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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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15/21

第15話 灯の、値段

あの夜から、十日が経っていた。


布団は、もう、離れていない。(あかり)は眠るとき、私の袖を軽く握っている。強く掴むのでも、放すのでもない。ちょうど、糸の緩みひとつぶんくらいの、力だった。


朝、粥を分ける。灯の椀のほうが、すこし多い。灯はもう、それを指摘しない。ただ、黙って食べる。


位は二のまま、動いていない。焚場(たきば)には、行っていなかった。行かないことに、理由はなかった。強いて言うなら、まだ、行く気になれなかった。


それでも、日々は続いていく。米を研ぎ、水を汲み、繕い物をする。十日前の夜の焼け跡は、灯の胸の奥の糸に、まだ残っている。


赤みを帯びた細い筋が、淡い光の中に、消えずにあった。触れれば、そこだけ、すこし、硬い。


それ以外は、何も、変わっていないように見えた。



その夜、私は胸の奥の疼きで、目を覚ました。


いつもの、()()が感じる疼きとは、違う。もっと、広い場所から来る疼きだった。糸そのものが、ひとりでに、震えているような。


隣を見る。灯が布団の上に、起き上がっていた。


目を、見開いている。何かを見ているようで、何も見ていない目だった。両手を宙に浮かせたまま、指先が小刻みに、震えていた。


「灯」


呼んでも、返事はなかった。


体を起こして、灯の肩に手を置いた。冷たい。いつもの冷たさとは、違う種類の冷たさだった。


その瞬間、部屋の隅に置いた灯明皿の火が、大きく、揺れた。


風は、なかった。障子は、閉め切ったままだった。それなのに、火だけが、大きく、傾いだ。


一度では、なかった。


揺れて、戻って、また揺れる。遠くの誰かと、呼吸を合わせているみたいに。


「灯、聞こえてる?」


肩を、揺すった。灯の瞼が震えて、ようやく、こちらを、見た。


「……ん」


声が、掠れていた。


「今、何か」


「何が」


私は灯明皿を、指さした。火は、もう、静まっている。何事もなかったように、ただ、燃えていた。


「灯りが、揺れてた。灯が、こうなってるあいだ」


灯は自分の手を、見た。まだ、かすかに震えている手を。


「わからない。眠ってた、と思う。でも眠ってた気が、しない」



その夜のうちに、私は決めた。


(おき)の谷へ、行こう。


灯に伝えると、返事より先に、頷きが返ってきた。私も行く、とは言わなかった。ただ支度をする手が、いつもより、早かった。


夜が明けきる前に、家を出た。澪津(みおつ)の町は、まだ、眠っている。二人の足音だけが、石畳に響いた。


道々、灯はほとんど、口を利かなかった。私も無理に、聞かなかった。何を聞けばいいのか、自分でもわからなかった。


谷へ降りる坂で、灯の手が私の手を、探した。指を、絡めてくる。冷たい指だった。


震えは、もう、止まっていた。それでも握る力に、いつもより、余分な強さが、あった。



谷の底の火は、記憶より、さらに低かった。


地面すれすれで、燻っている。近づくと燠の咳が、先に聞こえた。長く、続く咳だった。手の甲で口元を、覆って、しばらく、止まらなかった。


「来たか」


咳がおさまると、燠はそう言った。振り返らずに。声にいつもより、余計な掠れが、混じっていた。


「相談したいことが、ある」


私は前置きなしに、言った。この人には、それがいちばん、通じる言い方だった。


燠が、ようやく、こちらを振り向いた。私と、灯を交互に、見る。それから、灯の胸の、糸のあるあたりを、長く、見た。


「座れ」



昨夜のことを、話した。


灯明皿の火が、揺れたこと。灯が目を開けたまま、どこか遠くを、見ていたこと。震える手。冷たさの、質がいつもと違ったこと。


話しているあいだ、燠の顔から、表情が消えていった。いつもの、億劫そうな、無関心の顔ではない。何かを堪えるような、硬い顔だった。


「前にも、似たようなことが、あった」


私は、続けた。


市場(いちば)で、灯が腹を立てたとき。遠くの提灯が、ひとつ、揺れた。あのときは、小さかった。今度は、違う。灯が、目を覚まさなかった。ひとつどころじゃ、なかった気が、する」


「ひとつじゃ、なかった、というのは」


燠の声が、低く、なった。


「わからない。でも――」


私は言葉を、探した。


「昨夜、糸が疼いたとき、なんとなく、感じた。灯の向こう側に、もっとたくさんの、糸がある気が、した。見えないのに、そこにある、っていう感じが」


燠は長いこと、黙っていた。


やがて、立ち上がった。谷の奥、岩の裂け目のようなところへ、消えていった。戻ってきたとき、その手に油紙に包まれた、一冊の帳面のようなものが、あった。



「これは」


私は、聞いた。


「二十年ほど前だ。ある男から、預かった」


燠の声は、いつもより、平らだった。感情を抑え込んだ、平らさだった。


燈寺(とうじ)の内側にいた男でな。台帳の写しを、命がけで持ち出した。何年か後に、俺のところへ流れ着いた。あいつもじきに、()きた」


油紙を、開く。中の帳面は、古く、端が擦り切れていた。墨の色が、褪せている。それでも数字と、名前らしきものの列が、びっしりと、書き込まれているのが、見えた。


「読める字だけ、読んでやる」


燠は、指で、頁をなぞった。


「この帳面は、燈寺が国中の、縁糸(えにし)の在処を、記した台帳の写しだ。誰が、誰とどれだけ太い糸を持つか。全部、数えて、書いてある」


私は、息を止めた。


「灯みたいな子が――」


「珍しくは、ない」


燠が、遮った。


「太い糸を持つ子どもは、何十年かに一人、生まれる。燈寺は見つけ次第、台帳に載せる。歩く貯えとして、な」


「灯も、載ってる」


「いや」


燠は、頁を、さらにめくった。


「灯の名は、ない。登録から漏れた、唯一の子だ。だが――」


燠の指が、止まった。


頁の隅、他とは違う色の墨で、何か、書き足されている。滲んで、読みにくい。燠は、目を細めた。何度も同じ行を、読み直しているようだった。


「これは」


燠の声が、初めて、震えた。



「なんて、書いてあるの」


私は待てずに、聞いた。


燠はしばらく、答えなかった。灰の中に視線を、落としたまま。


「登録から漏れた個体について、追記、とある」


燠の指が、また、震えていた。


「太さの、序列だ。並みの多重縁糸持ちは、二本、三本、と数える。多くて、五、六本」


「灯は」


「数の欄が、ない」


燠は帳面から、目を上げた。


「数えられん、と書いてある。網の、中心と思われる、と」


網、という言葉が、私の胸の奥で、重く、響いた。


「網って」


「国中の、太い糸を持つ子らは、それぞれ、二本、三本の糸を、結んでる。だが、この帳面の書き方だと――」


燠の声が、掠れた。


「その糸のうちの、いくつかが、また別の子と、繋がってる。その子の糸も、また別の誰かと。辿っていくと、どこかで一点に、集まる」


「その、一点が」


「灯だと、書いてある」



誰も、何も言わなかった。


谷の火が、爆ぜた。


灯は膝を抱いたまま、動かなかった。顔色はもともと白いのに、それより、なお、白く、見えた。


「昔、俺が、話したことがあったな」


燠が、言った。


二芯一灯(にしんいっとう)の話だ」


「うん」


「二人で、ひとつの灯を、燃やす。太い糸を、一本、結んでな。それだけで、俺はあいつを、喪った」


燠の目が、遠くを、見た。


「一本の、糸だ。二人ぶんの、(ともしび)だ。それだけで、あんなことになった。灯は」


燠は帳面を、見た。


「一本じゃ、ない。何本かも、わからん。国中の、数えきれん糸が、この子のところへ、集まってる。俺の時とは、まったく、違う」


燠はそこで、言葉を止めた。何かを思い出しているような、間だった。


「あいつも――」


声が、掠れた。


「あいつも、俺と結ぶ前、時々、遠くの誰かの話を、していた。会ったこともない誰かの、涙や、笑い声が聞こえる気がする、と。あの頃は、ただの、感傷だと、思ってた」


燠は帳面を、握る手に、力を込めた。


「もしかしたら、あいつも――」


その先は、言わなかった。帳面を握る指に、力がこもって、白くなっていた。視線は、灯からも、私からも、逸れていた。


私は、この人がそんな顔をするのを、初めて、見た。



「なんで、そんなものが」


私は、聞いた。声が、震えた。


「なんで、灯が、そんな――」


「生まれつきだ」


燠は静かに、言った。


「誰かが、そう仕組んだわけじゃ、ない。ただ生まれつき、そういう、質だった。太い糸をいくらでも、結べる質だ」


「燈寺は、それを、知ってる」


「帳面自体は、二十年前のものだ。だが、灯についての書き足しは、墨の色が違う。もっと、あとから、加えられたものだ。灯が、まだ、幼い時分のことじゃないか。届け出られかけて、逃げた、と言ったな。それが、これのことかもしれん」


燠の指が、帳面の、隅を押さえた。


「なら、なんで、灯は、まだ市井に、いる」


「喰えなかったのか、喰わなかったのか。それも、俺にはわからん。だが」


燠は言葉を、切った。それから、続けた。


(おう)は、喰う」


その一言で、谷の空気が、変わった。


「不死の王だ。無数の燈を、喰らって、生きてる。喰らうほど、(おり)む。それでも、まだ、喰らい続けてる。数百年もな」


「王が、灯を」


「網の、中心だぞ」


燠の声が、初めて、大きくなった。


「国中の糸が、集まる一点だ。そこを、喰らえたら――一度で、途方もない量が、手に入る。王が探してるのは、そういう、器だ。ずっと、探してた。長年、な」


「なら」


私の喉が、詰まった。


「灯は」


「王の、次の食事だ」


燠ははっきりと、言った。逃げも隠しも、しない、言い方だった。


「燈寺は、幼い灯を、一度、見つけてた。だがなぜか、登録には載せなかった。理由は俺にも、わからん。逃げたのか、隠されたのか。この帳面が、燈寺の外へ出た理由も、それと、関わりがあるのかもしれん」



灯が、ようやく、口を開いた。


「私が」


声が、平らだった。あまりに平らで、指先が、冷えた。


「国中の、糸の、真ん中」


「そうらしい」


燠は、灯を、見た。この人にしては、珍しく、まっすぐな目だった。


「お前の中に、この国の、数えきれん人間の、時が通じてる。俺はその規模を、量ったこともない。量れる相手じゃ、ない」


灯は自分の両手を、見た。


「私が、腹を立てただけで。遠くの誰かの、灯りが、揺れた」


「そうだったな」


「昨夜は」


灯の声が、初めて、揺れた。


「昨夜、何を揺らしたの、私」


誰も、答えられなかった。


燠も、私もその答えを、持っていなかった。



「王が、私を、喰ったら」


灯が、続けた。


「どうなるの」


「わからん」


燠は正直に、言った。


「だが、王がこれまで喰った、どの糸よりも、太い。喰い切れたら――王は、この国の、時の、大半を一度に、手にする」


「みんなの」


「みんなの時が、お前を通して、王のものになる。お前は、その、行き止まりだ」


私は灯の顔を、見た。血の気が失せて、いつもより、なお、白かった。冷たく澄んだ目の色が、揺れて、見えた。硬さを失って、ふやけたような、揺れ方だった。


「私は」


灯は自分の胸に、手を当てた。搾取されまいと、隠す、いつもの、しぐさとは、違う触れ方だった。ただ、確かめるような。


「私は、ただの、器」


誰も、否定できなかった。



「灯」


私は灯の名を、呼んだ。それしか、言葉が見つからなかった。


灯はこちらを、見なかった。膝の上の、自分の手を、じっと見つめていた。


「昨夜のことも。今日、聞いたことも。私、何ひとつ、わかってなかった」


灯の声は、静かだった。その静かさが、私の耳の奥に、いつまでも、残った。


「私が、ただ、生きてるだけで。どこかの、知らない誰かの、時が動いてる。私が揺れれば、その誰かも、揺れる。私は、ずっとそんなものを、抱えて、生きてた」


「灯のせいじゃ、ない」


私は、言った。


「灯は、何も選んでない。生まれつき、そうだっただけ」


「そう」


灯の声に、何の色もなかった。


「生まれつき。私が選んだことじゃ、ない。それでも、ここにある」


灯は自分の胸に、当てた手を、そっと下ろした。


その目に、いつもの、刃のような、率直さはなかった。何もない、乾いた目だった。



燠が帳面を、閉じた。


「これ以上は、俺も、知らん」


声に疲れが、滲んでいた。話しているあいだ、ずっと、咳を堪えていたようだった。今、それを堪える力が、尽きたように、長く、咳き込んだ。


私はその背に、手を当てようとした。燠は、緩く、それを避けた。


「心配するな。まだ、死なん」


声にいつもの、素っ気なさが、戻っていた。それでも頬の肉が、以前より、なお薄いことに、私は気づかないふりを、した。


「灯」


燠が、言った。


「お前が、王に喰われたら。どうなるか、知りたいか」


灯はしばらく、黙っていた。


「知りたく、ない」


小さな、声だった。


「でも、知らないままじゃ、いられない。もう」


燠は、頷いた。それ以上、何も言わなかった。



谷を、出た。


日は、もう、高く、昇っていた。灯は私の隣を、歩いていた。手は、繋がなかった。触れることさえ、忘れたように、両手を自分の胸の前で、そっと組んでいた。


坂を、上る。澪津の町並みが、遠くに見えてくる。屋根の連なりの、その一つひとつの下に、誰かが生きている。誰かの燈が、灯っている。


その、無数の灯りのどれだけが、灯の胸の奥に、見えない糸で、結ばれているのだろう。


考えると、足が竦んだ。


私はこれまで、灯を買い戻すことだけを、考えてきた。位を上げて、燈寺に金を積んで、灯を自由にする。それだけを、目指してきた。


でも燈寺の向こうに、燈寺よりも、大きなものが、いる。数百年、喰らい続けて、なお、飢えている、何か。


私一人の位が、いくつ上がったところで。


届く、相手なのだろうか。



(みお)


灯が、言った。


「私、怖い」


初めて、聞く、言葉だった。灯がそう言うのを、聞いたことは、なかった。


「うん」


私はそれだけ、答えた。他に言えることが、なかった。


「私が、いる限り、ずっと誰かが、危ない。私を、通して。私はそれを、止められない」


灯の手が、自分の喉に、触れた。あの、結び目の、跡がある場所に。


「渡さない、って、澪、言ったよね」


「言った」


「でも、これは」


灯は言葉を、途中で止めた。続きを口にすることさえ、怖いというように。


私にもその先が、見えなかった。灯の終わり方も、私の終わり方も、渡さないと、決めた。だが王という、途方もない相手の前で、その約束が、どれほどの、重さを持つのか。


わからなかった。



澪津の町へ、戻った。


いつもの通りを、いつものように、歩いた。だが見えるものが、違って見えた。行き交う人、軒先の灯明、遠くの寺の鐘。


その一つひとつの奥に、誰かの燈が、灯っている。その誰かの糸が、もしかしたら、灯の中心へ、繋がっているのかもしれない。


家に着いても、私たちはしばらく、何も話さなかった。灯は部屋の隅に、座り込んで、膝を抱えていた。


私はその隣に、座った。何も、言わずに。ただ、隣に、いた。


夕暮れが、部屋を、赤く、染めていく。灯明皿の火が、静かに燃えていた。今夜も、揺れるのだろうか。私にはそれを、止める術が、なかった。


灯はひとりの子どもじゃ、なかった。


小さな火を、二人で、黙って、見つめていた。


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