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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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第12話 遠くの灯が、揺れる理由

朝餉の粥を、二人で分けた。


(あかり)の椀のほうが、すこし、多い。それに灯は今日は、何も言わなかった。前はたまに、多いことを、指摘してきた。


近頃はそれも、しなくなっていた。多いままで、いいと決めたのか。それとも、まだ、そんな余裕がないだけなのか、私にはわからなかった。


「今日は、私も、行く」


灯が、先にそう言った。


私は、すこし、驚いた。米は、まだ、余っている。市場(いちば)に行く理由は、特になかった。それでも灯は土間の草履に、足を通していた。


「別に、いいけど」


「いいから、行く」


短い会話だった。それでも何日か前より、言葉の数が、すこし、増えている。手は、まだ、繋がなかった。


肩も、寄せなかった。それでも隣を歩く距離は、いつのまにか、前とほとんど、変わらなくなっていた。


あの晩、窓辺で待っていた灯を見つけてから、何日か経った。粥を多く盛る手も、まだ、続いている。それに気づかないふりをするのも、まだ、続いている。


布団は、いつのまにか、また並んで敷かれるようになっていた。それでも、何かが元に戻ったわけではない。ただ二人のあいだの氷が、すこしずつ、薄くなっているような、そんな手応えだけがあった。


位が二に上がったことは、もう、伝えてあった。灯はそれを聞いても、驚いた顔ひとつ、見せなかった。ただ、静かに頷いただけだった。喜びも恐れも、うまく、表に出せずにいるような、そんな頷き方だった。


澪津(みおつ)の朝は、夏の名残と秋の気配が、半分ずつ、混ざっていた。日差しはまだ強いのに、風の底にすこしだけ、涼しさが混じっている。



市場はいつもどおり、混んでいた。


夏の終わりの売れ残りと、秋の走りの品が、露店に並んでいる。青菜の匂い、干し魚の匂い、誰かが炊く飯の匂い。灯は私の半歩、後ろを歩いていた。


前を歩くほどの余裕は、まだ、ないらしい。それでも後ろに、隠れきってもいなかった。


通りすがりの子どもが、灯の顔をちらりと見て、走り去った。灯の肌は、まだ他の子より、白い。それでも以前ほど、痛々しく透けてはいない。


私はそれを、確かめるように、もう一度、見た。口には、出さなかった。


人だかりの中心に、見覚えのある髪の色があった。炎のような赤。摩耗のない、鮮やかな肌。燈札(ひふだ)を、いくつも胸元から下げている。


(ほむら)


誰かがその名を、呼んだ。歓声が、上がる。


撒かれた燈札を、人々が笑いながら、拾っていた。位が上がった今も、この男の眩しさは、変わらない。


焔の目が、こちらへ流れた。


「おい、位二位」


噂はここにも、届いているらしい。焔は笑いながら、近づいてきた。人だかりが、自然に、道を空けた。この男が歩くだけで、周りの空気が、変わる。


「たいしたもんだ。噂の技も聞いたぞ。減らずに勝ったんだって? 種明かし、しないのか」


「しない。自分でも、わからない」


嘘ではなかった。焔はそれを、冗談だと思ったらしく、声を上げて、笑った。


「謙遜が過ぎるな。俺なんか、買った時で勝つだけだ。お前のほうが、よっぽど、面白い手品を持ってる」


周りで誰かが、笑った。焔の言葉には、いつもそういう力があった。悪気なく、場の空気を、自分のものにしてしまう力が。


燈札を、またひと掴み、宙へ撒いた。子どもたちが、歓声を上げて、飛びついた。焔はそれを、満足そうに、眺めていた。誰かの年月が、笑い声に変わっていく光景を、何度も見てきた顔だった。


「あんたの手品も、大概、面白いけどね」


「これか?」


焔は胸元の燈札を、指で弾いた。宝飾のように、幾重にも下がった札が、乾いた音を立てた。


「これは、手品じゃない。ただの、買い物だ」


「買われたほうは、それで、済むと思ってる?」


言ってから、灯のことが、頭をよぎった。だが口にしたのは、老人のことだった。焔は、すこし、間を置いてから、答えた。


「済む済まないの話じゃない。誰だって、時は減る。俺から買うか、自分の寿命を削るか、それだけの違いだろう」


いつもの、正論めいた口調だった。だが今日は、その語尾が、すこしだけ、早かった気がした。まるで言い終える前に、次の言葉で、上塗りしたがっているような。


私はそれ以上、言い返さなかった。焔とこの手の話をしても、いつも平行線だった。噛み合わない歯車が、空回りするだけだった。何度話しても、届く言葉を、まだ見つけられずにいた。



その笑いが、ふと止まった。


焔の目が、私の隣へ動いた。灯を、見ていた。


初めてだった。この男が灯をまっすぐ、見るのは。いつもは私にばかり、絡んできた。灯のことは、道具のように、話の中でだけ、扱っていた。


焔の目が、細くなった。品定めするような、目だった。


「へえ」


声が、変わった。


「良い糸、持ってるな。お前」


灯へ、直接、言った。


「太い。こんな糸、そうそう見ない。燈寺(とうじ)が見逃してるのが、不思議なくらいだ」


焔は感心したように、灯の周りを、一歩、回った。値を確かめる、目利きの動きだった。


「たいした値打ちだ。もったいない話だ」


灯という人間でなく、灯という(ともしび)を、見る、目だった。


灯の体が、こわばった。


私は灯と焔のあいだに、半歩、体を入れた。


「やめて」


「ん? 褒めてるんだが」


「灯は、物じゃない」


焔は両手を、降参するように、軽く、上げた。悪気なく上げられた、その両手が、かえって、始末が悪かった。


灯は、何も言わなかった。ただ視線を、地面へ落としていた。指先が自分の胸元を、そっと押さえている。隠す、いつもの、しぐさだった。



その一瞬だった。


遠く、市場の端で、提灯(ちょうちん)が、ひとつ、揺れた。


風は、なかった。市場のどの旗も、動いていない。子どもの髪も、そよいでいない。それなのに、その提灯だけが、(とも)った火を、大きく、揺らした。


誰も、気づいていなかった。


商人は、客と値切りの声を上げている。子どもが笑いながら、駆け抜けていく。世界はいつもどおり、動いていた。


私だけが、それを見ていた。


名前も知らない、遠くの誰かの提灯。灯とは、なんの繋がりもないはずの、見知らぬ灯りだった。


息を、止めた。


これは、風じゃない。


()()として生きてきた目には、それだけは、わかった。あれは、燈の、揺れ方だった。灯と私を結ぶ、あの縁糸(えにし)の揺れ方と、どこか、似ていた。


でもこれは、私に向けたものじゃない。もっと遠くへ、向かっている。


瞬きひとつのあいだに、揺れは収まった。提灯の火は、何事もなかったように、元の高さへ、戻っていた。市場の喧騒も、変わらず、続いていた。


誰かが値切りに成功して、笑った。子どもが、また、駆け抜けていった。世界の側には、何ひとつ、痕跡が残っていなかった。


灯は、まだ、俯いたままだった。今のことに、気づいた様子は、なかった。自分の内側から、何かがあんなふうに、遠くまでこぼれ出たことに、まるで、心当たりがないという顔だった。



焔が、口を開きかけた。何か、言おうとしたらしい。


でもその視線が、ふと私たちの後ろへ、逸れた。


私もつられて、振り返った。


人だかりの端、いつもの場所に、あの老人が、いた。前に焔から、時を売った帰りだった、あの人。


痩せ方が、前より、進んでいた。頬の肉が削げて、目の奥が、さらに落ちくぼんでいる。手にはまだ、あの日の燈札を、握っているように、見えた。


もう、何年も前から、そこにいるみたいに。座り込んだまま、誰も拾わない場所で、ただそこにいた。周りの人だかりが、笑いながら燈札を拾い集めるのとは、別の世界の出来事のように、見えた。


老人の目が、焔を、見た。


何も、言わなかった。ただ、見ていた。値踏みでも、恨みでもない、ただの、確認するような視線だった。


あんたがあの日、買っていったものが、今、ここにある。それだけを、伝える、視線だった。


焔の口が、途中で止まった。


「……」


いつもの軽口が、出てこなかった。


私はその顔を、初めて、見た。作られた余裕でも、演じられた鮮やかさでもない、素の顔。何か、言葉を探して、見つからない顔。


喉が、動いた。何か、言おうとして、結局、音にならなかった。


燈札を纏った胸元に、焔の手が無意識に、触れた。いつもの、確かめる癖だった。でも今日は、その手が、すぐには離れなかった。


沈黙が、すこし、長かった。


老人はそれ以上、何もしなかった。ただ座ったまま、視線だけを、ゆっくりと、逸らした。品定めの終わった、道具を見るように。


やがて、焔は視線を、老人から、逸らした。それから、いつもの笑みを、また顔に貼り直した。手がようやく、燈札から、離れた。


でもその笑みは、いつもより、すこし、遅れて、貼られたように、見えた。糊の、まだ乾いていない、貼り紙のような、そんな笑い方だった。


「……まあ、いいさ。位二位、精々、無理するな」


軽い調子だった。だがさっきの軽さとは、どこか、違って聞こえた。


焔はそれだけ言って、人だかりの中へ、戻っていった。撒かれた燈札を、また誰かが、笑いながら、拾っていた。老人だけが、拾わずにその場に、座っていた。



市場を、出た。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


「あいつの言うこと、聞かなくていい」


私はようやく、言った。


「灯は、糸の太さで、決まる価値じゃない」


灯はしばらく、黙っていた。それから、ぽつりと言った。


「わかってる」


いつもの、硬い声だった。でも、すぐには歩き出さなかった。何かを考えているような、間があった。


「今日は、なんでか、腹が立った」


灯はそれだけ、言った。


「……ありがとう。あいだに、入ってくれて」


初めて聞く、言い方だった。礼を言われることに、灯自身、まだ慣れていないような、たどたどしさがあった。


「いいよ」


灯はそれ以上、続けなかった。ただしばらく、私を見ていた。


私は手を伸ばしかけて、止めた。まだ、早い気がした。


でも灯のほうから、袖の端を、軽く、掴んできた。


握るのとは、違う。ただ繋がっている、というだけの、触れ方だった。それでも久しぶりの、温度だった。谷から帰った夜より、また、すこし、あたたかかった。


しばらく、そのまま、歩いた。市場の喧騒が、後ろへ遠のいていく。



帰り道、私はさっきの揺れのことを、考えていた。


灯が怯えたり、怒ったりする瞬間に、あの提灯は、揺れた。灯とはなんの関わりもない、誰かの灯りが。


偶然、というには、揺れ方があまりに、正確だった。誰の意志でもなく、灯自身の内側から、こぼれ出たもののように。


焔の言葉が、頭の隅に残っていた。良い糸を持っている、と。値踏みするような言い方だった。もし、あの揺れが、灯の中の何かが、市場のどこかへ、届いていたということなら。


考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。だがその考えは、簡単には消えなかった。


それとも、糸の話とは、まったく別の何かなのか。灯が腹を立てたことと、遠くの誰かの灯りが揺れたこと。ふたつが同時に起きたのは、ただの、たまたまなのか。


考えれば考えるほど、輪郭が遠のいていった。


灯に話すべきか、迷った。


でも、何を、どう、話せばいいのか。あなたが怒ったとき、遠くの灯りが揺れていた、なんて。灯自身も、気づいていない。気づかせることが、優しさなのか、それとも、またこの子を、怖がらせるだけなのか、わからなかった。


私は、結局、何も言わなかった。


袖を掴む、灯の指の感触だけを、確かめながら、歩いた。


なぜ、灯の喜びや怒りが、会ったこともない誰かの灯りを、揺らすのだろう。


答えのない問いが、また、ひとつ、増えた。谷で聞いた話も、あの夜の縁糸の緩みも、今日の揺れも。ひとつひとつは、別の出来事のはずだった。それでもどこかで、繋がっている気が、してならなかった。


澪津の空に、夕暮れの色が、滲みはじめていた。どこかで誰かの灯が、また静かに、揺れているのかもしれない。私にはそれを、知る術がなかった。


位は、二のまま。買い戻しの価まで、あとすこし。それだけが、はっきりしていることだった。


それ以外のことは、何ひとつ、はっきりしないまま、日が暮れていく。谷の(おき)のことも、あの夜の縁糸のことも、今日の揺れのことも、答えのないまま、積み重なっていくばかりだった。


袖を掴む、灯の指だけが、今は確かな、あたたかさだった。


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