第17話 弟子に、してやろう
闇の中で、灯の指先が、震えていた。
眠っているはずだった。息は静かで、瞼も閉じている。それなのに、指先だけが、何かに引かれるように、小さく痙攣していた。
窓の外、遠くの家の軒先で、誰かの燈が揺れた。風はない。それでも、灯りは大きく振れて、ふっと静まった。
止まるまでの間が、昨夜より、長かった。
この五日、毎晩、同じことが起きている。日ごとに、揺れが、長く、深くなっていく。今夜もまた、それが始まっている。
最初の夜は、一つだけだった。遠く、たった一つの燈が揺れて、止まった。それだけなら、風のいたずらだと思えた。二日目は、二つになった。
三日目、四日目と、揺れる燈の数が増えていった。五日目の今夜は、もう、数える気になれない。窓の向こうの闇のあちこちで、小さな光が、申し合わせたように震え、そして止まった。
灯の中で、何かが、目を覚ましている。
それが何なのか、私にはわからない。灯自身にも、わからないはずだった。眠っている間に起きることだから、灯は、自分が何をしているのか、知らない。知らないまま、頬の線だけが、日ごとに、細くなっていった。
朝、髪を梳いてやると、櫛にかかる髪の量が、以前より、少し増えている気がした。気がする、というだけだ。数えたわけではない。
揺れる燈を眺めていると、遠くの誰かの日々が、灯の眠りに引きずられて震えているのだと、それだけがわかる。わかったところで、灯の手を、そっと、握り直すこと以外、できることはなかった。
あの市場で、灯の喜びや怒りが遠くの誰かの燈を揺らしたことがあった。あのときは、まだ、片鱗だった。今、夜ごと繰り返されているものは、あれよりずっと、大きく、深い。灯自身にも、届く先が見えていない。
眠れない夜が続いているのは、灯だけではなかった。隣で寝息を確かめながら、私も、ほとんど眠れていなかった。
昼のあいだ、灯は、いつもと変わらないふりをした。市場へ、米を買いに行った日、灯は、私の分だけ、少し大きな粒を選んで、袋の奥に入れていた。気づかないふりをして、受け取った。
何も言わなかった。言葉にしてしまえば、壊れてしまう気がした。
同じ市場で、隣の露店の女が、あくびを噛み殺しながら、ぼやいていた。「このところ、眠りが浅くて」。理由には、心当たりがなさそうだった。
似たようなぼやきを、あちこちで小耳に挟んだ。理由の見当がつかないまま眠りを奪われている人が、この町だけでも、ずいぶんいるらしかった。
三日目の夜、髪を梳く番が、逆になった。灯が、私の背後に回り、黙って、櫛を手に取った。理由は、聞かなかった。
指の動きは、ぎこちなかった。それでも、その不器用さが、悪くなかった。
帰り道、燠さんに、このことを話すべきかどうか、迷った。谷まで行けば、何か、わかるかもしれない。だが、燠さんの咳は、日ごとに、重くなっている。
これ以上、心配の種を、増やしたくなかった。灯も、同じことを考えていたのか、「今は、いい」とだけ、言った。それ以上は、二人とも、口にしなかった。
あの日から、灯は、半歩後ろではなく、隣を選んで歩くようになっていた。距離の意味を、まだ聞いていない。聞かないまま、この五日を、二人で、越えてきた。
井戸端で、繕い物を濯いでいたときのことだ。灯の手が、水の中で、いつもより遅く動いていた。「手が、かじかんで」と、灯は言った。
かじかむには、まだ早い季節だった。それでも、聞かなかった。聞けば、灯が困る顔をするのが、わかっていたから。
四日目の昼下がり、土間で、灯が、一瞬、体を傾がせた。壁に、手をついて、こらえた。「なんでもない」。
夕餉の支度でも、火吹き竹を握ったまま、手を止めることが増えた。「なんでもない」。その言葉の数だけ、私は、聞かないことを、選び続けた。
いつからか、寝る前に、火箸を、布団のすぐ脇に置くようになっていた。役に立つとも、思っていなかった。ただ、そこに置いておかないと、落ち着かなかった。
焚場には、行っていない。位は、二のまま、動いていない。
布団は、並んで敷いたままだった。夜になると、灯の手が、私の袖を握る。眠りに落ちるまでの、短い時間だけ。だが今夜は、その手が、いつもより早く、離れていった。
私は、灯の額に、そっと手を当てた。
冷たい。いつもより、冷たい。
灯の胸の奥、燈の宿る場所に、目をやった。いつもの、澄んだ青白い光が、そこにあるはずだった。だが今夜は、その光が、羽虫の羽ばたきのように、細かく震えていた。今にも、消え入りそうな震え方だった。
窓の外で、また、燈が揺れた。今度は、一つや二つではなかった。数え切れない小さな光が、一斉に、震えた。
間を置かず、また震えた。いつもは一晩に一度きりの揺れが、今夜は、瞬きの間もなく、続けざまに起きている。
それを見た瞬間、体の芯が、冷えた。
これは、いつもと違う。いつもより大きい。いつもより、速い。何かが、限界に近づいている、という予感だけが、はっきりとあった。
灯が、目を開けた。
息が、荒い。額に、汗が滲んでいる。乾いた唇が、震えながら開いた。
「澪」
名前を呼ぶ声が、掠れていた。
「私、また」
「わかってる」
最後まで言わせなかった。灯が、自分の中で何が起きているのか分からないまま怯えるのを、これ以上、聞きたくなかった。
灯の手を、握った。冷たい手だった。いつもよりも、ずっと。
「今夜は、いつもと違う」
灯が、言った。声が、震えていた。
「何かが、近い。そんな、気が――」
言い終わらないうちに、部屋の空気が、変わった。
*
音は、しなかった。戸は、閉まったままだった。窓も、開いていない。
それなのに、竈の熾火が、一斉に、色を失った。橙の火が、灰色に近い光に変わり、部屋の温度が、一段、落ちた。壁にかけていた鍋の蓋が、誰も触れていないのに、小さく、鳴った。
部屋の隅、誰も灯していない暗がりに、誰かが、立っていた。
息が、白くならない室内なのに、吐く息の先が、なぜか、見えるような気がした。土間の土の匂いさえ、薄れていく。部屋のすべての音が、一段、遠くなった。
「――」
声が、出なかった。
あの日、山道で会ったときと、同じ気配だった。同じ、燈を持たない静けさ。だが今夜は、値踏みするような間も、名乗りもなかった。
ただ、そこに、在った。最初から、そこに在ったかのように。
顔立ちを、また、うまく思い出せない。目を離す前から、もう、輪郭がぼやけていく。それでも、そこにいることだけは、疑いようがなかった。
「うるさかった」
澱が、言った。低く、静かな声だった。
「毎晩、毎晩。眠っていても、聞こえるほどに」
その声に、灯の体が、竦んだ。私の手を握る指に、爪が食い込むほどの力が、こもった。
「呼んだつもりは」
「呼ぶ、呼ばないの話ではない。届くか、届かないかだ」
澱の目が、灯へ、動いた。
「届いた。それだけのことだ」
立ち上がる間さえ、与えられなかった。
澱が、一歩、踏み出した。その一歩に、距離という概念が、追いついていない気がした。次に瞬きをしたときには、もう、灯のすぐそばに、立っていた。足音は、今回も、しなかった。
「灯」
叫んだつもりだった。だが声は、思ったよりも、ずっと小さくしか出なかった。
布団の脇に置いてあった火箸を、掴んだ。考えるより先に、体が動いていた。振りかぶり、澱の腕へ、叩きつけようとした。
手応えが、なかった。
火箸は、何もない空間を、そのまま、通り抜けた。澱の腕は、確かに、そこにあるように見えるのに、私の一撃には、何の障りにもならなかった。
落ちた火箸を拾う間も惜しんで、体ごと、二人のあいだへ、割り込もうとした。肩から、押し入るつもりだった。
届かなかった。
届く前に、見えない何かに、押し返された。突き飛ばされたわけではない。ただ、そこから先に、進めなかった。
壁でもないのに、壁のように押し返された。何度体をぶつけても、同じところで弾かれた。
「動くな」
命じられたわけでもないのに、体が、動かなくなった。関節の一つ一つが、言うことを聞かない。指先すら、震えるだけで、握ることができなかった。
冷たい重みが、肩や腰、両膝から、私を床へ押しつけていた。痛みではない。ただ、そこから一寸も動けないという事実だけが、重かった。
声を、限界まで、張り上げようとした。近くの家まで届けば、誰か、来てくれるかもしれない。
だが、口から出たのは、掠れた息だけだった。声そのものが、部屋の外へ、出ていかない。澱のいる場所だけ、音というものの届く先が、断たれているようだった。
澱の手が、灯の喉に、伸びた。手首と喉、縁糸の結び目を示す薄い筋のあるところ。そこに、指が触れた瞬間、灯の体が、大きく、跳ねた。
「――っ」
灯の口から、声にならない声が、漏れた。
灯の胸の奥、燈の光が、見る間に、色を変えていった。澄んだ青白さが、薄くなっていく。薄くなって、灰色に近づいていく。
羽虫の羽ばたきのような震えが、だんだんと、遅くなっていった。
消えかけている。
その事実だけが、頭の中に、残った。
そこで、一度、澱の手が、緩んだ。
灯の喉から、荒い息が、漏れた。わずかな間だけ、光の震えが、持ち直した。
「――ほう」
澱が、小さく、声を漏らした。値踏みの声だった。
「思っていたより、抵抗する。この程度の器で」
感心しているようにも、苛立っているようにも、聞こえなかった。ただ、事実を確認しているだけの声だった。
次の瞬間、澱の指先が、白く、強張った。先ほどよりも、深く、食い込む強張り方だった。
灯の体が、大きく、仰け反った。歯の隙間から漏れる音が、悲鳴に近くなった。
初めて灯に会った夜のことが、一瞬、頭の隅をよぎった。膝を抱えて座り込んでいた、あの小さな背中。今、腕の中で崩れかけているのは、同じ背中だった。あの夜、震える肩にそっと触れたときの重みを、手のひらが、まだ覚えている。
「やめて」
声を、絞り出した。
「お願い、やめて」
「これは、痛みを与えているわけではない」
澱の声は、変わらず、静かだった。
「持って行っているだけだ。お前たちの言葉で言えば――もらっている」
灯の唇から、色が、失われていく。指先が、白く、こわばっていく。胸の上下が、浅く、間遠になっていく。土間に置いてあった水瓶に、目が行った。
中身を、浴びせれば。考える間もなく、手を伸ばしかけた。だが指先は、瓶に触れる前に、また、見えない壁に、弾かれた。何をしても、同じだった。
「代わりに」
自分でも、何を言っているのか、よくわからなかった。
「私を、代わりに」
澱の目が、初めて、私に戻った。
「お前を」
「私の残りを、使って。灯の代わりに」
その申し出に、澱の顔からは、何も読み取れなかった。憐れみも、興味も。ただ、値踏みするような一瞬の間があっただけだった。
「足りない」
短く、それだけを言った。
「お前の残りなど、端から、数のうちに入らない。話にすら、ならない」
数のうちに入らない。
その響きだけが、耳の奥に、重く居座った。私の差し出した命は、この男の前では、初めから、なかったことにされている。
灯の手首が、指の食い込む跡を、白く残していた。喉の奥から、掠れた息が、漏れ続けている。
私にできることは、何もなかった。
燠さんのところまで、走れば。
考えかけて、すぐに、打ち消した。谷までは、半刻とすこし。間に合うはずがない。
ここで、今、起きていることに、間に合う手立てが、私には、何もなかった。師の顔を思い浮かべても、返ってくるのは、ただ、遠くにいるという事実だけだった。
凪の燈札のことが、頭の隅を、かすめた。手が、勝手に、それを隠している場所へ動きかけて、止まった。使ったところで、この男の前では、無意味だという確信だけが、はっきりとあった。
何もできない。
その事実だけが、体の中に、重く沈んでいった。
動けない体のまま、私は、ただ、見ていることしかできなかった。灯の顔から、また一段、色が引いていくのを。喉の奥に、叫びの形をしたものが、詰まっていた。それでも、外へは、出ていかない。
灯の目が、薄く、開いていた。焦点の合わない目が、それでも、私を、探していた。
「灯」
名前を、呼んだ。
灯の唇が、動いた。音はなかった。だが、動いた形だけは、見えた。
いらない。
そう、動いたように見えた。
澱の手に、力がこもった。灯の体が、また、大きく、跳ねた。瞼が、痙攣するように、震えている。胸の光が、ほとんど、灰と見分けがつかないところまで、薄くなった。
「渡さない」
今度は、かすかに、声になった。
「私は――器じゃ、ない」
その一言に、澱の手が、一瞬、止まった。
止まった理由は、わからなかった。痛みを与えたわけでも、抵抗する力があったわけでもない。ただ、灯の中の何かが、澱の手の届かないところに、まだ、あったように見えた。
「渡さない」
灯が、繰り返した。声は、掠れて、今にも途切れそうだった。それでも、言葉の形だけは、崩れなかった。
「私の、終わり方だけは」
澱が、灯の顔を、見た。値踏みでも、憐れみでもない、何か別のものが、その目に浮かんでいるように見えた。
「頑固だ」
ぽつりと、こぼれた一言だった。責める響きでも、苛立つ響きでもない、ただ、事実を確かめるような、乾いた口調だった。
「これほど薄い燈で、これほど、粘るとはな」
灯は、答えなかった。答える力が、もう、残っていないようだった。それでも、目だけは、澱を、逸らさずに見ていた。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
風のない部屋の中で、灯の細い息だけが、聞こえていた。竈の熾火が、灰色のまま、じっと、動かずにいた。壁の鍋の蓋も、もう、鳴らなかった。
やがて、澱が、手を、離した。
ゆっくりと、灯の喉から、指が、離れていった。灯の体が、力なく、崩れ落ちた。
体が、ようやく、動くようになった。膝が、うまく、力を入れられなかった。それでも、崩れる灯を、間に合わせで、抱き留めた。
冷たい。ひどく、冷たい。
だが、腕の中で、胸が、上下していた。
息をしている。生きている。その事実だけを、確かめた。
何度も、確かめた。指先で、灯の首筋に触れ、脈があることを、もう一度、確かめた。
自分の手が、震えているのに、遅れて気づいた。抱き留めた腕の中で、灯より先に、私の指のほうが、震え続けていた。
灯の胸の奥、燈の光が、灰色から、ゆっくりと、色を取り戻していく。薄い、頼りない青白さだったが、確かに、消えてはいなかった。その色を、何度も、確かめずにはいられなかった。
ついさっきまで灰色一色だったものが、こうしてまた、青白い光を宿している。それだけのことを見つめるたびに、詰めていた息が、少しずつ、緩んでいった。
灯の指が、私の袖を、探した。弱い力で、けれど、確かに、握った。
「……澪」
声が、かろうじて、聞き取れるくらいの大きさだった。
「大丈夫」
私は、それだけを、言った。他に、言える言葉が、見つからなかった。
灯の指先が、少しずつ、温かさを取り戻していく。それを、腕の中で、確かめ続けた。竈の熾火も、少しずつ、橙の色を、濃くしていった。
窓の外の燈も、いつのまにか、揺れを止めていた。もう、震えている光は、どこにもない。
澱は、その様子を、しばらく、黙って見ていた。
「面白い」
ぽつりと、言った。独り言のような響きだった。
「お前ほどの糸を持つ器で、これほど、しぶといのは、久しぶりに見た」
答える気力は、なかった。
「なぜ」
やっと、それだけを、絞り出した。
「なぜ、喰わなかった」
澱の目が、私を、見た。
「喰おうとした。だが、喰い切れなかった。それだけだ」
「理由は」
「知らん」
あっさりとした答えだった。長く生きた者が、面倒な問いを、切り捨てるときの声だった。
「この子の中に、私の手が、届かないものが、ある。それだけは、わかった。理由までは、わからん。わかったことがない」
澱が、視線を、灯から、私へ、動かした。
「お前も、同じものを、持っているのか」
答えられなかった。答えを、自分でも、持っていなかった。
「持っているかもしれん」
独り言のような、抑揚のない声だった。
「あるいは、持っていないかもしれん。だが――」
言葉が、そこで、一度、途切れた。
「それを、確かめてみたいと、思う程度には、お前は、面白い」
その声の響きに、値踏みだけではない、何かが、混ざっているように聞こえた。飢えとは、違う音だった。それが何なのか、名づける言葉を、私は持たなかった。
澱の視線が、もう一度、私の指先に落ちた。焚きすぎて節くれた、焦げ色の指。あの山道で見られたのと、同じ場所だった。
「その手で、まだ、続けるつもりか」
視線を、逸らさなかった。答える必要が、ないように思えた。
「妹の分の時で、生き延びた手だ。それに、また、他人の分まで、乗せていく気か」
図星を突かれ、胸の奥が、詰まった。答える代わりに、灯を抱く腕に、力をこめた。
腕の中で、灯の唇が、かすかに動いた。
「――澪の、せいじゃ」
続きは、息に紛れて、消えた。それでも、庇おうとしているのだと、わかった。この状態で、まだ、庇おうとしている。
「それとも」
澱が、続けた。
「自分のためにも、少しは、使ってみるか」
その問いには、唇を、噛んだだけだった。
「己のために何も望まぬ者を、私は、他にも見てきた。長く生きるほど、そういう者は、目につく。皆、同じ末路をたどる」
「――末路」
「使い尽くして、消える。あるいは、私のような者に、拾われる」
その言葉に、何を返せばいいのか、わからなかった。
「弟子とは」
やっと、それだけを、聞いた。
「何を、するのか」
「来れば、わかる。今宵は、まだ、機が満ちていない。間に合わせに、様子を見に来ただけのことだ」
澱の答えは、それだけだった。それ以上、説明する気は、なさそうだった。
「なぜ、私に」
声が、震えていた。
「他にも、位を上げようとしている焚き手は、いくらでもいる。もっと、強い者も」
「強さの話は、していない」
澱の声に、初めて、わずかな抑揚が、混ざった。
「己のために何一つ望まず、それでいて、他人のためになら、命を差し出せる者。そういう者を、私は、あまり見たことがない。しかも、たった今、目の前で、それを見せた。忘れる前に、手元に、置いておきたくなる。それだけのことだ」
その理屈に、納得できたわけではなかった。ただ、これ以上、問うても、答えは返ってこないと、わかった。
腕の中で、灯の息が、少しずつ、規則正しくなっていく。指先の血の気も、戻りつつあった。それでも、心臓は、まだ、乱れたままだった。
助かった、という手応えと、次はどうなるのか、という重さが、同時に胸の中にあった。どちらも、消えてはくれなかった。
灯の頬に、掌を、そっと当てた。冷たさの底に、わずかな熱が、戻りかけている。その頼りない熱に、目の奥が、熱くなった。
泣いている場合ではないと、わかっていた。まだ、何も、終わっていない。
澱の輪郭が、すでに、揺らぎ始めていた。姿の端から、闇に、溶けていく。
「今日のところは、これで、済ませておく」
澱が、体を、部屋の隅の暗がりへ、向けた。
「灯」
名を呼ばれ、灯の体が、腕の中で、小さく強張った。
「お前は、まだ、私のものにはならなかった。だが、いつか――」
言葉は、そこで、止まった。続きを、言うつもりがないように見えた。
腕の中で、灯の指が、私の袖を、もう一度、強く握った。今度は、怯えの強さではなく、離すまいとする強さだった。
その握り方に、覚えがあった。谷からの帰り道、半歩後ろではなく隣を選んで歩くようになったときと、同じ強さだった。灯は、まだ、離れることを、選んでいなかった。
竈の熾火はすっかり橙色を取り戻していたが、部屋に居座っていた温度のない気配は、まだ完全には薄れきっていなかった。それでも息をひそめたまま、次に何を言われるのかと、身構えずにはいられなかった。
澱の姿は、もう、半分ほど、闇に紛れかけていた。それでも、その目だけは、最後まで、はっきりと、そこにあった。
澱の目が、最後に、私だけを、見た。
澱は、去り際に、言った。
「弟子に、してやろう」




