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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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7/20

第7話 奪わずに、与えた夜

その夜、私は何も()かなかった。


長屋に戻ってからも、(あかり)は壁ぎわから動かなかった。膝を抱えて、顔を半分だけ伏せて。さっき焚場(たきば)から連れ帰った時のまま、自分の胸を、片手で押さえている。にごった一筋を、そこに閉じ込めておこうとするみたいに。


火を入れようと、私は土間にしゃがんだ。


手が、止まった。


竈に火を起こしても、私の(ともしび)は引かれない。それでも、薪を燃やせば、その熱は、部屋に満ちる。灯のいる場所にも、届く。届いた熱が、この子の冷たさを、また何かに変えてしまう気がして、私は、火打ち石を置いた。


冷たいまま、夜を過ごす。


それでいい、と思った。今夜は、私が何かを足すたびに、この子から何かがこぼれる。だったら、足さないほうがいい。


行灯にも、火を入れなかった。


月明かりだけが、破れた障子から、細く差していた。その光のなかで、灯の胸の青が、いつもより、よく見えた。澄んだ青の、その奥に絡んだ、よその色。


男の時の、ぎらついた残り滓。あれが、ゆっくり、この子の青を、内側から濁らせていく。


「……まだ、いる」


灯が、ぽつりと言った。


胸を押さえた手に、力がこもる。


「私の中に、知らない人が、まだいる。出ていかない」


私は、何も言えなかった。


言葉で、出してやれるものなら、とっくに出してやっている。けれど、私が結んで切った糸の、その切れ残りは、もう私の手の届くところには、なかった。この子の、いちばん奥にある。私が押し込んだのに、私の指は、そこまでは入らない。



夜が、更けていった。


灯は、眠らなかった。眠れない、というふうでもなかった。ただ、冷たさを抱えて、起きていた。


胸を押さえる手が、ときどき、結び目のあたりへ動く。手首の、ほどけた糸の端みたいな筋。そこが、にごった色を追い出そうとして、こまかく脈打っているのが、月明かりでもわかった。


脈打つたびに、灯の肩が、わずかに縮む。痛いのか、寒いのか。たぶん、その両方を、この子は名前で呼ばない。私と、同じだ。


私は、立ち上がった。


水でも、と思った。けれど、汲んでくる水は冷たい。湯を沸かすには、火が要る。火は、焚くことになる。


何をしようとしても、この子に、何かを足すことになってしまう。足したぶん、こぼれる。今夜の私は、与えるたびに、奪う。


手詰まりだった。


胸に手を当てる。いつもの癖で、自分の残りを確かめる。満ちている。今日も、ちゃんと減らなかった。


借りて勝ったから。その「減らなかった」が、この子の胸の濁りと、地続きになっている。私が減らずに済んだぶん、この子が、払った。


減らせるものなら、いまここで、減らしたかった。


私の燈を、削って、この子の濁りと、引き換えにできるなら。でも、縁糸(えにし)は、そういうふうには、できていない。私が焚けば、この子も引かれる。


私が減れば、この子も減る。私には、この子に、何かを「渡す」ことしか、できない。「肩代わりする」やり方を、私は持っていない。


持っていない、と思いながら。


私は、灯のとなりに、座った。



壁ぎわの、冷たい場所。


その子の隣に、肩が触れるくらいの近さで、私は座った。


灯が、すこし、身を引いた。


「……何」


「べつに」


「焚かないでよ」


「焚かない」と、私は言った。「何もしない」


ほんとうに、何もしなかった。


ただ、隣にいた。膝を抱えた灯の、その細い肩の、すぐ横に、私の肩を置いた。私のほうが、すこし、あたたかい。


焚いたからじゃない。生きている体は、ただ、それだけで、すこしあたたかい。そのあたたかさを、私は、灯の側へ、傾けた。


灯の肩から、冷気が伝わってくる。季節の違う冷たさ。けれど、私は、引かなかった。冷たさを、こちらへ受けながら、私のあたたかさを、そちらへ、ゆっくり、預けた。


奪う糸は、結ばなかった。


借りる糸も、結ばなかった。


ただ、肩と肩の触れたところで、私の体温が、この子の冷たさに、にじんでいく。それだけ。引かれもしない。


返しもしない。糸のいらない、いちばん単純なやり方。子どもでも知っている、寒い夜の、それだけのこと。


「やめて」と、灯が言った。「あんたが、冷える」


「冷えないよ」


「冷えてる。あんたの肩、さっきより冷たい」


「気のせい」


気のせいではなかった。私のあたたかさが、この子へ移ったぶん、私の肩は、たしかに、すこし冷えた。でも、それは、焚いて減るのとは、ちがう。明日になれば、戻る。


寝て、起きれば、戻る。減るんじゃない。貸すんでもない。ただ、夜のあいだ、こっちのを、そっちへ、寄せているだけ。


「これは、減らない」と、私は言った。「だから、いいんだ」


灯は、答えなかった。


けれど、引いていた肩を、ほんのわずか、戻した。私の肩との隙間が、髪一本ぶん、狭くなった。



「あんた」と、しばらくして、灯が言った。月のほうを見たまま。「なんで、こんなことするの」


「こんなこと」


「私のために、自分を、減らすようなこと」


「減らしてないって」


「焚場でも。位を上げて、私を買い戻すって、言った。あれも、あんたが、減るってことでしょう」


買い戻す。


その言葉を、この子は、ちゃんと憶えていた。本寺で、私が澱見(よどみ)に言い返した、あの言葉を。


「うん」と、私は言った。「買い戻す」


「やっぱり、減るんだ」


「減る。でも、買い戻す」


灯が、ようやく、こちらを見た。


冷たい目だった。出会った夜と、おなじ、刃みたいに澄んだ目。でも、その澄んだところの、いちばん奥で、何かが、揺れていた。


「信じない」と、灯は言った。


はっきりした声だった。


「あんたのこと、信じてるよ。あんたが、本気なのも、わかる。……でも、信じない。買い戻すなんて」


「なんで」


「これまで、私に近づいた人は、みんな、最後に、おなじことしたから」


灯は、胸の濁りを、片手で押さえた。


「やさしい顔で、近づいてきて。いっしょにいてくれて。守るって、言って。……それで、最後に、ぜんぶ、持っていった。私の時を。お前の時は、お前だけのものじゃない、って。あんたも、いつか、そう言う」


言い終えて、灯は、また、月のほうを向いた。


「奪わない人なんて、いない。みんな、奪う。あんたが、まだ奪ってないのは、まだ、そのときが来てないだけ」


その横顔を、私は、見ていた。


この子は、与えられたことが、ないのだろう。


近づく手は、ぜんぶ、最後に奪う手だった。だから、この子にとって、近づくことと、奪うことは、おなじ意味になったのかもしれない。やさしさは、奪うための、前置きだった。守るという言葉は、いちばん大きく奪う者の、合図だった。


奪わずに、ただ、与える。


そんなことを、この子は、生まれてから一度も、されたことがないのだろう。だから、信じられない。信じる材料が、この子の中に、ひとつも、ないのだろう。


言葉で「奪わない」と言っても、届かない。言葉なら、これまで奪った連中も、みんな言ったのだから。



私は、しばらく、月を見ていた。


それから、着物の、左の衿に、手をやった。


裏地のところ。八年、ずっと縫い込んだまま、誰にも見せず、誰にも触れさせず、自分でも、夜の暗がりでしか触れてこなかった、その場所に。


指が、固いものに触れた。


縫い目を、ほどく。


ほどく手が、すこし、遅かった。八年、ほどいたことのない糸だった。爪を立てて、一目ずつ、引いていく。灯が、こちらを見ているのが、横目でわかった。


札を、取り出した。


月明かりの下に、それを、置いた。私と灯の、膝のあいだに。


「これ」と、私は言った。


燈札(ひふだ)だった。古い。紙の角が、すり切れている。八年、肌につけて持っていたから、私の体の形に、すこし、反っている。


「私の妹の」


灯が、札を見た。それから、私を見た。


「妹」


(なぎ)っていう」


名前を口にするのは、久しぶりだった。声に出すと、その二文字が、思っていたより、ずっと近くに、あった。


「八年前に、死んだ。私を、生かして」


灯は、何も言わなかった。札から、目を離さなかった。


私も、その札を、見た。


八年、見るのが、こわかった。見れば、あの夜を、思い出してしまう。母が、私と凪を、火から助けて、燃えつきた夜。


残った時が、二人ぶんには、足りなかった夜。凪が、何も言わずに、自分の胸へ手を当てて、それから、その手を、私の胸へ重ねた夜。


あの子の手は、あたたかかった。次の朝、おなじ手は、もう冷たくて。私の時だけが、すこし、長くなっていた。


「これを、寺に納めれば」と、私は言った。「あんたを買い戻す価の、いくらかは、すぐ埋まる。何年も焚場で死にかけるより、ずっと、楽に」


「じゃあ、納めれば」


「納めない」


「なんで」


「これを使うことは」と、私は言った。「妹を、もう一度、殺すことだから」


灯が、札から、顔を上げた。



「凪は、最期に、自分の残りを、ぜんぶ、私に分けた」


雲が、月を、半分隠した。


光が、すこし、細くなる。それでも、私は、話すのをやめなかった。八年、誰にも話さなかったことを、いま、この子にだけ、話していた。


「足りない私の時を見て、何も言わずに、分けた。それで、自分は、燼きた。だから、この札は、妹そのものなんだ。妹が、私に、くれた時間。これを、誰かの値段に換えたら、あの子の死が、ただの数字になる。釣り合いを取るための、数になる。そんなことしたら、あの子は、二度、死ぬ」


言いながら、私は、札を、灯のほうへ、すこし、押した。


「だから、換えない。一生、換えない。あんたを買い戻すのは、これを使ってじゃない。私が、自分の手で、焚場で、稼いだぶんで」


灯は、押された札を、見ていた。けれど、手は、出さなかった。触れていいのか、わからない、というふうに。


「……見せて、いいの」と、灯が言った。「こんな、大事なもの」


「うん」


「私、燃料だよ。あんたの、いちばん大事なものを、見せる相手じゃ、ない」


その言葉を、私は、前にも聞いた。本寺の門の外で。私は、燃料だよ、と、この子は言った。あんたが、あんなこと言う値打ちなんて、ない、と。


「灯」と、私は言った。


月が、雲から、また出た。


「私、あんたの中に、知らない人を、入れた。あんたの、いちばん奥の、誰にも渡したくなかったところに。勝手に。あんたに、断りもなく」


「……それは」


「だから、今度は、私が出す。私の、いちばん奥のを」


札を、もう一度、灯のほうへ、押した。


「これは、私が、八年、誰にも見せなかったもの。触らせなかったもの。換えれば楽になるのに、換えられなかったもの。私の、いちばん奥の、いちばん、渡せないもの。それを、あんたに、見せてる」


灯の手が、膝の上で、すこし、動いた。


「奪うためじゃない」と、私は言った。「見せたいから、見せてる。あんたに、これだけは、知っておいてほしいから」



灯は、長いあいだ、札を見ていた。


手を、伸ばしかけて、止めた。それから、また、伸ばした。指の先が、札の角に、触れた。


冷たい指だった。氷みたいな指。その指で、この子は、私の妹に、そっと、触れた。


「……あったかい」


灯が、言った。


「この札。冷たくない。なんで」


私は、自分の胸を見た。


八年、氷みたいに冷たかった、妹の札。灯と糸を結んだ夜から、その氷の芯に、ひとつぶ、火がともったみたいに、ほのかに、あたたかい。理由は、知らない。ずっと、知らないままだ。


「わからない」と、私は、正直に言った。「ある夜から、急に、あったかくなった。なんでか、わからない」


「ある夜って」


「……あんたと、出会った夜」


言ってから、私は、それを、深く考えなかった。たまたまだろう、と思った。八年も冷たかったものが、たまたま、その夜から、すこし、あたたかくなった。


気のせいかもしれない。私の手が、ずっと握っていたから、その熱が、移っただけかもしれない。


それ以上は、考えなかった。考える理由が、なかった。


灯は、札に触れた指を、しばらく、そのままにしていた。冷たい指の下で、古い紙が、ほのかに、あたたかい。


その指の先で、灯の胸の、にごった一筋が。


ふっと、やわらいだ気が、した。


澄んだ青に絡んでいた、ぎらついた色。あれが、すこし、ほどけた。男の時の濁りが、薄まって、この子の青へ、溶けこむみたいに。


私は、それを、ただ見ていた。


たぶん、私のあたたかさが、夜のあいだに、すこしずつ、この子の冷たさに、にじんだのだろう。隣に座って、肩を寄せて、それだけのことを、ずっとしていたから。温めれば、冷たいものは、すこし、ゆるむ。それだけのことだと、思った。


深い意味は、なかった。


ただ、温めただけだ。



(みお)


灯が、私の名を、呼んだ。


名前で呼ばれたのは、初めてだった。出会ってから、この子は、私を「あんた」としか、呼ばなかった。


「なに」


「あんた……澪は」と、灯は、言い直した。「ほんとに、奪わないの」


「奪わない」


「最後まで」


「最後まで」


「守るって、言って、最後に、ぜんぶ持っていったり、しないの」


「しない」


「……どうして、信じられると思うの。みんな、おなじこと言ったのに」


私は、膝のあいだの、札を見た。


「みんなは、見せなかったでしょう」と、私は言った。「自分の、いちばん奥のを。奪う人は、自分のは、隠す。隠して、人のだけ、取っていく。……私は、見せた。あんたに、これを。これが、答え」


灯は、また、長いあいだ、黙った。


月が、傾いていく。夜が、いちばん深いところを、過ぎようとしていた。


「離さないでよ」と、灯が、小さく言った。


いつか、私が、この子に言った言葉だった。出会った夜、冷たい手を握って、離さない、と言ったのは、私のほうだった。それを、いま、この子が、私に言った。


「離さない」と、私は言った。


「ほんとに」


「ほんとに」


灯は、札に触れた指を、ゆっくり、引いた。引いて、その手を、自分の胸へ、戻した。にごった色のあった、その場所へ。


それから、片手で、私の肩を、すこし、つかんだ。


冷たい手だった。でも、出会った夜より、ほんの、すこし、冷たくなかった。



月が、沈むころ。


灯が、私の肩に、頭を、もたせかけてきた。


眠ったわけではなかった。起きていた。ただ、もう、身を引かなかった。


冷たさを隠さず、あたたかさを避けもしなかった。私たちは、火のない部屋で、肩を寄せて、夜の終わりを、待っていた。


胸の裏地に、私は、札を、また縫い込んだ。


縫いながら、指の先に、その熱を、感じていた。氷の芯の、ひとつぶの火。八年、冷たかったものが、いまは、ほのかに、あたたかい。


なんでか、わからない。わからないまま、私は、その熱を、手のひらで、しばらく包んだ。


灯の冷たさも、今夜は、深くならなかった。


焚かなかったから。借りなかったから。何も、奪わなかったから。


ただ、隣にいて、肩を寄せて、いちばん大事なものを、見せた。それだけ。それだけのことで、この子の濁りは、すこし、薄まった。


たまたまだろう、と思った。


寄り添えば、冷たいものは、ゆるむ。寒い夜の、当たり前のこと。深い理由なんて、ない。


障子の外が、白みはじめた。


藍が、すこしずつ、薄くなる。澪津(みおつ)の夜が、明けようとしていた。誰かの燃やした時間で、いつも少し明るかった夜が、今夜は、火の粉ものぼらないまま、静かに、終わっていく。


明るくならなかった夜だった。


でも、寒く、なかった。


「ねえ」と、灯が、肩のところで、言った。


声が、出会った夜より、やわらかかった。


「奪わないで、与えるって。そんな人、いるんだね。私、知らなかった」


「……うん」


「ずっと、いないと、思ってた。だから、自分の終わり方だけは、自分のものだって、決めてた。誰にも、渡さないって」


灯は、私の肩で、すこし、息を吐いた。白い息が、月明かりの名残のなかで、ほどけて消えた。


「でも」


その先を、灯は、すぐには言わなかった。


言うのを、こわがっているみたいだった。言ってしまえば、また奪われるかもしれない。信じて、裏切られた数だけ、この子は、その一言を、奥にしまってきたのだろう。


私は、待った。


急かさなかった。今夜の私は、何も奪わない。だから、この子の言葉も、引き出さない。出てくるのを、ただ、待つ。


白んでいく障子を見ながら、灯は、ようやく、言った。


「信じてみても、いいのかな」


肩のところで、その声が、ほどけた。


冷たい手が、私の袖を、つかんでいた。隠れるためでも、連れていかれるためでもなく。ただ、つかんでいた。


私は、答えなかった。


答えるかわりに、その手の上に、自分の手を、重ねた。冷たい手と、すこし冷えた手と。どちらも、たいしてあたたかくはない。それでも、重ねたところだけ、夜明けの寒さが、すこし、遠かった。


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