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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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第13話 初めて、奪った

夜中に、目が覚めた。


理由は、わからなかった。ただ胸の奥で、何かが軋んだ気がした。隣の布団を見る。(あかり)が、いない。


体を起こす。月明かりが、部屋の隅まで届いていた。戸は、細く開いていた。


「灯」


呼んでも、返事はなかった。


外に出ると、井戸端に、灯がいた。膝を抱えて、うずくまっている。背中が、いつもよりずっと小さく見えた。


「どうしたの」


近づいて、肩に手を置きかけた。触れる前に、指先が止まった。


熱い。


灯の体から、熱が伝わってきていた。搾取されすぎて冷たいはずの、あの体から。氷が溶けるみたいに、輪郭が滲んで見えた。


「灯」


もう一度呼ぶと、灯が顔を上げた。目が、いつもと違う色をしていた。青白い灯が、瞳の奥で揺れている。揺れが、大きすぎた。


「なんか……変」


声が、掠れていた。


「体の中の、何かが……止まらない」


胸に手を当てて、灯が言う。押さえても、押さえても、指のあいだから光が漏れているように見えた。実際には見えるはずのないものが、見えている気がした。


「灯の意志で、やってることじゃ、ないのね」


確かめるように、聞いた。


「わからない……止めようとしてる。でも、止まらない」


灯の呼吸が、浅くなっていく。いつもの、覚悟を決めた静けさとは、違う。あれは自分で選んだ死だった。


これは、選んでいないように見えた。体の内側から、何かに突き上げられているようだった。


私は灯の手を、両手で包んだ。焼けるような熱が、掌から伝わってくる。


「大丈夫。大丈夫だから」


根拠のない言葉だった。それでも、言うしかなかった。



灯の胸の奥、(ともしび)の色が、変わっていた。


いつもの、冷たく澄んだ青白さではない。縁の部分が、赤く滲んでいる。器から溢れ出そうとする水のように、光の輪郭がふやけていた。


縁糸(えにし)を通して、それが伝わってくる。私の胸の奥にも、同じ揺らぎが、こだまのように響いていた。


これは、知らない感触だった。


焚場(たきば)()きすぎた時の、あの熱さとは違う。あれは自分の意志で、自分の燈を燃やす熱だった。これは、燃やされている熱だ。灯自身が、自分の燈に、燃やされている。


「灯」


名を呼ぶことしか、できなかった。


灯が、私を見た。目の奥の光が、また一段、強くなる。


そのとき、灯の体が、大きく震えた。


「ぐ……」


声にならない声が、漏れた。


私は灯の体を、抱きしめた。熱い。これまで感じたことのない熱だった。


灯を抱くたび、いつも冷たさに驚いていた。今は、その逆だった。


灯の中の何かが、限界に近づいている。それだけは、わかった。



このまま、待てば。


そう考えた瞬間が、確かにあった。


(おき)なら何か知っているかもしれない。谷まで、走れば――でも、往復するだけで、半刻はかかる。間に合わない。


それとも、燈寺(とうじ)に――いや、燈寺に助けを求めれば、灯は取り上げられる。それだけは、絶対に、駄目だ。


誰かを呼びに行く。近くに、誰かいないか。


考えている、その一秒のあいだにも、灯の呼吸が、浅くなっていく。唇の色が、失われていく。


待てば、収まるかもしれない。灯の体は、灯自身のものだ。灯が乗り越えられるかもしれない。私が何もしなければ、何も、変わらないかもしれない。


でも。


目の前で、灯の指先が、白く発光していた。骨が透けて見えるくらいに、内側から光が漏れていた。


これは、待って、済むものじゃない。


わかっていた。それでも、選ぶ前に、私は一度だけ、目を閉じた。


自分の燈を、差し出すことは、考えなかった。(なぎ)燈札(ひふだ)に、触れかけた指を、途中で、止めた。迷う暇は、なかった。


私は、選んだ。


誰かの時を、使う。



井戸端から、路地へ、出た。


夜更けの通りに、人影は、少なかった。それでも、誰かは、いる。


角を曲がったところに、荷車を引く男がいた。夜のうちに市場へ向かう、行商人らしかった。年は、四十をいくつか超えたくらい。荷を引く肩が、丸まっている。


私は駆け寄った。


「すみません」


男が、振り向く。


「なんだい、こんな時間に」


その声に、答えなかった。答える余裕は、なかった。


男の手を、両手で掴んだ。


「なにを――」


驚いた声が、途中で止まった。


縁糸を、結んだ。


自然に発生するものではない。焚き()として学んだ技を、逆に使う。相手の胸の奥、燈の在処へ、無理やり、糸を伸ばす。


男の目が、見開かれた。


「お、おい――」


抗う声。だが、私の手は、離さなかった。


男の燈が、見える。灰色がかった、小さな灯。もう若くはない。


この人にも、家族がいるかもしれない。名前も、知らない。何を大事にして生きてきたのかも、知らない。


構わなかった。


その燈を、引いた。


「やめ――」


言葉が、途中で消えた。


男の体から、力が抜けていく。膝から崩れる。私はその手を、離さなかった。奪った熱を、そのまま、灯へ、送る。


私の中を、見知らぬ熱が、通り抜けていった。



これまで焚いてきた、自分の燈とは、違う。


自分の熱には、覚えがある。指先から出ていくとき、いつも同じ質感だった。乾いていて、馴染んでいて、悲しいくらいに、当たり前の熱だった。


これは、違う。


掌の中を、粘つくものが通っていくような感触だった。異物。体の中に、知らないものが入り込んで、そのまま抜けていく。


通り道の全部が、擦り切れるように痛んだ。皮膚の内側を、逆撫でされている感じがした。


自分のものではない時間を、自分の体を使って、運んでいる。


その事実だけが、腕の芯に、焼き付いた。


灯の胸に、その熱を、注ぐ。


灯の体の、赤く滲んでいた光が、少しずつ、色を変えていく。赤から、また、あの澄んだ青へ。溢れていた縁の輪郭が、少しずつ、器の中に戻っていく。


助かる。


そう思った瞬間、後ろで、崩れ落ちる音がした。


振り返った。


男が、道に、倒れていた。



駆け寄って、体を、揺すった。


「ちょっと――しっかりして」


返事は、なかった。


男の胸に、灯は、もう、なかった。


闇の中で見ても、わかった。あの、人が生きているときにだけある、微かな明滅が、消えている。荷車の陰で、月明かりだけが、動かない体を照らしていた。


()きた。


その言葉が、頭の中で、鳴った。


これまで、焚場で、何人もの焚き手が燼きるのを、見てきた。負けて、力尽きて、燃え尽きて。それは、本人が選んだ勝負の果てだった。


これは、違う。


この人は、選んでいない。今夜、いつもどおり、市場に荷を運ぼうとしていただけだ。私が、道の途中で呼び止めて、手を掴んで、何も告げずに、時間を奪った。


男の顔を、初めて、まともに見た。


皺の寄った、日に焼けた顔。口元に、笑うときにできるだろう、深い線がある。誰かに、笑いかけたことが、あったはずだ。誰かに、笑いかけられたことも。


名前を、知らない。


これから先、二度と、知ることもない。


私は、その場に、座り込んだ。膝に、力が入らなかった。



灯が、後ろに立っていた。


いつのまにか、井戸端から、ここまで、来ていた。まだ本調子ではないはずなのに、震える脚で、立っていた。


灯の目は、倒れている男を、見ていた。それから、私の手を、見た。


私の手は、震えていた。掌の皮膚が、薄く、火傷したように、赤くなっていた。焚きすぎたときの傷とは、違う手触りの傷。焚き手の焦げ色ではなく、もっと、生々しい、擦り傷のような赤さだった。


(みお)


灯の声が、震えていた。


「私のために……」


言葉が、続かなかった。


私は、何かを言おうとした。大丈夫、とか、仕方なかった、とか。そのどれもが、口から出る前に、間違っている気がした。


灯は、私の手に、触れようとして――止めた。


伸ばしかけた指を、引っ込めた。


「触れないほうが……いい」


小さな声だった。


「私の中に入ったものが、まだ、澪の中に、残ってる。それに、触ったら」


言い終わらずに、灯は、後ずさった。


一歩、二歩。私と、倒れている男とのあいだに、目に見えない線を引くように。



灯の顔から、血の気が、引いていた。


搾取されて冷たいときの色とは、また違う。唇の端が、小さく、震えていた。


「私が」


灯が、呟いた。


「私が、暴れたから……この人が」


「灯のせいじゃない」


私は、すぐに言った。


「灯が、選んでやったことじゃない」


「でも」


灯の声が、初めて、大きくなった。


「でも、私の中に、こういうものが、あるってこと。制御できない時が、来るってこと。今日、わかった。次も、こうなるかもしれない。そのたびに、澪が」


言葉が、途切れた。


灯は、自分の両手を、見た。手首の、薄い筋。生まれつきの、結び目の跡。燈寺が、価値として値踏みする、あの筋。


「私の中には、何か、良くないものが、あるんだと思う」


うまく言葉にできないというように、灯は、そこで、口を閉じた。


「否み続けられなかったら。今日みたいなことが、また、起きるかもしれない。そのたびに、誰かが」


「そんなことには、ならない」


「わからないでしょう、澪にも」


灯の声は、責めているのではなかった。ただ、事実を、突きつけるような、平らな声だった。


その平らさが、責める言葉よりも、ずっと、重く、私の胸に、落ちた。



男の体を、路地の隅へ、動かした。


荷車も、脇へ寄せた。荷は、野菜と、乾物だった。誰かが、朝、見つけるだろう。


夜のあいだに行き倒れた男として。誰も、本当のことを、知らないままに。


燈札を持っていないか、確かめる自分がいた。せめて、家族に届けるものがないか。指が、震えて、うまく動かなかった。


小さな木札が、懐から、出てきた。日に焼けて、端が擦り切れている。何か、印が彫ってあった。


読めなかった。誰かの名前か、印か。それだけを、私は懐に、収めた。


どこの誰かも、わからない。それでも、これだけは、道端に、置き去りにできなかった。



家に帰る道、灯は、私の少し後ろを、歩いた。


いつもは、袖を掴んでくる。今夜は、掴まなかった。手を伸ばそうともしなかった。


距離が、生まれていた。物理的な意味でも、それ以外の意味でも。


私は、何度か、振り返った。灯は、私を見ていなかった。足元を見て、歩いていた。


「灯」


呼んでも、顔を上げなかった。


「大丈夫。私は」


「大丈夫じゃない」


灯が、遮った。


「澪の手、まだ、震えてる」


見なくても、わかっていたらしい。私は、自分の手を、握った。震えは、止まっていなかった。



家に着いて、灯は、部屋の隅に、座った。


私と、少し離れた場所に。布団を並べていた場所からも、離れて。


何か言おうとして、やめる。それを、何度か、繰り返した。


私も、同じだった。何を言えば、正しいのか、わからなかった。ごめん、と言うのは、なぜか、違う。私が、謝る資格があるのかも、わからなかった。


灯を助けたことを、後悔していない。


それだけは、はっきりしていた。


でも、あの男の、笑い皺のある顔を、思い出すと、体の奥が、冷えた。焚きすぎたときの、あの、肩の力が抜けていくような熱とは、正反対の冷たさだった。


あの瞬間、私の中で、何かが、後戻りのできない場所へと、踏み出した感触があった。


一度踏み出せば、二度と、元の場所には戻れない。恐ろしいと思うより先に、ただ、単純な感触として、それがわかった。


一度、踏み出してしまった。



夜が、明けていく。


窓の外が、白んでいく。いつもなら、灯は、その光の中で、少しだけ、体をほどく。今日は、隅に座ったまま、動かなかった。


「灯」


三度目に呼んで、ようやく、顔を上げた。


「眠れそうにない」


それだけ、言った。


「私も」


私も、答えた。


私たちは、しばらく、黙って、白んでいく窓を、見ていた。


灯の目は、まだ、いつもより、色が濃かった。あの、赤く滲んだ光の名残が、まだ、瞳の奥にあるように、見えた。気のせいかもしれない。それでも、そう見えた。


「もう一度、あんなふうになったら」


灯が、ぽつりと、言った。


「私、今度こそ、ちゃんと否んだほうがいい気がする」


否む。灯が、いつも、その言葉で呼んでいたもの。自分の意志で、終わらせること。


私は、何も、言えなかった。止めるべきだと、頭ではわかっていた。それでも、言葉が、出てこなかった。


灯は、それ以上、続けなかった。ただ、膝を抱えて、そこに、座っていた。



台所で、水を汲んだ。


手が、まだ、震えていた。掌の赤みは、薄れていない。焚き手として生きてきて、初めて見る種類の傷だった。


自分のものを燃やした痕ではない。誰かのものを、通した痕。


水を、飲んだ。冷たさが、喉を通っていく。それだけが、いつもどおりの、感触だった。


懐から、昨夜の木札を、取り出した。日に焼けた、小さな板。彫られた印を、指でなぞる。


読めない文字だった。この人の名前かもしれない。屋号かもしれない。


誰かが、この人を、待っているかもしれない。


その誰かに、私は、何も、告げられない。名乗り出ることも、できない。私がしたことを、話せば、灯が、燈寺に、取り上げられる。


だから、これは、誰にも、言わない。


自分の中だけに、しまっておく。


木札を、懐の奥、凪の燈札の隣に、入れた。二枚の木札が、擦れる音がした。片方は、妹が遺したもの。


もう片方は、今夜、私が奪ったもの。同じ場所に、収まってしまう自分を、私は、止められなかった。


谷で、燠が、二芯一灯(にしんいっとう)の話を、はぐらかしたことを、思い出した。二人で一つは、なぜ葬られたのか。答えは、まだ、聞けていない。今夜のことと、関わりがあるのかどうかも、わからないままだった。



朝日が、部屋に、差し込んでくる。


昨日までと、同じ光だった。同じ、澪津(みおつ)の朝。それでも、何かが、決定的に、変わっていた。


戻れない場所に、来てしまった。誰かの時間を、無理やり奪って、それで、生きている。今、この瞬間も。


灯は、まだ、部屋の隅にいる。距離を、詰めてこない。


私も、詰めなかった。


私の手のひらには、まだ、あの熱の異物感が、残っている。焚いた自分の燈とは違う、擦り切れるような感触。忘れられる気は、しなかった。


初めて、誰かの時を、奪って、焚いた。


その事実だけが、朝の光の中で、静かに、確かに、私の内側に、居座っていた。


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