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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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16/22

第16話 暗い鏡

谷へ向かう道は、いつもより長く感じた。


(おき)の体調が、ここ数日、思わしくない。咳の間隔が短くなっていると、(あかり)が言った。米を届けるついでに顔を見てくる。それだけの、いつもの用事のはずだった。


朝の光は、まだ弱い。畦道の両側に立つ木々の影が、細く長く、道の上に落ちている。灯は、私の半歩後ろを歩いていた。


この十日ほどで、そうなった。前を歩くこともあれば、隣に並ぶこともある。だが今朝は、後ろだった。


理由は聞かなかった。


夜ごと、灯の中の何かが目を覚まし、遠くの誰かの(ともしび)を揺らしている。それを知ってから、灯は自分の輪郭を、以前よりも小さく持つようになった気がする。気がする、というだけだ。


灯の中で何が起きているのか、私には見えない。ただ、歩幅が少し狭くなったこと、袖口を指で軽くつまむ癖が増えたこと、それだけを、数えることができる。


「今日は、燠さんに会ったら」


灯が、口を開いた。


「何を、聞くの」


「別に。米が足りてるか、それだけ」


嘘だった。谷に着いたら、燠の体に何が起きているのか、この目でちゃんと確かめるつもりでいる。だが灯には、そう言った。灯が余計なことを気に病まないように。


灯は、それ以上聞かなかった。私の嘘に、気づいていたかもしれない。


朝餉のとき、灯は、椀の粥を、半分しか、食べなかった。残りを、私の椀へ、そっと寄せてきた。以前なら、多いほうを譲ろうとして、いつも押し問答になった。今朝は、何も言わずに、それだけをして、あとは黙っていた。


その黙り方が、いつもと違う。


燠の谷から帰ってきたあの夜からずっと、灯の目は、乾いたままだった。刃物のような、まっすぐな光が、そこにない。何を見ても、どこか、少し遠くを見ているような目だった。


布団は、並んで敷いたままだった。だが、灯の手は、夜のあいだ、私の袖を握らなかった。握る力そのものを、持て余しているようにも見えた。


位は、二のまま、動いていない。焚場(たきば)には、あれから、行っていない。行く気になれずにいる自分に、理由をつけることさえ、できずにいた。


畦道が終わり、山へ続く細道に入る。木々が両側から迫り、頭上の空が細く切り取られる。この道を何度歩いただろう。


燠の谷までは、半刻とすこし。何度も踏んだ土の感触は、もう足の裏が覚えている。


だから、その違和感には、すぐ気づいた。


鳥の声が、ない。


風は吹いている。木々の葉が、さらさらと鳴っている。だが、いつもならどこかで啼いている鳥の声が、今朝はどこにもない。


足が、止まった。


灯も、後ろで、足を止めた。


(みお)


灯の声が、低くなっていた。


「なに」


「前」


道の先、細道が少し開けて、木々の隙間から光が差し込む場所がある。いつもならただの明るい一角だ。だが今、そこに、人影があった。


いつからそこにいたのか、わからない。歩いてきたようにも、初めから立っていたようにも見えなかった。ただそこに、在った。


背は高い。体つきは、若くも老いてもいない。それどころか、年齢というものが、そこに一切乗っていないように見えた。着ているものは、地味な色の、丈の長い衣。


装飾はない。(ほむら)のように燈札(ひふだ)を纏ってもいなければ、澱見(よどみ)のように整えられた法衣でもない。ただの、無地の布。


その顔立ちは、整っている。整いすぎている。よく見ようとすると、輪郭が、指先からこぼれる砂のように、掴みどころなく感じられた。目を離した瞬間、また同じ顔を思い出せなくなるのではないか――そんな予感が、見ている最中から、すでにあった。


一番、おかしいのは、光だった。


この世界の生きているものは、誰もが胸の奥に、燈を持っている。()()なら熱を帯びた光、灯なら冷たく澄んだ光。燠のように惜しんだ者でも、(おき)のような色を持つ。私はこれまで、燈を持たない生き物を見たことがなかった。


その人影には、それが、なかった。


なくて、なお、そこにいる。


胸のあたりに目をやると、光の代わりに、何か、揺蕩う影のようなものが見えた。焚かれることも、灯されることもなく、ただ溜まって、動かない。水たまりが、日に照らされず、底で澱んでいくときのような。


「――」


声が出なかった。


喉の奥が、乾いている。逃げなければ、と思う端から、足が動かない。相手が何かをしたわけではない。


ただそこにいるだけで、私の中の何かが、勝手に竦んでいた。捕食者の匂いを嗅いだ獲物の怯えに、よく似ている。


いや、似ているのではない。


私は今、獲物として、値踏みされている。


その静けさは、殺気とは違った。急いでいない。焦っていない。私という存在の、隅から隅まで、時間をかけて見ている、という静けさだった。


人影が、口を開いた。


「――久しいな」


声は、静かで、低い。怒鳴られるより、その温度のなさのほうが、ずっと恐ろしかった。


「誰かと、思ったが」


言葉が、そこで一度、途切れた。何かを探すように、間があった。


「……いや。すまない。誰かに、似ていると思っただけだ」


名を思い出せなかったのだと、間の空き方で分かった。あるいは、そもそも思い出す相手など、初めからいなかったのかもしれない。どちらにせよ、その人影は、自分の言葉のわずかなほつれにすら、動じていない様子だった。


灯が、私の袖を、掴んだ。


強く。指先が白くなるほど、強く。


「灯」


名を呼んでも、返事がなかった。振り向くと、灯の顔から、血の気が引いていた。唇が、わずかに震えている。


灯がこんな顔をするのを、私は見たことがなかった。焚場でどんな格上と対峙したときも、灯はこんな顔をしなかった。


人影の目が、灯へ、動いた。


それだけで、灯の体が、びくりと竦んだ。


「――ああ」


人影の口の端が、緩んだ。笑ったのかどうかは、分からなかった。喜びの形をしているのに、そこに喜びの温度は、少しも乗っていなかった。


「見つけた」


灯の袖を掴む力が、さらに強くなった。


「久しく、探していたわけではない。だが、いつかは辿り着くと、思っていた。お前のような糸を持つ器は――そう多くは、生まれない」


人影が、灯の胸のあたりを、見た。見た、というより、覗き込んだ。私の目には見えない何かを、その人影は当たり前のように見て取っている様子だった。


「なるほど。数えきれん。お前を通れば、この国のどれだけの燈に届くだろうな」


「――何を、言ってる」


声が、震えていた。自分の声だと、少し遅れて気づいた。


「事実を言っている。それだけだ」


人影の視線が、私に戻った。


「お前が、その糸のもう一方か」


答えられなかった。答えるより先に、体の内側から、何かに押しつぶされる感覚がきた。息が、詰まる。


胸の奥の、私自身の燈が、値踏みされているのが分かった。値踏みの視線が、すぐに、逸れていった。


これほどの相手に、私は、勝負にすらならない。


その事実が、言葉より先に、体に落ちてきた。


焚場で格上を相手にしたときも、勝算はいつも薄かった。だが、薄くても、あった。今、目の前にいる何かに対して、私は、勝算という言葉を思い浮かべることさえできなかった。


これは、勝ち負けの相手じゃない。


これは。


これは、天候だ。


逆らうことのできない、ただそこにある、圧倒的な何か。


「怖がらなくていい」


人影が、言った。優しい声だった。優しいのに、その優しさが、どこよりも冷たく感じられた。


「私は、お前たちを、傷つけに来たのではない」


一歩、近づいてきた。足音は、しなかった。


「お前は、その子を、生かそうとしている。買い戻そうと、していると聞いた」


「――誰から」


「風の噂だ。この国は、狭い」


人影が、また一歩、近づいた。灯の指先が、私の袖に、さらに深く食い込む。


「無理をしているだろう。位を上げるために、自分を焚き、他人の時を借り、時には奪い――お前は、疲れている」


図星だった。答える前に、体が、強張っていた。


「その子を助けたいという気持ちに、嘘はないだろう。だが、この道は長い。長すぎる。お前の手は、もう若くない手つきをしている」


視線が、私の指先に落ちた。焚きすぎて節くれた、焦げ色の指。誰にも、そこまで見られたことはなかった気がする。燠にすら、こんな風に、隅々まで値踏みされたことはなかった。


「あの子の苦しみを、私が、止めてやれる」


声が、静かに、部屋の隅々にまで染み込む水のように、広がった。


「喰えばいい」


一言だった。たった一言。だが、その一言の重みに、私は、息ができなくなった。


「喰う、というのは、乱暴な言葉に聞こえるかもしれん。だが本質は、違う。私がその子を受け取れば、その子はもう、誰にも搾られない。燈寺(とうじ)にも、(くらい)()にも、脅かされない。永遠に、安らかだ。お前も、その子のために自分を焚き続ける必要が、なくなる」


優しい、声だった。混じり気のない、優しさだった。


そして、そのことのほうが、喉の奥を、冷たくした。


この人影は、私を陥れようとしているのではない。少なくとも、そう見せかけているのではないように思えた。本気で、これが救いだと信じているような、そんな声だった。


その確信めいた響きの分厚さに、私は、言葉を失った。


「――否だ」


灯が、言った。声は、掠れていた。だが、掠れながらも、はっきりと。


「私は、まだ、私の終わり方を、決めていない」


人影の目が、灯に、戻った。


「決める、決めないの話ではない。お前が持っているものは、お前一人のものにしておくには、大きすぎる」


その言葉が、灯の体を、また竦ませた。


「お前を通せば、どれだけの燈に、届くだろうな」


繰り返された。数える、というより、噛みしめるように。


「私は、長く、探していた。多くを結べる器を。ようやく、見つけた」


その目が、まっすぐに、灯へ向けられた。


「私に来れば、お前は、器という意味を、初めて全うできる。誰にも搾られる恐怖もなく、ただ、大きな渦の一部として、在り続ける」


「――嫌だ」


灯が、言った。


「私は、器じゃない」


「器でなければ、何だと言うのだ」


人影の問いに、灯は、答えられなかった。喉が、震えていた。声そのものが、出てこないように見えた。


私は、灯の代わりに、何か言わなければと思った。だが喉が、動かなかった。


これが、義務的な場面だと、頭のどこかで思う自分がいた。だがその思考は、すぐに霧散した。ここには、義務的だとか、勇敢だとか、そういう物差しは、ここでは端から、意味を失っていた。ただ、圧倒的な何かの前で、私と灯は、二本の細い蝋燭のように、立っているだけだった。


人影の視線が、また私に戻った。


「お前は――」


言葉が、そこで、また一度、途切れた。何かを思い出そうとするように、目が、宙をさまよった。


「お前は、妹がいたな」


心臓が、跳ねた。


「なぜ、それを」


「お前の燈の形に、その痕跡が、残っている。分けられた燈というのは、独特の焦げ方をする。誰かから受け取った者の燈は、そう長くは、他人の目を欺けない」


私の胸の内側を、また見透かされている。(なぎ)の燈札のことは、誰にも話していない。だが、この人影には、話す必要すらないらしい。私の体の内側に、答えはすべて書かれている。


「妹は、どんな声で、笑った」


「――なぜ、そんなことを聞く」


「思い出せなくなった。私はもう、多くのことを忘れた。誰の声で、誰が笑ったのか。誰の手が、温かかったのか。すべて、ただの燈の量として、私の中で、澱んでいる」


その声に、初めて、何か別のものが混ざった気がした。憐れみを求めるような、あるいは、憐れむような。どちらとも、判別がつかなかった。


「お前の妹の声を、いつか、聞かせてくれ」


答えなかった。答えられなかった。


人影は、それ以上、追わなかった。ただ、静かに、私たちを見ている。その静けさの底に、飢えのようなものが、確かにあった。満ちているはずの何かが、ずっと満ちていない、という飢え。


私は、その飢えの形に、見覚えがある気がした。


どこで。


いつ。


考えかけて、すぐに、思考を止めた。考えてはいけない、という予感があった。この飢えの形を、これ以上正確に思い出してしまったら――何か、取り返しのつかないことに気づいてしまう。


自分の中の、どこか深いところにある何かと、目の前の何かが、同じ根から生えている。


その予感だけが、体の芯を、冷たく撫でていった。


目を、逸らした。


人影は、それを見て、また、あの温度のない笑みを浮かべた。


「怖がる必要は、ない。私はお前たちの、敵ではない」


「――なら、何なんだ」


声を、絞り出した。


「私たちは、似ている」


人影が、言った。


「お前も、この子も、私も。時というものの前で、選びたくて選べなかった者たちだ。お前は妹の時で生きてしまった自分を、許せずにいる。この子は、搾られる自分の在り方を、拒むことでしか、保てずにいる。そして私は――」


言葉が、そこで、また止まった。今度は、思い出せないからではなく、続きを言うことそのものを、迷っているように見えた。


「私は、あまりに長く、生き延びすぎた」


それだけ言うと、人影は、視線を、遠くへやった。私たちを見ているようで、私たちの向こうにある、もっと別の何かを見ているようだった。


「この国は、私のために、時を集め続けている。澱見のような者が、それを、静かに、運んでいる」


「――」


「あんなに丁重に、運ばれてくる」


その声には、糾弾する響きは、なかった。むしろ、疲れたような、諦めたような、色があった。


「私は、ときどき、思う。あれが、正しいことなのかどうか、私自身には、もう、分からない」


知っていた。この国が何を土台に回っているか、燈寺の司燈(しとう)から、遠回しに聞かされたことがある。だが、それを支える側からではなく、支えられている側の口から、こんな疲れた声で聞かされるとは、思っていなかった。


これは、誰か一人を倒せば済む話ではない。


この人影一人を、たとえ、どうにかできたとして。


この国そのものが、この仕組みの上に、建っている。


足元が、崩れていくような感覚があった。私が積み上げてきたもの――位を上げて、灯を買い戻すという、たった一つの目標。それが、急に、あまりにも小さく、頼りないものに見えてきた。


この人影の前では。


この国そのものの重さの前では。


「――お前も、いずれ、分かるだろう」


人影が、言った。


「妹の時で生きた自分を許せず、他人のために自分を焚き続けて、それでも救えないものが、いつか出てくる。そのとき、お前は、何かを、差し出すことになる」


「――違う」


言葉が、勝手に、口から出た。


「私は、そんなことは」


「今は、そう思うだろう。だが、時というものは、いつか、お前にも、同じ日を、連れてくる」


人影の目が、まっすぐに、私を見た。


「私も、かつては、お前のような目をしていた」


その一言に、体の奥が、冷たくなった。


何も、考えられなかった。ただ、風の音だけが、遠くで、鳴っていた。


このまま進めば、私は、この人影のようになるのだろうか。


誰かを守るために、時を惜しみ、誰かを守るために、時を焚き、それでも足りず、いつか、奪うことを選んでしまう日が来るのだろうか。奪って、奪って、その果てに、何もかもを忘れて、ただ、飢えだけが残る、あの姿に。


その想像が、あまりにも鮮明に、頭の中に浮かんだ。


喉の奥から、冷たいものが、せり上がってくる。


それだけが、体の中を、駆け抜けた。


目を、また、逸らした。今度は、逸らさずにはいられなかった。


「怖がることはない」


人影が、繰り返した。


「私はただ、お前たちに、時間をやろうと言っている。急ぐ必要はない。この子を今すぐ喰らうつもりも、ない」


その言葉に、私も灯も、体を強張らせたまま、動けなかった。


「ただ、覚えておくといい。いずれ、お前は、私のところへ来る」


人影が、一歩、下がった。


「その日まで、せいぜい、あがくといい。あがく姿は――嫌いではない」


その言葉を最後に、人影の輪郭が、揺らいだ。霧が晴れるように、というのとは違う。むしろ、霧そのものが、静かに、その形を保つのをやめていくような、消え方だった。


気がつくと、道の先には、誰もいなかった。


木々の隙間から差す光だけが、いつもと同じように、揺れている。


鳥の声が、戻ってきた。


それに気づくまで、しばらく、時間がかかった。



その場に、崩れるように、座り込んだ。


膝が、笑っていた。今になって、体の震えが、追いついてきた。手のひらに、冷たい汗が滲んでいる。


灯も、私の隣に、崩れるように座った。袖を掴んでいた手を、ようやく離した。指の跡が、私の袖に、白く残っていた。


「澪」


灯の声は、まだ震えていた。


「なに」


「あれが」


灯は、言葉を続けられなかった。開きかけた唇が、そのまま、震えて止まった。


私も、答えられなかった。今しがた聞いたばかりの名を、思い浮かべることさえ、体が拒んでいた。誰かがぽつりと呟くのを、遠い昔に、一度だけ聞いたことがある気がする。


数百年生きる者。すべての燈を、最後には集めてしまう者。


(おり)


その名を、頭の中で、ようやく形にした。声には、出さなかった。出せば、また、あの静けさが戻ってくる気がした。


「私は」


灯が、ぽつりと、言った。


「私は、ただの、器なんだろうか」


「違う」


即座に、それだけを、返した。他の言葉は、まだ、うまく出てこなかった。


「違う、って、簡単に言うけど」


灯の声が、小さく、掠れた。


「あの人には、見えてるんだよ。私の中の、糸の全部が。私を通れば、どれだけの人に届くか、って。私自身より、よっぽど、正確に」


答えられなかった。それは事実だったから。


私は、灯の肩に、そっと手を置いた。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、隣にいることしか、できなかった。


灯は、それを、払わなかった。


しばらく、二人とも、何も言わずに、そこに座っていた。木々のざわめきと、鳥の声だけが、耳に届いていた。何事もなかったかのように。


だが、何もかもが、違って見えていた。


燠の谷へ向かうはずだった足は、今、そこから動かなかった。行けば、あの気配がまた戻ってくるのではないか。あるいは、行かなければ、燠の身に、何かが起きているのではないか。どちらの不安も、拭えなかった。


自分が積み上げてきたものが、あまりにも、小さく感じられた。位を、いくつ上げたところで。焚場の頂に、いつか手が届いたところで。


あの人影の前には、私は、蝋燭の火一つほどの意味も、持たない。


それでも。


立ち上がらなければならなかった。


「行こう」


灯に、言った。声が、まだ、わずかに震えていた。


「燠さんの、ところ」


灯は、しばらく、私を見上げていた。それから、頷いた。頷く仕草に、いつもの硬さが、まだ戻っていなかった。


二人で、立ち上がった。足元が、まだ、少し覚束なかった。


谷への道を、また、歩き始めた。今度は、灯が、私の隣に並んだ。半歩後ろではなく、隣に。


その距離の意味を、聞く余裕は、まだ、なかった。


鳥の声が、木々の間を、抜けていく。何事もなかったかのように、風が、頬を撫でていく。だが、私の中では、何かが、決定的に、変わってしまっていた。


谷に着くころには、日が、高く昇っていた。


燠は、いつもの場所で、火の番をしていた。私たちの気配に気づいて顔を上げた瞬間、その表情が、止まった。


「――何が、あった」


言葉より先に、燠の目が、何かを読み取っていた。長く生きてきた者だけが持つ、そういう嗅覚があるのかもしれない。


私は、道で起きたことを、順に話した。人影のこと。燈を持たなかったこと。


灯の名を、口にしたこと。話しているあいだ、燠は、一度も、口を挟まなかった。手にした薪も、途中から、動かさなくなっていた。


話し終えたとき、燠は、長く、黙った。それから、薪を、静かに、置いた。


「そうか」


それだけだった。


「燠さん、それって」


「今は、聞くな」


燠の声は、いつもより、低かった。低いというより、重かった。


「俺の口から言えることは、ない。まだ、ない」


その「まだ」という一言に、何か、途方もないものが、詰まっている気がした。だが、それ以上、燠は語らなかった。ただ、いつもより長く、咳き込んだ。手のひらで、それを隠すことも、しなかった。


私たちは、それ以上、何も聞けなかった。灯も、私も、燠の隣に座り、燃える火を、黙って見つめるしか、なかった。


その火は、いつもと変わらず、小さく、静かに、燃えていた。


だが、それを見つめる私の目には、もう、さっきまでと同じ景色には、映らなかった。


この国そのものが、あの飢えの上に、建っている。


その事実の重さを、まだ、うまく飲み込めずにいた。


燠の咳が、また、闇の中に、小さく響いた。


澱は、笑わなかった。ただ、視ていた。


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