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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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19/21

第19話 祭礼の夜

朝から、町の気配が、違っていた。


軒先という軒先に、紅白の布が渡り終えていた。子供たちが、まだ火の入っていない提灯(あかり)を提げて、大通りを走り回っている。誰の顔も、いつもより、明るかった。


甘い匂いが、風に乗って、漂ってくる。屋台の支度をする声が、あちこちから、聞こえた。


うちの戸口にだけ、違う紙が、貼られていた。


三日前、燈寺(とうじ)の使いが、それを持ってきた。折り目正しい字で、そこには、こう記されていた。多重の縁糸(えにし)を持つ者は、奉燈祭(ほうとうさい)の夜、壇にて、(ともしび)を検める。定めにより、出頭せよ、と。


(くらい)()の、あの徴収の話と、同じ手つきだった。断ればどうなるかは、書いていなかった。書いていないことのほうが、肌の粟立ち方が、違った。


紙の縁を、指で、何度もなぞった。折り目正しい字は、それだけで、逆らう隙を、与えなかった。


灯に見せるかどうか、迷った。結局、見せた。隠して、当日いきなり連れていくほうが、もっと、残酷だと、思った。


灯は、紙を、長いあいだ、見ていた。それから、低く、言った。


「行かないと、駄目なの」


「わからない。でも――行かなければ、もっと、目をつけられる」


灯は、頷いた。頷いただけだった。何を思っているのか、いつものように、読めなかった。


(おき)さんは、まだ、来ていなかった。谷を発つと言ったのが、いつだったか、指折り数えても、はっきりしなかった。近頃は、日にちの感覚そのものが、あやふやになっている。


その日は、朝から、落ち着かなかった。手につく仕事も、上の空だった。米を研ぐ手が、何度も、止まった。


朝のうちに、一度だけ、表の道を見に出た。人波の向こうに、あの、猫背の後ろ姿を探した。


いなかった。


道は、祭りへ向かう見知らぬ人々の背中ばかりで、埋まっていた。誰もが、提灯を提げ、笑いながら、同じ方角へ、歩いていく。その中に、探している影だけが、なかった。


それだけ確かめて、家に戻った。灯には、何も言わなかった。言えば、灯が、待つ顔をする。待って、来なかったときの顔を、見たくなかった。


夕刻、家を出た。


町は、もう、祭りの色に、染まっていた。提灯に、次々と、火が入れられていく。ひとつ灯るたびに、あたりが、すこしずつ、明るさを、増していった。


人々が、少しずつ、同じ方角へ、集まっていく。誰もが、そちらへ向かうのを、当然のことのように、歩いていた。


灯の足取りは、重かった。荷はないのに、何かを抱えて歩いているような、そんな重さだった。何度か、代わろうかと聞きかけて、やめた。代われるものではないと、わかっていたから。


燈寺の境内は、すでに、大勢の人で埋まっていた。


石畳の上に、小さな灯りが列をなしている。家々から持ち寄られた提灯だった。ひとつひとつ、係の者が灯りの色を検め、帳面に何かを書きつけていく。


澪津(みおつ)の、ふだんの暮らしからは遠い眺めだった。太鼓の音、子供の笑い声、揚げ物の匂い。誰も、灯の縁糸のことなど知らない顔で、笑っていた。


前に並んでいた家族の番が来た。父親らしき男が提灯を掲げると、壇の上の女が、水に浸した指先で、そっと灯芯に触れた。それだけだった。


男は深々と頭を下げて、壇を降りていった。子供が、その後を跳ねるように追いかけていった。


ただ、それだけの、行事だった。


けれど、その、それだけに至るまでの、束の間が、やけに、長く見える家も、あった。灯りの色を検められる、その一瞬だけ、誰もが、息を、詰めていた。


その、賑わいのいちばん奥に、壇があった。


白木の、簡素な、しかし見上げるほどの高さだった。壇の周りだけ、人が寄りつかない。関わりたくない、というより、近づき方がわからない、という感じの避け方だった。


列に並んで、順番を待った。


待つあいだ、もう一度、人波の向こうへ、目を、やった。猫背の影は、どこにも、見当たらなかった。


灯は、私の袖の端を指でつまんでいた。市場で見せる、あの仕草だった。ただ、今日は、力が、少し、強かった。


名を、呼ばれた。


(みお)。灯。


二人分、まとめて。


周りの、いくつもの目が、一斉に、こちらを、向いた。喋り声が、一瞬、途切れて、また、始まった。誰も、何も、言わなかった。それが、かえって、体の芯に、応えた。


列を外れて、脇の通路へ案内された。他の家族は、誰も、そちらへは進まなかった。何人かが、こちらを盗み見ていた。目が合うと、すぐ、逸らされた。


太鼓の音が、遠くなった気がした。祭りの賑わいが、急に、自分たちだけを、置き去りにしていくような感覚だった。灯の手が、私の袖を、離さなかった。


通路の先、壇のすぐ下に、澱見(よどみ)が立っていた。


いつもの、折り目正しい佇まいだった。今日は、法衣の色が、いつもより濃かった。祭礼の正装なのだろう。脇に控えた書記が、二人。


少し離れたところに、燈寺の法衣を着た者が、数人。誰も、声を上げなかった。ただ、見ていた。


「よく、いらっしゃいました」


澱見の声は、いつもと同じ、乾いた声だった。だが、今日は、その声が、私だけでなく、周りの法衣の者たちにも届くように、放たれていた。


「今宵、この壇では、都に連なる、幾千の家の灯を、検めます。ひとつひとつ、正しく計り、正しく祝う。それが、奉燈祭という行事です」


澱見は、灯へ目をやった。値踏みの目だった。


「この娘ひとりの糸が、正しく検められれば――また、幾千の家が、次の年を、越せます」


どこかで、前にも、似た言葉を、聞いた気がした。


「逆に――」


澱見は、言葉を、切った。切った先の続きを、私にだけ聞かせるように、少し、声を落とす。


「拒めば、その分は、届かない。あなたが、それを、お決めになる」


周りが、静かだった。太鼓の音は、まだ遠くで鳴っている。なのに、この壇の周りだけ、音の届かない場所のように、感じられた。


「灯、一人の、言い分と」


一拍、置いて。


「都に連なる、幾千の、灯と。天秤に掛けねばならぬ時が、来たようです。――あなたは、どちらを、お選びになりますか」


答えられなかった。


数千。その数字が、急に、重さを持った。市場の、あの、噂話をしていた女たち。


米屋の、得意げな店主。名も知らない、幾千の家の灯。その、ひとつひとつに、私の知らない、私や、灯のような、誰かが、いるのだろう。


拒めば、その誰かたちが、何かを、失う。澱見の言うことが、詭弁なのか、道理なのか。判じる材料は、何もなかった。


灯だけが、検められれば。それで、幾千の家が、越せるのなら――そう、思いかけている自分に、気づいた。


誰も、傷つかない。誰も――


その、誰もの中に、灯が、入っていなかった。


喉の奥が、急に、狭くなった気が、した。


数え忘れたのでは、なかった。初めから、数える気が、なかったのだと、思う。灯のことだけは、いつも、私の外にある。


願うときも、失うときも、勘定に入れてこなかった。自分のことを、一度も、願わずにきたのと、同じやり方で。


ただ、灯の指が、私の袖を、強く握り直すのが、わかった。


それだけで、天秤は、動かなかった。動かなかったが、傾きもしなかった。


澱見は、私の沈黙を、咎めなかった。ただ、静かに、壇の方へ手を向けた。


「まずは、型どおりに。灯、こちらへ」


係の者が、灯の背に、そっと手を添えた。急かすでも、押すでもない。ただ、そうするのが当然だという、動かし方だった。


灯は、壇へ上がった。一段ずつ、確かめるように。


私は、壇の下に、留め置かれた。ついていくことは、許されなかった。見上げたまま、灯の背中だけを、追った。


壇の上、法衣の者が一人、待っていた。年配の女だった。手に、小さな鉢と、水を持っている。


「両手を、こちらへ」


女は、抑えた声で、言った。他の家族が皆、そうしてきたのと同じ、型どおりの言葉だった。


「灯りを検めます。掌を、上に」


灯の手が、動いた。


迷いのある動きには、見えなかった。むしろ、慣れた動きに、見えた。手首を差し出す。


喉を、少し逸らす。取りやすいように。前に、何度も見たことのある、あの、仕込まれた仕草だった。


違うのは、今日、脅されたわけではないということだった。


怯えているようには、見えなかった。かといって、望まれて、喜んでいるようにも、見えなかった。


ただ、指先から、力が、少しずつ、抜けていくのが、わかった。灯の顔に浮かんでいたのは、そういう、静かな明け渡しだった。


手首の、薄い筋の縁は、いつもの澄んだ青から、赤く、滲み始めていた。指先が、灰がかって、痺れているように見えた。


唇が、動いていた。声には、ならなかった。


――いらない。


音のない、その形だけが、わかった。灯は、まだ、否んでいる。抗う力の残りを掻き集めるようにして、まだ、否もうとしている。


それでも、手は、止まらなかった。


灯が否めなくなる。その先に何があるのか、私は、知らなかった。


誰か、止めてくれる人はいないか。人波を、探した。誰も、目を、合わせなかった。


考えるより先に、体が動いていた。


灯の両手を、下から掬うように、握り込んだ。伸びていく指の先を、拳の中へ、引き戻す。壇の上、水の入った鉢が傾いて、石畳に、こぼれた。


「――何を」


女の指先が、水鉢の縁で、止まった。


「まだ、検めが、済んでいません」


「厭だと、言ってます」


声が、思ったより大きく出た。周りの法衣の者たちが、こちらを見た。人波の方でも、何人かが足を止めた。


澱見が、壇の下から、私を見上げていた。表情は、変わっていなかった。ただ、目の奥だけが、少し、深くなった気がした。


「あなたには――」


「型どおりになど、しません」


声が、震えていた。それでも、言葉を、押し出した。


「この子の手に、誰も、触れさせない」


澱見は、表情を、動かさなかった。それから、静かに頭を垂れた。


「――遺憾です」


その一言だけを残して、澱見は、一歩、退いた。あとの一切を、突き放すように。


人波が、揺れた。


気づけば、壇の周りに、隙間が生まれていた。誰も、そこへは、近づかなかった。祭りの喧騒が、その一角だけ、遠くなった。


火照っていた頬が、急に、冷えていくのが、わかった。


その隙間の真ん中に、いつからか、人影が立っていた。


燈を、持たない人影だった。


周りの誰も、はっきりとは見ていないようだった。法衣の者たちは、みな、うっすらと頭を垂れている。誰に、というのでもなく、頭だけが、揃って、垂れていった。


冷えた匂いがした。淀んだ水の匂い。


灯が、私の腕を、強く掴んだ。


「澪」


声が、小さかった。名を呼ぶ声に、これほどの重さが乗ったのを、聞いたことが、なかった。


人影が、こちらへ向き直った。足音は、しなかった。今までも、いつも、そうだった。


(おり)――


「久しいな」


声は、静かだった。責めるでも、急かすでもない。ただ、そこに在るだけの声だった。


あの夜、澱は、そう言った。今宵は、まだ、機が満ちていない。間に合わせに、様子を見に来ただけのことだと。


弟子に、してやろう。あの一言も、まだ、耳の奥に、残ったままだった。


今夜は、違う。そう、感じた。


「今宵は、随分と、賑やかだ」


誰に言うでもない、独り言のような口ぶりだった。それから、目だけが、灯へ動いた。


「まだ、否んでいるのか」


その一言に、灯の体が、強張った。


「大した、辛抱だ。……苦しかろう」


声に、憐れみが、混じっているように、聞こえた。上滑りした響きは、なかった。低く、掠れることもなく、ただ、まっすぐに、届く声だった。


「私が、受け取れば、その辛抱は、要らなくなる。楽に、してやれる」


差し出すように、澱が、片手を上げた。指先に、何も持っていなかった。それでも、その手が灯の方へ伸びるのを想像しただけで、息が詰まった。


(なぎ)燈札(ひふだ)に、手が伸びかけた。焦げ色に乾いた指が、懐の奥へ、動いていた。


止めたのは、灯だった。


私の手首を、灯が掴んだ。壇の上から、力の抜けかけた、それでも離すまいとする強さで。


「駄目」


短く、それだけ言った。


「澪が、それを使ったら――私、澪の分まで、抱えて、生きなきゃいけなくなる。それは、厭」


澱の目が、灯から私へ動いた。それから、また、灯へ戻った。


「否むか」


確かめるような口調だった。


「否みます」


灯の声は、掠れていたが、はっきりしていた。


澱は、しばらく黙っていた。長い、間だった。祭りの太鼓が、遠くで、三つ、続けて鳴った。


遠くで、鐘も、鳴った。おそらく、祭りの、いちばんの場面を告げる鐘だった。


それから、澱は、静かに手を下ろした。


「――そうか」


落胆したふうでも、なかった。ただ、認めた、というだけの声だった。


「急ぐ、理由もない。私には」


その姿が、揺らぎ始めた。輪郭から、闇に溶けていくように。あるいは、最初から、そこに輪郭などなかったのかもしれない。


消える間際、澱の目が、もう一度、私を見た。


「――お前は、まだ、何も、望んでいないな」


それだけを残して、人影は、消えた。


人波の喧騒が、戻ってきた。何事もなかった顔で。


澱見は、まだ、そこにいた。


「今日のところは、これで」


淡々と、言った。書記が、帳面に、何かを書きつけている。何を書かれているのか、聞く気力も、なかった。


「次の機会は、また、追って。急ぎません」


その言葉を、前にも聞いた。あのときと同じ、静かな声だった。同じ言葉が、今日は、もっと、重く聞こえた。


澱見は、丁寧に頭を下げて、法衣の者たちを連れて去っていった。振り返りもしなかった。


壇を降りた。灯の足がもつれた。支えると、そのまま、体重を預けてきた。今までに、なかったことだった。


人波の向こうに、動くものが、見えた。


頭ひとつ低いところを、縫うように、進んでくる影。猫背の、あの、輪郭だった。


燠さんだった。


人垣の外側で、肩を、大きく上下させながら、こちらへ、来ようとしている。祭りの世話役らしい男に、腕を、何度も、掴まれていた。押し戻されては、また、前へ出ようとする。その繰り返しだった。


「――燠さん」


声を、上げたつもりだった。太鼓と、大勢の声にかき消されて、届いたかどうかも、わからなかった。


一瞬、目が、合った気が、した。燠さんの口が、動いた。何か、言っている。聞こえなかった。


見えたのは、咳き込む姿だけだった。体を、折るようにして、何度も、何度も。杖代わりの、節くれだった木の枝に、体を、預けている。それでも、こちらへ向かう足は、止まらなかった。


間に合わなかった。


間に合ったところで、あの体で、この人混みを割って、何ができただろう。


谷を出ると言った、あの日の言葉を、思い出した。迎えに来いとは言わない、俺が行く――そう、言った。あの人らしい、頑固な足取りだった。


半刻の道のりも、今の、あの躰には、きっと、半刻では、済まなかったのだろう。


わからなかった。ただ、その場に立ち尽くして、遠くから、こちらを見返す影を、見ていることしか、できなかった。


どれだけ、経っただろう。ようやく世話役の手を振り切ったらしい燠さんが、たどり着いたときには、灯は、もう、自分の足で、立っていた。


息が、上がっていた。木の枝を握りしめたまま、燠さんは、しばらく、言葉が、出てこない様子だった。頬の肉が、以前よりも、また、薄くなっているのが、わかった。


「……間に、合わなかった」


絞り出すような、声だった。


「間に合ってたって、俺に、何ができた」


自嘲するような、言い方だった。答えを、求めている声には、聞こえなかった。


何も、言えなかった。ただ、燠さんの、荒い息が、収まっていくのを、待った。


周りでは、祭りが、何事もなく、続いていた。誰も、こちらを、見ていなかった。


灯が、燠さんの袖を、そっと、引いた。それだけで、何かが、伝わったらしい。燠さんは、灯の頭に、骨ばった手を、一度だけ、乗せた。何も、聞かなかった。


帰り道、灯は、ずっと、俯いたままだった。私も、かける言葉が、見つからなかった。


家に着くと、灯は、そのまま、崩れるように座り込んだ。


燠さんは、戸口までは、一緒だった。だが、中へは、入らなかった。


「今夜は、外で、いい」


そう言うと、縁側の柱に、背を、預けた。木の枝を、傍らに、置いて。何か、言いたそうな、間があった。そのまま、黙り込んだ。


その背中を、しばらく、見ていた。それから、灯の方を、向いた。


水を汲んできた。飲ませようとすると、灯は、首を横に振ったが、それでも、椀を、両手で包んだ。あたためるように。


竈に、小さく、火を、熾した。灯の手首を、そっと、確かめる。薄い筋の縁は、まだ、赤みを、残していた。


いつもの青に戻るまで、どれくらい、かかるのか。わからなかった。


灯は、目を、伏せていた。眠っているのか、そうでないのか、わからなかった。呼吸だけが、規則正しく、続いていた。


外の太鼓が、一段と、大きくなった。祭りは、まだ、続いているらしかった。


しばらく、そうしていた。


やがて、灯の指が、私の袖の端を、また、つまんだ。市場で見せる、あの、控えめな仕草ではなかった。もっと、強く、離すまいとする、握り方だった。


「澪」


「なに」


「さっきの、あの人。また、来る」


確かめる口調だった。


答えられなかった。答えを、持っていなかった。


灯は、それきり、何も、言わなかった。ただ、私の袖を、握る指の力だけが、少しずつ、強くなっていった。


窓の外、遠くで、祭りの太鼓が、まだ鳴っている。町ぜんぶが灯を祝う夜に、この家の中だけ、灯が、消えかけていた。


喰らうことも。捨てることも。どちらも、選べなかった。二つの道の、どちらにも、まだ、足を踏み出せずにいた。


答えは、まだ、どちらでもなかった。


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