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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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11/21

第11話 あれは、偶然じゃない

三日、(あかり)は私の手を、握らなかった。


布団もあの晩から、別々のままだった。話しかければ、返事は来る。短く、必要なことだけ。


「わかった」「うん」「行ってくる」。声は尖っていない。ただ、遠い。


髪もあれから、梳いてもらっていない。朝、自分で櫛を通した。うまく、通らなかった。灯の指のほうが、上手だった、と今さら、気づいた。


灯の様子も、変わった。以前は、私が焚場へ行く日は、必ず、袖を掴んで、離さなかった。今は、行くと言えば、行くのか、とだけ、返ってくる。


止めもしないし、心配そうな顔も、見せない。見せないだけなのか、心の底から、そうなのか、私には、わからなかった。


繕い物も、二人でしなくなった。灯の袖口が、またほつれても、気づかないふりをしている自分に、気づいた。触れれば、またあの夜みたいに、なにかが起きる。それが、怖かった。


夕餉も隣り合わずに、すこし、間を空けて、座るようになった。理由はどちらも、口にしなかった。


窓の外を、二人で見る夜も、なくなった。誰かの燈が、誰かの家で燃えている、あの景色を、今はそれぞれ、別の場所から、眺めているようだった。


私も無理に、近づかなかった。近づけば、また何かを、こわす気がした。


朝、米櫃を覗いた。底にひとつかみぶんも、残っていない。


「米、ない」


灯が、短く、言った。


「わかってる」


「焚場、行くの」


「行く」


それだけだった。灯はそれ以上、聞かなかった。ついてくる、とも言わなかった。



澪津(みおつ)の朝道を、ひとりで歩いた。


隣に、誰もいない。袖を引く手も、絡む指も、ない。歩幅を、確かめる相手もいない。八年ぶりに、戻った感覚のような、慣れているはずの、ひとりだった。


夏の終わりの風が、まだ、湿っていた。蝉の声も、すこし、勢いを失っている。季節が、また、ひとつ、動こうとしていた。


慣れているはずなのに、軽くなかった。


道端の屋台に、干した梅が、並んでいた。この前、灯が足を止めた店だった。今日は見ないふりをして、通り過ぎた。


歩きながら、自分に言い聞かせた。


もう、何も望まない。


あの晩、灯をあれほど、怯えさせた。望むことが、こんなにも、恐ろしいものだと、知らなかった。灯の右手が、差し出された、あの姿勢を、まだ忘れられない。あれだけは、二度と見たくなかった。


だから、今日は、ただ守るためだけに、勝つ。灯のために。自分のためには、何ひとつ、願わない。それなら、もう、誰も怖がらせずに、済む。


それだけを、決めて、焚場(たきば)の門を、くぐった。



今日の相手は、位二位(くらいにい)だった。


名は、聞かなかった。名を知って、何かが変わるわけでもない。砂の上に立つと、相手は静かに、こちらを、見た。


歳のころは、私よりずっと上。構えず、ただ、待っている。位二位まで昇った者に、共通する、静けさだった。


観客席が、ざわついた。「野良が、また、無茶を」という声が、聞こえた。位三位を一発で沈めた噂は、まだ、残っている。今度の相手は、格が違う、と誰かが言った。


「借りる隙、あるかしらね」


行司見習いが、心配そうに、囁いた。位十一位のとき覚えた技――借り技――は、相手の(ともしび)に細い糸を結び、その火を引いて、返す。自分の燈は、一滴も減らない。だが、太く結ばれた縁糸(えにし)を持つ相手には、隙が、ない。


相手の胸の奥を、見た。


燈が、厚い。それだけでなく、糸の結び方が、固い。誰の隙も許さない、閉じた結び方だった。長く、こうして、独りで勝ち上がってきた者の、結び方だった。


行司の手が、上がった。



最初の一合は、互いに探るだけだった。相手が小さく、火を放つ。私は受けながら、細い縁を結ぼうとした。


弾かれた。


結ぼうとした端から、切られる。糸が伸びる先を、見透かされていた。もう一度、試す。


また、弾かれる。相手の指先が、こちらの動きより先に、宙を撫でていた。糸の伸びる道筋が、初めから、見えているかのような、動きだった。


三度目、指先が焼けた。


四度目も、五度目も、読まれた。相手は糸の届く先を、先回りして、断ち続けた。惜しんで様子を見る余裕さえ、与えてくれなかった。


試しに、惜しむ構えで、間合いを外そうとした。炉を低く保つように、自分の火を、できるだけ、動かさずに。だが、相手は、それさえ、見切っていた。


動かない獲物を、逃さない目だった。燠のような、待つ強さとは、違う。ただ、隙という隙を、塗りつぶす強さだった。


(おき)なら、この構えを、見破れただろうか。谷を出てから、ずいぶん、経った。まだ、米を届けにも、行けていない。


今度こそ、行かなければ。そんな考えが、場違いに頭の隅を、よぎった。


息が、上がりはじめた。相手は、まだ、余裕を崩さない。惜しんでも、間に合わない。


借りようにも、隙がない。過剰に()けば、灯にあの夜と同じ代償が、回る。それだけは、しないと決めていた。


残る手は、なかった。


膝が、砂に沈みかけた。汗が額から、顎を伝って、砂に黒い染みを作った。



その一瞬、縁糸の向こうを、感じた。


澪津の、あの部屋。灯が、いる。今、この瞬間も、私の燈と繋がっている。


焚けば、灯が冷える。負ければ、代償だけが、無駄になる。どちらに転んでも、あの子に、届く。


いつもなら、そこで覚悟を決めて、焚く。自分を、差し出す。


脳裏にあの夜の、灯の右手が、よぎった。掌を上に向けて、差し出された、あの手首。取りやすいように、と訓練された、あの姿勢。差し出すことが、いつも何かを、奪われることの前触れだった、あの子の、体。


私はそれと、同じことを、していたのかもしれない。


差し出せば、奪われる。焚けば、灯が削られる。ずっとそうやって、この子から、何かを引き出してきた。買い戻すためだと、言い訳をしながら。


今日は、違った。


差し出す代わりに、糸の向こうへ、何かを返そうとした。


言葉にできない。焚くのとも、借りるのとも、違う動きだった。奪うのではなく、こちらから、先に何かを、渡す。灯へ。


何を渡しているのか、自分でもわからないまま。減らすためでも、増やすためでもない。ただ、ひとつ、返したかった。


胸の奥の燈が、応えた。


いつもの、熱くなる感覚とは、違った。熱が、行って、また、戻ってくる。これまで、覚えのない感触だった。指先が痺れるほど熱いのに、なぜか、老いる痛みは、なかった。


相手の火が、放たれた。


私はその火を、迎えた。奪うでも借りるでもなく、ただ受け止めて、そのまま、返した。行って、戻って、また、行く。


指先から、肘から、胸の奥まで、何かが、駆け抜けた感覚があった。縁糸の向こうで、何かが、応えるように、揺れた。


考えている、暇はなかった。


光が、はじけた。



気づくと、相手が、膝を、ついていた。


行司の声が、遠く、聞こえた。位が動いた、という声。二位、という数字が、誰かの口から、出た。


観客席の誰かが、「化け物だ」と、笑いながら、叫んだ。悪意のない、賞賛のつもりの、声だった。


私は、立っていた。


立っていたが、様子がおかしかった。いつもの、勝った後の、あの空っぽな手応えが、なかった。軽くなっている。だが抉られたような、痛みを伴う軽さではない。


手の甲を、見た。


爪の根の焦げ色は、消えていない。だが増えても、いなかった。位をひとつ上げただけにしては、代償があまりに、少ない。指の関節も、いつもより、動きがなめらかだった。


まさか、と思った。


もう一度、確かめた。何度、数えても同じだった。焚いた量に、見合わない、軽さだった。位二位を相手取った代償にしては、あまりに、安い。


「……たまたま」


声に出して、言ってみた。


言ってみて、自分でも信じきれなかった。相手の油断か。行司の見誤りか。


数え方を、間違えているだけか。理由をいくつも、並べてみた。どれもしっくり、こなかった。


行司見習いが、寄ってきた。


「今の、何の技ですか」


「……さあ」


答えられなかった。見習いは、怪訝な顔をして、それ以上、聞かなかった。台帳に、何かを、書き付けている。


位二位に、白星。それだけが、記録された。技の名は、どこにも、残らなかった。


名のない技だった。私にも、名付けようがない。


位二位。買い戻しの価まで、あと、すこし。焚場に立った、いちばん最初の夜に思い描いていた道のりから見れば、驚くほど、近づいていた。


それなのに、喜びが、うまく、湧いてこなかった。買い戻す先で、灯が、笑ってくれるかどうかさえ、今の私には、わからなかったから。



控えの間で、しばらく、座り込んでいた。


何が起きたのか、説明しようとして、言葉が見つからなかった。焚いたのでも、借りたのでも、惜しんだのでもない。何か、別のことを、した。それだけは、確かだった。


行って、戻ってくる、あの感覚。あれは、なんだったのか。


燠に、聞けば、何か、知っているだろうか。それとも、あの人も、知らないことなのか。谷は、遠い。今、確かめに行く力は、残っていなかった。


考えても、答えは出なかった。


運が良かっただけだ、と自分に言い聞かせた。相手が途中で、力を抜いたのかもしれない。数え間違えているだけかもしれない。そう思わないと、うまく、飲み込めなかった。



帰り道、夕焼けが澪津の屋根を、赤く染めていた。


勝った。位も、上がった。それなのに、心のどこかが、まだ落ち着かなかった。


あの、行って戻ってくる感覚を、もう一度、思い出そうとした。うまく、思い出せない。焚場の砂の上で、確かにあったはずのものが、今は、もう輪郭さえ、掴めなかった。


灯に話すべきか、考えた。話したところで、何と言えばいいのか。私にもわからないことを、あの子にうまく、伝えられる気がしなかった。


夕暮れ、長屋へ戻った。


戸を開けると、灯が、いた。窓のそばに、座っていた。姿勢からして、しばらく、そこに座っていたらしかった。私の帰りを、待っていたとしか、思えない座り方だった。


土間の隅に、鍋が、ひとつ。中を覗くと、粥が、まだうっすらと、湯気を立てていた。


誰かのために、支度したような、量だった。


「勝った」


それだけ、言った。


灯はこちらを、見た。長く、見た。目がいつもより、手の甲のあたりを、確かめるように、動いた。


私の老いを、数えているのだ、とわかった。何かを言いかけて、やめた。


「……そう」


それだけだった。


手は、伸びてこなかった。近づいても、こなかった。ただ鍋のそばに、椀をふたつ、並べておいた。たった、それきりの、気配だった。


いつもより、少しだけ、多めに盛られていた。私のぶんが。


言葉にならない、何かがそこに、あった。


私はそれ以上、聞かなかった。聞けば、また、こわれる気がした。今は、この、椀ふたつの気配だけで、充分だった。



夜、粥を分けて、食べた。


灯は、床に、先に入った。今夜も布団は、別だった。


私はしばらく、起きていた。行灯の芯が、じじ、と小さく鳴った。窓の外で澪津の灯りが、ひとつ、またひとつと、消えていく。


胸の奥に、手を当てた。いつもの、癖だった。自分の燈を、確かめる。


今日の戦いの、答え合わせのつもりだった。減っているはずの量を、もう一度、数え直す。


やはり、少ない。おかしいほど、少ない。


それから、縁糸の向こうへ、意識を伸ばした。灯の冷たさを、探る。毎晩、欠かさずに、続けてきた、確認だった。


冷たかった。いつもと、同じ、冷たさだった。


肩の力が、抜けかけた。そのとき。


一瞬、指先が、すっと軽くなるような、感覚があった。糸の引きが――澪津の朝から、ずっと当たり前にそこにあった、あの、繋がれている重み、引かれている感覚が――ふっと、緩んだ。


まるで結び目が、ほどけかけて、また結び直されたような。重さが消えたのは、瞬きひとつぶんの、あいだだけだった。


息を、止めた。


もう一度、確かめようとした。だがその感覚は、すでになかった。いつもの、引きに戻っていた。


灯はいつもどおり、冷たいまま、そこに、いた。寝息だけが、規則正しく、聞こえていた。


見間違い、いや、感じ間違いだったのだろう。


疲れているせいだ。今日、慣れないことを、したせいだ。そう、思うことにした。


焚けば、燈は、減る。それはこの世で、いちばん、動かない理だった。八年、疑ったことも、なかった理だった。


なのにあの夜だけ、縁糸の引きが、たしかに緩んだ。今日の焚場で、行って、戻ってきた、あの熱の輪と、同じ気配が、した。


偶然が、二度、重なっただけだ。


谷で聞いた、あの話が頭の隅を、かすめた。二人でひとつの灯を、燃やした人たち。長く、燃えて。それでもこの世から、消された、という話。


関係ない。今日、私が独りで、していたこととは、違う。


そう、自分に言い聞かせた。


それでも、眠りに落ちる寸前、頭の隅で、何かが、しつこく、引っかかっていた。うまく、言葉にならない引っかかりだった。


考えるのを、やめた。今日は、もう、じゅうぶんだった。


あれは、偶然だった。そう、思いたかった。


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