第13話 初めて、奪った
夜中に、目が覚めた。
理由は、わからなかった。ただ胸の奥で、何かが軋んだ気がした。隣の布団を見る。灯が、いない。
体を起こす。月明かりが、部屋の隅まで届いていた。戸は、細く開いていた。
「灯」
呼んでも、返事はなかった。
外に出ると、井戸端に、灯がいた。膝を抱えて、うずくまっている。背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
「どうしたの」
近づいて、肩に手を置きかけた。触れる前に、指先が止まった。
熱い。
灯の体から、熱が伝わってきていた。搾取されすぎて冷たいはずの、あの体から。氷が溶けるみたいに、輪郭が滲んで見えた。
「灯」
もう一度呼ぶと、灯が顔を上げた。目が、いつもと違う色をしていた。青白い灯が、瞳の奥で揺れている。揺れが、大きすぎた。
「なんか……変」
声が、掠れていた。
「体の中の、何かが……止まらない」
胸に手を当てて、灯が言う。押さえても、押さえても、指のあいだから光が漏れているように見えた。実際には見えるはずのないものが、見えている気がした。
「灯の意志で、やってることじゃ、ないのね」
確かめるように、聞いた。
「わからない……止めようとしてる。でも、止まらない」
灯の呼吸が、浅くなっていく。いつもの、覚悟を決めた静けさとは、違う。あれは自分で選んだ死だった。
これは、選んでいないように見えた。体の内側から、何かに突き上げられているようだった。
私は灯の手を、両手で包んだ。焼けるような熱が、掌から伝わってくる。
「大丈夫。大丈夫だから」
根拠のない言葉だった。それでも、言うしかなかった。
*
灯の胸の奥、燈の色が、変わっていた。
いつもの、冷たく澄んだ青白さではない。縁の部分が、赤く滲んでいる。器から溢れ出そうとする水のように、光の輪郭がふやけていた。
縁糸を通して、それが伝わってくる。私の胸の奥にも、同じ揺らぎが、こだまのように響いていた。
これは、知らない感触だった。
焚場で焚きすぎた時の、あの熱さとは違う。あれは自分の意志で、自分の燈を燃やす熱だった。これは、燃やされている熱だ。灯自身が、自分の燈に、燃やされている。
「灯」
名を呼ぶことしか、できなかった。
灯が、私を見た。目の奥の光が、また一段、強くなる。
そのとき、灯の体が、大きく震えた。
「ぐ……」
声にならない声が、漏れた。
私は灯の体を、抱きしめた。熱い。これまで感じたことのない熱だった。
灯を抱くたび、いつも冷たさに驚いていた。今は、その逆だった。
灯の中の何かが、限界に近づいている。それだけは、わかった。
*
このまま、待てば。
そう考えた瞬間が、確かにあった。
燠なら何か知っているかもしれない。谷まで、走れば――でも、往復するだけで、半刻はかかる。間に合わない。
それとも、燈寺に――いや、燈寺に助けを求めれば、灯は取り上げられる。それだけは、絶対に、駄目だ。
誰かを呼びに行く。近くに、誰かいないか。
考えている、その一秒のあいだにも、灯の呼吸が、浅くなっていく。唇の色が、失われていく。
待てば、収まるかもしれない。灯の体は、灯自身のものだ。灯が乗り越えられるかもしれない。私が何もしなければ、何も、変わらないかもしれない。
でも。
目の前で、灯の指先が、白く発光していた。骨が透けて見えるくらいに、内側から光が漏れていた。
これは、待って、済むものじゃない。
わかっていた。それでも、選ぶ前に、私は一度だけ、目を閉じた。
自分の燈を、差し出すことは、考えなかった。凪の燈札に、触れかけた指を、途中で、止めた。迷う暇は、なかった。
私は、選んだ。
誰かの時を、使う。
*
井戸端から、路地へ、出た。
夜更けの通りに、人影は、少なかった。それでも、誰かは、いる。
角を曲がったところに、荷車を引く男がいた。夜のうちに市場へ向かう、行商人らしかった。年は、四十をいくつか超えたくらい。荷を引く肩が、丸まっている。
私は駆け寄った。
「すみません」
男が、振り向く。
「なんだい、こんな時間に」
その声に、答えなかった。答える余裕は、なかった。
男の手を、両手で掴んだ。
「なにを――」
驚いた声が、途中で止まった。
縁糸を、結んだ。
自然に発生するものではない。焚き手として学んだ技を、逆に使う。相手の胸の奥、燈の在処へ、無理やり、糸を伸ばす。
男の目が、見開かれた。
「お、おい――」
抗う声。だが、私の手は、離さなかった。
男の燈が、見える。灰色がかった、小さな灯。もう若くはない。
この人にも、家族がいるかもしれない。名前も、知らない。何を大事にして生きてきたのかも、知らない。
構わなかった。
その燈を、引いた。
「やめ――」
言葉が、途中で消えた。
男の体から、力が抜けていく。膝から崩れる。私はその手を、離さなかった。奪った熱を、そのまま、灯へ、送る。
私の中を、見知らぬ熱が、通り抜けていった。
*
これまで焚いてきた、自分の燈とは、違う。
自分の熱には、覚えがある。指先から出ていくとき、いつも同じ質感だった。乾いていて、馴染んでいて、悲しいくらいに、当たり前の熱だった。
これは、違う。
掌の中を、粘つくものが通っていくような感触だった。異物。体の中に、知らないものが入り込んで、そのまま抜けていく。
通り道の全部が、擦り切れるように痛んだ。皮膚の内側を、逆撫でされている感じがした。
自分のものではない時間を、自分の体を使って、運んでいる。
その事実だけが、腕の芯に、焼き付いた。
灯の胸に、その熱を、注ぐ。
灯の体の、赤く滲んでいた光が、少しずつ、色を変えていく。赤から、また、あの澄んだ青へ。溢れていた縁の輪郭が、少しずつ、器の中に戻っていく。
助かる。
そう思った瞬間、後ろで、崩れ落ちる音がした。
振り返った。
男が、道に、倒れていた。
*
駆け寄って、体を、揺すった。
「ちょっと――しっかりして」
返事は、なかった。
男の胸に、灯は、もう、なかった。
闇の中で見ても、わかった。あの、人が生きているときにだけある、微かな明滅が、消えている。荷車の陰で、月明かりだけが、動かない体を照らしていた。
燼きた。
その言葉が、頭の中で、鳴った。
これまで、焚場で、何人もの焚き手が燼きるのを、見てきた。負けて、力尽きて、燃え尽きて。それは、本人が選んだ勝負の果てだった。
これは、違う。
この人は、選んでいない。今夜、いつもどおり、市場に荷を運ぼうとしていただけだ。私が、道の途中で呼び止めて、手を掴んで、何も告げずに、時間を奪った。
男の顔を、初めて、まともに見た。
皺の寄った、日に焼けた顔。口元に、笑うときにできるだろう、深い線がある。誰かに、笑いかけたことが、あったはずだ。誰かに、笑いかけられたことも。
名前を、知らない。
これから先、二度と、知ることもない。
私は、その場に、座り込んだ。膝に、力が入らなかった。
*
灯が、後ろに立っていた。
いつのまにか、井戸端から、ここまで、来ていた。まだ本調子ではないはずなのに、震える脚で、立っていた。
灯の目は、倒れている男を、見ていた。それから、私の手を、見た。
私の手は、震えていた。掌の皮膚が、薄く、火傷したように、赤くなっていた。焚きすぎたときの傷とは、違う手触りの傷。焚き手の焦げ色ではなく、もっと、生々しい、擦り傷のような赤さだった。
「澪」
灯の声が、震えていた。
「私のために……」
言葉が、続かなかった。
私は、何かを言おうとした。大丈夫、とか、仕方なかった、とか。そのどれもが、口から出る前に、間違っている気がした。
灯は、私の手に、触れようとして――止めた。
伸ばしかけた指を、引っ込めた。
「触れないほうが……いい」
小さな声だった。
「私の中に入ったものが、まだ、澪の中に、残ってる。それに、触ったら」
言い終わらずに、灯は、後ずさった。
一歩、二歩。私と、倒れている男とのあいだに、目に見えない線を引くように。
*
灯の顔から、血の気が、引いていた。
搾取されて冷たいときの色とは、また違う。唇の端が、小さく、震えていた。
「私が」
灯が、呟いた。
「私が、暴れたから……この人が」
「灯のせいじゃない」
私は、すぐに言った。
「灯が、選んでやったことじゃない」
「でも」
灯の声が、初めて、大きくなった。
「でも、私の中に、こういうものが、あるってこと。制御できない時が、来るってこと。今日、わかった。次も、こうなるかもしれない。そのたびに、澪が」
言葉が、途切れた。
灯は、自分の両手を、見た。手首の、薄い筋。生まれつきの、結び目の跡。燈寺が、価値として値踏みする、あの筋。
「私の中には、何か、良くないものが、あるんだと思う」
うまく言葉にできないというように、灯は、そこで、口を閉じた。
「否み続けられなかったら。今日みたいなことが、また、起きるかもしれない。そのたびに、誰かが」
「そんなことには、ならない」
「わからないでしょう、澪にも」
灯の声は、責めているのではなかった。ただ、事実を、突きつけるような、平らな声だった。
その平らさが、責める言葉よりも、ずっと、重く、私の胸に、落ちた。
*
男の体を、路地の隅へ、動かした。
荷車も、脇へ寄せた。荷は、野菜と、乾物だった。誰かが、朝、見つけるだろう。
夜のあいだに行き倒れた男として。誰も、本当のことを、知らないままに。
燈札を持っていないか、確かめる自分がいた。せめて、家族に届けるものがないか。指が、震えて、うまく動かなかった。
小さな木札が、懐から、出てきた。日に焼けて、端が擦り切れている。何か、印が彫ってあった。
読めなかった。誰かの名前か、印か。それだけを、私は懐に、収めた。
どこの誰かも、わからない。それでも、これだけは、道端に、置き去りにできなかった。
*
家に帰る道、灯は、私の少し後ろを、歩いた。
いつもは、袖を掴んでくる。今夜は、掴まなかった。手を伸ばそうともしなかった。
距離が、生まれていた。物理的な意味でも、それ以外の意味でも。
私は、何度か、振り返った。灯は、私を見ていなかった。足元を見て、歩いていた。
「灯」
呼んでも、顔を上げなかった。
「大丈夫。私は」
「大丈夫じゃない」
灯が、遮った。
「澪の手、まだ、震えてる」
見なくても、わかっていたらしい。私は、自分の手を、握った。震えは、止まっていなかった。
*
家に着いて、灯は、部屋の隅に、座った。
私と、少し離れた場所に。布団を並べていた場所からも、離れて。
何か言おうとして、やめる。それを、何度か、繰り返した。
私も、同じだった。何を言えば、正しいのか、わからなかった。ごめん、と言うのは、なぜか、違う。私が、謝る資格があるのかも、わからなかった。
灯を助けたことを、後悔していない。
それだけは、はっきりしていた。
でも、あの男の、笑い皺のある顔を、思い出すと、体の奥が、冷えた。焚きすぎたときの、あの、肩の力が抜けていくような熱とは、正反対の冷たさだった。
あの瞬間、私の中で、何かが、後戻りのできない場所へと、踏み出した感触があった。
一度踏み出せば、二度と、元の場所には戻れない。恐ろしいと思うより先に、ただ、単純な感触として、それがわかった。
一度、踏み出してしまった。
*
夜が、明けていく。
窓の外が、白んでいく。いつもなら、灯は、その光の中で、少しだけ、体をほどく。今日は、隅に座ったまま、動かなかった。
「灯」
三度目に呼んで、ようやく、顔を上げた。
「眠れそうにない」
それだけ、言った。
「私も」
私も、答えた。
私たちは、しばらく、黙って、白んでいく窓を、見ていた。
灯の目は、まだ、いつもより、色が濃かった。あの、赤く滲んだ光の名残が、まだ、瞳の奥にあるように、見えた。気のせいかもしれない。それでも、そう見えた。
「もう一度、あんなふうになったら」
灯が、ぽつりと、言った。
「私、今度こそ、ちゃんと否んだほうがいい気がする」
否む。灯が、いつも、その言葉で呼んでいたもの。自分の意志で、終わらせること。
私は、何も、言えなかった。止めるべきだと、頭ではわかっていた。それでも、言葉が、出てこなかった。
灯は、それ以上、続けなかった。ただ、膝を抱えて、そこに、座っていた。
*
台所で、水を汲んだ。
手が、まだ、震えていた。掌の赤みは、薄れていない。焚き手として生きてきて、初めて見る種類の傷だった。
自分のものを燃やした痕ではない。誰かのものを、通した痕。
水を、飲んだ。冷たさが、喉を通っていく。それだけが、いつもどおりの、感触だった。
懐から、昨夜の木札を、取り出した。日に焼けた、小さな板。彫られた印を、指でなぞる。
読めない文字だった。この人の名前かもしれない。屋号かもしれない。
誰かが、この人を、待っているかもしれない。
その誰かに、私は、何も、告げられない。名乗り出ることも、できない。私がしたことを、話せば、灯が、燈寺に、取り上げられる。
だから、これは、誰にも、言わない。
自分の中だけに、しまっておく。
木札を、懐の奥、凪の燈札の隣に、入れた。二枚の木札が、擦れる音がした。片方は、妹が遺したもの。
もう片方は、今夜、私が奪ったもの。同じ場所に、収まってしまう自分を、私は、止められなかった。
谷で、燠が、二芯一灯の話を、はぐらかしたことを、思い出した。二人で一つは、なぜ葬られたのか。答えは、まだ、聞けていない。今夜のことと、関わりがあるのかどうかも、わからないままだった。
*
朝日が、部屋に、差し込んでくる。
昨日までと、同じ光だった。同じ、澪津の朝。それでも、何かが、決定的に、変わっていた。
戻れない場所に、来てしまった。誰かの時間を、無理やり奪って、それで、生きている。今、この瞬間も。
灯は、まだ、部屋の隅にいる。距離を、詰めてこない。
私も、詰めなかった。
私の手のひらには、まだ、あの熱の異物感が、残っている。焚いた自分の燈とは違う、擦り切れるような感触。忘れられる気は、しなかった。
初めて、誰かの時を、奪って、焚いた。
その事実だけが、朝の光の中で、静かに、確かに、私の内側に、居座っていた。




