第18話 弟子の日々
夜半、灯の寝息を数えながら、指先を、そっと、灯の胸元に近づけた。
触れる前に、いつも、少しだけ、迷う。起こしてしまいそうで。
あの夜、灯は、九死に一生を得た。澱が最後に残した一言――「弟子に、してやろう」――だけが、いまも、耳の奥に、居座り続けている。
薄い皮膚の向こうで、青白い光が、いつもの場所に滲んでいる。けれど、いつもより、遠かった。水底に沈んだ灯りを見るときのように、輪郭が、ぼやけていた。
窓の外は、静かだった。虫の音も、この頃は、心なしか、遠い。
指を、離す。
気のせいだ、と思うことにした。
次の夜も、同じことをした。同じ場所に、同じ光。けれど、遠さは、変わらなかった。近づいた、とは、言えなかった。
三日目の夜、四日目の夜。数えることを、やめた。数えたところで、増えるのは、確かめる指の記憶だけだった。
灯は、寝返りを打った。並べて敷いた布団の向こうで、規則正しい息が続いている。規則正しすぎるくらいに。
以前は、眠りの浅い子だった。物音ひとつで目を覚まし、手首を確かめるように握ってから、私だとわかると、ようやく力を抜いた。今は、隣で私が動いても、目を覚まさない。
眠るのが、うまくなったのだ、と、自分に、言い聞かせた。
あの夜以来、物音のない路地を、進んで避けるようになった。振り返る癖が、増えた。誰もいない。
わかっていても、確かめずには、いられなかった。あの人は、足音を、立てない。
戸口の心張り棒を、いつもより、きつく、噛ませるようになった。気休めだと、わかっている。それでも、朝、緩んでいないことを確かめる。それだけで、少し、息が、楽になった。
私も、よく眠れなくなっていた。灯の寝息を数えているのか、自分の眠気を誤魔化しているのか、近頃は、区別がつかなかった。
繕い物をしながら、灯が、指を、針で突いた。小さく、跳ねた。血は、滲まなかった。ただ、痛みに驚いたような、間の抜けた顔を、一瞬だけ、見せた。
前は、そんな失敗を、しない子だった。
「大丈夫」
「平気」
平気、と言う声が、いつもより、小さかった。
朝、粥を作った。二膳よそって、一つを灯の前に置く。
「食べないと」
「食べてる」
茶碗の中身は、半分近く残ったままだった。前は、椀の底まで、きれいに食べていた。取り上げられる前に済ませてしまうような、急いた食べ方だった。今は、匙を、途中で置く。
「お腹、空かないの」
「空いてる」
灯は、そう言って、匙を、また持ち直した。二口食べて、また、置いた。
否定の言葉ばかりだった子が、事実と違うことを、口にするようになった。正しく答えることを、避けているように、見えた。
私の茶碗も、いつのまにか、半分ほど、残っていた。
市場では、灯が、荷を持つと言い張った。以前と同じに、意地を張るところは、まだ、残っている。
けれど、少し歩いたところで、荷を提げる手が、目に見えて下がっていった。
「代わろうか」
「いい」
言い張って、また少し歩いて、結局、私が持った。灯は、何も言わず、私の袖の端を、指でつまんでいた。
米屋の店先で、以前より、心持ち大きな一升を渡された。前に位が上がったときの分で、掛けが利くようになったのだと、店主が、得意げに言った。喜ぶべきことのはずだった。素直に喜べなかった。
いつもなら、大きな粒を選って、私の分だけ、袋の隅に、寄せておく癖があった。今日は、それも、しなかった。
露店の並びで、二人の女が、声をひそめて、話していた。
「近頃、夜中に、妙な気配がするって」
「気のせいでしょう」
噂は、根も葉もないことのように、右から左へ、抜けていった。誰も、本気には、していなかった。
灯は、十五だ。子供ではない。
でも、今日の灯は、疲れた足取りで、私の一歩後ろを歩いていた。
家に着くと、灯は、戸口に座り込んだまま、しばらく、動かなかった。頬に触れると、温かった。だが、指先は、まだ、冷たいままだった。触れた場所が温まるまでに、前より、時間が、かかるようになっていた。
「すぐ戻る」と言うと、灯は、頷いただけだった。以前なら、ついてくると言い張ったはずだ。頷くだけの灯を、戸口に残して、私は、焚場へ向かった。
焚場は、いつも通り、人いきれと、熱気で、むせ返っていた。
位の座の前で、名もない若い焚き手と、当たった。位一つぶんの、格下だった。
技をかけ、崩し、時を、借りた。相手の燈が、指先に、流れ込む。若い、勢いのある熱だった。返す前の、ほんの数呼吸のあいだだけ、その熱が、掌の中に、留まっていた。
いつもの通り、数えるほどの間で、返した。
勝った瞬間、指先に、妙な誘惑が、かすめた。返さなければ、その分だけ、懐が、潤う。ほんの、爪の先ほどの量だ。
誰も、気づかない。相手の焚き手は、すでに、崩れ落ちて、荒い息を、繰り返していた。こちらを、見てすらいなかった。
それでも、返した。いつも通りに。
けれど、迷った時間は、確かに、あった。指先を、握りしめてから、開くまでの、以前には、なかった、長さだった。
焚場の裏手、位の座の名簿が貼り出された壁の前に、澱見が、立っていた。
待たれていた、と気づくのに、数呼吸、かかった。
「精が出ますね」
声は、いつも通り、静かだった。目だけが、私の胸のあたりを、一度、通り過ぎた。それから、また、戻ってきた。
値踏みする目だ。何度見られても、慣れない目だった。
「用が、あるんですか」
「用、というほどのことでも。ただ――」
澱見は、脇に控えた書記の抱えた帳面に、指を、一度、滑らせた。
「王が、あなたに、興味を持たれたと。聞き及んでおります」
息が、止まった。
「燈寺の中でも、少し、話題になりましてね」
淡々とした声だった。責めるでも、脅すでもない。
「位の座も、二位ともなれば、注目を浴びる。結構なことです。ですが、あなたの勝ち方が、少し、風変わりだと。前々から、噂には、聞いておりました」
借りの技のことだ、と気づく。取って、返す。誰の分も、減らさずに。
「位の座は、力を、計る場所です。借りて、返す。それでは、何を計ったことにもならない」
その理屈が、道理として、成り立つのか。判じる余裕はなかった。ただ、都合よく、響いた。
澱見は、静かに、続けた。
「これからは、上位の座では、然るべき分を、受け取っていただく。返さずに。それが、これからの、定めです」
「――全部、ですか」
「まさか。決まった、割合です。細かいことは、書記に、任せてあります」
澱見の後ろで、書記が、頁をめくる音がした。すでに、決まっていることのようだった。私が、頷くかどうかは、はじめから、関係がないように。
「……受け取る」
「勝った証を、形にする、というだけのことです。誰も、損はしない。むしろ」
澱見は、初めて、笑みらしきものを浮かべた。眉のあたりが、ほんの少し、緩んだだけの、笑みだった。
「受け取った分だけ、買い戻しに要る時も、早く、貯まりましょう」
「あなたは、いつまでも、名もない焚き手では、いられません。位が上がるとは、そういうことです」
澱見は、私の目を、見た。値踏みではない、初めての、まっすぐな目だった。
「持たざる者には、同情が、許される。持つ者には、務めが、生じる。あなたも、じきに、向こう側に、立つ」
一瞬、証文を突き返す日が、思ったより早く、見えた。灯の手を引いて、燈寺の扉を、二度と、くぐらずに済む日。
その絵は、甘かった。甘すぎて、少しの間、抜け出せなかった。
その先を、考えるのを、やめた。掌に残った、あの感触を、思い出したからだ。粘つくような、逆撫でするような、あの感触。人の時を、この手で、奪った夜の。
「厭です」
声が、思ったより、硬く、出た。
「即答ですか」
澱見は、驚いた様子もなく、言った。
「秩序、秩序って。あなたたちは、いつも、その言葉で、何かを、取り上げる」
澱見は、答えなかった。ただ、静かに、微笑んだだけだった。取り合う価値もない、というような、微笑みだった。
「よく、お考えになった方がいい。あの子のためにも。買い戻す、とおっしゃったのは、あなたです」
澱見は、丁寧に、頭を下げた。値踏みする目だけを残して、踵を返す。
「お考えになる時間は、差し上げます。急ぎません」
折り目正しい足取りで、遠ざかっていく。振り返りもしなかった。脇の書記が、帳面を閉じる音だけが、やけに、はっきり、耳に残った。
買い戻しが、早くなる。灯の耳に入れたら、何と言うだろう。
――言えない。言えるはずが、ない。
しばらく、その場から、動けなかった。壁に貼られた名簿の、自分の名の位置を、確かめる。二位。数字は、変わっていなかった。
家に戻ると、灯は、丸くなって、眠っていた。真昼に眠る子では、なかったはずだ。
肩に、掛け布をかけてやる。目を、覚まさなかった。
指先に触れると、まだ、冷たかった。いつもの冷たさより、少し、長く続く冷たさだった。
その日のうちに、谷へ、向かうことにした。灯のことを、燠さんに、話してみたかった。燠さんの咳が、近頃、重くなっていることは、わかっていた。
これ以上、心配の種を増やしたくない、と、前にも思ったはずだった。それでも、今日は、行くことにした。
半刻の道のりを、一人で歩いた。灯を、置いてきた。「留守番、できる」。
灯は、それだけ、言うと、また、目を閉じた。瞼の下で、何かを、堪えているように、見えた。
道々、繰り返し考えた。位の座のこと。灯のこと。どちらにも、答えは、出なかった。
谷に着いて、まず、匂いに気づいた。
いつもなら、燠さんの家の前を通ると、焦げた匂いがする。埋み火の匂いだ。低く、絶やさず、燻らせ続ける、あの、独特の匂い。
今日は、しなかった。
戸口に立つと、燠さんが、荷物をまとめているところだった。古い布に、いくつかの品を並べて、包もうとしている。手が震えて、うまく結べずにいた。
紐の端が、指から、何度も、すべり落ちた。苛立った様子もなく、ただ、同じ動作を、繰り返している。
近づいて、紐を、代わりに結んだ。燠さんは、止めなかった。何も言わず、私の手元を、じっと、見ていた。
「――燠さん」
「来たか」
振り返りもせず、言った。声が、以前より、掠れていた。
炉に、目をやる。灰だけが、白く冷えて、残っていた。
「火、消えてます」
「わかってる」
短い返事だった。それ以上、説明する気は、なさそうだった。
燠さんの顔は、この前会ったときより、頬の肉が、また、落ちていた。目の奥の熾火だけは、変わらず、燃えていた。だからこそ、余計に、周りの翳りが、目立った。
澱に弟子にすると言われたことは、前に来たとき、伝えてあった。燠さんは、あのときも、今と同じ顔で、黙っていた。
咳が、続けて、二度、出た。手の甲で口を覆う仕草に、迷いがなかった。隠さなくなって、久しい。
「灯は」
「置いてきました。疲れてるみたいで」
燠さんの手が、一瞬、止まった。包もうとしていた布の上で、指だけが、固まっていた。
「……そうか」
それだけだった。理由も、答えも、返ってこなかった。
「位は」
「二の、ままです」
燠さんは、小さく、頷いただけだった。それから、ふと、私の手を、取った。
いつもの、手首を掴んで止める、あの、力ではなかった。もっと、確かめるような、探るような、触り方だった。指の腹で、私の指先を、一本ずつ、なぞった。
その手は、記憶にあるより、薄くなっていた。骨の形が、以前より、はっきり、浮いていた。それでも、握る力だけは、記憶にあるままだった。振り払おうとして、振り払えたことが、一度もない、あの力。
「今日、何を、しかけた」
見透かされている、と思った。
「――何も、してません。誘われただけです」
「誘われて、どうした」
「断りました」
燠さんは、しばらく、黙っていた。目の奥の熾火が、揺れた。それ以上、何も、言わなかった。
やがて、手を、離した。
「上等だ」
短く、それだけ、言った。手を離す前に、指先に、一度だけ、力が、こもった。それだけで、十分だった。
包みかけの布に、目を戻す。中に、欠けた湯呑みや、色褪せた布切れ、擦り切れた砥石が、並んでいた。長く、使い込まれた道具ばかりだった。聞かなかった。
棚の奥に、まだ、いくつか、品が残っていた。持っていく分と、残す分を、すでに、分けてあるらしかった。残す方の山には、埃が、積もりはじめていた。
「谷を、出るんですか」
「出る」
即答だった。迷いは、感じられなかった。
「どこへ」
「お前のとこだ。決まってるだろう」
言ってから、燠さんは、鼻を鳴らした。照れ隠しのような、それでいて、有無を言わせない、鼻の鳴らし方だった。
「迎えに来い、とは、言わん。俺が、行く」
「谷は」
「もう、いい。飽きた」
嘘だ、と思った。この人が、この谷に、何十年も、根を張ってきたことを、知っている。それ以上、聞ける空気ではなかった。
燠さんは、棚から、乾いた葉の束を、取り出した。
「これを、煎じて、飲ませろ。躰が、冷える時に、効く」
「これは」
「訊くな。飲ませれば、それでいい」
束ねる手つきだけは、丁寧だった。
「日が、落ちる前に、戻れ」
「はい」
「灯を、一人にするな」
礼を言って、包みを受け取った。谷を出る前に、振り返ると、燠さんは、もう、荷造りに戻っていた。曲がった背中が、いつもより、小さく見えた。
半刻の帰り道は、行きより、短く感じた。途中、一度だけ、振り返った。谷は、もう、木々に隠れて、見えなかった。
町へ戻ると、大通りに、いつもと違う気配があった。
軒先という軒先に、紅白の布が、結ばれはじめていた。通りの角には、まだ火の入っていない提灯が、山のように積まれている。子供たちが、その山によじ登ろうとして、大人に、叱られていた。
「あの、何の、支度」
通りすがりの老爺に、聞いてみた。
「奉燈祭よ。もう、そんな季節か」
老爺は、笑って、行ってしまった。
奉燈祭。耳にしたことは、ある。燈寺が、国じゅうの燈を祝う日。
毎年、同じように幟が立ち、提灯が並ぶ。ただの、行事のはずだった。
なのに、足が、止まった。理由は、わからなかった。
家に帰ると、灯は、まだ、眠っていた。頬に触れると、さっきより、また、少し、冷たかった。
燠さんに渡された葉を、鍋で、煎じた。匂いが、思ったより、きつかった。土と、枯れ草と、何か、苦いものが混じった匂い。
火にかけているあいだ、竈の前に、座っていた。灯は、隣で、丸くなったまま、鍋の湯気を、目で追っていた。
匂いに、灯が、目を覚ました。鼻に、皺を寄せる。
「何、それ」
「燠さんの、薬」
「苦そう」
「苦いと思う」
それでも、灯は、椀を、両手で受け取った。一口飲んで、顔をしかめた。二口目は、もう少し、静かに飲んだ。
飲み終えた椀を、両手で包んだまま、灯は、しばらく、動かなかった。
「あったかい」
それだけ、言った。薬のことか、椀のことか、わからなかった。聞かなかった。
自分の掌を、見た。焦げ色に、乾いた指先。以前より、皺が、増えている。十六の手には、見えなかった。
燠さんの手を、思い出す。似ている、と思った。似すぎている、とも。
椀を、片づけてやる。丸くなった背中に、布団を、かけ直した。
窓の外で、風が、幟の布を、鳴らしていた。
夜になって、もう一度、指先を、灯の胸元に、近づけた。
青白い光は、今夜も、遠いままだった。近くなることは、なかった。
澱見の、「急ぎません」という声が、耳の奥で、蘇った。急がなくても、いいはずがなかった。何かが、もう、動き出している。
奉燈祭まで、あと、幾日だろう。
数えかけて、やめた。数えても、私に、何ができるわけでもなかった。
ただ、その日が近づいていることだけが、やけに、はっきり、わかった。




