第14話 渡さない、その手も
あの夜から、三日が経っていた。
布団は、まだ、別々のままだった。灯は部屋の隅で眠り、私は、いつもの場所で眠る。あいだに、畳一枚分の空白がある。三日前までは、なかった空白だった。
朝、目を覚ますと、灯はもう起きていて、窓の外を見ていた。声をかけると、振り向いて、頷く。それだけだった。
触れることは、なかった。灯が、私の手に伸ばしかけて、止める。その仕草を、私はもう三日、繰り返し見ていた。
伸ばして、止めて、引っ込める。そこに見えない壁があるみたいに。
懐の、木札のことは、誰も、口にしなかった。凪の燈札の隣に収めた、あの夜奪った男の木札。それに触れないように、私たちは、互いのまわりを、そっと歩いていた。
位は、二のまま、動いていない。焚場には、行っていなかった。行く気力が、湧かなかった。
それでも、朝は来る。米を研ぎ、水を汲み、日が高くなれば、灯のために、粥を作る。そういう当たり前のことだけが、二人のあいだに、まだ、かろうじて残っていた。
*
四日目の夜、私は、いつもより早く目を覚ました。
理由は、なかった。ただ、胸の奥で、何かが、静かに軋んだ気がした。あの夜と、似ている。
でも、違う。あの夜の軋みは、外から突き上げるような、荒々しいものだった。今夜のそれは、もっと、静かだった。
隣を見る。灯が、いない。
驚きは、なかった。むしろ、来るべきものが来た、というような、重い納得だけがあった。
体を起こす。戸は、開いていなかった。
でも、部屋の奥、行李の陰に、灯が座っているのが見えた。膝を崩して、壁にもたれて。月明かりが、その横顔に、青白く落ちていた。
「灯」
呼んでも、こちらを見なかった。
近づく。灯の手が、自分の喉に、当てられていた。あの、結び目の跡がある場所。
手首と、喉。生まれつきの筋が、縁糸の結ばれる場所として、燈寺が値踏みする、あの場所に。
その指先が、光っていた。
あの夜のような、内側から溢れる暴走の光とは違う。もっと、細く、意図のある光だった。指先に、小さな火の粒を、ひとつ、灯している。
丁寧に、慎重に。針の穴に糸を通そうとするときのような、静かな集中があった。
「何を、してるの」
声が、掠れた。
灯が、ようやく、顔を上げた。
その目に、怯えは、なかった。三日前の、内側から燃やされていたときの、あの怯えとは違う。もっと、澄んでいた。
凪いでいた。長い迷いの果てに、ようやく着地した人の目だった。
「澪」
私の名を、静かに呼んだ。
「起きちゃったか」
*
灯の指先の火が、少しずつ、大きくなっていく。
それは、灯自身の燈から、引き出されている光だった。焚き手が焚くときの、あの熱の膨らみ方に、似ている。でも、灯は焚き手じゃない。焚く技を、習ったことがない。
なのに、その手つきに、迷いは、見えなかった。
私の胸の奥、糸の根本が、じわりと、疼いた。縁糸を通じて、何かが、引かれている感触。焚場で相手の熱を受けるときの、あの引きとは、違う種類の引き方だった。
わかった。
灯は、私と灯を結ぶ縁糸そのものを、焚こうとしている。
「やめて」
声が、自分でも驚くくらい、掠れて出た。
灯は、やめなかった。指先の火を、糸の根元へ、そっと、近づけていく。目に見えない糸のはずなのに、その一点だけが、はっきりと、私にも見えた。
灯の胸から伸びて、私の胸へと繋がる、細い、光る筋。その筋に、今、灯自身の火が、触れようとしていた。
糸が、灼けはじめた。
端のほうから、ちりちりと、乾いた音がした。焚場で燈が焼ける音に、似ていた。でも、もっと、小さくて、もっと、生々しい。糸の色が、いつもの淡い光から、赤く、変わっていく。
「灯――」
「大丈夫」
灯が、言った。静かな声だった。
「痛くない。今のところは」
その言い方が、かえって、私の背筋を、凍らせた。
*
「何を、してるのか、ちゃんと言って」
私は、灯の前に、膝をついた。
「見ての通り」
灯は、指先の火から、目を離さなかった。
「糸を、焼いてる。切るために」
「切って、どうする気」
「切ってから」
灯は、そこで、初めて、私を見た。
「否む」
その一言に、全部が、詰まっていた。
自分の意志で、終わらせる。灯が、ずっとそう呼んできたもの。
「わかるでしょう。もし糸が繋がったまま、私が、否んだら。澪も、道連れになる。知ってた。ずっと前から」
灯の声は、責めていなかった。ただ、事実を、確認するような、平らな声だった。
「だから、先に、これを、切る」
「灯」
「切ってから、なら」
灯の指先の火が、また、少し、大きくなった。
「私だけで、済む」
*
私は、灯の手首を、掴んだ。
熱かった。あの夜ほどではない。でも、確かに、熱があった。灯自身の意志で燃えている熱だ。
「やめて。お願いだから」
「お願いされても」
灯は、私の手を、振りほどこうとしなかった。ただ、静かに、そこに留まっていた。
「これは、決めたこと」
「いつから」
「三日前から」
灯の答えは、迷いなく、返ってきた。
「私の中に、何か、良くないものがあるって、わかった夜から。次も、また、起きるかもしれない。制御できない何かが。そのたびに、澪が、代わりに、誰かの時を奪う。そのたびに、誰かが、燼きる」
灯の目が、私の懐を見た。凪の燈札と、あの木札が、収まっている場所。
「あの人みたいに」
私は、何も言えなかった。
「私が、いなくなれば」
灯は、続けた。
「澪は、もう、誰も奪わなくて、済む。誰も、代わりに死ななくて、済む。澪が、私のために、手を汚さなくて、済む」
「私は、そんなこと」
「思ってる」
灯が、遮った。
「澪は、思ってなくても、そうなる。私が、生きてる限り。この性質が、次にいつ暴れるか、私にもわからない。それが、いちばん、怖い」
灯の声が、初めて、かすかに、震えた。三日前、体の内側から突き上げられていたときの震え方とは、違う。もっと、静かで、深いところからの震えだった。
自分自身が、いつか、誰かを損なう器になるかもしれない。その一点だけを、見つめているような声だった。
「だから、私が、決める前に、決めた」
灯は、もう一度、指先の火に、目を落とした。
「これだけは、私の意志で、やる」
*
糸の焼ける音が、大きくなっていく。
赤く染まった部分が、少しずつ、広がっていた。灯の胸の根元から、私の胸の根元へ向けて、導火線を伝う火のように。糸が焼け落ちれば、その先に、何が起きるのか。
私には、わからなかった。灯自身にも、正確なところは、わかっていないのかもしれない。それでも、灯は、続けていた。
迷いのない指先。
隠れる気力もない、というような、静かさ。もう、逃げも、隠れもしない。ただ、目の前で、覚悟を決めた所作で、それを、成し遂げようとしていた。
私は、何をすればいいのか、わからなかった。
一瞬、体が、止まった。目の前で起きていることの重さに、追いつけなかった。
灯の手を、もう一度、引き剥がそうとした。力を込めた。灯は、動かなかった。
私より、力は弱いはずなのに、指先の火だけは、揺るがなかった。そこだけが、別の生き物みたいだった。
燠を呼びに行く。そう考えた。でも、谷までは遠い。間に合わない。
燈寺に――駄目だ。それだけは、絶対に、駄目だ。
凪の燈札に、手が伸びかけた。懐の中の、固い感触。妹の遺した時間。これを使えば――
指が、途中で、止まった。
それは、違う。凪の分は、まだ、使わない。今、使うべきものじゃない。
考えている時間は、もう、なかった。糸の赤い部分が、根元に近づいていく。焼け落ちるまで、あと、いくらもない。
*
だから、私は、選んだ。
自分の胸に、手を当てた。あの夜、灯を助けるために、見知らぬ男の熱を運んだ、その同じ場所に。
今度は、自分の熱を、引き出す。
自分の燈を、焚く。誰かのためでも、勝つためでもない。ただ、灯の手を、止めるためだけに。
みぞおちの奥が、熱くなった。光が、肋骨の隙間から、漏れていく感触があった。何年ぶんかは、わからない。数える暇はなかった。
その熱を、糸へ、押し出した。
灯が、焼こうとしている、その同じ糸へ。灯の火とは、反対の方向から。
二つの火が、糸の途中で、ぶつかった。
*
「な――」
灯が、初めて、動揺した声を、上げた。
「やめて、澪。それは」
「灯こそ、やめて」
私は、押し出す熱を、緩めなかった。
「私も、同じことしてる。自分の燈、焚いてる。灯を、止めるために」
「駄目」
灯の声が、初めて、大きくなった。
「駄目。それは、澪の分でしょう。澪の燈でしょう。それを、私のために使ったら」
「灯だって、同じこと、してる」
私は、灯を、見た。
「自分の燈を、私を守るために、使おうとしてる。それと、何が違うの」
「違う」
「違わない」
私は、灯の手首を、両手で、しっかりと、握った。焼けるような熱と、私自身が押し出す熱が、そこで、混じり合っていた。
「灯が、その火で、糸を切ろうとするなら。私は、その分、こっちから熱を足す。灯が、切るより早く、私が、足す。いくらでも、足す」
灯の目が、揺れた。
「そんなことしたら、澪が」
「私が、なに」
「澪の燈が、減る。灯を助けたときみたいに、澪が、また」
「うん」
私は、頷いた。
「減る。でも、灯が糸を切って、否んで、いなくなるよりは、ずっと、いい」
*
灯の指先の火が、揺らいだ。
初めて、迷いが、見えた。
私は、糸の焼けた部分に、自分の熱を、なおも、注ぎ続けた。赤く染まっていた筋が、少しずつ、元の淡い光に、戻っていく。焼け跡だけは、残っている。
完全には、消えない傷。それでも、灯の火が、進むのを、押し留めていた。
「わかった、でしょう」
私は、灯を、見つめた。
「灯が、この糸を切って、一人で終わろうとするたびに。私は、こうやって、自分の燈を足す。灯を、道連れにしたくないなら――今度は、灯のほうが、私を、止めなきゃいけなくなる」
灯の顔から、血の気が、引いていた。
「そんなの」
「ずるいって、言いたい」
私は、少しだけ、笑った。うまく、笑えたかは、わからない。
「うん。ずるいと、思う。でも、灯だって、ずるかった。三日前、私に何も言わずに、決めてた」
灯の指先の火が、消えかけていた。ゆらゆらと、小さくなって、消える寸前で、留まっている。
「灯が、私を道連れにしないために、糸を切ろうとするなら。私は、灯を道連れにしないために、灯を、止める。同じことを、二人が、逆の方向からやってる。どっちも、止まらなかったら」
私は、糸を、見た。赤い焼け跡と、私の熱で押し戻された、淡い光が、ないまぜになっている、その筋を。
「どっちも、擦り切れて、終わる。それだけ」
*
灯の手が、震えていた。
指先の火が、とうとう、消えた。
灯は、崩れるように、その場に、座り込んだ。私の手を、まだ、握ったまま。
「なんで」
声が、掠れていた。
「なんで、そこまで」
「わからない」
私は、正直に、答えた。
「理由は、うまく言えない。ただ、灯が、いなくなるのは、駄目だった。それだけは、はっきりしてる」
自分の胸に、まだ手を当てたままだった。焚いた分の熱が、指先に、じんわりと、残っている。焚場で焚きすぎたときとは、違う感触だった。
あのときは、勝つために、燃やした。今は、ただ、灯の手を、止めるためだけに、燃やした。それだけで、こんなにも、違う手応えになるのだと、初めて、知った。
灯が、私の手を、見た。まだ、震えている手を。焚いた痕が、いつもより、少し、濃く残っていた。
「澪の燈、また、減った」
「うん」
「私のために」
「うん」
灯の目の、いつもの澄んだ、硬い色が、初めて、揺れて見えた。硬さを失って、ふやけたような、そんな揺れ方だった。
*
「わからない」
灯が、うつむいたまま、言った。
「わからないよ、澪の考えてること。私は、澪を守りたくて、これを、しようとしたのに。澪は、それを止めるために、自分をすり減らして。それじゃ、私が守ろうとしたことに、意味がなくなる」
「意味なら、ある」
私は、灯の手を、そっと、開かせた。焼け残った熱の名残が、掌に、まだ、あった。
「灯が、私を守ろうとしたことにも。私が、灯を止めようとしたことにも。両方に、意味がある。片方だけが、正しいわけじゃない」
「でも、堂々巡りでしょう。私が切ろうとすれば、澪が足す。それを、いつまで」
「いつまでも」
私は、迷わず、言った。
「灯が、またこれをやろうとするなら、私は、何度でも、同じことをする。灯の火より先に、私の熱を、足す。灯が疲れて、諦めるまで、何度でも」
灯が、顔を上げた。信じられない、というような目で、私を見ていた。
「そんなの、続かない」
「続けるよ」
「澪が、擦り切れる」
「灯だって、擦り切れる」
私は、灯の目を、まっすぐ、見返した。
「同じだけ、擦り切れる。それでいいって、言ってるの」
*
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
月明かりが、少しずつ、角度を変えていく。糸の焼け跡だけが、二人のあいだで、静かに、光っていた。完全には消えない、赤みを帯びた筋。それは、今夜のことを、この先もずっと、覚えているだろう傷だった。
「澪」
灯が、ようやく、口を開いた。
「あの夜。澪が、知らない人の時を、奪った夜。私、澪に、触れないほうがいいって、言った。私の中に、良くないものが、残ってるからって」
「うん」
「今も、思ってる。私の中には、何か、良くないものが、ある。それは、変わらない」
灯は、自分の手のひらを、見た。
「でも」
言葉を、探すように、灯は、少しの間、黙った。
「澪も、同じことを、今、した。自分の燈を、減らして。良くないことかもしれないのに、それでも、した。私のために」
灯は、私を、見た。
「それなら、私も、同じかもしれない。良くないものを持ってても、それでも、誰かのために、何かを、選べるのかもしれない」
その言葉は、答えでは、なかった。ただの、小さな、迷いの欠片だった。それでも、三日間、強張ったままだった何かが、ほんの少し、緩んだのが、わかった。
*
「もう一度、聞くね」
私は、灯の両手を、包むように、握った。
「否まないで、とは、言わない。灯が、いつか、限界だと思ったら。それは、灯が決めることだから、私が、無理に止められることじゃない」
自分でも、驚くくらい、静かな声が、出た。
「でも、一人で、決めないで。私に、何も言わずに、決めないで」
灯が、私を、見つめていた。
「灯が、糸を切ろうとするなら。私は、また、こうやって、熱を足す。それでも、いいなら――今度は、私に、言ってから、やって」
「言ったら、澪は、止めるでしょう」
「止める」
私は、頷いた。
「何度でも。それでも、隠れて、一人でやるよりは、いい」
灯の指先が、私の手のひらに、そっと、触れた。四日ぶりの、触れ合いだった。灯のほうから、伸ばしてきた、初めての手だった。
「渡さない」
私は、言った。
「灯の、終わり方も。私の、終わり方も。どっちも、一人には、渡さない」
*
灯は、しばらく、黙っていた。
やがて、その手が、私の手を、強く、握り返してきた。搾取されて冷たいはずの指が、今は、ほんの少しだけ、温かかった。焚いた熱の名残が、まだ、そこに、残っているせいかもしれない。
それとも、別の理由かもしれない。どちらでも、良かった。
「わかった」
小さな、声だった。
「今度は、言う」
それだけで、十分だった。多くを、望むつもりは、なかった。
窓の外が、白みはじめていた。四日ぶりの、静かな朝だった。焼け跡の残る糸が、朝の光の中で、淡く、揺れている。
完全には、元に戻らない。それでも、繋がったままの、その筋を、私は、見つめた。
灯の、終わり方だけは、灯のものだと、灯は、ずっと、そう言い続けてきた。
それは、今も、変わらない。
でも、もう、一人で、決めさせはしない。
私の、終わり方も、同じだった。誰かに、勝手に、決めさせない。灯にも、渡さない。
二人の終わり方を、二人で、まだ、手放さずにいる。
朝の光が、少しずつ、部屋を満たしていく。灯の手を、握ったまま、私は、その光を、見ていた。




