場の広場で、誰かが何かを配っている。灯の手を引いて、回り道をしようとした私の足が、人垣の隙間から見えたものに、止まった。


燈札(ひふだ)が、宙を舞っていた。


若い男が、笑いながら、それを撒いていた。集まった人たちが、争うように、手を伸ばす。男の髪は、火の色をしていた。


瞳も、おなじ色。歳のころは、二十そこそこに見える。けれど、肌に、傷も摩耗も、なかった。


位を競うほどの()()なら、必ずどこかに、減りの跡がある。この男には、それが一切なかった。鮮やかなまま、艶やかなまま、そこに立っていた。


胸元から、肩から、燈札が幾重にも下がっている。飾りだった。誰かの時を、見せびらかすための。


(ほむら)


誰かが、その名を呼んだ。歓声が、上がった。


私はその名を、知っていた。


集まった人たちの後ろに、一人、座り込んでいる老人がいた。痩せて、骨ばって、目の奥が落ちくぼんでいる。手に一枚の紙きれを、握っていた。さっき、焔に、何かを売った帰りらしかった。


その老人だけが、笑っていなかった。


焔の視線が、ふとこちらへ流れた。


灯の手を引いたまま立っている私を、見つけて、目を、すこし、細めた。歩いてくる。人垣が自然に、道を空けた。


「噂の野良か」


近くで見ると、その若さが、なお、まぶしかった。


「位十一位だって? たいしたもんだ。誰の時も借りずに」


「あんたとは、違う」


言ってから、言い過ぎたと思った。けれど、引っ込めなかった。


焔は、笑った。気を悪くした様子は、なかった。


「違わないさ。お前は自分の時を削って、俺は買った時で生きてる。それだけの違いだ。嘘がどこにある? 俺は生きてる。勝ってる。文句を言われる筋合いはない」


その声に、悪意はなかった。むしろ、温かかった。だからこそ、嫌だった。


「聖人ごっこは、いつまで続けるんだ」


焔が灯のほうへ、目をやった。灯が私の袖を、強く、握った。


「そうやって、自分を削っていれば、いつか、その子を道連れにするだけだぞ。買えばいい。誰かの時を。市場にはいくらでも、ある」


その肩越しに、まだ座り込んでいる老人が、見えた。


「あの人は」


「ん?」焔が、振り返った。「ああ。売ってくれたんだ。喜んでな」


老人は、何も言わなかった。ただ握った紙きれを、じっと見ていた。指が何度も、紙の角をなぞっている。喜んでいる手つきには、見えなかった。


周りの人たちは、誰もその老人を、見ていなかった。焔の鮮やかさだけを、見ていた。


私は、答えなかった。答える言葉が、なかった。あの人とこの男の、笑っている顔の差が、答えそのものだった。


「考えとけ」


焔はそれだけ言って、また人垣の中へ、戻っていった。撒かれた燈札を、人々が笑いながら、拾っていた。


私はしばらく、動けなかった。


灯が、袖を、もう一度、引いた。


「行こう」


その声に、押されるように、私は歩き出した。


あの男のようには、なりたくない。なりたくないのに――頭の片隅で、何かが引っかかったまま、離れなかった。一段ずつ、削って、借りて、進む。


十一から、一まで。何年も、かけて。それより、もっと速い道が、あるんじゃないか。


奪わずに。けれど、惜しまずに。


あの男のようにではなく。



焚場に着くと、行司の見習いが、私を、見て、すこし、表情を硬くした。


「今日は、相手選びが、できません」


「いつもそうでしょう」


「いえ……今日、申し出てきたのが、向こうからで」


見習いが、口にした名を聞いて、私は、息を止めた。


「位三位、(ただれ)です」


控えの間の奥が、ざわついた。


爛、という名を、私は噂でしか、知らなかった。一発で、決める男。長く打ち合うことを、しない。挑んだ相手が、最初の一撃で、終わるか、終わらないか、それだけの男。


「断っても、いいんですよ」見習いが、言った。「いきなり三位は、無謀だって、皆、言ってます」


断る理由は、いくらでもあった。けれど、頭の中でさっきの数字が、まだ回っていた。十一から、一まで。


一段ずつでは、何年かかるか、わからない。けれど、三位に勝てば。


一段でなく、八段。


(おき)なら、止めただろう。手首を、掴んで。けれど、谷は、ここから遠い。今日は、誰も、止めてくれない。


「受けます」


見習いの顔が、曇った。それでも何も言わずに、頭を下げて、行った。


控えの間で、灯が、私を見ていた。


「無謀って、言ってた」


「平気」


「平気じゃ、ないでしょう」


灯の声が、すこし、尖った。私は、答えなかった。答えれば、本当のことを、言わなければならない気がした。


砂の上に、爛が立っていた。


遠目に見ても、わかった。腕に首筋に、火傷の跡のような、爛れた色が、幾重にも残っている。古い跡もあれば、まだ赤みの残る、新しい跡もあった。一発で決める焚き方が、その身体に、刻んだ年輪だった。


(ともしび)の量も、見えた。多かった。十一位の私より、はるかに厚みがあった。位三位というだけのことはある。


けれど、私が見ていたのは、その量ではなかった。


爛れた跡だった。


一発で決める。何度も。その代償が、あの跡だ。


わかっていながら、足は止まらなかった。



行司の手が、上がった。


爛は、構えなかった。ただ、立っていた。胸の奥の燈が、ゆっくりと、膨らみはじめる。


大きい。これまで見たどの相手より、大きい。


惜しんでも、間に合わない大きさだった。借りてもその糸が、保たない大きさだった。


私の頭の中で、二つの数字が、並んだ。


一段ずつ、十段。それぞれに、灯から、すこしずつ、引く。


あるいは。


一発、大きく。一度だけ、灯から、ごっそり、引く。


総量で見れば、軽いはずだった。何度も計算した。十回の小さな引きより、一回の大きな引き。


引かれる回数が、すくなければ、灯の負担も、すくない。そのはずだった。


手が、止まった。


いつもなら、ここで加減を、選ぶ。今日は、選ばなかった。


胸の奥に、手を伸ばした。


いつもの、すこしずつ、ではなかった。


あるだけ、ぜんぶ。


燈が、応えた。みぞおちの底から、喉の奥まで、いちどに、熱が駆け上がる。これまでとは、違う速さだった。火が私の中を、流れるというより、爆ぜるように、満ちていく。


縁糸の向こうで、何かが震えた。


控えの間のほうへ、意識の隅が、引っ張られる。けれど、止める時間は、なかった。


爛の燈が、放たれた。


私はその瞬間、すべてをまとめて、返した。これまでで、いちばん大きい、いちばん速い、一発を。


光が、はじけた。


砂が、舞い上がる。熱風が客席の最前列まで、届いた。悲鳴とも歓声ともつかない声が、あちこちで、上がった。


爛が、膝をついた。胸の燈がほとんど、消えかけている。これまで何十人を、こうやって、沈めてきたのだろう。今日、初めて、自分が沈められた側に、立った。


「……三位、ならびに――」


行司の声が、遠く、聞こえた。


客席が、沸いた。野良が、いきなり三位を喰った。誰かが私の名を、何度も呼んだ。


勝った。


八段、いっぺんに。これで、もう何年も、かからない。


その喜びは、長く、続かなかった。


私は、立っていた。立っていたが、様子が、おかしかった。


胸の奥の感覚が、これまでと、違う。すこし軽くなる、いつものあの手応えではなかった。空っぽに近い、もっと深い穴を、覗き込んだような、感覚だった。


手の甲を、見た。


息が、止まった。


指の節が、これまでと、比べものにならないほど、ささくれている。爪の根の焦げ色が、根元から、先まですべて、覆っていた。皮が薄くなって、青い筋が透けて見える。


十六の手じゃなかった。三十の手でも、なかった。


一発で十回ぶんの年月が、私の手を駆け抜けていった。


怖い、と思った。


はじめてだった。自分の手の老いを見て、怖いと思ったのは。八年、ずっと早く減ってほしかった。


早く、軽くなってほしかった。なのに、いまはその怖さの底に、灯の顔があった。


控えの間へ、走った。



布をめくると、灯が、胸を両手で、押さえて、うずくまっていた。


「灯」


声を、かけた。返事が、なかった。


もう一度、布をめくる。灯の顔が、白い。これまでの、薄い透明とは、違う白さだった。


唇まで、色を失っていた。胸の奥で青白い灯が、いまにも消えそうに、ねじれて、震えていた。


これまでの、緩やかな冷えとは、違った。


何かが、急に引きちぎられたような、揺れ方だった。


「灯――」


手を、伸ばした。指が触れる前に、灯の身体が、びくりと跳ねた。


怖がらせている、と気づいて、手を引っ込めかけた。


けれど、引けなかった。いま離れたら、もっと悪い気がした。


「いた……」


掠れた声だった。


「いた、い」


その一言で、私の中の何かが、砕けた。


灯は、痛い、とは言わない子だった。冷たい、とは言っても、痛いとは言わない子だった。何年も何度も、削られてきて、それでも痛いと、口にするのを、私は聞いたことがなかった。


その子が、いま痛いと、言った。


灯の手が、私の袖をつかんだ。さっきまでとは、違う強さだった。爪が、布に食い込むほどの力だった。


「離れないで」


声が、震えていた。


「……(みお)が、消えるかと、思った」


私は、何も言えなかった。


灯が、また、私を、見た。冷たい目だった。けれど、いつもの、刃みたいな澄み方とは、違った。


揺れていた。怯えていた。


「何、したの」


「……一気に、終わらせようと、思った」


「だから、何」


灯の声が、尖った。これまで聞いたことのない、尖り方だった。


「私が減るのは、いい。それは、もう、知ってる。でも、いま、あんたが――」


言葉が、続かなかった。


灯は私の手を、つかんだ。さっきの、ささくれた手を。爪の根の焦げ色を、指でなぞった。


「こんなに、いっぺんに、年取って」


灯の声が、震えた。


「もう、しないで」


それは自分のために、言う言葉ではなかった。


「灯を、買い戻すために」と、私は言いかけた。


「それで、あんたが、いなくなったら」灯が、遮った。「私、何のために、生きるの」


その問いに、私は答えられなかった。


答えを、持っていなかった。


灯の指が、私の手を、強く、握った。痛いほどの強さで。私はその痛みを、受け止めた。受け止めるしか、なかった。


胸の奥の青白い灯は、まだ、揺れていた。さっきよりは、すこし、ましだった。けれど、いつもの、静かな揺れには、まだ戻っていなかった。


しばらく、どちらも何も言わなかった。控えの間の隅で、二人ぶんの息の音だけが、聞こえていた。



長屋までの道、灯は私の手を、ずっと離さなかった。


いつもより、すこし、早足だった。私がふらつくたびに、肩で支えようとした。さっきまで、支えられていたのは、私のほうだったのに。


夕暮れの澪津が、藍色に変わっていく。今日、勝った位の数を、誰かが噂しているのが、遠くから、聞こえた。野良がいきなり三位を倒した、と。


英雄だ、と、また誰かが、言った。


その声は、もう私の胸に、届かなかった。


胸の奥に、手を当てる。残りを、確かめる。これまでと、違う、頼りない手応えだった。十回ぶんの軽さが、いちどきに来た穴は、すこしずつ満ちていくはずの場所に、まだぽっかりと、空いたままだった。


位は、上がった。十一から、三へ。


けれど、何か、取り返しのつかないことを、したような気がした。総量では、軽いはずだった。計算は、間違っていないはずだった。なのに灯のあの叫び方は、量では測れないものだった。


数えていたのは、量だけだった。


速さを、数えていなかった。


その違いが、何を意味するのか、私には、まだわからない。


ただ、灯が握った手を、夜になっても、離さなかったことだけが、わかっていた。


着物の裏地で、妹の燈札が、かすかに震えている気が、した。


理由は、まだ、わからない。けれど、灯の手は、まだ、ここにある。


私はその手を、強く、握り返した。今夜だけは、それで、よかった。


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