第15話 灯の、値段
あの夜から、十日が経っていた。
布団は、もう、離れていない。灯は眠るとき、私の袖を軽く握っている。強く掴むのでも、放すのでもない。ちょうど、糸の緩みひとつぶんくらいの、力だった。
朝、粥を分ける。灯の椀のほうが、すこし多い。灯はもう、それを指摘しない。ただ、黙って食べる。
位は二のまま、動いていない。焚場には、行っていなかった。行かないことに、理由はなかった。強いて言うなら、まだ、行く気になれなかった。
それでも、日々は続いていく。米を研ぎ、水を汲み、繕い物をする。十日前の夜の焼け跡は、灯の胸の奥の糸に、まだ残っている。
赤みを帯びた細い筋が、淡い光の中に、消えずにあった。触れれば、そこだけ、すこし、硬い。
それ以外は、何も、変わっていないように見えた。
*
その夜、私は胸の奥の疼きで、目を覚ました。
いつもの、焚き手が感じる疼きとは、違う。もっと、広い場所から来る疼きだった。糸そのものが、ひとりでに、震えているような。
隣を見る。灯が布団の上に、起き上がっていた。
目を、見開いている。何かを見ているようで、何も見ていない目だった。両手を宙に浮かせたまま、指先が小刻みに、震えていた。
「灯」
呼んでも、返事はなかった。
体を起こして、灯の肩に手を置いた。冷たい。いつもの冷たさとは、違う種類の冷たさだった。
その瞬間、部屋の隅に置いた灯明皿の火が、大きく、揺れた。
風は、なかった。障子は、閉め切ったままだった。それなのに、火だけが、大きく、傾いだ。
一度では、なかった。
揺れて、戻って、また揺れる。遠くの誰かと、呼吸を合わせているみたいに。
「灯、聞こえてる?」
肩を、揺すった。灯の瞼が震えて、ようやく、こちらを、見た。
「……ん」
声が、掠れていた。
「今、何か」
「何が」
私は灯明皿を、指さした。火は、もう、静まっている。何事もなかったように、ただ、燃えていた。
「灯りが、揺れてた。灯が、こうなってるあいだ」
灯は自分の手を、見た。まだ、かすかに震えている手を。
「わからない。眠ってた、と思う。でも眠ってた気が、しない」
*
その夜のうちに、私は決めた。
燠の谷へ、行こう。
灯に伝えると、返事より先に、頷きが返ってきた。私も行く、とは言わなかった。ただ支度をする手が、いつもより、早かった。
夜が明けきる前に、家を出た。澪津の町は、まだ、眠っている。二人の足音だけが、石畳に響いた。
道々、灯はほとんど、口を利かなかった。私も無理に、聞かなかった。何を聞けばいいのか、自分でもわからなかった。
谷へ降りる坂で、灯の手が私の手を、探した。指を、絡めてくる。冷たい指だった。
震えは、もう、止まっていた。それでも握る力に、いつもより、余分な強さが、あった。
*
谷の底の火は、記憶より、さらに低かった。
地面すれすれで、燻っている。近づくと燠の咳が、先に聞こえた。長く、続く咳だった。手の甲で口元を、覆って、しばらく、止まらなかった。
「来たか」
咳がおさまると、燠はそう言った。振り返らずに。声にいつもより、余計な掠れが、混じっていた。
「相談したいことが、ある」
私は前置きなしに、言った。この人には、それがいちばん、通じる言い方だった。
燠が、ようやく、こちらを振り向いた。私と、灯を交互に、見る。それから、灯の胸の、糸のあるあたりを、長く、見た。
「座れ」
*
昨夜のことを、話した。
灯明皿の火が、揺れたこと。灯が目を開けたまま、どこか遠くを、見ていたこと。震える手。冷たさの、質がいつもと違ったこと。
話しているあいだ、燠の顔から、表情が消えていった。いつもの、億劫そうな、無関心の顔ではない。何かを堪えるような、硬い顔だった。
「前にも、似たようなことが、あった」
私は、続けた。
「市場で、灯が腹を立てたとき。遠くの提灯が、ひとつ、揺れた。あのときは、小さかった。今度は、違う。灯が、目を覚まさなかった。ひとつどころじゃ、なかった気が、する」
「ひとつじゃ、なかった、というのは」
燠の声が、低く、なった。
「わからない。でも――」
私は言葉を、探した。
「昨夜、糸が疼いたとき、なんとなく、感じた。灯の向こう側に、もっとたくさんの、糸がある気が、した。見えないのに、そこにある、っていう感じが」
燠は長いこと、黙っていた。
やがて、立ち上がった。谷の奥、岩の裂け目のようなところへ、消えていった。戻ってきたとき、その手に油紙に包まれた、一冊の帳面のようなものが、あった。
*
「これは」
私は、聞いた。
「二十年ほど前だ。ある男から、預かった」
燠の声は、いつもより、平らだった。感情を抑え込んだ、平らさだった。
「燈寺の内側にいた男でな。台帳の写しを、命がけで持ち出した。何年か後に、俺のところへ流れ着いた。あいつもじきに、燼きた」
油紙を、開く。中の帳面は、古く、端が擦り切れていた。墨の色が、褪せている。それでも数字と、名前らしきものの列が、びっしりと、書き込まれているのが、見えた。
「読める字だけ、読んでやる」
燠は、指で、頁をなぞった。
「この帳面は、燈寺が国中の、縁糸の在処を、記した台帳の写しだ。誰が、誰とどれだけ太い糸を持つか。全部、数えて、書いてある」
私は、息を止めた。
「灯みたいな子が――」
「珍しくは、ない」
燠が、遮った。
「太い糸を持つ子どもは、何十年かに一人、生まれる。燈寺は見つけ次第、台帳に載せる。歩く貯えとして、な」
「灯も、載ってる」
「いや」
燠は、頁を、さらにめくった。
「灯の名は、ない。登録から漏れた、唯一の子だ。だが――」
燠の指が、止まった。
頁の隅、他とは違う色の墨で、何か、書き足されている。滲んで、読みにくい。燠は、目を細めた。何度も同じ行を、読み直しているようだった。
「これは」
燠の声が、初めて、震えた。
*
「なんて、書いてあるの」
私は待てずに、聞いた。
燠はしばらく、答えなかった。灰の中に視線を、落としたまま。
「登録から漏れた個体について、追記、とある」
燠の指が、また、震えていた。
「太さの、序列だ。並みの多重縁糸持ちは、二本、三本、と数える。多くて、五、六本」
「灯は」
「数の欄が、ない」
燠は帳面から、目を上げた。
「数えられん、と書いてある。網の、中心と思われる、と」
網、という言葉が、私の胸の奥で、重く、響いた。
「網って」
「国中の、太い糸を持つ子らは、それぞれ、二本、三本の糸を、結んでる。だが、この帳面の書き方だと――」
燠の声が、掠れた。
「その糸のうちの、いくつかが、また別の子と、繋がってる。その子の糸も、また別の誰かと。辿っていくと、どこかで一点に、集まる」
「その、一点が」
「灯だと、書いてある」
*
誰も、何も言わなかった。
谷の火が、爆ぜた。
灯は膝を抱いたまま、動かなかった。顔色はもともと白いのに、それより、なお、白く、見えた。
「昔、俺が、話したことがあったな」
燠が、言った。
「二芯一灯の話だ」
「うん」
「二人で、ひとつの灯を、燃やす。太い糸を、一本、結んでな。それだけで、俺はあいつを、喪った」
燠の目が、遠くを、見た。
「一本の、糸だ。二人ぶんの、燈だ。それだけで、あんなことになった。灯は」
燠は帳面を、見た。
「一本じゃ、ない。何本かも、わからん。国中の、数えきれん糸が、この子のところへ、集まってる。俺の時とは、まったく、違う」
燠はそこで、言葉を止めた。何かを思い出しているような、間だった。
「あいつも――」
声が、掠れた。
「あいつも、俺と結ぶ前、時々、遠くの誰かの話を、していた。会ったこともない誰かの、涙や、笑い声が聞こえる気がする、と。あの頃は、ただの、感傷だと、思ってた」
燠は帳面を、握る手に、力を込めた。
「もしかしたら、あいつも――」
その先は、言わなかった。帳面を握る指に、力がこもって、白くなっていた。視線は、灯からも、私からも、逸れていた。
私は、この人がそんな顔をするのを、初めて、見た。
*
「なんで、そんなものが」
私は、聞いた。声が、震えた。
「なんで、灯が、そんな――」
「生まれつきだ」
燠は静かに、言った。
「誰かが、そう仕組んだわけじゃ、ない。ただ生まれつき、そういう、質だった。太い糸をいくらでも、結べる質だ」
「燈寺は、それを、知ってる」
「帳面自体は、二十年前のものだ。だが、灯についての書き足しは、墨の色が違う。もっと、あとから、加えられたものだ。灯が、まだ、幼い時分のことじゃないか。届け出られかけて、逃げた、と言ったな。それが、これのことかもしれん」
燠の指が、帳面の、隅を押さえた。
「なら、なんで、灯は、まだ市井に、いる」
「喰えなかったのか、喰わなかったのか。それも、俺にはわからん。だが」
燠は言葉を、切った。それから、続けた。
「王は、喰う」
その一言で、谷の空気が、変わった。
「不死の王だ。無数の燈を、喰らって、生きてる。喰らうほど、澱む。それでも、まだ、喰らい続けてる。数百年もな」
「王が、灯を」
「網の、中心だぞ」
燠の声が、初めて、大きくなった。
「国中の糸が、集まる一点だ。そこを、喰らえたら――一度で、途方もない量が、手に入る。王が探してるのは、そういう、器だ。ずっと、探してた。長年、な」
「なら」
私の喉が、詰まった。
「灯は」
「王の、次の食事だ」
燠ははっきりと、言った。逃げも隠しも、しない、言い方だった。
「燈寺は、幼い灯を、一度、見つけてた。だがなぜか、登録には載せなかった。理由は俺にも、わからん。逃げたのか、隠されたのか。この帳面が、燈寺の外へ出た理由も、それと、関わりがあるのかもしれん」
*
灯が、ようやく、口を開いた。
「私が」
声が、平らだった。あまりに平らで、指先が、冷えた。
「国中の、糸の、真ん中」
「そうらしい」
燠は、灯を、見た。この人にしては、珍しく、まっすぐな目だった。
「お前の中に、この国の、数えきれん人間の、時が通じてる。俺はその規模を、量ったこともない。量れる相手じゃ、ない」
灯は自分の両手を、見た。
「私が、腹を立てただけで。遠くの誰かの、灯りが、揺れた」
「そうだったな」
「昨夜は」
灯の声が、初めて、揺れた。
「昨夜、何を揺らしたの、私」
誰も、答えられなかった。
燠も、私もその答えを、持っていなかった。
*
「王が、私を、喰ったら」
灯が、続けた。
「どうなるの」
「わからん」
燠は正直に、言った。
「だが、王がこれまで喰った、どの糸よりも、太い。喰い切れたら――王は、この国の、時の、大半を一度に、手にする」
「みんなの」
「みんなの時が、お前を通して、王のものになる。お前は、その、行き止まりだ」
私は灯の顔を、見た。血の気が失せて、いつもより、なお、白かった。冷たく澄んだ目の色が、揺れて、見えた。硬さを失って、ふやけたような、揺れ方だった。
「私は」
灯は自分の胸に、手を当てた。搾取されまいと、隠す、いつもの、しぐさとは、違う触れ方だった。ただ、確かめるような。
「私は、ただの、器」
誰も、否定できなかった。
*
「灯」
私は灯の名を、呼んだ。それしか、言葉が見つからなかった。
灯はこちらを、見なかった。膝の上の、自分の手を、じっと見つめていた。
「昨夜のことも。今日、聞いたことも。私、何ひとつ、わかってなかった」
灯の声は、静かだった。その静かさが、私の耳の奥に、いつまでも、残った。
「私が、ただ、生きてるだけで。どこかの、知らない誰かの、時が動いてる。私が揺れれば、その誰かも、揺れる。私は、ずっとそんなものを、抱えて、生きてた」
「灯のせいじゃ、ない」
私は、言った。
「灯は、何も選んでない。生まれつき、そうだっただけ」
「そう」
灯の声に、何の色もなかった。
「生まれつき。私が選んだことじゃ、ない。それでも、ここにある」
灯は自分の胸に、当てた手を、そっと下ろした。
その目に、いつもの、刃のような、率直さはなかった。何もない、乾いた目だった。
*
燠が帳面を、閉じた。
「これ以上は、俺も、知らん」
声に疲れが、滲んでいた。話しているあいだ、ずっと、咳を堪えていたようだった。今、それを堪える力が、尽きたように、長く、咳き込んだ。
私はその背に、手を当てようとした。燠は、緩く、それを避けた。
「心配するな。まだ、死なん」
声にいつもの、素っ気なさが、戻っていた。それでも頬の肉が、以前より、なお薄いことに、私は気づかないふりを、した。
「灯」
燠が、言った。
「お前が、王に喰われたら。どうなるか、知りたいか」
灯はしばらく、黙っていた。
「知りたく、ない」
小さな、声だった。
「でも、知らないままじゃ、いられない。もう」
燠は、頷いた。それ以上、何も言わなかった。
*
谷を、出た。
日は、もう、高く、昇っていた。灯は私の隣を、歩いていた。手は、繋がなかった。触れることさえ、忘れたように、両手を自分の胸の前で、そっと組んでいた。
坂を、上る。澪津の町並みが、遠くに見えてくる。屋根の連なりの、その一つひとつの下に、誰かが生きている。誰かの燈が、灯っている。
その、無数の灯りのどれだけが、灯の胸の奥に、見えない糸で、結ばれているのだろう。
考えると、足が竦んだ。
私はこれまで、灯を買い戻すことだけを、考えてきた。位を上げて、燈寺に金を積んで、灯を自由にする。それだけを、目指してきた。
でも燈寺の向こうに、燈寺よりも、大きなものが、いる。数百年、喰らい続けて、なお、飢えている、何か。
私一人の位が、いくつ上がったところで。
届く、相手なのだろうか。
*
「澪」
灯が、言った。
「私、怖い」
初めて、聞く、言葉だった。灯がそう言うのを、聞いたことは、なかった。
「うん」
私はそれだけ、答えた。他に言えることが、なかった。
「私が、いる限り、ずっと誰かが、危ない。私を、通して。私はそれを、止められない」
灯の手が、自分の喉に、触れた。あの、結び目の、跡がある場所に。
「渡さない、って、澪、言ったよね」
「言った」
「でも、これは」
灯は言葉を、途中で止めた。続きを口にすることさえ、怖いというように。
私にもその先が、見えなかった。灯の終わり方も、私の終わり方も、渡さないと、決めた。だが王という、途方もない相手の前で、その約束が、どれほどの、重さを持つのか。
わからなかった。
*
澪津の町へ、戻った。
いつもの通りを、いつものように、歩いた。だが見えるものが、違って見えた。行き交う人、軒先の灯明、遠くの寺の鐘。
その一つひとつの奥に、誰かの燈が、灯っている。その誰かの糸が、もしかしたら、灯の中心へ、繋がっているのかもしれない。
家に着いても、私たちはしばらく、何も話さなかった。灯は部屋の隅に、座り込んで、膝を抱えていた。
私はその隣に、座った。何も、言わずに。ただ、隣に、いた。
夕暮れが、部屋を、赤く、染めていく。灯明皿の火が、静かに燃えていた。今夜も、揺れるのだろうか。私にはそれを、止める術が、なかった。
灯はひとりの子どもじゃ、なかった。
小さな火を、二人で、黙って、見つめていた。




