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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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第1話 死にたがり、ふたり

妹がくれた時間で、私はずっと死にたがっていた。


篝火(かがりび)が、爆ぜた。


火の粉が宵の空へのぼっていくのを、私は地面に転がりながら見ていた。背中を打った砂の冷たさより先に、観客のどよめきが耳に届く。澪津(みおつ)焚場(たきば)は、夜になるほど人が増える。今日も、すり鉢の客席は端まで埋まっていた。


野良(のら)、と人は私を呼ぶ。位を持たない焚き手(たきて)。後ろ盾も、流派もない。


賭けの札は、いつも私のほうが分が悪い。今日の相手は位三十二位だから、なおさらだ。倒れた私を見下ろして、客のいくらかが、もう手元の札を破り捨てる仕草をした。


「終わりだな、野良」


相手が、ゆっくりと歩いてくる。私より頭ひとつ大きくて、肩の幅は倍ある。胸の奥で、その男の()が赤々と燃えているのが見えた。


たっぷりと。惜しげもなく。


位のある焚き手は、たいてい、自分の時を惜しむ。減らないように、慎重に焚く。長く生きるために。


私は、逆だった。


彼が右手を掲げると、掌の上に火が膨らんだ。焚いている。自分の時を、燃やしている。膨らんだ火の塊が、私を焼き尽くすだけの熱を持つまで、あと数瞬。


私は、立たなかった。


立つかわりに、砂を握った。


「……来い」


声が、自分でも驚くくらい静かだった。


男の火が落ちてくる。私はその瞬間まで動かずにいて、落下の軌道が決まりきった一点で、ようやく横へ転がった。火が砂を(えぐ)る。熱風が頬を舐めた。


男は大ぶりだ。大ぶりな焚き手は、外したぶんを取り戻そうとして、必ずもう一発を焚く。さっきから、ずっとそうだった。


案の定、彼の胸の燈が、また赤く膨れた。


そこを、私はもらった。


胸の奥に手を伸ばす。私の燈は、男のものよりずっと小さい。小さくて、芯がほそい。それでも、焚き方さえ間違えなければ、必要なぶんだけは燃える。


燃やす。


ほんの少し。今日を勝つのに、足りるぶんだけ。


みぞおちの奥が、熱くなった。光が、肋骨(ろっこつ)の隙間から漏れていくのがわかる。何年ぶんだろう、なんて、いまは考えない。指先まで火が通って、私はその火を、握った砂ごと、男の燈へ叩きつけた。


縁のない者の時は奪えない。けれど、燃えている火に火を返すことはできる。男が焚こうとしていた一発に、私の一発を真上から押し込んだ。行き場を失った熱が、男自身の内側へ撥ね返る(はねかえる)


篝火より大きな火柱が、男の足元から立った。


そこで、止めればよかった。勝ちは、もう決まっていた。


なのに、私は、もう一度、焚いた。要らないひと押しを。火柱が、二倍にふくらむ。


胸の奥が、ぐっと軽くなる。指が、また一本、強張(こわば)った。


止めなくていい理由を、私はいつも、こうやって探している。


悲鳴。客席が一斉に立ち上がる。砂煙が晴れたとき、男は膝をついていた。


胸の燈が、さっきの半分も残っていない。一度の取りこぼしで、何年ぶんを焼いたのか。焚き手は、誰も、自分が燃やした時間の量を、終わってからしか知らない。


「……勝負あり。位三十二位、ならびに――」


行司(ぎょうじ)の声が、遠く聞こえた。


私は、立ち上がろうとして、右手をついた。


その手の甲が、目に入る。


十六の娘の手じゃなかった。指の節がささくれて、爪の根が焦げ色に乾いている。年寄りの手だ。さっき焚いたぶん、また少し、老いた。


ああ、と思った。


胸に手を当てる。残りを確かめる。痛みは、なかった。


あるのは、ひとつ軽くなった、という手応えだけ。今日も、ちゃんと減った。それを確かめると、いつも、肩の力が抜けていく。


「……ちょうどいい」


そう呟いて、私は笑った。


客席が、その笑みを見て、わっと沸いた。傷だらけの娘が、格上を食って、それでも笑っている。英雄だ、と誰かが叫んだ。


みんな、そう見てくれる。みんな、勘違いしてくれる。


ありがたいことだと、思う。


英雄だ――もう一度、その声がした。生きろ、と聞こえた気がして、胸の奥が、ひとりでに、そっちへ伸びかけた。


……だめ。


伸ばしかけた手を引っ込めるみたいに、それを、いつもの場所へ戻した。



控えの間に戻ると、行司の見習いが、賞金の燈札(ひふだ)を盆に載せて持ってきた。


燈札。誰かの時を、紙の形にしたもの。一枚で、ふた月ぶんの寿命になる。今日のぶんは、五枚あった。


(みお)さん、今日も派手でしたねえ。これだけありゃ、上の位の連中だって、燈札で時を買い足して戦うご時世だ。澪さんも、少し自分に――」


私は、盆に手を伸ばした。


札の縁に、指が触れる。


そこで、止まった。


五枚のうちの、一枚。その紙きれを、自分の胸の燈に重ねれば、私はふた月、長く生きられる。来月も、再来月も、朝が来る。


その「来月」を、ほんの一瞬、私は見てしまった。朝が来て、誰かが私の名を呼んで、私が「うん」と返事をする。ただ、それだけの、なんでもない来月を。


胸の奥が、ざわついた。欲しい、と。


見て――指を、引いた。


「いいよ。これ、下の通りの人たちに分けてあげて」


「えっ、ぜ、全部ですか」


「うん。私はいいから」


見習いが、ぽかんと札を見下ろしている。私は手早く五枚を握って、彼の手のひらに押しつけた。自分の時を、自分のために欲しがるのは――なんだか、いけないことのような気がした。


ずっと、そうだった。理由は、もう、いちいち思い出さないようにしている。


胸の、左の奥。


着物の裏地に、私はずっと一枚だけ、別の燈札を縫い込んでいる。


八年。一度も焚かず、一度も換えず。


それは妹の燈札だった。


(なぎ)が、最期に、自分に残っていた時を、ぜんぶ私に分けた。その移譲(いじょう)を、燈寺(ひでら)が紙にして寄越した一枚。本当なら、これを胸に重ねれば、私はもう、しばらく死ななくて済む。


でも、できなかった。


これを使うことは、妹を、もう一度殺すことだ。


指で、裏地の上から、その固いものに触れる。札は冷たいままだ。八年、ずっと冷たいままだ。


どうせ、借りものの時間だから。


そう思っておくと、胸のあたりが、少しだけ楽になる。



焚場を出ると、夜の澪津は藍色をしていた。


今日は、戻る前にひと仕事ある。燈寺の巡回。焚き手は月に何度か、寺の名代(みょうだい)として町を回り、人々の燈を「計り、祝福する」ことになっている。


決められた道順がある。決められた家がある。台帳(だいちょう)に名のある者の戸を叩いて、その胸の灯を覗き、まだ十分にございます、と頭を下げる。


いつもなら、私は道順どおりに歩く。


今夜は、歩かなかった。


角を曲がる手前で、足が止まった。決められた道の、その先じゃない、暗いほうの路地。誰も住んでいないことになっている、台帳に名のない裏通り。


そこに、灯が、ひとつ。


灯というか――人の燈が、ひとつ。


胸の奥で、それは、揺れていた。か細く、青白く、ひどく冷たい色で。


私は、燈を見るのが得意なほうだ。焚き手はみんなそうだ。人の胸の火を覗けば、どれだけ残っているか、どんな焚き方をしてきたか、だいたい読める。


なのに、その灯は、読めなかった。


残量がわからない。何本もの細い筋が、その子の手首や喉のあたりで、ほどけた糸の端みたいに揺れていて、私の目では、数えきれない。


台帳にない子。読めない燈。


私は、決められた道順を、外れた。



路地のいちばん奥、崩れかけた塀のたもとに、その子は座っていた。


膝を抱えて、顔を伏せて。私と同じくらいか、ひとつ下くらい。痩せていた。


肌が、紙みたいに白い。白いというより、透けていた。胸の青白い灯が、その薄い皮膚を通して、ぼうと滲んで見えるほどに。


近づくと、冷気が、頬に触れた。


その子の周りだけ、季節が違った。


わかった。読めなかったわけが。その子は、いま、自分の灯を、消そうとしていた。


残りを数えるのをやめて、ただ静かに、芯を細めていくところだった。奪われる前に、自分の手で。死のうとしている人間の燈は、いつも、こんなふうに静かだ。


私は、その静かさを、よく知っている。毎晩、自分の胸の中で、聞いているから。


手が、勝手に伸びた。


「待っ――」


指が、その子の肩に触れる、寸前。


「余計なこと」


顔が、上がった。


冷たい目だった。涙の気配なんて、どこにもない。澄んでいて、硬くて、刃みたいに、まっすぐだった。


「あんたに、関係ない」


「でも、その焚き方じゃ――」


「焚いてない。消してるだけ」


その子は、伸ばした私の手を、払いのけた。払う力は、弱かった。弱いのに、迷いがなかった。


「親切なら、いらない」


私を、見もしなかった。「これまで、やさしい顔で近づいてきた人は、みんな、最後に同じことを言った。お前の時は、お前だけのものじゃない、って。


だから、決めた。誰にも渡さない。最後くらいは、自分で」


「奪われるくらいなら、自分で終わる。私の終わり方だけは、私のものでしょう」


言葉が、すうっと、路地の冷気に溶けた。


私は、手を引っ込められなかった。


なぜって――その横顔が。膝を抱えて、世界の全部に背を向けて、それでも「自分のものだけは渡さない」と言い張る、その細い顎の線が。


八年前の、妹に、似ていた。


凪。


もう、声も思い出せないのに。


その子に、妹を、見てしまった。



気づいたら、私は、その子の手を、握っていた。


払われた手を、もう一度、つかんでいた。


冷たかった。氷みたいに冷たい指だった。


「離して」


「いやだ」


自分でも、驚いた。いやだ、なんて言葉を、何年ぶりに口にしただろう。


その瞬間。


着物の裏地の、左の奥。八年、ずっと冷たかった、妹の燈札が。


ひとつ、ともった。


胸の奥で、固いだけだったはずのそれが、その子の冷たい指先に応えるみたいに、かすかに、たしかに、温かくなった。


なに、これ。


考える間も、なかった。


握った手と手のあいだに、糸が、生まれた。


目に見える糸じゃない。胸の奥と奥が、まっすぐ、一本につながったのが、わかった。その子の青白い灯と、私の小さな燈が、いま、ひとつの線で結ばれてしまった。ほどけそうにない結び目で。


縁糸(えんし)を、人は、めったに見ない。寺の偉い人でも、一生に一度、見るか見ないかだという。それが、いま、私とこの子のあいだに、勝手に生まれた。望んでも、いないのに。


縁糸。


人と人の燈を結ぶ糸。自然に生まれることは、めったにない。生まれたら、もう、ふたりの時は連動する。


片方が焚けば、両方から引かれる。片方が――尽きれば。


もう片方も、道連れになる。


その子が、目を見開いた。私の胸の糸を見て、それから、自分の胸を見下ろして。


はじめて、その澄んだ目に、揺れが走った。


「……なに、これ。返して。これ、いらない。あんたなんかと――」


「無理だよ」


私は、つないだ手を、見ていた。


わかってしまった。これで、私は、自由に燃え尽きることが、できなくなった。私が焚けば、この子からも引かれる。私が消えれば、この子も連れていってしまう。


それから、もうひとつ、わかった。


この子を、見殺しにも、できなくなった。


縁糸でつながったから、じゃない。


この子の中に、妹がいるから。八年前、私が救えなかった子が、いま、目の前で、同じ目をして、死のうとしているから。


「……なんで、笑ってるの」


その子が、(かす)れた声で言った。


笑っていたつもりは、なかった。でも、頬に触れると、たしかに、口の端が上がっていた。さっき焚場で浮かべたのと、同じ笑み。


でも、中身は、別のものだった。あのときは、減っていく自分に、肩の力が抜けて、笑った。いまは――この子に、明日も、笑っていてほしくて、笑っていた。



私は、その子の手を、握ったまま、立ち上がった。


冷たい指を、離さなかった。


「名前は」


「……言わない」


「私は、澪。焚き手の」


その子は、答えなかった。藍色の路地で、私たちの手のあいだの糸だけが、ほのかに灯っていた。


胸の奥で、八年ぶりに、妹の札が、温かい。


この子を、生かす。


その一言は、胸の中で、おさまりのいい場所を見つけた。八年、ずっと空いたままだった場所に、ちょうど、はまった気がした。


言葉にしてみて、足の裏が、地面についた気がした。八年間、私はずっと、自分の時を、早く使い切ることばかり考えていた。来月なんて、いらなかった。明日なんて、なくてよかった。


なのに、いま、私は、初めて、自分から「したい」ことを、見つけてしまった。


この子を、死なせたくない。


そのためには――私が、生きていなきゃ、いけない。


握った手に、力を込めた。その子の指が、ほんの少し、握り返してきた。たぶん、無意識に。それでもよかった。


「離してよ」


「離さない」


「……変な人」


「うん。よく言われる」


空に、火の粉が、まだ少しのぼっていた。焚場の篝火の名残だ。澪津の夜は、誰かの燃やした時間で、いつも少し、明るい。


妹がくれた時間で、私はずっと死にたがっていた。


その私が、いま、初めて――明日も生きていたい理由を、握ってしまった。


冷たい手のひらの中で、それは、まだ、かすかに灯っている。

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