第3話 買い戻すと、決めた
呼び出しは、三日と待たなかった。
燈寺の使いが、折り目の正しい白い紙を一枚だけ置いていった。澪津の本寺まで、あの娘を連れて参られたし。署名のところに、見覚えのある名前があった。
司燈、澱見。あの朝、私の戸口に立った、白い手の人だ。
行かなければ、向こうから来る。来れば、長屋ごと、灯は連れていかれる。それくらいは、読めた。
逃げ場のない呼び出しというものを、私は知っている。焚場で、何度も、追いつめられる側に立ってきたから。
灯は紙を見て、何も言わなかった。ただ立ち上がって、私のうしろへ、半歩だけ隠れる。隠れながら、手首を、私のほうへすこし差し出していた。
取りやすいように。連れていかれることに慣れた者の、しぐさだった。
その手首を、私は握った。差し出させない、というふうに。
「……行くの」灯が、掠れた声で聞いた。
「うん。逃げると、もっと悪くなる」
「あんたまで、数えられる」
「いいよ。私の燈なんて、たいした値もつかないから」
灯は何か言いかけて、やめた。私の手のなかで、その指が、いつもより固くなっていた。冷たさが、握った手のひらから、ゆっくり私の腕へ上ってくる。
◆
本寺は、丘の上にあった。
白い石を積んだ塀が、夕暮れの空を、まっすぐ区切っている。門をくぐると、線香の匂いがした。甘くて、どこか饐えた匂いだ。広い庭の砂は、波の形に掃き清められていて、足を下ろすのが、はばかられるほどだった。
ここで、人の時は計られ、祝福される。けれど、計られた時がそのあとどこへ流れていくのかを、口にする者はいない。磨かれた廊下も、金の襖も、頭の上で揺れる灯明も、たどれば、顔も知らない誰かの年月でできている。
考えないようにした。考えると、足が止まる。
歩くあいだ、灯の周りの空気だけが、ちがった。これだけ灯明を焚いているのに、この子のいるところには、熱が届かない。縁糸でつながった胸の奥へ、その冷たさが、すうっと伝わってくる。
この子が強張ると、私の燈まで、うっすら冷えた。連れてきてしまった、と奥のほうで声がする。けれど、置いてくれば、もっと悪かった。
◆
澱見は、奥の間で待っていた。
あの朝と同じ、肥えて、つやのある顔をしている。私たちが入ると、白い手で、ゆっくりと茶を勧めてきた。脅すでも、急かすでもない。脇には、几帳面に綴じた台帳が、背の高さをそろえて積んである。
その視線が、私を通り越して、灯の胸へ流れた。人を見るのではなく、数を読む目だ。
澱見は、灯の喉のあたりへ、目を細めた。
「……みごとな結び目だ」惜しむような、低い声だった。「これだけの筋を持って生まれる者は、百年にひとり、出るか出ないか。ひとつで、村がいくつ、冬を越せるか」
宝物を見つけた、という顔ではなかった。長いあいだ帳尻の合わなかった台帳に、ようやく大きな数字がひとつ入る、という顔だった。その顔が、私には、寒かった。
灯の手首が、私の手のなかで、また引いた。逃げるためではなく、差し出すために。私は、握り直した。
「よく連れてきてくださいました」澱見は言った。「これほどの燈籠が、長く市井に紛れていた。寺の落ち度です。――この娘は、然るべき場所でお預かりせねばなりません。台帳に載せ、計り、めぐらせる。それが、多くの人のためになる」
燈籠、とその人は言った。人を、器の名で呼んだ。
「むごい、と思われますか」澱見は、私の顔を見た。怒らせるための言葉ではない。むしろ、私をいたわるような声だった。「先だっての冬、川向こうで流行り病が出たのを、ご存じか。あのとき、三百からの子どもが、ひと冬を越せました。年寄りたちが、自分の半年を、すこしずつ寺へ預けてくれたからです。誰かの時で、誰かが生きる。この国は、その上にだけ、立っていられる」
茶碗の湯気が、まっすぐ立っていた。
「この娘ひとりの時で、名も知らぬ数千が、また次の冬を越せます。あなたは、その数千より、この娘ひとりが重いと言う。情です。よくわかります。私とて、人だ。けれど、情は数えられない。台帳には、載らないのですよ」
返す言葉をさがした。見つからなかった。その人の言うことには、嘘がひとつも、まじっていなかったからだ。
たちが悪い。足元が、すこしぐらつく。
澱見は、その揺れを見透かしたように、もうひとつ、静かに置いた。
「あなたが焚場で配る、あの燈札も。もとを正せば、どこかの誰かから流れてきた時です。私と、あなたの、ちがいはひとつ。私はそれを帳面に記し、あなたは記さない。記されぬ時も、無かったことには、なりません」
言い返せなかった。帳面に載るか、載らないか。それだけのことで、私のしてきたことまで、急に後ろ暗く見えてくる。
この人の前では、私の施しも、台帳の搾取と、地続きになってしまう。それでも、首を縦には、振らなかった。
握った手のなかで、灯の指は、冷たかった。三百の子どもの冬よりも、この冷たさのほうが、私には近い。それだけは、たしかだった。
◆
「……灯は」
自分でも驚くくらい、低い声が出た。
「灯は、供物じゃない。器でもない。この子には、灯っていう、名前がある」
澱見は、すこし目を細めた。聞き分けのない子を見るような目だった。
「名前」その人は、やわらかく繰り返した。「名前は、台帳には載りません」
それから、筆を執って、台帳をひとつ開いた。
「では、手続きの話をしましょう。燈籠は、寺の預かりもの。市井に置くというなら、その価を、寺に納めていただくしかない。それが、決まりです。――この娘の価は」
筆の先が、すらすらと、数字を書いた。
それを見て、息が止まった。
一生かけて焚場で勝ち続けても、届くかどうか、という額だった。年月にして、何十人ぶんもの時。野良の焚き手が、生涯にかき集める燈札を、ぜんぶ積み上げても、足りない。
はじめから払えるはずのない値を、その人は、知っていて書いた。筆は、すこしも迷わなかった。
「納められなければ、この娘は、台帳へ。それが、筋というものです」
灯は、自分の価が書かれた紙を、じっと見ていた。驚いては、いなかった。値をつけられることに、慣れているのだ。ただ、その数字よりも、私の顔のほうを、ちらりと見た。
あんたが気に病むことじゃない、とでも言うように。その目を、私は、まっすぐには見られなかった。この子の値打ちが、目の前で数字に変えられていくのを、私には、止められなかった。
茶をひとくち含んで、澱見は、ふと筆を止めた。視線がまた、私の胸へ流れる。今度は灯ではなく、私の、左の奥へ。
「ところで、あなたは」その人は言った。「ずいぶん古い時を、一枚、抱えておられますね。焚きも、換えもせず、八年ほども、そのままに。あれを寺へ納めれば、この価の、いくらかは埋まりましょう」
胸の、左の奥。裏地に縫い込んだ、妹の燈札。
その人の目には、見えるのだ。私が八年、何を抱えて生きてきたのか。それが、ただの埋め合わせの一枚として、数えられている。指の先が、冷たくなった。
気づいたら、私は立っていた。
立って、その人を、見下ろしていた。後ろ盾もない、流派もない、野良ひとりが。掃き清められた砂の上で、いちばん小さい者が、いちばん大きなものへ、向かって。
「あれは、渡さない」
声が震えなかったのが、自分でも、ふしぎだった。
「あれは、換えない。一生、換えない。――でも、価は、払う」
澱見の白い手が、筆を持ったまま、止まった。
「焚場で稼ぐ。位を上がって、上がって、灯の価をぜんぶ、私が焚いて稼いだ燈札で納める。それまで、灯には、指一本、触れさせない」
言ってしまってから、膝の裏が、すこし笑った。焚けば、私の時は減る。減ったぶんは、縁糸を通って、灯にも引かれる。
勝てば勝つほど、私もこの子も、死に近づいていく。それでも稼がなければ、この子は連れていかれる。出口の、どこにもない取引だった。
それでも、引っ込められなかった。引っ込めたくも、なかった。自分の時なんて、早く使い切りたいとだけ思って生きてきた私が、初めて、まだ足りない、もっと要る、と口にしていた。生きて、稼ぐための時間が、要る、と。
澱見は、しばらく私を見上げていた。それから、白い手で、台帳に何かを書きつけた。
「よろしい。記しておきましょう」筆がすべる。「焚き手、澪。この燈籠の価を、納めるまでの、後見人」
筆を置いて、その人はまた、あの笑みを浮かべた。
「ただし、寺は、待つのが得意ではありません。あなたの位が、思うように上がらなければ――いずれ、私の筆のほうが、先に動きます。せいぜい、お急ぎなさい。お若いのだから」
慈しむような、やわらかい笑みだった。それが、いちばん刺さった。
◆
本寺の門を出て、しばらく行ったところで、灯が、足を止めた。
「……なんで」
小さな声だった。
「私は、燃料だよ。あんたが、あんなこと言う値打ちなんて、ない。位を上がるって、あんたの時が、減るってことでしょう。私のために、あんたが、死ぬ」
久しぶりに、灯がたくさん喋った。怒っているのか、こわがっているのか、わからない声で。
「……いいよ」と、私は言った。「私の時なんて、どうせ、借りものだから」
言ってから、それが灯を安心させる言葉ではないと、気づいた。灯の顔が、固くなる。自分が、誰かの借りものの時を、また減らす理由になっている。そういう顔だった。
「ちがう」私は、言い直した。「借りものだから、じゃない。……あんたに、いてほしいから」
言えてしまってから、自分で、驚いた。八年、誰にも、何にも、いてほしいなんて、思わないようにしてきたのに。
灯は、答えなかった。けれど、差し出しかけていた手首を、そっと、引っこめた。
「……変なの」灯が、前を向いたまま、ぽつりと言った。「いてほしい、なんて。私に、そんなこと言った人、いない」
それきり、また黙った。けれど、長屋までの道を、灯は、私のすこし後ろを、ちゃんとついてきた。その半歩の距離が、来るときより、近かった気がした。
◆
長屋に戻って、灯が壁ぎわで膝を抱えて眠るのを確かめてから、私は、胸の裏地に手を当てた。
妹の燈札。
澱見の言ったことは、正しかった。これを縁糸市へ持っていって換えれば、あるいは、そのまま寺へ納めれば、灯の価の、いくらかはすぐに埋まる。何年も焚場で死にかけるより、ずっと楽に、ずっと早く。
わかっている。わかっていて、できない。
これを使うことは、凪を、もう一度殺すことだから。
八年前の、あの夜のことは、ほとんど憶えていない。母が、私と凪を助けて、燃えつきた。それだけは、知っている。残った時は、二人ぶんには、足りなかった。
憶えているのは、凪の手だけだ。足りなくなった私の時を見て、あの子は何も言わずに、自分の胸へ手を当てた。それから、その手を、私の胸へ重ねた。
温かくて、小さな手だった。次の朝、おなじ手は、もう冷たくて、私の時だけが、すこし長くなっていた。
あの子が、最期に何を言ったのか。それを、私は、長いあいだ、思い出さないようにしてきた。思い出してしまえば、その言葉を、約束みたいに、守らなければならなくなる気がして。
あの子は最期に、自分の残りをぜんぶ、私に分けた。その時間を、私が、別の誰かの値段に換える。釣り合いを取るための、ただの数字にする。
そんなことをしたら、あの子は、二度死ぬ。一度目は、私を生かすために。二度目は、私の手で。
だから、換えない。一生、換えない。
険しいほうの道を、私は自分で選んだ。誰かに押しつけられたわけじゃない。八年ぶりに、自分の足で、いちばん遠回りの道のほうへ、歩き出そうとしている。
裏地ごし、その固いものに、指で触れた。
冷たいはずだった。八年、ずっと冷たかった。換えられない負債は、いつだって、氷の手ざわりをしている。
なのに。
指の先に、かすかな熱があった。氷の芯に、ひとつぶだけ火がともったような、小さな熱だ。灯の手を握った、あの夜から、この札は、冷たいだけではなくなっている。
なんで、あたたかいんだろう。
わからなかった。わからないまま、その小さな熱を、手のひらで、しばらく包んでいた。
明日から、焚場を駆け上がる。勝って、勝って、勝ち続けて、灯を買い戻す。私が焚けば、灯も削れる。それでも、ほかに道はない。
その遠い道の、いちばんはじめの一歩のところで。八年も凍っていた妹の札が、いまなぜか、ほのかに灯っている。
その理由を、私は、まだ知らない。




