第2話 灯を匿う
手を引いて歩いても、その子は、ついてはこなかった。
足だけが、引きずられるように動いている。私の指のなかで、その子の指は、ずっと冷たいままだった。握り返しもしない。冷たいまま、嫌そうに、私のうしろを歩いてくる。
藍色の路地を抜けて、表の通りに出た。焚場帰りの人影が、まだ何人か残っている。私の傷だらけの格好を見て、ああ今日の野良だ、という顔をした。私はうつむいて、その子の手を、袖の影に入れた。
その手首に、細い筋が見えた。
肌の下を、青白い線が何本も走っている。ほどけた糸の端みたいに、ゆれて。喉のあたりにも、同じものがあった。
焚き手をやっていれば、人の燈はだいたい読める。けれど、この子の筋だけは、何本あるのか、どこへ繋がっているのか、私の目では、追えなかった。路地で見たときと、同じだった。
途中で、その子が、一度、立ち止まった。
角の地蔵の前だった。誰かが供えた握り飯が、ひとつ、ぽつんと置いてある。その子の目が、それを見た。見て、すぐに、そらした。
手は、伸ばさなかった。欲しがって、やめる、という顔ですらない。最初から、自分のものになるはずがない、と決めている顔だった。
その顔を、私は知っている。毎晩、自分の胸のなかで、している顔だ。
◆
長屋のいちばん奥が、私の部屋だ。
畳は四枚半。火鉢がひとつ。あとは、夜具と、欠けた湯呑みがふたつ。焚場の賞金は、ぜんぶ人に配ってしまうから、私の持ちものは、これだけしかない。
明日のための蓄えは、ない。明日が、いるかどうかも、わからない暮らしだ。それで、ちょうどいいと思っていた。
その子を、先に入れた。
敷居をまたぐとき、その子は一度だけ立ち止まって、部屋のなかを見た。逃げ道をさがすみたいに、隅から隅まで。それから、入った。
いちばん戸口に近いところに座って、膝を抱える。壁に背をつけて、私からいちばん遠い場所を選んだ。
火鉢に、炭を足す。
その子のいるあたりだけ、空気が、ちがった。炭を足しても足しても、部屋の隅が、ぬるくならない。冷たさが、その子の肩のまわりに、薄く張りついている。息をすると、こちらの頬まで、すっと冷えた。
夜具を、その子のほうへ、押しやった。
「使って。私は、いいから」
その子は、夜具を見た。動かなかった。
湯を沸かして、欠けた湯呑みに注いだ。ひとつを、その子の前に、そっと置く。
「飲んで。あったまるよ」
その子は、湯呑みに目を落とした。それから、私を見た。
「……何が、ほしいの」
「え」
「これを飲んだら、何を、渡せばいいの」
低い声だった。咎めるような、硬い声。私は、湯呑みを置いた手の行き場を、なくした。
「何も。ただの、湯だよ」
「うそ」
その子は、胸のあたりに手をやった。覆うように。何度も掴まれたことのある者の、手つきだった。
「ただで、くれる人なんて、いない。やさしい顔で近づいてきて、あとで、ぜんぶ持っていく。……知ってる。何度も、あった」
路地で聞いたのと、同じだった。やさしい顔で近づいてきた人は、みんな、最後に同じことを言う。お前の時は、お前だけのものじゃない、と。
湯呑みから手を引いた。引いて、自分のぶんを取って、すこし離れて座った。その子の前の湯呑みは、置いたままにした。
「いらないなら、いいよ。そこに、置いとくから」
飲まなかった。その子は、湯気の立つ湯呑みを、にらむみたいに見ていた。誰かが、何も取らずに、何かを置いていく。それが、どういうことなのか、わからない、という目だった。
与えられることに、慣れていない。私とは、逆だ。私は、人に渡すことだけで、自分を、保ってきた。
この子は、何も渡すまいとすることで、自分を、守ってきた。背中合わせで、同じ場所に立っている気が、した。
私の湯呑みが空になるころ、その子の前の湯は、もう、湯気を立てていなかった。
冷めた湯を、その子は、両手で持った。ひとくち、飲んだ。指先が、灰がかっていた。蝋が燃えつきる、すこし前みたいに。
◆
「あんたの燈、見ていい」
そう聞いたとき、その子の肩が、はねた。
「焚かない。ただ、見るだけ。痛くしない」
返事はなかった。けれど、逃げもしなかった。私は、にじり寄って、その子の胸のあたりに、目を凝らした。
焚き手の見方、というのがある。人の胸の奥の火を覗けば、どれだけ残っているか、どんな焚き方をしてきたか、線になって、読める。位の高い相手でも、たいていは読める。
その子のは、読めなかった。
青白い灯が、たしかにそこにある。けれど、量を測ろうとすると、何本もの細い筋が、視界のなかで、ほどけて散らばってしまう。手首へ、喉へ、肩へ。一本かと思えば、十本にも見える。
数えはじめると、すぐに、わからなくなる。手首と喉のあたりで、細い筋が幾本も、固く絡んで、結ばれている。それが、数えさせてくれない。覗きこむほど、こちらの背筋まで、冷えてくる。
「……数えられたこと、ない」
その子が、ぽつりと言った。
「お寺の人も、いつも、首をかしげる。読めない、って。台帳に、私の名前は、ない。生まれたことに、なってないから」
台帳。燈寺が、国じゅうの燈を計って、名と数を書きつけておく帳面。そこに名がないということが、どういうことなのか、私には、すぐにはのみこめなかった。
人は、生まれれば、数えられる。計られて、祝福されて、台帳に載る。それが、当たり前だと思っていた。
「ずっと、隠れて生きてきた」その子は、膝に顔を半分うずめたまま、続けた。「見つかると、寄ってくる。読めないのに、貴い、って。私みたいなのは、いつも、そう。だから、誰にも、数えさせない。最後まで、誰にも」
手首の筋が、息に合わせて、青白く脈打っていた。冷たいのに、たしかに、灯っている。その細い筋のうちの一本だけが、私のほうへ、ほどけずに、つながっていた。
ついさっき、路地で、私とこの子のあいだに、生まれた糸。
私は、自分の胸に、手を当てた。あの子に触れてから、左の奥が、あたたかい。八年、冷たかった妹の燈札が、この子の指先に応えて、まだ、ほのかに灯っている。
この糸が、何なのか。私には、まだ、わからない。わからないのに、ほどけない、ということだけは、わかる。
「名前は」
また聞いた。路地では、言わない、と言われた。
「……ない。呼ばれたこと、ないもの」
名前が、ないのではなかった。呼ばれたことが、ない。数えられたことも、呼ばれたことも、なく生きてきた。自分から、そうしてきたのだろうと思った。
私は、その子の胸の、小さくて冷たい灯を、もう一度見た。読めない燈。けれど、消えそうで、消えていない火。
「じゃあ、灯」
その子が、顔を上げた。
「あんたの、その灯から。――灯。それで、いいかな」
灯は、何も言わなかった。否定も、しなかった。ただ、自分の胸を、また、手で覆った。
今度は、掴まれないように、ではなかった気がする。けれど、それを言葉にするのは、やめておいた。言葉にすると、壊れてしまいそうなものが、あった。
◆
戸を叩く音がしたのは、翌朝の、まだ薄暗いうちだった。
灯を、夜具の奥へ押しこんで、その上に、夜着をかけた。冷気が漏れないように、と願ったけれど、どう願えばいいのかは、知らなかった。
戸を開けると、燈寺の使いが、二人立っていた。その後ろに、もう一人。
法衣の、肥えた男だった。
焚き手なら、年相応に、どこかが摩耗している。この人は、ちがった。肌は滑らかで、つやがあって、清潔だった。
他人の年月で、そうやって健やかにしているのだと、ひと目でわかる。手が、白い。汚れを、知らない手だ。
「司燈さま」
使いが、頭を下げて、私に教えた。司燈。燈寺の、ずいぶん上の人だ。野良の焚き手の戸口に、立つような人ではない。
「昨夜、巡回をひとつ、お休みになりましたね」
声は、おだやかだった。咎めるふうでも、なかった。その人の視線が、私の顔ではなく、胸のあたりへ、すっと流れた。
私の燈を、見ている。値を、つけている。
「ずいぶん、お焚きになる。お若いのに、もったいない。――これでは、長くはありませんね」
数字を、見られていた。人ではなく。
それから、その視線が、ふと、止まった。私の胸の灯の、すぐそばで。
「おや」その人は、すこしだけ、目を細めた。「縁糸。――めずらしい。あなた、どなたかと、結ばれましたね。自然に生まれたものなら、ずいぶん、得がたい」
胸の前で、腕を組んだ。糸を、隠すように。隠せるものではない、とわかっていても。
「巡回は、すみません。具合が、悪くて」
「ええ、ええ。体は、大事になさい」その人は、私のごまかしを、咎めなかった。咎めるかわりに、戸口の奥へ、目をやった。「ところで」
部屋の隅から、冷気が、薄く流れ出していた。私は、戸の前に、立ちふさがった。
「妙な届けが、ありましてね。あの裏通りに、台帳にない燈が、灯っていると。長く、見落されてきたものらしい。お心当たりは」
心臓のあたりが、固くなった。けれど、顔には、出さないようにした。出ているかどうかは、わからなかった。
「いえ。あんな、誰もいない通りに」
「そう。ならば、よいのです」
その人は、笑った。慈しむような、やわらかい笑みだった。それが、いちばん、こわかった。
「司燈として、ひとつだけ、申し上げておきましょう」白い手を、胸の前で、合わせる。「この国は、限られた燈で、回っております。多くを生かすために、計り、めぐらせ、ときに、惜しんでいただく。むごいと、お思いか。けれど、誰かの時で、誰かが生きている。あなたが焚場で配るその賞金も、もとは、知らない誰かの年月だ。誰の手も、汚れています。私の手も、――あなたの手も」
返す言葉が、なかった。その人の言うことには、嘘が、まじっていない。それが、たちが悪い。私の配ってきた時も、たどれば、どこかの誰かから、削られたものだ。
「読めない燈は、貴いのですよ」最後に、その人は、そう言った。声を、すこしも荒げずに。「見つけたら、お知らせを。台帳の外に置いておくのは、その子のためにも、なりません。然るべき場所で、然るべく、祝福して差し上げねば」
頭を下げて、司燈は、去っていった。白い手が、法衣の裾を、きちんと払って。使いの二人も、それに続く。足音が、長屋の路地から消えるまで、私は、戸の前から、動けなかった。
◆
戸を閉めて、夜具の夜着を、めくった。
灯が、膝を抱えて、目だけで、私を見上げていた。聞こえていた、という顔だった。その手首が、また、私のほうへ、すっと差し出されかけた。
取りやすいように。掴まれることに、慣れた手つきで。
「しなくていい」
私は、その手を、押し戻した。昨夜と、同じだ。この子は、与えられることより、差し出すことのほうに、慣れている。
灯は、手を引っこめた。それから、小さな声で、言った。
「……あの人は、私を、数えにくる。いつか。あんたが、かくまってても」
「来ないよ」
「来る。読めない燈は、貴いって、言ってた。貴いものは、ぜんぶ、取られる。最後は、いつも」
私は、答えられなかった。読めない、ということが、貴い、ということ。その意味の底に、何があるのか、私には、まだ見えない。
けれど、見えないまま、うなじのあたりが、すっと冷えた。台帳の外で、ひとりきりで灯っていたこの子を、燈寺は、もう、見つけてしまった。
隠れて、やり過ごす。それだけでは、もう、足りない気がした。あの白い手は、いつでも、また、この戸を叩ける。届けひとつで、然るべき場所、というところへ、この子を、連れていける。
守る、というのは、戸の前に立ちふさがることだと思っていた。けれど、ちがう。私が立ちふさがれるのは、私が、ここにいるあいだだけだ。野良の焚き手ひとりの背中なんて、あの人たちは、いつでも、どかせる。
この子を、手放さずにいたいと、本気で思うなら。私は、ただの野良のままでは、いられない。――そこまで考えて、その先を、考えるのは、やめた。
今は、まだ。考えるのは、あとでいい。
火鉢の炭が、ひとつ、爆ぜた。
灯の胸の青白い火が、その音に、かすかに、ゆれた。私とこの子をつなぐ筋が、それに引かれて、ひとたわみして、また張った。
この子の燈が、なぜ、読めないのか。なぜ、数えると、増えてしまうのか。それを知っている誰かは、きっと、もう、迎えにくる支度を、はじめている。
冷たい手のなかの小さな灯を、私は、今度こそ、消させない。
その一言だけが、まだ何も知らない私の胸の、いちばん奥で、固く、灯っていた。




