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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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4/20

第4話 勝つほど、君が減る

勝つのが、怖い。


そんな夜が来るなんて、八年のあいだ、一度も思わなかった。


控えの間の隅に、(あかり)を座らせる。頭から古い布をかぶせて、顔を隠して。板壁のむこうで、すり鉢の客席が、地鳴りみたいにどよめいている。今夜の焚場(たきば)も、端まで埋まっているらしい。


「ここにいて。すぐ戻るから」


灯は膝を抱えたまま、布の陰から私を見上げた。その目だけが、青白く澄んでいる。


「……来なくていいって、言ったのに」


「長屋に、ひとりにはできない」


ほんとうの理由は、口にしなかった。ひとりにすれば、この子はまた、自分の灯を細めはじめる。あの路地で見た、静かな消し方で。


だから、目の届くところに置いておきたい。縁糸(えにし)でつながっていても、姿が見えないと、落ち着かなかった。


胸の奥で、灯の灯が、ちりちりと冷たい。縁糸を伝って、その冷たさが、私の(ともしび)のすぐ隣に座っている。今夜から、私が()けば、この子からも引かれる。私が勝つたびに、この子は、私といっしょに、すこしずつ減っていく。


だから、決めていた。


今夜は、できるだけ焚かずに勝つ。いちばん小さい火で、さっさと終わらせる。この子から、一滴でも余分に引かないように。


行司の声が、私の名を呼んだ。


「次――野良、(みお)。対するは、位十九位、(いぶし)


布の上から、灯の肩に、いちど触れた。それから、砂の上へ出た。



篝火の熱が、頬を撫でた。


すり鉢の底へ降りていくと、客席のどよめきが、いちだんと大きくなる。野良が、いきなり十九位へ挑む。賭けの札は、今夜も私のほうが分が悪いはずだった。


燻は、もう砂の上にいた。


大柄ではない。私より、すこし背が高いくらい。歳は四十か、五十か。痩せていて、目だけが、底光りしている。


胸の奥の燈は、小さかった。位のある焚き()にしては、驚くほど小さい。けれど、その小ささが、かえって油断ならなかった。


位十九位、燻。十年、この位を守っているという。客の話では、一度も大きく焚いたことがない。


挑んでくる若い焚き手が、勝とうとして焚いて、焚いて、自分の時を使い果たすのを、ただ待つ。そうやって、十年、壁であり続けた男だった。


惜しむ焚き手。減らさないことを、勝ちにする焚き手。


私とは、逆の生き方だ。


行司の手が、上がった。


燻は、動かなかった。両手を、だらりと下げたまま。私が焚くのを、待っている。


焚かせて、消耗させて、それから、最小の一発で仕留めるつもりだ。十年、そうやってきたように。


乗るものか、と思った。


私は、足を使った。砂を蹴って、左へ回る。燻の正面を外して、横手から間合いを詰める。焚かない。


まだ、焚かない。灯から引かないために、この一戦だけは、火を惜しむ。私が、いちばん苦手なやり方で。


燻の目が、すうっと細くなった。


間合いが詰まる。私は腕を振った。火じゃない。握っていた砂を、男の目元へ投げた。


燻が、わずかに顔をそむける。その一瞬を、もらう。はずだった。


もらえなかった。


燻の胸の燈が、ほんの少しだけ、膨らんだ。掌のうえに、豆粒ほどの火が灯る。それを、無造作に、私の足元へ落とした。


砂が、爆ぜた。


大きな火じゃない。私を焼くための火ですらない。ただ、私の体勢を崩すだけの、必要なぶんの、小さな火。私は横へ跳んで、それをよけた。


よけながら、わかってしまった。この男は、一発も、無駄にしない。私が砂を投げたぶんの労力さえ、向こうは火ひとつで返してくる。


長くなる。


背筋が、冷たくなった。燻は焦らない。私が小出しに焚くのを待って、すこしずつ、すこしずつ、削ってくる。私が小出しに焚くたびに、灯から、引かれる。


胸の奥の、青白い冷たさへ、ちらりと意識が向いた。


仕方なく、私は焚いた。小さく。指先ほどの火を起こして、燻の足元へ返す。


みぞおちの奥が、ぽっと熱くなって、そのぶん、すぐに、縁糸の向こうが冷えた。控えの間のほうで、布をかぶった小さな影が、肩を縮めたのが、見えた気がした。


また焚く。燻が動く。私が返す。


一発ごとに、私の胸が軽くなって、一発ごとに、灯の冷たさが、深くなる。手の甲を見なくても、わかった。指がまた、強張りはじめている。


これだ。この男は、こうやって相手を殺す。自分はほとんど減らさずに、相手にだけ、焚かせ続ける。


私はいつもなら、それでよかった。いくら焚いたって、減るのは私だけ。むしろ、望むところだった。


でも、今夜は。


焚くたびに、灯が減る。


長引かせれば長引かせるほど、この子の冷たさは、深くなる。小出しの勝負は、私には、いちばん高くつく勝負だった。


決めなきゃいけない。


じわじわ削られて、何十発も焚いて、灯をすこしずつ凍らせていくか。それとも、一発で、終わらせるか。


一発で終わらせるには、大きく焚くしかない。この男の壁を、一息にぶち抜くだけの、大きな火を。その一発は、灯から、どっと引く。けれど、長引かせるより、引かれる総量は、すくないかもしれない。


たぶん。


わからない。けれど、ぐずぐずしている時間のほうが、この子には、毒だった。


私は、足を止めた。


燻の目が、初めて、わずかに動いた。野良が、逃げるのをやめた。向かってくるつもりだ、と読んだのだ。


男の胸の燈が、ようやく、本気の大きさに膨らみはじめる。十年ぶりの本気なのか、それとも、いつものことなのか。どちらでもよかった。


私は、胸の奥に手を伸ばした。


私の燈は、小さい。芯がほそい。それでも、焚き方さえ間違えなければ、必要なぶんだけは燃える。


燃やす。


いつもより、ずっと深く。みぞおちの底から、肋骨を割って、火が噴き上がってくる。何年ぶんだろう、なんて、いまは数えない。指先まで火が通って、熱が、目の裏まで届いた。


縁糸の向こうが、ぐっと冷えるのが、わかった。引いている。この子から、いま、どっと引いている。


ごめん、と胸の中で言った。


燻が、火を放った。男の十年分の本気が、まっすぐ私へ落ちてくる。私は、燃やした火を、握りしめた。男の火が、私を捉えるその一点へ、真上から、押し込んだ。


ぶつかった二つの火が、行き場をなくして、上へ抜けた。


篝火より高い火柱が、燻の足元から、まっすぐ立った。


ここで、止めればよかった。勝ちは、もう決まっていた。


いつもの私なら、もう一度、焚いていた。要らないひと押しを。火柱を二倍にして、胸の奥を、もうひとつ軽くして。止めなくていい理由なんて、いつだって、すぐ見つかる。


手が、その動きを、覚えていた。胸の奥へ、もう一度、伸びかけて。


……だめ。


止めた。伸ばしかけた手を、引いた。


もう一発焚けば、そのぶん、灯が引かれる。この子を、これ以上、凍らせるわけにはいかなかった。


火柱が、勝手に、しぼんでいく。私は、その一発を、焚かなかった。生まれて初めて、止めなくていい場所で、自分の火を、止めた。


砂煙が晴れる。燻は、片膝をついていた。胸の燈は、半分も残っていない。十年守った壁が、一度の取りこぼしで、大きく欠けていた。


「……勝負あり。位十九位、ならびに、野良、澪、勝ち名乗り」


行司の声が、遠く聞こえた。


客席が、爆発した。野良が、十年の壁を抜いた。英雄だ、と誰かが叫ぶ。


位が、ひとつ、私のものになる。買い戻しまでの長い道の、はじめの一段。


誰かが、もう一度、叫んだ。生きろ、と聞こえた気がして、胸の奥が、ひとりでに、そっちへ伸びかけた。もし、勝ち続けたら。


位をのぼりきって、灯を買い戻して、それでも私に時が残っていたら。来月も、その次の月も、灯と二人で、なんでもない朝を。


その「もし」を、私は、ほんの一瞬、見てしまった。


見て、すぐに、消した。


勝てば勝つほど、灯は減る。私が長く生きたいと願うほど、この子の時は、短くなる。私の「来月」は、この子の今日を焚いて、できている。


望んじゃいけない。望むことが、いちばん、この子を凍らせる。


勝った。


のぼっていく火の粉を、私は見ていた。胸の奥は、いつものように、軽い。ひとつ、ちゃんと減った。


なのに、肩の力は、抜けてこなかった。



控えの間へ戻る足が、急いていた。勝ち名乗りの声も、客のどよめきも、もう耳に入らなかった。


布をかぶった小さな影は、隅に、さっきと同じ姿で座っていた。


よかった、と思って、近づいて、足が、止まった。


灯の周りの空気が、来たときより、冷たかった。


布をめくる。その顔が、白い。白いというより、透けていた。


胸の青白い灯が、薄い皮膚を通して、前よりも、ぼうと滲んで見える。私が焚場で燃やしたぶんだけ、この子の灯は、たしかに、細くなっていた。


灯が、私を見上げた。


「……勝ったんだ」


責める声じゃなかった。ただ、知っている、という声だった。布の下で握っていたらしい指に、震えた跡が、まだ、残っている。さっき私が大きく焚いたあの瞬間を、この子は、控えの間の隅で、いちばん近くで、いちばん冷たく、受け取っていたのだ。


「勝ったよ」と、私は言った。声が、うまく出なかった。「位、ひとつ上がった。これで、ちょっとだけ、近づいた。あんたを、買い戻すのに」


灯は、しばらく黙っていた。それから、私の右手へ、目を落とした。


「……手」


言われて、私も、自分の手を見た。


手の甲の皮が、乾いて、突っ張っている。爪の根が、焦げ色をしている。指の節が、ささくれて。


十六の娘の手じゃなかった。さっきの一発で、また、年寄りの手のほうへ、近づいていた。


「あんた、自分のことばっかり」


灯の声が、すこし、尖った。


「私が減るのは、いいよ。慣れてる。私は、そういうものだから。でも、あんたの手が、そうやって、どんどん古くなっていくの」


そこで、言葉が途切れた。


灯は、自分が何を言いかけたのか、自分で気づいたらしい。私のために、声を尖らせたことに。慌てて、膝のあいだに、顔を半分、伏せる。


私は、笑おうとした。いつもの、肩の力が抜けるときの笑みを。でも、うまくいかなかった。


この子は、自分が凍っていくことには、文句を言わない。慣れている、と言う。燃料だから、と言う。


けれど、私の手が古くなることには、声を尖らせる。自分の減りよりも、私の減りを、痛がる。


反対だ、と思った。私とこの子は、いつも、反対を向いている。私はこの子のために減りたくて、この子は私のために減らせたくない。同じ一本の糸の、両端で、おたがいの心配ばかりしている。


「ねえ」と、私は言った。「私の手のことは、いいの。これは、私が、好きで使ってるだけだから」


「好きで、古くなる人なんて、いない」


「いるよ。ここに」


灯は、それきり、何も言わなかった。けれど、伏せた顔のむこうで、青白い灯が、にじむように、ほんのすこし、揺れたのが見えた。怒っているのか、こわがっているのか、それとも違う何かか。名づけられない揺れ方だった。



胸の、左の奥。


着物の裏地ごしに、妹の燈札(ひふだ)へ、指で、そっと触れた。


今夜も、こんなに焚いたのに。灯を、こんなに凍らせたのに。


その札だけは、冷たくなかった。


八年、ずっと氷だったはずのそれが、いまも、かすかな熱を持っている。あの夜、灯の手を握ってから、この札に灯った、ひとつぶの火。氷の芯に、小さな種火が、まだ消えずにいる。


まわりのぜんぶが、私の焚いたぶんだけ冷えていくのに。灯が、私の勝ちのぶんだけ凍っていくのに。なぜ、これだけが、逆を向いて、あたたかいんだろう。


今夜も、わからなかった。妹の名前を、胸の奥で、呼ぶともなく呼んで、その小さな熱を、手のひらで、しばらく包んでいた。



長屋までの帰り道、灯は、私のすこし後ろを歩いた。


藍色の夜だった。澪津(みおつ)の空には、焚場の篝火の名残が、まだ、すこし、のぼっている。誰かの燃やした時間で、この町の夜は、いつも、ほんのり明るい。


私は、勝った。位を、ひとつ上がった。買い戻しの道を、はじめの一段、たしかに、のぼった。それは、よろこんでいいことのはずだった。


なのに、後ろを歩く灯の足音は、来たときより、すこし、遅かった。冷たさが、縁糸を伝って、私の背中に、ずっと張りついている。私が、この手で引いた冷たさだ。


わかってしまった。


このまま勝ち続ければ、私は位をのぼれる。のぼりきれば、いつか、この子を買い戻せる。けれど、買い戻すころには、この子は、私が勝ったぶんだけ、凍りついている。


救うために、減らしている。生かすために、削っている。


焚いて勝つかぎり、この道は、ずっと、こうだ。


私は、立ち止まった。後ろを振り返ると、灯も、足を止めた。その青白い灯が、夜の底で、たしかに、来たときより、細い。


手を、差し出した。


灯は、すこし迷ってから、その冷たい指を、私の手に、預けた。氷みたいな冷たさが、手のひらから、腕へ、ゆっくりのぼってくる。私が、今夜、勝ち取った冷たさだ。


それでも、握った。離さないように。


勝った。


また、灯が、一日、短くなった。


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