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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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第14話 渡さない、その手も

あの夜から、三日が経っていた。


布団は、まだ、別々のままだった。(あかり)は部屋の隅で眠り、私は、いつもの場所で眠る。あいだに、畳一枚分の空白がある。三日前までは、なかった空白だった。


朝、目を覚ますと、灯はもう起きていて、窓の外を見ていた。声をかけると、振り向いて、頷く。それだけだった。


触れることは、なかった。灯が、私の手に伸ばしかけて、止める。その仕草を、私はもう三日、繰り返し見ていた。


伸ばして、止めて、引っ込める。そこに見えない壁があるみたいに。


懐の、木札のことは、誰も、口にしなかった。(なぎ)燈札(ひふだ)の隣に収めた、あの夜奪った男の木札。それに触れないように、私たちは、互いのまわりを、そっと歩いていた。


位は、二のまま、動いていない。焚場(たきば)には、行っていなかった。行く気力が、湧かなかった。


それでも、朝は来る。米を研ぎ、水を汲み、日が高くなれば、灯のために、粥を作る。そういう当たり前のことだけが、二人のあいだに、まだ、かろうじて残っていた。



四日目の夜、私は、いつもより早く目を覚ました。


理由は、なかった。ただ、胸の奥で、何かが、静かに軋んだ気がした。あの夜と、似ている。


でも、違う。あの夜の軋みは、外から突き上げるような、荒々しいものだった。今夜のそれは、もっと、静かだった。


隣を見る。灯が、いない。


驚きは、なかった。むしろ、来るべきものが来た、というような、重い納得だけがあった。


体を起こす。戸は、開いていなかった。


でも、部屋の奥、行李の陰に、灯が座っているのが見えた。膝を崩して、壁にもたれて。月明かりが、その横顔に、青白く落ちていた。


「灯」


呼んでも、こちらを見なかった。


近づく。灯の手が、自分の喉に、当てられていた。あの、結び目の跡がある場所。


手首と、喉。生まれつきの筋が、縁糸の結ばれる場所として、燈寺(とうじ)が値踏みする、あの場所に。


その指先が、光っていた。


あの夜のような、内側から溢れる暴走の光とは違う。もっと、細く、意図のある光だった。指先に、小さな火の粒を、ひとつ、灯している。


丁寧に、慎重に。針の穴に糸を通そうとするときのような、静かな集中があった。


「何を、してるの」


声が、掠れた。


灯が、ようやく、顔を上げた。


その目に、怯えは、なかった。三日前の、内側から燃やされていたときの、あの怯えとは違う。もっと、澄んでいた。


凪いでいた。長い迷いの果てに、ようやく着地した人の目だった。


(みお)


私の名を、静かに呼んだ。


「起きちゃったか」



灯の指先の火が、少しずつ、大きくなっていく。


それは、灯自身の(ともしび)から、引き出されている光だった。()()が焚くときの、あの熱の膨らみ方に、似ている。でも、灯は焚き手じゃない。焚く技を、習ったことがない。


なのに、その手つきに、迷いは、見えなかった。


私の胸の奥、糸の根本が、じわりと、疼いた。縁糸(えにし)を通じて、何かが、引かれている感触。焚場で相手の熱を受けるときの、あの引きとは、違う種類の引き方だった。


わかった。


灯は、私と灯を結ぶ縁糸そのものを、焚こうとしている。


「やめて」


声が、自分でも驚くくらい、掠れて出た。


灯は、やめなかった。指先の火を、糸の根元へ、そっと、近づけていく。目に見えない糸のはずなのに、その一点だけが、はっきりと、私にも見えた。


灯の胸から伸びて、私の胸へと繋がる、細い、光る筋。その筋に、今、灯自身の火が、触れようとしていた。


糸が、灼けはじめた。


端のほうから、ちりちりと、乾いた音がした。焚場で燈が焼ける音に、似ていた。でも、もっと、小さくて、もっと、生々しい。糸の色が、いつもの淡い光から、赤く、変わっていく。


「灯――」


「大丈夫」


灯が、言った。静かな声だった。


「痛くない。今のところは」


その言い方が、かえって、私の背筋を、凍らせた。



「何を、してるのか、ちゃんと言って」


私は、灯の前に、膝をついた。


「見ての通り」


灯は、指先の火から、目を離さなかった。


「糸を、焼いてる。切るために」


「切って、どうする気」


「切ってから」


灯は、そこで、初めて、私を見た。


「否む」


その一言に、全部が、詰まっていた。


自分の意志で、終わらせる。灯が、ずっとそう呼んできたもの。


「わかるでしょう。もし糸が繋がったまま、私が、否んだら。澪も、道連れになる。知ってた。ずっと前から」


灯の声は、責めていなかった。ただ、事実を、確認するような、平らな声だった。


「だから、先に、これを、切る」


「灯」


「切ってから、なら」


灯の指先の火が、また、少し、大きくなった。


「私だけで、済む」



私は、灯の手首を、掴んだ。


熱かった。あの夜ほどではない。でも、確かに、熱があった。灯自身の意志で燃えている熱だ。


「やめて。お願いだから」


「お願いされても」


灯は、私の手を、振りほどこうとしなかった。ただ、静かに、そこに留まっていた。


「これは、決めたこと」


「いつから」


「三日前から」


灯の答えは、迷いなく、返ってきた。


「私の中に、何か、良くないものがあるって、わかった夜から。次も、また、起きるかもしれない。制御できない何かが。そのたびに、澪が、代わりに、誰かの時を奪う。そのたびに、誰かが、()きる」


灯の目が、私の懐を見た。凪の燈札と、あの木札が、収まっている場所。


「あの人みたいに」


私は、何も言えなかった。


「私が、いなくなれば」


灯は、続けた。


「澪は、もう、誰も奪わなくて、済む。誰も、代わりに死ななくて、済む。澪が、私のために、手を汚さなくて、済む」


「私は、そんなこと」


「思ってる」


灯が、遮った。


「澪は、思ってなくても、そうなる。私が、生きてる限り。この性質が、次にいつ暴れるか、私にもわからない。それが、いちばん、怖い」


灯の声が、初めて、かすかに、震えた。三日前、体の内側から突き上げられていたときの震え方とは、違う。もっと、静かで、深いところからの震えだった。


自分自身が、いつか、誰かを損なう器になるかもしれない。その一点だけを、見つめているような声だった。


「だから、私が、決める前に、決めた」


灯は、もう一度、指先の火に、目を落とした。


「これだけは、私の意志で、やる」



糸の焼ける音が、大きくなっていく。


赤く染まった部分が、少しずつ、広がっていた。灯の胸の根元から、私の胸の根元へ向けて、導火線を伝う火のように。糸が焼け落ちれば、その先に、何が起きるのか。


私には、わからなかった。灯自身にも、正確なところは、わかっていないのかもしれない。それでも、灯は、続けていた。


迷いのない指先。


隠れる気力もない、というような、静かさ。もう、逃げも、隠れもしない。ただ、目の前で、覚悟を決めた所作で、それを、成し遂げようとしていた。


私は、何をすればいいのか、わからなかった。


一瞬、体が、止まった。目の前で起きていることの重さに、追いつけなかった。


灯の手を、もう一度、引き剥がそうとした。力を込めた。灯は、動かなかった。


私より、力は弱いはずなのに、指先の火だけは、揺るがなかった。そこだけが、別の生き物みたいだった。


(おき)を呼びに行く。そう考えた。でも、谷までは遠い。間に合わない。


燈寺に――駄目だ。それだけは、絶対に、駄目だ。


凪の燈札に、手が伸びかけた。懐の中の、固い感触。妹の遺した時間。これを使えば――


指が、途中で、止まった。


それは、違う。凪の分は、まだ、使わない。今、使うべきものじゃない。


考えている時間は、もう、なかった。糸の赤い部分が、根元に近づいていく。焼け落ちるまで、あと、いくらもない。



だから、私は、選んだ。


自分の胸に、手を当てた。あの夜、灯を助けるために、見知らぬ男の熱を運んだ、その同じ場所に。


今度は、自分の熱を、引き出す。


自分の燈を、焚く。誰かのためでも、勝つためでもない。ただ、灯の手を、止めるためだけに。


みぞおちの奥が、熱くなった。光が、肋骨の隙間から、漏れていく感触があった。何年ぶんかは、わからない。数える暇はなかった。


その熱を、糸へ、押し出した。


灯が、焼こうとしている、その同じ糸へ。灯の火とは、反対の方向から。


二つの火が、糸の途中で、ぶつかった。



「な――」


灯が、初めて、動揺した声を、上げた。


「やめて、澪。それは」


「灯こそ、やめて」


私は、押し出す熱を、緩めなかった。


「私も、同じことしてる。自分の燈、焚いてる。灯を、止めるために」


「駄目」


灯の声が、初めて、大きくなった。


「駄目。それは、澪の分でしょう。澪の燈でしょう。それを、私のために使ったら」


「灯だって、同じこと、してる」


私は、灯を、見た。


「自分の燈を、私を守るために、使おうとしてる。それと、何が違うの」


「違う」


「違わない」


私は、灯の手首を、両手で、しっかりと、握った。焼けるような熱と、私自身が押し出す熱が、そこで、混じり合っていた。


「灯が、その火で、糸を切ろうとするなら。私は、その分、こっちから熱を足す。灯が、切るより早く、私が、足す。いくらでも、足す」


灯の目が、揺れた。


「そんなことしたら、澪が」


「私が、なに」


「澪の燈が、減る。灯を助けたときみたいに、澪が、また」


「うん」


私は、頷いた。


「減る。でも、灯が糸を切って、否んで、いなくなるよりは、ずっと、いい」



灯の指先の火が、揺らいだ。


初めて、迷いが、見えた。


私は、糸の焼けた部分に、自分の熱を、なおも、注ぎ続けた。赤く染まっていた筋が、少しずつ、元の淡い光に、戻っていく。焼け跡だけは、残っている。


完全には、消えない傷。それでも、灯の火が、進むのを、押し留めていた。


「わかった、でしょう」


私は、灯を、見つめた。


「灯が、この糸を切って、一人で終わろうとするたびに。私は、こうやって、自分の燈を足す。灯を、道連れにしたくないなら――今度は、灯のほうが、私を、止めなきゃいけなくなる」


灯の顔から、血の気が、引いていた。


「そんなの」


「ずるいって、言いたい」


私は、少しだけ、笑った。うまく、笑えたかは、わからない。


「うん。ずるいと、思う。でも、灯だって、ずるかった。三日前、私に何も言わずに、決めてた」


灯の指先の火が、消えかけていた。ゆらゆらと、小さくなって、消える寸前で、留まっている。


「灯が、私を道連れにしないために、糸を切ろうとするなら。私は、灯を道連れにしないために、灯を、止める。同じことを、二人が、逆の方向からやってる。どっちも、止まらなかったら」


私は、糸を、見た。赤い焼け跡と、私の熱で押し戻された、淡い光が、ないまぜになっている、その筋を。


「どっちも、擦り切れて、終わる。それだけ」



灯の手が、震えていた。


指先の火が、とうとう、消えた。


灯は、崩れるように、その場に、座り込んだ。私の手を、まだ、握ったまま。


「なんで」


声が、掠れていた。


「なんで、そこまで」


「わからない」


私は、正直に、答えた。


「理由は、うまく言えない。ただ、灯が、いなくなるのは、駄目だった。それだけは、はっきりしてる」


自分の胸に、まだ手を当てたままだった。焚いた分の熱が、指先に、じんわりと、残っている。焚場で焚きすぎたときとは、違う感触だった。


あのときは、勝つために、燃やした。今は、ただ、灯の手を、止めるためだけに、燃やした。それだけで、こんなにも、違う手応えになるのだと、初めて、知った。


灯が、私の手を、見た。まだ、震えている手を。焚いた痕が、いつもより、少し、濃く残っていた。


「澪の燈、また、減った」


「うん」


「私のために」


「うん」


灯の目の、いつもの澄んだ、硬い色が、初めて、揺れて見えた。硬さを失って、ふやけたような、そんな揺れ方だった。



「わからない」


灯が、うつむいたまま、言った。


「わからないよ、澪の考えてること。私は、澪を守りたくて、これを、しようとしたのに。澪は、それを止めるために、自分をすり減らして。それじゃ、私が守ろうとしたことに、意味がなくなる」


「意味なら、ある」


私は、灯の手を、そっと、開かせた。焼け残った熱の名残が、掌に、まだ、あった。


「灯が、私を守ろうとしたことにも。私が、灯を止めようとしたことにも。両方に、意味がある。片方だけが、正しいわけじゃない」


「でも、堂々巡りでしょう。私が切ろうとすれば、澪が足す。それを、いつまで」


「いつまでも」


私は、迷わず、言った。


「灯が、またこれをやろうとするなら、私は、何度でも、同じことをする。灯の火より先に、私の熱を、足す。灯が疲れて、諦めるまで、何度でも」


灯が、顔を上げた。信じられない、というような目で、私を見ていた。


「そんなの、続かない」


「続けるよ」


「澪が、擦り切れる」


「灯だって、擦り切れる」


私は、灯の目を、まっすぐ、見返した。


「同じだけ、擦り切れる。それでいいって、言ってるの」



しばらく、二人とも、何も言わなかった。


月明かりが、少しずつ、角度を変えていく。糸の焼け跡だけが、二人のあいだで、静かに、光っていた。完全には消えない、赤みを帯びた筋。それは、今夜のことを、この先もずっと、覚えているだろう傷だった。


「澪」


灯が、ようやく、口を開いた。


「あの夜。澪が、知らない人の時を、奪った夜。私、澪に、触れないほうがいいって、言った。私の中に、良くないものが、残ってるからって」


「うん」


「今も、思ってる。私の中には、何か、良くないものが、ある。それは、変わらない」


灯は、自分の手のひらを、見た。


「でも」


言葉を、探すように、灯は、少しの間、黙った。


「澪も、同じことを、今、した。自分の燈を、減らして。良くないことかもしれないのに、それでも、した。私のために」


灯は、私を、見た。


「それなら、私も、同じかもしれない。良くないものを持ってても、それでも、誰かのために、何かを、選べるのかもしれない」


その言葉は、答えでは、なかった。ただの、小さな、迷いの欠片だった。それでも、三日間、強張ったままだった何かが、ほんの少し、緩んだのが、わかった。



「もう一度、聞くね」


私は、灯の両手を、包むように、握った。


「否まないで、とは、言わない。灯が、いつか、限界だと思ったら。それは、灯が決めることだから、私が、無理に止められることじゃない」


自分でも、驚くくらい、静かな声が、出た。


「でも、一人で、決めないで。私に、何も言わずに、決めないで」


灯が、私を、見つめていた。


「灯が、糸を切ろうとするなら。私は、また、こうやって、熱を足す。それでも、いいなら――今度は、私に、言ってから、やって」


「言ったら、澪は、止めるでしょう」


「止める」


私は、頷いた。


「何度でも。それでも、隠れて、一人でやるよりは、いい」


灯の指先が、私の手のひらに、そっと、触れた。四日ぶりの、触れ合いだった。灯のほうから、伸ばしてきた、初めての手だった。


「渡さない」


私は、言った。


「灯の、終わり方も。私の、終わり方も。どっちも、一人には、渡さない」



灯は、しばらく、黙っていた。


やがて、その手が、私の手を、強く、握り返してきた。搾取されて冷たいはずの指が、今は、ほんの少しだけ、温かかった。焚いた熱の名残が、まだ、そこに、残っているせいかもしれない。


それとも、別の理由かもしれない。どちらでも、良かった。


「わかった」


小さな、声だった。


「今度は、言う」


それだけで、十分だった。多くを、望むつもりは、なかった。


窓の外が、白みはじめていた。四日ぶりの、静かな朝だった。焼け跡の残る糸が、朝の光の中で、淡く、揺れている。


完全には、元に戻らない。それでも、繋がったままの、その筋を、私は、見つめた。


灯の、終わり方だけは、灯のものだと、灯は、ずっと、そう言い続けてきた。


それは、今も、変わらない。


でも、もう、一人で、決めさせはしない。


私の、終わり方も、同じだった。誰かに、勝手に、決めさせない。灯にも、渡さない。


二人の終わり方を、二人で、まだ、手放さずにいる。


朝の光が、少しずつ、部屋を満たしていく。灯の手を、握ったまま、私は、その光を、見ていた。


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