第4話 勝つほど、君が減る
勝つのが、怖い。
そんな夜が来るなんて、八年のあいだ、一度も思わなかった。
控えの間の隅に、灯を座らせる。頭から古い布をかぶせて、顔を隠して。板壁のむこうで、すり鉢の客席が、地鳴りみたいにどよめいている。今夜の焚場も、端まで埋まっているらしい。
「ここにいて。すぐ戻るから」
灯は膝を抱えたまま、布の陰から私を見上げた。その目だけが、青白く澄んでいる。
「……来なくていいって、言ったのに」
「長屋に、ひとりにはできない」
ほんとうの理由は、口にしなかった。ひとりにすれば、この子はまた、自分の灯を細めはじめる。あの路地で見た、静かな消し方で。
だから、目の届くところに置いておきたい。縁糸でつながっていても、姿が見えないと、落ち着かなかった。
胸の奥で、灯の灯が、ちりちりと冷たい。縁糸を伝って、その冷たさが、私の燈のすぐ隣に座っている。今夜から、私が焚けば、この子からも引かれる。私が勝つたびに、この子は、私といっしょに、すこしずつ減っていく。
だから、決めていた。
今夜は、できるだけ焚かずに勝つ。いちばん小さい火で、さっさと終わらせる。この子から、一滴でも余分に引かないように。
行司の声が、私の名を呼んだ。
「次――野良、澪。対するは、位十九位、燻」
布の上から、灯の肩に、いちど触れた。それから、砂の上へ出た。
*
篝火の熱が、頬を撫でた。
すり鉢の底へ降りていくと、客席のどよめきが、いちだんと大きくなる。野良が、いきなり十九位へ挑む。賭けの札は、今夜も私のほうが分が悪いはずだった。
燻は、もう砂の上にいた。
大柄ではない。私より、すこし背が高いくらい。歳は四十か、五十か。痩せていて、目だけが、底光りしている。
胸の奥の燈は、小さかった。位のある焚き手にしては、驚くほど小さい。けれど、その小ささが、かえって油断ならなかった。
位十九位、燻。十年、この位を守っているという。客の話では、一度も大きく焚いたことがない。
挑んでくる若い焚き手が、勝とうとして焚いて、焚いて、自分の時を使い果たすのを、ただ待つ。そうやって、十年、壁であり続けた男だった。
惜しむ焚き手。減らさないことを、勝ちにする焚き手。
私とは、逆の生き方だ。
行司の手が、上がった。
燻は、動かなかった。両手を、だらりと下げたまま。私が焚くのを、待っている。
焚かせて、消耗させて、それから、最小の一発で仕留めるつもりだ。十年、そうやってきたように。
乗るものか、と思った。
私は、足を使った。砂を蹴って、左へ回る。燻の正面を外して、横手から間合いを詰める。焚かない。
まだ、焚かない。灯から引かないために、この一戦だけは、火を惜しむ。私が、いちばん苦手なやり方で。
燻の目が、すうっと細くなった。
間合いが詰まる。私は腕を振った。火じゃない。握っていた砂を、男の目元へ投げた。
燻が、わずかに顔をそむける。その一瞬を、もらう。はずだった。
もらえなかった。
燻の胸の燈が、ほんの少しだけ、膨らんだ。掌のうえに、豆粒ほどの火が灯る。それを、無造作に、私の足元へ落とした。
砂が、爆ぜた。
大きな火じゃない。私を焼くための火ですらない。ただ、私の体勢を崩すだけの、必要なぶんの、小さな火。私は横へ跳んで、それをよけた。
よけながら、わかってしまった。この男は、一発も、無駄にしない。私が砂を投げたぶんの労力さえ、向こうは火ひとつで返してくる。
長くなる。
背筋が、冷たくなった。燻は焦らない。私が小出しに焚くのを待って、すこしずつ、すこしずつ、削ってくる。私が小出しに焚くたびに、灯から、引かれる。
胸の奥の、青白い冷たさへ、ちらりと意識が向いた。
仕方なく、私は焚いた。小さく。指先ほどの火を起こして、燻の足元へ返す。
みぞおちの奥が、ぽっと熱くなって、そのぶん、すぐに、縁糸の向こうが冷えた。控えの間のほうで、布をかぶった小さな影が、肩を縮めたのが、見えた気がした。
また焚く。燻が動く。私が返す。
一発ごとに、私の胸が軽くなって、一発ごとに、灯の冷たさが、深くなる。手の甲を見なくても、わかった。指がまた、強張りはじめている。
これだ。この男は、こうやって相手を殺す。自分はほとんど減らさずに、相手にだけ、焚かせ続ける。
私はいつもなら、それでよかった。いくら焚いたって、減るのは私だけ。むしろ、望むところだった。
でも、今夜は。
焚くたびに、灯が減る。
長引かせれば長引かせるほど、この子の冷たさは、深くなる。小出しの勝負は、私には、いちばん高くつく勝負だった。
決めなきゃいけない。
じわじわ削られて、何十発も焚いて、灯をすこしずつ凍らせていくか。それとも、一発で、終わらせるか。
一発で終わらせるには、大きく焚くしかない。この男の壁を、一息にぶち抜くだけの、大きな火を。その一発は、灯から、どっと引く。けれど、長引かせるより、引かれる総量は、すくないかもしれない。
たぶん。
わからない。けれど、ぐずぐずしている時間のほうが、この子には、毒だった。
私は、足を止めた。
燻の目が、初めて、わずかに動いた。野良が、逃げるのをやめた。向かってくるつもりだ、と読んだのだ。
男の胸の燈が、ようやく、本気の大きさに膨らみはじめる。十年ぶりの本気なのか、それとも、いつものことなのか。どちらでもよかった。
私は、胸の奥に手を伸ばした。
私の燈は、小さい。芯がほそい。それでも、焚き方さえ間違えなければ、必要なぶんだけは燃える。
燃やす。
いつもより、ずっと深く。みぞおちの底から、肋骨を割って、火が噴き上がってくる。何年ぶんだろう、なんて、いまは数えない。指先まで火が通って、熱が、目の裏まで届いた。
縁糸の向こうが、ぐっと冷えるのが、わかった。引いている。この子から、いま、どっと引いている。
ごめん、と胸の中で言った。
燻が、火を放った。男の十年分の本気が、まっすぐ私へ落ちてくる。私は、燃やした火を、握りしめた。男の火が、私を捉えるその一点へ、真上から、押し込んだ。
ぶつかった二つの火が、行き場をなくして、上へ抜けた。
篝火より高い火柱が、燻の足元から、まっすぐ立った。
ここで、止めればよかった。勝ちは、もう決まっていた。
いつもの私なら、もう一度、焚いていた。要らないひと押しを。火柱を二倍にして、胸の奥を、もうひとつ軽くして。止めなくていい理由なんて、いつだって、すぐ見つかる。
手が、その動きを、覚えていた。胸の奥へ、もう一度、伸びかけて。
……だめ。
止めた。伸ばしかけた手を、引いた。
もう一発焚けば、そのぶん、灯が引かれる。この子を、これ以上、凍らせるわけにはいかなかった。
火柱が、勝手に、しぼんでいく。私は、その一発を、焚かなかった。生まれて初めて、止めなくていい場所で、自分の火を、止めた。
砂煙が晴れる。燻は、片膝をついていた。胸の燈は、半分も残っていない。十年守った壁が、一度の取りこぼしで、大きく欠けていた。
「……勝負あり。位十九位、ならびに、野良、澪、勝ち名乗り」
行司の声が、遠く聞こえた。
客席が、爆発した。野良が、十年の壁を抜いた。英雄だ、と誰かが叫ぶ。
位が、ひとつ、私のものになる。買い戻しまでの長い道の、はじめの一段。
誰かが、もう一度、叫んだ。生きろ、と聞こえた気がして、胸の奥が、ひとりでに、そっちへ伸びかけた。もし、勝ち続けたら。
位をのぼりきって、灯を買い戻して、それでも私に時が残っていたら。来月も、その次の月も、灯と二人で、なんでもない朝を。
その「もし」を、私は、ほんの一瞬、見てしまった。
見て、すぐに、消した。
勝てば勝つほど、灯は減る。私が長く生きたいと願うほど、この子の時は、短くなる。私の「来月」は、この子の今日を焚いて、できている。
望んじゃいけない。望むことが、いちばん、この子を凍らせる。
勝った。
のぼっていく火の粉を、私は見ていた。胸の奥は、いつものように、軽い。ひとつ、ちゃんと減った。
なのに、肩の力は、抜けてこなかった。
*
控えの間へ戻る足が、急いていた。勝ち名乗りの声も、客のどよめきも、もう耳に入らなかった。
布をかぶった小さな影は、隅に、さっきと同じ姿で座っていた。
よかった、と思って、近づいて、足が、止まった。
灯の周りの空気が、来たときより、冷たかった。
布をめくる。その顔が、白い。白いというより、透けていた。
胸の青白い灯が、薄い皮膚を通して、前よりも、ぼうと滲んで見える。私が焚場で燃やしたぶんだけ、この子の灯は、たしかに、細くなっていた。
灯が、私を見上げた。
「……勝ったんだ」
責める声じゃなかった。ただ、知っている、という声だった。布の下で握っていたらしい指に、震えた跡が、まだ、残っている。さっき私が大きく焚いたあの瞬間を、この子は、控えの間の隅で、いちばん近くで、いちばん冷たく、受け取っていたのだ。
「勝ったよ」と、私は言った。声が、うまく出なかった。「位、ひとつ上がった。これで、ちょっとだけ、近づいた。あんたを、買い戻すのに」
灯は、しばらく黙っていた。それから、私の右手へ、目を落とした。
「……手」
言われて、私も、自分の手を見た。
手の甲の皮が、乾いて、突っ張っている。爪の根が、焦げ色をしている。指の節が、ささくれて。
十六の娘の手じゃなかった。さっきの一発で、また、年寄りの手のほうへ、近づいていた。
「あんた、自分のことばっかり」
灯の声が、すこし、尖った。
「私が減るのは、いいよ。慣れてる。私は、そういうものだから。でも、あんたの手が、そうやって、どんどん古くなっていくの」
そこで、言葉が途切れた。
灯は、自分が何を言いかけたのか、自分で気づいたらしい。私のために、声を尖らせたことに。慌てて、膝のあいだに、顔を半分、伏せる。
私は、笑おうとした。いつもの、肩の力が抜けるときの笑みを。でも、うまくいかなかった。
この子は、自分が凍っていくことには、文句を言わない。慣れている、と言う。燃料だから、と言う。
けれど、私の手が古くなることには、声を尖らせる。自分の減りよりも、私の減りを、痛がる。
反対だ、と思った。私とこの子は、いつも、反対を向いている。私はこの子のために減りたくて、この子は私のために減らせたくない。同じ一本の糸の、両端で、おたがいの心配ばかりしている。
「ねえ」と、私は言った。「私の手のことは、いいの。これは、私が、好きで使ってるだけだから」
「好きで、古くなる人なんて、いない」
「いるよ。ここに」
灯は、それきり、何も言わなかった。けれど、伏せた顔のむこうで、青白い灯が、にじむように、ほんのすこし、揺れたのが見えた。怒っているのか、こわがっているのか、それとも違う何かか。名づけられない揺れ方だった。
*
胸の、左の奥。
着物の裏地ごしに、妹の燈札へ、指で、そっと触れた。
今夜も、こんなに焚いたのに。灯を、こんなに凍らせたのに。
その札だけは、冷たくなかった。
八年、ずっと氷だったはずのそれが、いまも、かすかな熱を持っている。あの夜、灯の手を握ってから、この札に灯った、ひとつぶの火。氷の芯に、小さな種火が、まだ消えずにいる。
まわりのぜんぶが、私の焚いたぶんだけ冷えていくのに。灯が、私の勝ちのぶんだけ凍っていくのに。なぜ、これだけが、逆を向いて、あたたかいんだろう。
今夜も、わからなかった。妹の名前を、胸の奥で、呼ぶともなく呼んで、その小さな熱を、手のひらで、しばらく包んでいた。
*
長屋までの帰り道、灯は、私のすこし後ろを歩いた。
藍色の夜だった。澪津の空には、焚場の篝火の名残が、まだ、すこし、のぼっている。誰かの燃やした時間で、この町の夜は、いつも、ほんのり明るい。
私は、勝った。位を、ひとつ上がった。買い戻しの道を、はじめの一段、たしかに、のぼった。それは、よろこんでいいことのはずだった。
なのに、後ろを歩く灯の足音は、来たときより、すこし、遅かった。冷たさが、縁糸を伝って、私の背中に、ずっと張りついている。私が、この手で引いた冷たさだ。
わかってしまった。
このまま勝ち続ければ、私は位をのぼれる。のぼりきれば、いつか、この子を買い戻せる。けれど、買い戻すころには、この子は、私が勝ったぶんだけ、凍りついている。
救うために、減らしている。生かすために、削っている。
焚いて勝つかぎり、この道は、ずっと、こうだ。
私は、立ち止まった。後ろを振り返ると、灯も、足を止めた。その青白い灯が、夜の底で、たしかに、来たときより、細い。
手を、差し出した。
灯は、すこし迷ってから、その冷たい指を、私の手に、預けた。氷みたいな冷たさが、手のひらから、腕へ、ゆっくりのぼってくる。私が、今夜、勝ち取った冷たさだ。
それでも、握った。離さないように。
勝った。
また、灯が、一日、短くなった。




