第6話 借りた時は、誰に返る
燠は、火に足すな、とだけ言った。
弟子入りが許された翌朝、谷の底で燠は私を、低い炉の前に座らせた。火はゆうべと同じに、地面すれすれで燻っている。立てず消えず、ぎりぎりのところでずっと、息をしている火だ。
「焚かずに勝つ術は、ひとつじゃない」
燠は、膝に手を畳んだまま、言った。あの大きな手を、また、ぴたりと、伏せている。
「ゆうべお前が見つけたのは、火を惜しむやり方だ。己の火を、こぼさず、永くもたせる。守りの術だな。だが、それだけじゃ、格上は崩せん。崩すには、攻めの術が、いる」
「攻めの、術」
「借りる」
燠は、火箸を取って、灰の上に、一本、線を引いた。
「己の火は、焚かん。代わりに、相手と、糸を結ぶ。お前が灯と結んでるような、太い縁じゃない。蜘蛛の糸より、まだ細い縁だ。ほんの一瞬、結んで、すぐ切る」
灰に引かれた線が、もう一本の点と、細く、つながった。
「その糸ごしに、相手の火を、引く。相手の燈で、焚く。焚いたら、糸を切って、借りたぶんを、返す。お前の燈は、一滴も、減らん」
息を、のんだ。
焚かずに勝つ。それも、攻めて勝つ。相手の火で焚いて、自分は減らない。
そんな術が、あるのか。
「いいか」
燠の声が、低くなった。火を見たまま、私を見ずに、言った。
「借りには、利息が、つく」
「利息」
「借りて、返す。そのあいだに、必ず、いくらか、こぼれる。火を移すんだ。手から手へ水を渡すのと、同じだ。零さず渡せる者は、いない。ひと借りごとに、ほんの少し、どこかへ、こぼれていく」
「こぼれたぶんは、どうなる」
「俺は、自分で、埋めてきた」
燠は、自分の手を、ひらいて、また閉じた。
「こぼれたぶんだけ、後で、自分の火を、足す。それで、釣り合う。痛いが、誰にも、迷惑はかからん。俺はずっと、独りで、借りてきたからな。糸で繋がってる相手なんざ、いなかった」
燠の目が、ほんの少しだけ、私の胸のあたりへ、動いた。縁糸の、あるあたりへ。
「お前みたいに、誰かと、太い糸で繋がってる奴が、借りたら、どうなるか。それは、俺は、知らん。独りで借りてきた俺には、わからん」
知らん、と、燠は言った。
わからん、とも。
私は、その言葉を、頭の隅に、置いた。置いただけだった。耳に入って、奥までは、届かなかった。
だって、減らずに、勝てるのだ。
焚いて勝てば、灯が冷える。焚かずに守るだけなら、位は上がらない。けれど、借りて勝てば、私の燈も灯の芯も、一滴も減らずに、位をのぼれる。
こぼれが、少しくらい、あったとして。私が自分で、埋めればいい。燠が独りで埋めてきたみたいに。
そう、思った。それだけ、思った。
*
借りの稽古に、三日かけた。
谷の底で、燠の低い火を相手に、細い縁を結んでは、切る。結ぶ加減が、難しかった。太く結べば、相手の火が、なだれ込んでくる。
細すぎれば、糸が、すぐ切れる。蜘蛛の糸より細く、けれど、切れない一瞬を、指の先で、探す。
惜しむ術とは、指の使い方が、根本から違った。あれは、火を守るために、息を殺す術だった。これは、糸を相手へ放って、すぐに、引き戻す術だ。
放つたび、指先が、見知らぬ熱の輪郭をなぞる。誰のものでもない火に、一瞬だけ、触れる感覚。何度やっても、慣れなかった。
三日目の夜に、燠が、ふん、と息で笑った。
「行け」
それだけだった。
灯の手を引いて、谷を出た。焚場へ向かう道を、灯は、私の少し前を、歩いた。袖の端を、軽く、つかんでいる。隠れるためじゃなく、ついてくるための、つかみ方だった。
「ねえ」と、灯が、前を向いたまま、言った。「今日は、焚くの」
「焚かない」
灯が、振り返った。青白い灯が、夜の道で、ぼうと滲んでいる。
「ほんとに」
「ほんとに。今日は、私も、あんたも、減らない。そういう勝ち方を、覚えたんだ」
灯は、しばらく、私を見ていた。それから、また前を向いて、袖を、ほんの少し、強く、つかんだ。
澪津の焚場が、篝火を立てて、待っていた。
*
相手は、位十一位。
一段ずつ挑んでいては、何年かかるかわからない。借りの術さえあれば、格上にも、届く。そう思って、名乗りを上げた相手だった。
砂の上に立ったその男を見て、私は、一度、息を整えた。
時を、買っている男だった。
燈の薄い者から安く時を買い集め、鎧のように体に巻いている。胸の燈の周りに、買い集めた時が幾重にも、層になって巻きついていた。色の違う時が何枚も。
誰かの一年、誰かのひと月。それを寄せ集めて、厚く厚く自分を守っている。
焚いて崩そうとすれば、こちらが先に、燃え尽きる。それだけの、層だった。
控えの間の、灯を、振り返った。布の陰で、青白い灯が、揺れている。
「すぐ、戻る」
灯は、何も言わなかった。ただ、私の袖を、最後に一度、つかんで、離した。
砂の上へ、出た。
行司が、合図を上げる。男が、買った時の層を、ひとつ、剝いで、焚いた。熱の塊が、砂を割って、こちらへ来る。
私は、焚かなかった。
胸の奥の、小さな燈に、手を伸ばさない。代わりに、男のほうへ、糸を、投げた。蜘蛛の糸より細い縁を、男の、巻いた時の層の、いちばん外側へ、そっと、結ぶ。
結んだ。
糸ごしに、男の火が、伝わってくる。買い集めた、他人の時の、雑多な熱。それを、一瞬だけ、引いた。
私の燈は、焚かない。引いた男の火で、焚く。
光が、移った。
男の胸から、糸を伝って、私の手のひらへ。男が焚こうとした熱が、行き場を変えて、こちらへ流れ込む。私はそれを、男自身へ、撃ち返した。男の火で、男を、焚く。
糸を、切った。
借りたぶんは、糸が切れる刹那に、男へ、返る。
男の、巻いた時の層が、内側から、崩れた。買い集めた他人の時が、いちどに、ほどけて、砂の上へ、散った。男が、膝をつく。位十一位の鎧が、ひと呼吸で、剝がれ落ちた。
行司が、私の名を、呼んだ。
砂の上に立ったまま、私は、胸に、手を当てた。
残りを、確かめる。
軽く、なっていない。
みぞおちの奥の、小さな燈が、戦う前と、同じ重さで、そこにある。一滴も、引かれていない。焚いて勝ったときの、あの、ひとつ軽くなる手応えが、ない。
私は、笑いそうになった。
勝ったのに、減っていない。私が減らないなら、灯も減らない。私たちは、繋がっているのだから。
今度こそ、誰も、減らずに済んだ。
焚いて勝てば灯が冷える、あの道から、やっと降りられた。買い戻すまで、もう、あの子を凍らせなくていい。位は、十一。
次は、十。減らさずに、買い戻す。
そういう道が、あったんだ。
控えの間へ、駆け戻った。灯に、見せたかった。今夜は、お前も、減っていないと。
*
布をめくって、息が、止まった。
灯が、おかしかった。
量は、減っていない。それは、ひと目で、わかった。青白い灯の、大きさは、来たときと、同じだ。
芯も、細くなっていない。一日ぶんも、凍っていない。
なのに。
澄んだ、青のなかに。
一筋、にごった色が、絡んでいた。
灯の灯は、いつも底まで澄んだ青だった。冷たくて静かで、混じりけのない青。その青の中に、見たことのない別の色が、糸のように入り込んでいた。にごって雑多で、どこか買い集めた時の層に似ている――あの、位十一位の男の色に。
灯が、自分の胸を、両手で、押さえていた。
「なに、これ」
声が、細かった。
「澪。これ、なに」
「灯」
「私の中に、いる」
灯の手首が、ざわついた。喉の結び目のあたりが、ひくり、ひくりと筋を立てた。あの、はじめて会った夜に見た結び目だ。
灯が自分の終わりを、自分のものとしてしまっておく、その印。にごりを追い出そうと、幾度もひくついている。
「知らない人が」
灯が、自分の胸を、掻くように、押さえた。
「知らない人が、私の中に、いる。出ていかない。押しても、出ていかない」
私は、灯の前に、膝をついた。
わからない。私は、焚いていない。私の燈は、一滴も、減っていない。なのに、なぜ、灯の中に、知らない男の色が。
考えて、考えて。
遅れて、燠の声が、奥まで、届いた。
借りには、利息がつく。借りて返すあいだに、必ず、いくらか、こぼれる。
お前みたいに、誰かと太い糸で繋がってる奴が、借りたら、どうなるか。それは、俺は、知らん。
わかって、しまった。気づきたくなかったことに。
こぼれは、あった。借りて、返すあいだに、たしかに、こぼれた。けれど、そのこぼれは、男には、返らなかった。私にも、返らなかった。
私には、縁糸が、ある。
灯と私を、ほどけそうにない結び目で繋いでいる、あの糸が。こぼれた利息は、その糸を伝った。私を素通りして。まっすぐ、いちばん奥の、いちばん深いところへ。
灯の中へ。
全部、灯に、回っていた。
私は、減らずに済んだんじゃ、なかった。灯が、肩代わり、していたんだ。私が一滴も減らなかったぶん、こぼれた他人の時を、全部、この子が、引き受けていた。
量は減らない。代わりに、見ず知らずの男の、にごった色を、いちばん澄んだところへ、流し込まれて。
燠は、独りで借りて、独りで埋めた。だから、済んだ。私は、繋がっている。だから、灯に、回った。
減らすより、酷いことを、した。
灯は、ずっと、言っていた。私の終わり方だけは、私のものだ。誰にも、渡さない。
最後くらいは、自分で。あの路地で、はじめて会った夜から、この子が、たったひとつ、握りしめて、守ってきたもの。自分の終わりを、自分だけのものに、しておく、こと。
その、たったひとつの奥に。誰にも触らせなかった、芯のところに。
私が、良かれと思って、見ず知らずの男を、押し込んだ。
減らさないために、借りた。その縁が、結局、この子のいちばん渡したくないものを、勝手に貸しに出していた。
「灯」
声が、うまく、出なかった。
「ごめん。私が」
灯が、顔を、上げた。青のなかのにごりが、まだ、消えていない。手首の筋が、まだ、ざわついている。
灯は、私を、見た。それから、首を、横に、振った。
「あんたは」
灯の声が、震えた。
「あんたは、悪く、ない」
その言葉が、いちばん、こたえた。
「あんたは、私を、減らさないように、したんだ。わかってる。今日は、焚かないって、言った。ほんとに、焚かなかった。私を、凍らせないように、減らさないように、いっしょうけんめい、考えて。それで、こうしたんだって、わかってる。だから、あんたは、悪くない」
灯が、自分の胸を、押さえた手に、力を、込めた。
「悪くないんだ。……でも」
でも、のあとが、続かなかった。
灯は、口を、開いて、閉じた。何度か、言葉を、探して、見つけられずに、唇を、噛んだ。
言いたいことは、わかった。言えないことも、わかった。やさしさの裏で、いちばん渡したくないものを勝手に、貸しに出された。減らされたなら怒れた。
けれど、これは怒れない。私が、この子のためにしたことだから。怒れないことが、いちばんこたえる顔を、灯はしているように見えた。
でも、のあとを、私は、引き取れなかった。
*
長屋までの帰り道、灯は、私の前を、歩かなかった。
後ろにも、いなかった。すこし離れて、横を、歩いた。袖を、つかみもしなかった。
布の下で、青い灯が、揺れている。その中の、にごった一筋は、夜のあいだじゅう、消えなかった。出ていく気配も、なかった。
ついてくるための、あの袖のつかみ方が、今夜は、どこにもなかった。
*
その夜、長屋で、灯は、ずっと、自分の胸を、押さえていた。
にごりは、夜が更けても、消えなかった。手首と喉の結び目が、ときどき思い出したようにひくついて、にごりを奥へ追い出そうとしては、追い出しきれずに、また収まる。
私は、灯の隣に、座っていた。何も、できなかった。胸の燈に、手を当てる。
減っていない。一滴も、減っていない。
減っていないことに、指先が、冷えていく。
焚いて勝てば、灯が減る。焚かずに勝てば、灯が、見ず知らずの時を払う。
どっちの道も、結局、灯が払っている。
私が勝つたびに、この子の、いちばん奥が、削れていく。芯を削るか、奥を濁すか。勝ち方を変えても、払うのは、いつも、この子だった。
胸の左の奥で、妹の燈札だけが、今夜も冷たくない。すべてが冷えて濁っていくこの夜に、それだけが、ひとつ逆を向いて、ほんのり温かい。
なぜ、それだけが、温かいのか。考える気力は、なかった。
借りた時は、誰に、返るのだろう。
男から借りて、男へ返したつもりだった。こぼれたぶんは、私が埋めるつもりだった。なのに、返り先は、私でも、男でもなかった。
糸の、いちばん遠い端。私が、いちばん減らしたくなかった、ところ。
焚いても、焚かなくても、灯が払う。それだけが、変わらなかった。
どこにも、出口が、なかった。
隣で、灯が、小さく、息を、吐いた。胸を押さえた手の、指の間から、青白い灯が、にごりを抱えたまま、ぼうと、滲んでいた。




