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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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10/21

第10話 明日も、君と

朝、市場(いちば)まで、二人で歩いた。


米を、量り売りしてもらう。銭を数える灯の手つきは、もう危なげがなかった。初めのころは、銭を数えることさえ、できなかった。誰かに数える機会そのものを、与えられなかったから。


帰り道、灯が干した梅を、売っている屋台の前で、足を止めた。


「欲しいの」


「別に」


言いながら、目は、まだ梅から、離れなかった。


私は何も言わずに、一粒、買った。灯の手のひらに、乗せる。


「別にって、言った」


「聞いてない」


灯はそれ以上、拒まなかった。梅を口に含んで、顔を、すこし、しかめた。酸っぱかったらしい。それでも次の一粒に、また、手を伸ばした。


こんな、些細なことが、できるようになった。誰かに何かを、与えられて、それを拒まずに、受け取る。八年前の私と、今の灯と、どちらのほうが、遠くまで来たのだろう。


夏の日差しが、灯の頬に、赤みを、差していた。前は、いつも、白いだけの頬だった。



昼過ぎ、繕い物をしていた。灯の着物の、袖口がほつれていた。


針を持つ私の手を、灯がじっと、見ていた。


「痛くないの、それ」


「針? 痛くない」


「前に、指、刺してたでしょう」


「たまに」


灯が私の手を、取った。掌を、上に向けさせて。指の腹を一本ずつ、確かめる。針だこの、硬くなった皮を、なぞって。


「ここ、硬い」


()くほうの手じゃ、ないから。平気」


灯は、それでもしばらく、私の手を放さなかった。誰かの体を、こんなふうに、確かめることを、この子はしていなかった。自分の胸を、隠すことばかり、覚えてきたから。


いつのまにか、増えていた。灯が、私にしてくれることが。



(あかり)が、私の髪を梳いていた。


指のあいだに、木の櫛を挟んで。もつれをひとつずつ、ほどいていく。急がず、丁寧に。


出会ったばかりのころ、灯は触れられることに、体をこわばらせた。今は、こうして、髪を、梳いてくれる。


それでも、ときどき、指が、ほんの一瞬、止まることがある。理由を、聞いたことは、なかった。すぐに、また、動きだすから。


いつからか、こうなった。


最初は、私が灯の髪に触れていた。今は、逆だった。灯の指が私の髪の根もとを、そっとなぞる。


夏の夜気が、開けた窓から、すこしだけ、入ってくる。虫の声が遠くで、鳴いていた。


「痛い?」


「痛くない」


「嘘」


灯の指が、止まった。それから、また、動きだす。さっきより、すこし、優しく。


窓の外は、もう、藍色だった。澪津(みおつ)の灯りが、ひとつ、またひとつ、(とも)っていく。谷からの帰り道に見たのと、同じ景色だった。


位は三のまま、動いていない。焚場(たきば)にも、あれから、まだ出ていない。灯はそれを、責めなかった。


なぜ止まっているのか、聞きもしなかった。ただ、髪を梳いている。


行かなくてもいい理由なら、いくらでも、並べられた。手が、まだ本調子じゃない。次の相手が、決まっていない。


けれど、本当の理由は、もっと単純だった。今、位を上げることより、こうしている時間のほうが、惜しくなかった。


その変化に、自分でも、まだ慣れていなかった。


この静けさに、名前をつけるなら、なんと呼べばいいのか、私は知らなかった。ただ、悪くない名だろう、とは、思った。



櫛を、置く音がした。


「終わり」


「ありがとう」


灯が私の隣に、座り直した。肩が、触れる距離だった。近すぎず、遠すぎず。それがいつのまにか、二人の、いつもの距離になっていた。


「明日、市場行くの」


灯が、聞いた。米が、そろそろ切れる。


「行く」


「私も」


「谷より、近いから」


「関係ない」


「関係ない」は、いつも、この形をしていた。譲る気配は、なかった。もう、慣れた。


夕餉の粥を、二人で分けた。灯の椀のほうが、すこし、多い。今日も、そうしていた。灯は、もうそれに気づいても、何も言わなくなった。


「燠、大丈夫かな」


箸を止めて、灯が言った。


「わからない」


「今度、また、行く?」


「行く。米、届けがてら」


灯が、頷いた。それ以上、何も聞かなかった。聞いても答えが、ないことを、わかっているみたいだった。


食べ終えて、灯が私の肩に、頭を預けてきた。前は、なかったことだった。谷から帰ったあの夜から、すこしずつ、こうなった。


窓の灯りを、二人でしばらく、見ていた。誰かの(ともしび)が、誰かの家で、燃えている。それを見るたびに、谷での問いを、思い出す。


二人でひとつの灯を、燃やした人たちが、いた。うまくいって、長く、燃えて。それでもこの世から、消された。


答えは、まだ、出ていない。(おき)は、核心を話さなかった。


でも、今、こうして、灯の肩の重みを、感じていると、あの問いは、遠いことのように思えた。二人でいることが、こんなに静かで、あたたかいのに。なぜ、それが、葬られなければならなかったのか。


わからない。わからないまま、いい、とさえ、思った。


灯の手が、私の膝の上で、私の手を見つけた。指を、絡めてくる。一瞬だけ、指が、止まった。いつもの、あれだった。


すぐに、また、絡んだ。もう、冷たいだけの指じゃなかった。谷から帰った夜より、また、すこし、あたたかい。


この手を、明日も感じていられたら。


燠は独りを、選んだ。誰とも糸を結ばず、谷の底で燻り続けることを。あの選び方を、私はしたくなかった。


「明日も」


言葉が考えるより先に、こぼれた。


「明日も、灯と、こうしていたい」



言ってから、自分の声に、驚いた。


誰かのためでなく、自分のために、何かを願ったのは、いつぶりだろう。数えようとして、やめた。数えるほどのことじゃない。ただの、独り言みたいなものだった。


そのつもりだった。


隣で灯の肩が、こわばった。


頭を預けていた重みが、すっと消えた。私はその変化に、遅れて、気づいた。


「灯?」


振り向くと、灯は動かなくなっていた。


瞬きも、しない。呼吸も止まっているように、見えた。目は、私を見ていない。私の、すこし向こう、何もない空間を、見ていた。


かわりに、灯の右手が、ゆっくりと、持ち上がった。掌を、上に向けて。手首の内側を、私のほうへ、差し出すように。


喉も、すこし、上を向いた。結び目の透ける、あの薄い皮膚が、灯りの下で、青白く、浮いた。差し出された手首から、いつもの冷たさが、また、戻ってきているのが、見なくても、わかった。


見たことのある、姿勢だった。前に一度だけ、見た。灯が誰かに、値踏みされていたとき。


あのときも、こうやって、体の一部を、先に差し出していた。取りやすいように。持っていきやすいように。


訓練された、差し出し方。抵抗するより、先に明け渡す。そのほうが、まだ痛みが、すくないから。


あのときは、相手が、灯を奪おうとしていた。今、ここには私しかいない。それでも、体は同じ動きを、選んだ。望まれることと、奪われることの区別が、この子の中では、まだ、ついていないのかもしれなかった。


「……なに、それ」


声が、掠れた。


灯は、答えなかった。手首だけが、差し出されたまま、動かない。指先がかすかに、震えていた。


差し出しているのに、逃げたがっている。矛盾した動きが、同じ手の中に、同居していた。


私は、手を伸ばしかけて、止めた。触れたら、もっと悪くなる気がした。この手が、今、何を恐れているのか、私には、まだわからなかった。



しばらくして、灯の腕がゆっくり、下がった。目の焦点が、戻ってくる。それから、体ごと私から、離れた。


肩の触れる距離が、なくなった。


「灯」


「欲しがらないで」


声が、硬かった。これまで聞いたことのない、硬さだった。


「私を、欲しがらないで」


「欲しがってなんか――」


「明日も、って言った」


灯が、遮った。


「あさっても、その次も。ずっと、って、聞こえた」


言っていない。そこまでは。でも灯の耳には、そう、届いたらしかった。


「そういうの言った人、みんな、最後には、離さなくなる」


灯の声は、震えていなかった。ただ、硬いだけだった。震えるより、硬いほうが、なぜか、怖く見えた。


「渡さない、って。お前は私のものだ、って。優しい顔で、みんな、言った。燈寺(とうじ)の人も。買った人たちも。最初はみんな、優しかった」


「私は」


「知ってる。(みお)は、違う」


灯は、目を伏せた。


「わかってる。それでも、体が、忘れてくれない」


その一言に、私は、何も言えなかった。


灯が自分の喉に、そっと、指を触れさせた。


「私の終わり方だけは、私のものだって、決めた。それだけは、誰にも渡さないって、ずっと、そう思ってきた」


灯は、一度、口を閉じた。それから、また、開いた。


「小さいころ、誰かが、私を気に入ったことがある。可愛がって、いいものを、くれた。ずっとそばに置きたいって、言われた」


声が、すこし、低くなった。


「その人が、燈寺に、届け出ようとした。ずっとそばに置きたいから、ちゃんと登録しておいてやる、って。そう、言って」


「逃げた。その晩のうちに。それから、ずっと、隠れてきた」


その人の名も、顔も、灯は口にしなかった。ただ声の温度だけを、まだ覚えているらしかった。優しい声だった。だからこそ、いちばん、深く、刺さった声だった。


私は、何も言えなかった。


「欲しがられるって、そういうことだった。ずっと、そういうことだった」


「明日も、なんて、決められたら」


言葉が、途切れた。


「私、それも、渡すことになる」


私は、もう一度、手を伸ばした。今度は、止めなかった。指先が灯の腕に、触れる。


灯がびくりと、体を引いた。触れられた場所を、もう片方の手で、強く、押さえる。指の跡が、白く残るほど。


「ごめん」


私は、手を引っ込めた。


「触らないでって、言ってない」


「でも」


「わかんない。今、どうしてほしいか、自分でも」


灯の声が、初めて、すこし、揺れた。硬さの下から、別のものが、覗いた。


それでも、灯は、私に近づいてはこなかった。触れられたくないのか、触れたいのに、体が許さないのか。その両方が、同時にこの子の中に、あるように見えた。



私は、謝ろうとした。でも、何を謝ればいいのか、わからなかった。灯と一緒にいたいと、思ったことを、謝るのか。それを口に出したことを、謝るのか。


どちらも、違う気がした。どちらも、正しい、とも思った。


「灯、私は、ただ――」


「わかってるって、言った」


灯の声が、すこし、大きくなった。それから、また、すぐに小さくなった。


「わかってるから、余計に」


灯はそれ以上、続けなかった。立ち上がって、部屋の隅、いつもの寝床とは、違う場所に、自分の布団を、運んだ。


背を向けて、横になる。


私はいつもの場所に、座ったまま、動けなかった。


手を伸ばせば、届く距離だった。けれど、その距離を、今夜は、埋めてはいけない気がした。


何か、言おうとして、口を開きかけた。けれど、言葉は出てこなかった。取り消したいのか、もう一度、同じことを、言いたいのか。自分でもわからないまま、口を閉じた。


部屋の灯りを、消した。暗闇の中で、灯の背中の輪郭だけが、かろうじて、見えた。



窓の外で、澪津の灯りが、ひとつずつ、消えていく。誰かが眠りに落ちるたび、この町の灯も、すこしずつ、少なくなる。


着物の裏で、(なぎ)燈札(ひふだ)は、今夜、あたたかくなかった。


燠の谷で聞いた問いが、また頭の中で、鳴った。二人でひとつになったものは、なぜ、葬られたのか。


答えがすこしだけ、わかった気が、した。


一緒にいたいと、願うこと。それ自体が、誰かを縛ることに、なるのかもしれない。二人でひとつになることは、どちらかが、どちらかを、離せなくなることでも、ある。


背を向けたままの灯の肩が、暗がりの中で、かすかに上下していた。眠っているのか、起きているのか、わからなかった。


手を伸ばせば届く距離に、この子が、いる。それだけで、充分だったはずだった。さっきまでは。



夜が明けても、灯は布団から、出てこなかった。


いつもなら、先に起きて、粥を支度している時間だった。今朝は背を向けたまま、動かない。眠っているのか、そのふりをしているのか、私にはわからなかった。


声をかけようとして、やめた。かけたところで、昨夜と同じことの、繰り返しになる気がした。


一人ぶんの粥を、鍋にかけた。二人ぶんを、作る手が止まっていた。


位を上げることより、この時間のほうが、惜しくない。昨日、そう思った、そばから、これだった。惜しくない、と思えた時間ほど、脆かった。


今日、市場へは行かないだろう。明日のことも、まだ、わからない。それでもこの部屋の中に、灯が、いる。それだけは、動かなかった。


明日も、と願うことさえ、灯には、重すぎたのかもしれない。今日一日を、なんとか、生きること。これまで、許されていたのは、それだけだったのかもしれない。


米は、もう、底をついている。それでも、市場へは、行けそうになかった。谷へ、また行く約束も、まだ、果たしていない。燠の具合も、わからないままだった。


私は、願っただけだった。


それだけで、灯を、怯えさせた。


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