第5話 師の、畳んだ手
位を、三つ上げた。
あれから、焚場に三度立った。三度とも、勝った。位は、十九から、十六へ。買い戻しの道を、たしかに、のぼっている。
のぼるたびに、灯が冷えた。
勝った夜は、いつも同じだった。位がひとつ上がるたびに、この子は、ひと冬ぶん、凍っていく。
胸の左の奥で、妹の燈札だけが、なぜか冷たくない。それだけが、いつも、逆を向いている。
三度目の勝ちの帰り道、私は、足を止めた。
このまま勝ち続ければ、買い戻すころには、この子は、私が勝ったぶんだけ凍りついている。救うために、減らしている。
焚いて勝つかぎり、この道は、ずっと、こうだ。
だから、別の道を、探さなきゃいけなかった。
焚かずに、勝つ道を。
*
行司見習いの若いのが、谷の名を教えてくれた。
あの晩、焚場の裏で、火の始末を手伝っていた子だ。私が「焚かないで勝つやり方を知らないか」と聞くと、しばらく口ごもってから、町外れの谷を指した。
「焚くのをやめた焚き手が、いるって。誰も会いに行かないけど。……行っても、追い返されるって、みんな言う」
名は、燠。
その晩のうちに、灯の手を引いて、谷へ向かった。ひとりにはできない。それに、この道がもし見つかるなら、いちばん先に、この子に見せたかった。
澪津の灯りが背中で遠くなって、道は、だんだん細くなった。谷へ降りるころには、篝火の名残も届かない、本物の闇になった。
その底に、ぽつんと、火があった。
低い。地面すれすれの、ちいさな火。炉というより、灰の窪みに炭を一片、埋めただけのような火だった。
今にも消えそうなのに、消えない。ぎりぎりのところで、ずっと燻っている。
火のそばに、人がいた。
猫背の、老いた男だった。
近づいて、息が、止まりかけた。胸の奥の燈が、見たことのない量だった。低く、暗く、けれど、底の知れない厚みで、燻っている。
熾火だ、と思った。火を立てず、灰の下で、ずっと熱を抱えている、あの火。これだけの燈を抱えて、この男は、ひと滴も、立てずにいる。
歳が、おかしかった。焚き手は、焚けば焚くほど老いる。だから、強い焚き手ほど、早く死ぬ。
なのにこの男は、誰よりも厚い燈を抱えたまま、誰よりも、老いていた。焚かなかったから、ここまで生きた。生きてしまった、という背中だった。
男は、私たちを、見もしなかった。
膝の上に、両手を置いている。大きな手だった。節の太い、力のありそうな手。
あれだけの燈と、あの手があれば、どんな焚きでも成しただろう。その手を、男は、ぴたりと膝に畳んで、動かさなかった。
「帰れ」
火を見たまま、男が言った。乾いた声だった。言葉まで、惜しんでいるみたいな。
「弟子なら、取らん」
「弟子にしてくれと、まだ、言ってない」
男の目が、初めて、こちらへ動いた。私を見て、それから、私の後ろに半分隠れた灯を見て、私の胸のあたりを、見た。縁糸を、見ているのだ、とわかった。灯と私を結ぶ、あの糸を。
男は、ふん、と、息だけで笑った。
「焚いて勝ってきたな。手を見ればわかる。その若さで、爪の根まで、焦げてる」男は、また火へ目を戻した。「で、減らした相手を、後ろに連れて、のこのこ来た。焚くのが怖くなったか」
「焚かずに勝つやり方を、知りたい」
「ない」
「あんたは、焚かずに、そこまで生きてる」
「生きてる、と言うか」
男は、低く埋めた炭を、火箸で、もうひとつ、灰の奥へ押し込んだ。火が、いっそう低くなる。
「俺はな」と、男は言った。「お前くらいの奴を、何人も、埋めた」
火が、ぱち、と鳴った。
「眩しいのが、来るんだ。お前みたいなのが。焚いて、焚いて、まぶしく勝って。位をのぼって。それで、のぼりきる前に、燃え尽きて、死ぬ。俺はそれを、見送る係だ。何人も、見送った。だから、取らん。もう、埋めるのは、たくさんだ」
名を、いくつか、漏らした。
低くて、乾いていて、聞きとれなかった。けれど、それが死んだ者の名だと、声の沈み方で、わかった。男は、その名を、舌の上で転がすみたいに、ひとつずつ、置いた。
喪服を着ているみたいだ、と思った。素っ気なさが、そのまま、喪の鎧になっている男だった。
帰ろうか、と、一瞬、思った。
でも、後ろで灯が、私の袖を、すこし強く握った。
*
「ひとつだけ」と、私は言った。「試してくれないか」
男は、答えなかった。
「あんたの炉を、ひと晩、預からせて。夜明けまで、絶やさずに、生かしてみせる。それができたら、教えて。できなかったら、帰る。二度と来ない」
男は、長いこと、火を見ていた。それから、ゆっくり、立ち上がった。立つだけで、関節が、軋む音をたてた。
「いいだろう」
男は、私と、炉のあいだを、空けた。
「夜明けまで、この火を、絶やすな。条件が、ひとつ」
火箸を、私の足元へ、投げた。
「焚いて、足したら、負けだ」
息が、詰まった。
「お前の燈から、この火へ、一滴でも注いだら、そこで終わり。お前ら焚き手は、火が消えそうになると、すぐ、自分を燃やして足す。それしか、知らんからな」男は、火から離れ、暗がりの岩へ、腰を下ろした。「焚かずに、火を生かしてみろ。できるなら」
炉のそばに、私だけが、残された。
火は、もう、消えかけていた。
炭は、灰をかぶって、芯のところが、かろうじて、赤い。放っておけば、四半刻ももたない。いつもの私なら、なんでもない。胸の奥に手を伸ばして、ひと焚きすれば、火など、すぐに立つ。
でも、それを、しちゃいけない。
手を伸ばしかけて、止めた。焚けば、灯から引かれる。この試しのために、この子を、また凍らせるなんて、ばかげている。
それに、焚いて足すなら、誰にだってできる。男が見たいのは、そこじゃない。
じゃあ、どうやって、火を生かす。
火に、足すんじゃなく。
火を、惜しむ。
しゃがんで、火に、顔を近づけた。熱の在りかを、探す。灰の下の、いちばん赤いところ。
そこへ、息を、細く、長く、吹いた。強く吹けば、消える。弱すぎれば、届かない。
芯の赤が、ふっと、濃くなる。生きている。まだ、生きている。
灰を、指で、そっと掻いた。熱がこもって、外へ逃げないように、炭を、寄せる。燃えさしを、赤い芯のそばへ、組む。新しい炭を足すんじゃない。
今ある熱で、次の炭に、火を移らせる。熱を、こぼさない。一滴も、こぼさない。
指先が、すぐに、焼けた。
火箸を使えばいいのに、感覚が、つかめない。素手で炭を組んで、爪のあいだに、灰が入って、指の腹が、ひりつく。火傷の小さな水ぶくれが、いくつもできた。汗が額から顎をつたって、火のそばの地面に落ちて、すぐ乾いた。
それでも、燈は、減らない。
胸の奥は、軽くならない。縁糸の向こうの、灯の冷たさは、深くならない。手のひらは焼けて汗だくで、節々が痛むのに。減らしているのは、私の肉と汗と、ひと晩の眠りだけ。
燈は、一滴も、引かれていない。
こんな勝ち方が、あったのか。
夜の真ん中で、私は、ひとり、笑いそうになった。焚かずに、火を生かしている。誰の時も、引かずに。灯の芯も、私の燈も、今夜は、減っていない。
*
暗がりの岩に、男は、ずっといた。
眠っているのかと思った。けれど、ときどき、男の手が、動いた。
私の火が、危ういとき。息を吹くのを、ひと呼吸、遅らせたとき。芯の赤が、すうっと細くなって、消えそうになる。その瞬間に、男の畳んだ手が、ひらいた。
ほんの、すこし。
膝の上で、指が、開きかける。胸の奥の、あの厚い熾火へ、手が、伸びかける。あれだけ「焚くな」と言った男の手が、私の火が消えそうになるたびに、焚こうと、ひらきかけるのだ。
止める。
老いた力を、ぐっと、しならせて、引き戻す。指を、また、膝に畳む。何事もなかった、という顔で、火を見ている。
一度じゃなかった。私の火が危ういたびに、男の手は、ひらいて、畳まれた。私が息を吹き返らせると、男の手も、収まる。私の火と、男の手が、糸で繋がっているみたいだった。
私は、息を吹きながら、その手を、ずっと、見ていた。
徹夜の頭の、底のほうで、何かが、繋がっていく。
この男は、焚くのを、やめた。惜しんで、惜しんで、ここまで生きた。けれど、火が消えそうになると、その手が、焚こうとする。やめたはずなのに。
体が、覚えているんだ。
焚きたい、と。
もう一度、あの熾火を、思いきり、燃やしてみたい、と。
空が、灰色になりはじめた。
炉の火は、消えなかった。
私の手も、私の燈も、減らさずに、ひと晩、生きていた。火傷だらけの手で、私は、最後の燃えさしに、赤を移した。夜明けの光が、谷の底へ、ひとすじ、差した。
男が、立ち上がった。火を覗き込んで、低く、唸った。
「焚かずに、生かしたか」
「教えて」と、私は言った。「焚かずに勝つ、やり方を」
男は、答えずに、私から、目を逸らした。
逸らしたその目が、火を、見た。一晩じゅう、消えそうで消えなかった、低い火を。男の手が、また、ほんのすこし、ひらきかけた。
今度は、私が、それを見ていた。
「あんた」
私は、言った。
「ほんとうは、焚きたいんだ」
男の手が、止まった。
「ずっと、焚きたいんだ。やめたんじゃない。我慢してるんだ。火が消えそうになると、あんたの手は、いつも、焚こうとする。一晩じゅう、そうだった。私の火を、あんたが、焚いて助けたくて、しょうがなかった」
男は、何も言わなかった。畳んだ手を、見下ろしていた。
「長く生きてるんじゃ、ないんだね」
声が、すこし、震えた。けれど、言いきった。
「長く、死にぞこねてるんだ。私と、逆向きの、同じだ」
火が、ぱち、と鳴った。
男の背中が、すこし、丸くなった。喪の鎧の、継ぎ目が、ひとつ、外れたみたいに。
「……俺は」と、男は言った。乾いた声が、初めて、ほどけた。「俺は、生きることが、こわい。焚けば、楽になるのは、知ってる。ひと焚きすれば、この長すぎる時間が、すこしは、短くなる。なのに、できん。惜しくて、できん。気がつけば、埋める者ばかり、増えていた」
男は、自分の手を、ひらいて、閉じた。
「焚きたい、よ。本当は。だが、もう、焚き方を、忘れた」
*
炉の火が、低く、燻っている。
その低い火を、囲んで、三人、いた。
焚いて、消えたかった私。惜しんで死にぞこねた、この老いた男。路地の隅で自分の芯を、静かに細めていた、灯。
みんな、生きるのが、こわかった人たちだ。
みんな、別々のやり方で、自分を、やめようとした人たちだ。それが、夜明けの谷の、低く燻る火のそばに、なぜか、寄り集まっている。
あの路地で、私は、死にたがりが、ふたりだと思っていた。
いまは、三人だった。
男が、火箸を、私に、握らせた。
「教えてやる」と、男は言った。「焚かずに勝つ術を。火に足さず、火を惜しむ。お前が今晩、ひとりで、見つけたやつだ。あれを、技にする」
「ありがとう」
私は、火箸を、握りなおした。それから、もう一度、男の畳んだ手を、見た。
惜しむ、ということ。焚かずに、永く生きる、ということ。男の信条が、ひと晩で、私の体に、染み込んでいた。焚かなくても、勝てる。
減らさなくても、いい。誰の時も引かずに、生きていける。その術が、たしかに、甘い。
甘くて、すこし、こわかった。
このまま、惜しんで、惜しんで、生きたら。私も、いつか、この男のようになる。厚い燈を抱えたまま、焚かずに、誰よりも長く、死にぞこねて。喪の鎧を着て、谷の底で、消えそうな火を、独りで、見ている。
それは、もうひとつの、私の行き先だった。
「術は、もらう」と、私は言った。「でも、生き方は、もらわない」
男が、こちらを見た。
「焚かずに勝つやり方は、覚える。けど、惜しんで、永く生きるのは、しない。私は、惜しむために、生きるんじゃない。この子を、買い戻すために、勝つだけ。買い戻したら、その先のことは、その先で、決める」
男は、しばらく、私を見ていた。それから、私の胸の、縁糸のあたりへ、目を落とした。灯と私を、ほどけそうにない結び目で、繋いでいる、あの糸へ。
「お前は」と、男は言った。「減らせんものを、持ってるな」
答えなかった。答えなくても、男には、見えているらしかった。
「俺には、それが、なかった。繋がる相手が、いなかった。だから、惜しんで、独りで、生き残った」男は、火へ、目を戻した。「お前は、違う道を、行けるかもしれん。来い。教えてやる」
弟子入りが、許された。
*
谷を出るころには、日が、すっかり昇っていた。
灯は、私のすこし前を、歩いていた。後ろじゃなく、前を。
私は、自分の手を、見た。火傷だらけで、汗が乾いて、ひりひりしている。けれど、ゆうべより、年寄りに近づいては、いなかった。
爪の根の、焦げ色も、増えていない。今夜は、一度も、焚かなかったから。
胸の奥へ、意識を向けた。縁糸の向こうの、灯の冷たさを、探す。
深くなって、いなかった。
昨日より、ひと冬ぶんも、凍っていない。今夜は、この子の芯を、一滴も、削らなかった。位は上がっていないけれど、灯は、一日も、短くなっていない。
そういう夜が、あるんだ。
前を歩く灯が、振り返った。青白い灯が、朝の光の中で、ゆうべと、同じ細さのまま、揺れている。減って、いない。
「次は」と、私は言った。
灯が、こちらを見ている。
「次は、焚かずに、勝つ」




