第8話 過ぎた一焚き
夜が明けても、手はつないだままだった。
障子の白さが、すこしずつ、確かな朝の色に変わっていく。灯の指は、まだ冷たい。けれど、昨夜よりは、すこしだけ、やわらかかった。
「……ねえ」
灯が目を閉じたまま、言った。
「もう、朝?」
「もう、朝」
灯はしばらく、何も言わなかった。それから、握った手を、ほんの少しだけ、強くした。手放したくない、というふうに。私も同じくらいの力で、握り返した。
それだけで、よかった。
ただ、その「それだけ」が、いつまでも続くわけじゃないことを、私は知っていた。
灯が、先に起き上がった。私の手を、すぐには放さなかった。指のあいだから、するりと抜けていくまで、すこし、間があった。その間に、私は今日のことを、考えていた。
灯には、見せなかった。考えごとは、いつも見せない。
*
位は、十一。
あれから、焚場に二度立った。挑んできた格下を、借りの術で、二度とも灯を減らさずに、退けた。だが位が動くのは、格上を、破ったときだけだ。十位の男は、太い縁糸で、二人がかりの相棒と組んでいて、借りる隙が、なかった。
惜しんで、削って、借りて――それでも、進む速さは、亀みたいだった。
灯を買い戻すまでの価は、まだ半分にも、届かない。
夜具を畳みながら、指を折って、数えた。このままの速さで、あと何年かかるのか。十一から、一まで。一段ずつ、減らして、よけて、進む。
答えが怖くて、途中でやめた。
灯の手は、もう出会った夜より、すこし、あたたかい。けれど、まだ本物の体温には、遠い。あと何年、こうして、すこしずつ、温め続ければ、追いつくのか。その算段だけは、いつまでも、答えが出なかった。
灯の指が、冷たいまま、私の頬に触れた。
「考えごと」
「べつに」
灯はそれ以上、聞かなかった。聞かないでいてくれることが、いまはありがたかった。
窓の外で、澪津の朝が、いつもどおり、始まっていた。
*
焚場へ向かう道の途中、人だかりがあった。
市場の広場で、誰かが何かを配っている。灯の手を引いて、回り道をしようとした私の足が、人垣の隙間から見えたものに、止まった。
燈札が、宙を舞っていた。
若い男が、笑いながら、それを撒いていた。集まった人たちが、争うように、手を伸ばす。男の髪は、火の色をしていた。
瞳も、おなじ色。歳のころは、二十そこそこに見える。けれど、肌に、傷も摩耗も、なかった。
位を競うほどの焚き手なら、必ずどこかに、減りの跡がある。この男には、それが一切なかった。鮮やかなまま、艶やかなまま、そこに立っていた。
胸元から、肩から、燈札が幾重にも下がっている。飾りだった。誰かの時を、見せびらかすための。
「焔」
誰かが、その名を呼んだ。歓声が、上がった。
私はその名を、知っていた。
集まった人たちの後ろに、一人、座り込んでいる老人がいた。痩せて、骨ばって、目の奥が落ちくぼんでいる。手に一枚の紙きれを、握っていた。さっき、焔に、何かを売った帰りらしかった。
その老人だけが、笑っていなかった。
焔の視線が、ふとこちらへ流れた。
灯の手を引いたまま立っている私を、見つけて、目を、すこし、細めた。歩いてくる。人垣が自然に、道を空けた。
「噂の野良か」
近くで見ると、その若さが、なお、まぶしかった。
「位十一位だって? たいしたもんだ。誰の時も借りずに」
「あんたとは、違う」
言ってから、言い過ぎたと思った。けれど、引っ込めなかった。
焔は、笑った。気を悪くした様子は、なかった。
「違わないさ。お前は自分の時を削って、俺は買った時で生きてる。それだけの違いだ。嘘がどこにある? 俺は生きてる。勝ってる。文句を言われる筋合いはない」
その声に、悪意はなかった。むしろ、温かかった。だからこそ、嫌だった。
「聖人ごっこは、いつまで続けるんだ」
焔が灯のほうへ、目をやった。灯が私の袖を、強く、握った。
「そうやって、自分を削っていれば、いつか、その子を道連れにするだけだぞ。買えばいい。誰かの時を。市場にはいくらでも、ある」
その肩越しに、まだ座り込んでいる老人が、見えた。
「あの人は」
「ん?」焔が、振り返った。「ああ。売ってくれたんだ。喜んでな」
老人は、何も言わなかった。ただ握った紙きれを、じっと見ていた。指が何度も、紙の角をなぞっている。喜んでいる手つきには、見えなかった。
周りの人たちは、誰もその老人を、見ていなかった。焔の鮮やかさだけを、見ていた。
私は、答えなかった。答える言葉が、なかった。あの人とこの男の、笑っている顔の差が、答えそのものだった。
「考えとけ」
焔はそれだけ言って、また人垣の中へ、戻っていった。撒かれた燈札を、人々が笑いながら、拾っていた。
私はしばらく、動けなかった。
灯が、袖を、もう一度、引いた。
「行こう」
その声に、押されるように、私は歩き出した。
あの男のようには、なりたくない。なりたくないのに――頭の片隅で、何かが引っかかったまま、離れなかった。一段ずつ、削って、借りて、進む。
十一から、一まで。何年も、かけて。それより、もっと速い道が、あるんじゃないか。
奪わずに。けれど、惜しまずに。
あの男のようにではなく。
*
焚場に着くと、行司の見習いが、私を、見て、すこし、表情を硬くした。
「今日は、相手選びが、できません」
「いつもそうでしょう」
「いえ……今日、申し出てきたのが、向こうからで」
見習いが、口にした名を聞いて、私は、息を止めた。
「位三位、爛です」
控えの間の奥が、ざわついた。
爛、という名を、私は噂でしか、知らなかった。一発で、決める男。長く打ち合うことを、しない。挑んだ相手が、最初の一撃で、終わるか、終わらないか、それだけの男。
「断っても、いいんですよ」見習いが、言った。「いきなり三位は、無謀だって、皆、言ってます」
断る理由は、いくらでもあった。けれど、頭の中でさっきの数字が、まだ回っていた。十一から、一まで。
一段ずつでは、何年かかるか、わからない。けれど、三位に勝てば。
一段でなく、八段。
燠なら、止めただろう。手首を、掴んで。けれど、谷は、ここから遠い。今日は、誰も、止めてくれない。
「受けます」
見習いの顔が、曇った。それでも何も言わずに、頭を下げて、行った。
控えの間で、灯が、私を見ていた。
「無謀って、言ってた」
「平気」
「平気じゃ、ないでしょう」
灯の声が、すこし、尖った。私は、答えなかった。答えれば、本当のことを、言わなければならない気がした。
砂の上に、爛が立っていた。
遠目に見ても、わかった。腕に首筋に、火傷の跡のような、爛れた色が、幾重にも残っている。古い跡もあれば、まだ赤みの残る、新しい跡もあった。一発で決める焚き方が、その身体に、刻んだ年輪だった。
燈の量も、見えた。多かった。十一位の私より、はるかに厚みがあった。位三位というだけのことはある。
けれど、私が見ていたのは、その量ではなかった。
爛れた跡だった。
一発で決める。何度も。その代償が、あの跡だ。
わかっていながら、足は止まらなかった。
*
行司の手が、上がった。
爛は、構えなかった。ただ、立っていた。胸の奥の燈が、ゆっくりと、膨らみはじめる。
大きい。これまで見たどの相手より、大きい。
惜しんでも、間に合わない大きさだった。借りてもその糸が、保たない大きさだった。
私の頭の中で、二つの数字が、並んだ。
一段ずつ、十段。それぞれに、灯から、すこしずつ、引く。
あるいは。
一発、大きく。一度だけ、灯から、ごっそり、引く。
総量で見れば、軽いはずだった。何度も計算した。十回の小さな引きより、一回の大きな引き。
引かれる回数が、すくなければ、灯の負担も、すくない。そのはずだった。
手が、止まった。
いつもなら、ここで加減を、選ぶ。今日は、選ばなかった。
胸の奥に、手を伸ばした。
いつもの、すこしずつ、ではなかった。
あるだけ、ぜんぶ。
燈が、応えた。みぞおちの底から、喉の奥まで、いちどに、熱が駆け上がる。これまでとは、違う速さだった。火が私の中を、流れるというより、爆ぜるように、満ちていく。
縁糸の向こうで、何かが震えた。
控えの間のほうへ、意識の隅が、引っ張られる。けれど、止める時間は、なかった。
爛の燈が、放たれた。
私はその瞬間、すべてをまとめて、返した。これまでで、いちばん大きい、いちばん速い、一発を。
光が、はじけた。
砂が、舞い上がる。熱風が客席の最前列まで、届いた。悲鳴とも歓声ともつかない声が、あちこちで、上がった。
爛が、膝をついた。胸の燈がほとんど、消えかけている。これまで何十人を、こうやって、沈めてきたのだろう。今日、初めて、自分が沈められた側に、立った。
「……三位、ならびに――」
行司の声が、遠く、聞こえた。
客席が、沸いた。野良が、いきなり三位を喰った。誰かが私の名を、何度も呼んだ。
勝った。
八段、いっぺんに。これで、もう何年も、かからない。
その喜びは、長く、続かなかった。
私は、立っていた。立っていたが、様子が、おかしかった。
胸の奥の感覚が、これまでと、違う。すこし軽くなる、いつものあの手応えではなかった。空っぽに近い、もっと深い穴を、覗き込んだような、感覚だった。
手の甲を、見た。
息が、止まった。
指の節が、これまでと、比べものにならないほど、ささくれている。爪の根の焦げ色が、根元から、先まですべて、覆っていた。皮が薄くなって、青い筋が透けて見える。
十六の手じゃなかった。三十の手でも、なかった。
一発で十回ぶんの年月が、私の手を駆け抜けていった。
怖い、と思った。
はじめてだった。自分の手の老いを見て、怖いと思ったのは。八年、ずっと早く減ってほしかった。
早く、軽くなってほしかった。なのに、いまはその怖さの底に、灯の顔があった。
控えの間へ、走った。
*
布をめくると、灯が、胸を両手で、押さえて、うずくまっていた。
「灯」
声を、かけた。返事が、なかった。
もう一度、布をめくる。灯の顔が、白い。これまでの、薄い透明とは、違う白さだった。
唇まで、色を失っていた。胸の奥で青白い灯が、いまにも消えそうに、ねじれて、震えていた。
これまでの、緩やかな冷えとは、違った。
何かが、急に引きちぎられたような、揺れ方だった。
「灯――」
手を、伸ばした。指が触れる前に、灯の身体が、びくりと跳ねた。
怖がらせている、と気づいて、手を引っ込めかけた。
けれど、引けなかった。いま離れたら、もっと悪い気がした。
「いた……」
掠れた声だった。
「いた、い」
その一言で、私の中の何かが、砕けた。
灯は、痛い、とは言わない子だった。冷たい、とは言っても、痛いとは言わない子だった。何年も何度も、削られてきて、それでも痛いと、口にするのを、私は聞いたことがなかった。
その子が、いま痛いと、言った。
灯の手が、私の袖をつかんだ。さっきまでとは、違う強さだった。爪が、布に食い込むほどの力だった。
「離れないで」
声が、震えていた。
「……澪が、消えるかと、思った」
私は、何も言えなかった。
灯が、また、私を、見た。冷たい目だった。けれど、いつもの、刃みたいな澄み方とは、違った。
揺れていた。怯えていた。
「何、したの」
「……一気に、終わらせようと、思った」
「だから、何」
灯の声が、尖った。これまで聞いたことのない、尖り方だった。
「私が減るのは、いい。それは、もう、知ってる。でも、いま、あんたが――」
言葉が、続かなかった。
灯は私の手を、つかんだ。さっきの、ささくれた手を。爪の根の焦げ色を、指でなぞった。
「こんなに、いっぺんに、年取って」
灯の声が、震えた。
「もう、しないで」
それは自分のために、言う言葉ではなかった。
「灯を、買い戻すために」と、私は言いかけた。
「それで、あんたが、いなくなったら」灯が、遮った。「私、何のために、生きるの」
その問いに、私は答えられなかった。
答えを、持っていなかった。
灯の指が、私の手を、強く、握った。痛いほどの強さで。私はその痛みを、受け止めた。受け止めるしか、なかった。
胸の奥の青白い灯は、まだ、揺れていた。さっきよりは、すこし、ましだった。けれど、いつもの、静かな揺れには、まだ戻っていなかった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。控えの間の隅で、二人ぶんの息の音だけが、聞こえていた。
*
長屋までの道、灯は私の手を、ずっと離さなかった。
いつもより、すこし、早足だった。私がふらつくたびに、肩で支えようとした。さっきまで、支えられていたのは、私のほうだったのに。
夕暮れの澪津が、藍色に変わっていく。今日、勝った位の数を、誰かが噂しているのが、遠くから、聞こえた。野良がいきなり三位を倒した、と。
英雄だ、と、また誰かが、言った。
その声は、もう私の胸に、届かなかった。
胸の奥に、手を当てる。残りを、確かめる。これまでと、違う、頼りない手応えだった。十回ぶんの軽さが、いちどきに来た穴は、すこしずつ満ちていくはずの場所に、まだぽっかりと、空いたままだった。
位は、上がった。十一から、三へ。
けれど、何か、取り返しのつかないことを、したような気がした。総量では、軽いはずだった。計算は、間違っていないはずだった。なのに灯のあの叫び方は、量では測れないものだった。
数えていたのは、量だけだった。
速さを、数えていなかった。
その違いが、何を意味するのか、私には、まだわからない。
ただ、灯が握った手を、夜になっても、離さなかったことだけが、わかっていた。
着物の裏地で、妹の燈札が、かすかに震えている気が、した。
理由は、まだ、わからない。けれど、灯の手は、まだ、ここにある。
私はその手を、強く、握り返した。今夜だけは、それで、よかった。




