第16話 暗い鏡
谷へ向かう道は、いつもより長く感じた。
燠の体調が、ここ数日、思わしくない。咳の間隔が短くなっていると、灯が言った。米を届けるついでに顔を見てくる。それだけの、いつもの用事のはずだった。
朝の光は、まだ弱い。畦道の両側に立つ木々の影が、細く長く、道の上に落ちている。灯は、私の半歩後ろを歩いていた。
この十日ほどで、そうなった。前を歩くこともあれば、隣に並ぶこともある。だが今朝は、後ろだった。
理由は聞かなかった。
夜ごと、灯の中の何かが目を覚まし、遠くの誰かの燈を揺らしている。それを知ってから、灯は自分の輪郭を、以前よりも小さく持つようになった気がする。気がする、というだけだ。
灯の中で何が起きているのか、私には見えない。ただ、歩幅が少し狭くなったこと、袖口を指で軽くつまむ癖が増えたこと、それだけを、数えることができる。
「今日は、燠さんに会ったら」
灯が、口を開いた。
「何を、聞くの」
「別に。米が足りてるか、それだけ」
嘘だった。谷に着いたら、燠の体に何が起きているのか、この目でちゃんと確かめるつもりでいる。だが灯には、そう言った。灯が余計なことを気に病まないように。
灯は、それ以上聞かなかった。私の嘘に、気づいていたかもしれない。
朝餉のとき、灯は、椀の粥を、半分しか、食べなかった。残りを、私の椀へ、そっと寄せてきた。以前なら、多いほうを譲ろうとして、いつも押し問答になった。今朝は、何も言わずに、それだけをして、あとは黙っていた。
その黙り方が、いつもと違う。
燠の谷から帰ってきたあの夜からずっと、灯の目は、乾いたままだった。刃物のような、まっすぐな光が、そこにない。何を見ても、どこか、少し遠くを見ているような目だった。
布団は、並んで敷いたままだった。だが、灯の手は、夜のあいだ、私の袖を握らなかった。握る力そのものを、持て余しているようにも見えた。
位は、二のまま、動いていない。焚場には、あれから、行っていない。行く気になれずにいる自分に、理由をつけることさえ、できずにいた。
畦道が終わり、山へ続く細道に入る。木々が両側から迫り、頭上の空が細く切り取られる。この道を何度歩いただろう。
燠の谷までは、半刻とすこし。何度も踏んだ土の感触は、もう足の裏が覚えている。
だから、その違和感には、すぐ気づいた。
鳥の声が、ない。
風は吹いている。木々の葉が、さらさらと鳴っている。だが、いつもならどこかで啼いている鳥の声が、今朝はどこにもない。
足が、止まった。
灯も、後ろで、足を止めた。
「澪」
灯の声が、低くなっていた。
「なに」
「前」
道の先、細道が少し開けて、木々の隙間から光が差し込む場所がある。いつもならただの明るい一角だ。だが今、そこに、人影があった。
いつからそこにいたのか、わからない。歩いてきたようにも、初めから立っていたようにも見えなかった。ただそこに、在った。
背は高い。体つきは、若くも老いてもいない。それどころか、年齢というものが、そこに一切乗っていないように見えた。着ているものは、地味な色の、丈の長い衣。
装飾はない。焔のように燈札を纏ってもいなければ、澱見のように整えられた法衣でもない。ただの、無地の布。
その顔立ちは、整っている。整いすぎている。よく見ようとすると、輪郭が、指先からこぼれる砂のように、掴みどころなく感じられた。目を離した瞬間、また同じ顔を思い出せなくなるのではないか――そんな予感が、見ている最中から、すでにあった。
一番、おかしいのは、光だった。
この世界の生きているものは、誰もが胸の奥に、燈を持っている。焚き手なら熱を帯びた光、灯なら冷たく澄んだ光。燠のように惜しんだ者でも、熾のような色を持つ。私はこれまで、燈を持たない生き物を見たことがなかった。
その人影には、それが、なかった。
なくて、なお、そこにいる。
胸のあたりに目をやると、光の代わりに、何か、揺蕩う影のようなものが見えた。焚かれることも、灯されることもなく、ただ溜まって、動かない。水たまりが、日に照らされず、底で澱んでいくときのような。
「――」
声が出なかった。
喉の奥が、乾いている。逃げなければ、と思う端から、足が動かない。相手が何かをしたわけではない。
ただそこにいるだけで、私の中の何かが、勝手に竦んでいた。捕食者の匂いを嗅いだ獲物の怯えに、よく似ている。
いや、似ているのではない。
私は今、獲物として、値踏みされている。
その静けさは、殺気とは違った。急いでいない。焦っていない。私という存在の、隅から隅まで、時間をかけて見ている、という静けさだった。
人影が、口を開いた。
「――久しいな」
声は、静かで、低い。怒鳴られるより、その温度のなさのほうが、ずっと恐ろしかった。
「誰かと、思ったが」
言葉が、そこで一度、途切れた。何かを探すように、間があった。
「……いや。すまない。誰かに、似ていると思っただけだ」
名を思い出せなかったのだと、間の空き方で分かった。あるいは、そもそも思い出す相手など、初めからいなかったのかもしれない。どちらにせよ、その人影は、自分の言葉のわずかなほつれにすら、動じていない様子だった。
灯が、私の袖を、掴んだ。
強く。指先が白くなるほど、強く。
「灯」
名を呼んでも、返事がなかった。振り向くと、灯の顔から、血の気が引いていた。唇が、わずかに震えている。
灯がこんな顔をするのを、私は見たことがなかった。焚場でどんな格上と対峙したときも、灯はこんな顔をしなかった。
人影の目が、灯へ、動いた。
それだけで、灯の体が、びくりと竦んだ。
「――ああ」
人影の口の端が、緩んだ。笑ったのかどうかは、分からなかった。喜びの形をしているのに、そこに喜びの温度は、少しも乗っていなかった。
「見つけた」
灯の袖を掴む力が、さらに強くなった。
「久しく、探していたわけではない。だが、いつかは辿り着くと、思っていた。お前のような糸を持つ器は――そう多くは、生まれない」
人影が、灯の胸のあたりを、見た。見た、というより、覗き込んだ。私の目には見えない何かを、その人影は当たり前のように見て取っている様子だった。
「なるほど。数えきれん。お前を通れば、この国のどれだけの燈に届くだろうな」
「――何を、言ってる」
声が、震えていた。自分の声だと、少し遅れて気づいた。
「事実を言っている。それだけだ」
人影の視線が、私に戻った。
「お前が、その糸のもう一方か」
答えられなかった。答えるより先に、体の内側から、何かに押しつぶされる感覚がきた。息が、詰まる。
胸の奥の、私自身の燈が、値踏みされているのが分かった。値踏みの視線が、すぐに、逸れていった。
これほどの相手に、私は、勝負にすらならない。
その事実が、言葉より先に、体に落ちてきた。
焚場で格上を相手にしたときも、勝算はいつも薄かった。だが、薄くても、あった。今、目の前にいる何かに対して、私は、勝算という言葉を思い浮かべることさえできなかった。
これは、勝ち負けの相手じゃない。
これは。
これは、天候だ。
逆らうことのできない、ただそこにある、圧倒的な何か。
「怖がらなくていい」
人影が、言った。優しい声だった。優しいのに、その優しさが、どこよりも冷たく感じられた。
「私は、お前たちを、傷つけに来たのではない」
一歩、近づいてきた。足音は、しなかった。
「お前は、その子を、生かそうとしている。買い戻そうと、していると聞いた」
「――誰から」
「風の噂だ。この国は、狭い」
人影が、また一歩、近づいた。灯の指先が、私の袖に、さらに深く食い込む。
「無理をしているだろう。位を上げるために、自分を焚き、他人の時を借り、時には奪い――お前は、疲れている」
図星だった。答える前に、体が、強張っていた。
「その子を助けたいという気持ちに、嘘はないだろう。だが、この道は長い。長すぎる。お前の手は、もう若くない手つきをしている」
視線が、私の指先に落ちた。焚きすぎて節くれた、焦げ色の指。誰にも、そこまで見られたことはなかった気がする。燠にすら、こんな風に、隅々まで値踏みされたことはなかった。
「あの子の苦しみを、私が、止めてやれる」
声が、静かに、部屋の隅々にまで染み込む水のように、広がった。
「喰えばいい」
一言だった。たった一言。だが、その一言の重みに、私は、息ができなくなった。
「喰う、というのは、乱暴な言葉に聞こえるかもしれん。だが本質は、違う。私がその子を受け取れば、その子はもう、誰にも搾られない。燈寺にも、位の座にも、脅かされない。永遠に、安らかだ。お前も、その子のために自分を焚き続ける必要が、なくなる」
優しい、声だった。混じり気のない、優しさだった。
そして、そのことのほうが、喉の奥を、冷たくした。
この人影は、私を陥れようとしているのではない。少なくとも、そう見せかけているのではないように思えた。本気で、これが救いだと信じているような、そんな声だった。
その確信めいた響きの分厚さに、私は、言葉を失った。
「――否だ」
灯が、言った。声は、掠れていた。だが、掠れながらも、はっきりと。
「私は、まだ、私の終わり方を、決めていない」
人影の目が、灯に、戻った。
「決める、決めないの話ではない。お前が持っているものは、お前一人のものにしておくには、大きすぎる」
その言葉が、灯の体を、また竦ませた。
「お前を通せば、どれだけの燈に、届くだろうな」
繰り返された。数える、というより、噛みしめるように。
「私は、長く、探していた。多くを結べる器を。ようやく、見つけた」
その目が、まっすぐに、灯へ向けられた。
「私に来れば、お前は、器という意味を、初めて全うできる。誰にも搾られる恐怖もなく、ただ、大きな渦の一部として、在り続ける」
「――嫌だ」
灯が、言った。
「私は、器じゃない」
「器でなければ、何だと言うのだ」
人影の問いに、灯は、答えられなかった。喉が、震えていた。声そのものが、出てこないように見えた。
私は、灯の代わりに、何か言わなければと思った。だが喉が、動かなかった。
これが、義務的な場面だと、頭のどこかで思う自分がいた。だがその思考は、すぐに霧散した。ここには、義務的だとか、勇敢だとか、そういう物差しは、ここでは端から、意味を失っていた。ただ、圧倒的な何かの前で、私と灯は、二本の細い蝋燭のように、立っているだけだった。
人影の視線が、また私に戻った。
「お前は――」
言葉が、そこで、また一度、途切れた。何かを思い出そうとするように、目が、宙をさまよった。
「お前は、妹がいたな」
心臓が、跳ねた。
「なぜ、それを」
「お前の燈の形に、その痕跡が、残っている。分けられた燈というのは、独特の焦げ方をする。誰かから受け取った者の燈は、そう長くは、他人の目を欺けない」
私の胸の内側を、また見透かされている。凪の燈札のことは、誰にも話していない。だが、この人影には、話す必要すらないらしい。私の体の内側に、答えはすべて書かれている。
「妹は、どんな声で、笑った」
「――なぜ、そんなことを聞く」
「思い出せなくなった。私はもう、多くのことを忘れた。誰の声で、誰が笑ったのか。誰の手が、温かかったのか。すべて、ただの燈の量として、私の中で、澱んでいる」
その声に、初めて、何か別のものが混ざった気がした。憐れみを求めるような、あるいは、憐れむような。どちらとも、判別がつかなかった。
「お前の妹の声を、いつか、聞かせてくれ」
答えなかった。答えられなかった。
人影は、それ以上、追わなかった。ただ、静かに、私たちを見ている。その静けさの底に、飢えのようなものが、確かにあった。満ちているはずの何かが、ずっと満ちていない、という飢え。
私は、その飢えの形に、見覚えがある気がした。
どこで。
いつ。
考えかけて、すぐに、思考を止めた。考えてはいけない、という予感があった。この飢えの形を、これ以上正確に思い出してしまったら――何か、取り返しのつかないことに気づいてしまう。
自分の中の、どこか深いところにある何かと、目の前の何かが、同じ根から生えている。
その予感だけが、体の芯を、冷たく撫でていった。
目を、逸らした。
人影は、それを見て、また、あの温度のない笑みを浮かべた。
「怖がる必要は、ない。私はお前たちの、敵ではない」
「――なら、何なんだ」
声を、絞り出した。
「私たちは、似ている」
人影が、言った。
「お前も、この子も、私も。時というものの前で、選びたくて選べなかった者たちだ。お前は妹の時で生きてしまった自分を、許せずにいる。この子は、搾られる自分の在り方を、拒むことでしか、保てずにいる。そして私は――」
言葉が、そこで、また止まった。今度は、思い出せないからではなく、続きを言うことそのものを、迷っているように見えた。
「私は、あまりに長く、生き延びすぎた」
それだけ言うと、人影は、視線を、遠くへやった。私たちを見ているようで、私たちの向こうにある、もっと別の何かを見ているようだった。
「この国は、私のために、時を集め続けている。澱見のような者が、それを、静かに、運んでいる」
「――」
「あんなに丁重に、運ばれてくる」
その声には、糾弾する響きは、なかった。むしろ、疲れたような、諦めたような、色があった。
「私は、ときどき、思う。あれが、正しいことなのかどうか、私自身には、もう、分からない」
知っていた。この国が何を土台に回っているか、燈寺の司燈から、遠回しに聞かされたことがある。だが、それを支える側からではなく、支えられている側の口から、こんな疲れた声で聞かされるとは、思っていなかった。
これは、誰か一人を倒せば済む話ではない。
この人影一人を、たとえ、どうにかできたとして。
この国そのものが、この仕組みの上に、建っている。
足元が、崩れていくような感覚があった。私が積み上げてきたもの――位を上げて、灯を買い戻すという、たった一つの目標。それが、急に、あまりにも小さく、頼りないものに見えてきた。
この人影の前では。
この国そのものの重さの前では。
「――お前も、いずれ、分かるだろう」
人影が、言った。
「妹の時で生きた自分を許せず、他人のために自分を焚き続けて、それでも救えないものが、いつか出てくる。そのとき、お前は、何かを、差し出すことになる」
「――違う」
言葉が、勝手に、口から出た。
「私は、そんなことは」
「今は、そう思うだろう。だが、時というものは、いつか、お前にも、同じ日を、連れてくる」
人影の目が、まっすぐに、私を見た。
「私も、かつては、お前のような目をしていた」
その一言に、体の奥が、冷たくなった。
何も、考えられなかった。ただ、風の音だけが、遠くで、鳴っていた。
このまま進めば、私は、この人影のようになるのだろうか。
誰かを守るために、時を惜しみ、誰かを守るために、時を焚き、それでも足りず、いつか、奪うことを選んでしまう日が来るのだろうか。奪って、奪って、その果てに、何もかもを忘れて、ただ、飢えだけが残る、あの姿に。
その想像が、あまりにも鮮明に、頭の中に浮かんだ。
喉の奥から、冷たいものが、せり上がってくる。
それだけが、体の中を、駆け抜けた。
目を、また、逸らした。今度は、逸らさずにはいられなかった。
「怖がることはない」
人影が、繰り返した。
「私はただ、お前たちに、時間をやろうと言っている。急ぐ必要はない。この子を今すぐ喰らうつもりも、ない」
その言葉に、私も灯も、体を強張らせたまま、動けなかった。
「ただ、覚えておくといい。いずれ、お前は、私のところへ来る」
人影が、一歩、下がった。
「その日まで、せいぜい、あがくといい。あがく姿は――嫌いではない」
その言葉を最後に、人影の輪郭が、揺らいだ。霧が晴れるように、というのとは違う。むしろ、霧そのものが、静かに、その形を保つのをやめていくような、消え方だった。
気がつくと、道の先には、誰もいなかった。
木々の隙間から差す光だけが、いつもと同じように、揺れている。
鳥の声が、戻ってきた。
それに気づくまで、しばらく、時間がかかった。
*
その場に、崩れるように、座り込んだ。
膝が、笑っていた。今になって、体の震えが、追いついてきた。手のひらに、冷たい汗が滲んでいる。
灯も、私の隣に、崩れるように座った。袖を掴んでいた手を、ようやく離した。指の跡が、私の袖に、白く残っていた。
「澪」
灯の声は、まだ震えていた。
「なに」
「あれが」
灯は、言葉を続けられなかった。開きかけた唇が、そのまま、震えて止まった。
私も、答えられなかった。今しがた聞いたばかりの名を、思い浮かべることさえ、体が拒んでいた。誰かがぽつりと呟くのを、遠い昔に、一度だけ聞いたことがある気がする。
数百年生きる者。すべての燈を、最後には集めてしまう者。
澱。
その名を、頭の中で、ようやく形にした。声には、出さなかった。出せば、また、あの静けさが戻ってくる気がした。
「私は」
灯が、ぽつりと、言った。
「私は、ただの、器なんだろうか」
「違う」
即座に、それだけを、返した。他の言葉は、まだ、うまく出てこなかった。
「違う、って、簡単に言うけど」
灯の声が、小さく、掠れた。
「あの人には、見えてるんだよ。私の中の、糸の全部が。私を通れば、どれだけの人に届くか、って。私自身より、よっぽど、正確に」
答えられなかった。それは事実だったから。
私は、灯の肩に、そっと手を置いた。何を言えばいいのか、分からなかった。ただ、隣にいることしか、できなかった。
灯は、それを、払わなかった。
しばらく、二人とも、何も言わずに、そこに座っていた。木々のざわめきと、鳥の声だけが、耳に届いていた。何事もなかったかのように。
だが、何もかもが、違って見えていた。
燠の谷へ向かうはずだった足は、今、そこから動かなかった。行けば、あの気配がまた戻ってくるのではないか。あるいは、行かなければ、燠の身に、何かが起きているのではないか。どちらの不安も、拭えなかった。
自分が積み上げてきたものが、あまりにも、小さく感じられた。位を、いくつ上げたところで。焚場の頂に、いつか手が届いたところで。
あの人影の前には、私は、蝋燭の火一つほどの意味も、持たない。
それでも。
立ち上がらなければならなかった。
「行こう」
灯に、言った。声が、まだ、わずかに震えていた。
「燠さんの、ところ」
灯は、しばらく、私を見上げていた。それから、頷いた。頷く仕草に、いつもの硬さが、まだ戻っていなかった。
二人で、立ち上がった。足元が、まだ、少し覚束なかった。
谷への道を、また、歩き始めた。今度は、灯が、私の隣に並んだ。半歩後ろではなく、隣に。
その距離の意味を、聞く余裕は、まだ、なかった。
鳥の声が、木々の間を、抜けていく。何事もなかったかのように、風が、頬を撫でていく。だが、私の中では、何かが、決定的に、変わってしまっていた。
谷に着くころには、日が、高く昇っていた。
燠は、いつもの場所で、火の番をしていた。私たちの気配に気づいて顔を上げた瞬間、その表情が、止まった。
「――何が、あった」
言葉より先に、燠の目が、何かを読み取っていた。長く生きてきた者だけが持つ、そういう嗅覚があるのかもしれない。
私は、道で起きたことを、順に話した。人影のこと。燈を持たなかったこと。
灯の名を、口にしたこと。話しているあいだ、燠は、一度も、口を挟まなかった。手にした薪も、途中から、動かさなくなっていた。
話し終えたとき、燠は、長く、黙った。それから、薪を、静かに、置いた。
「そうか」
それだけだった。
「燠さん、それって」
「今は、聞くな」
燠の声は、いつもより、低かった。低いというより、重かった。
「俺の口から言えることは、ない。まだ、ない」
その「まだ」という一言に、何か、途方もないものが、詰まっている気がした。だが、それ以上、燠は語らなかった。ただ、いつもより長く、咳き込んだ。手のひらで、それを隠すことも、しなかった。
私たちは、それ以上、何も聞けなかった。灯も、私も、燠の隣に座り、燃える火を、黙って見つめるしか、なかった。
その火は、いつもと変わらず、小さく、静かに、燃えていた。
だが、それを見つめる私の目には、もう、さっきまでと同じ景色には、映らなかった。
この国そのものが、あの飢えの上に、建っている。
その事実の重さを、まだ、うまく飲み込めずにいた。
燠の咳が、また、闇の中に、小さく響いた。
澱は、笑わなかった。ただ、視ていた。




