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『勝つほど、命が縮む――それでも私は、頂を獲る』  作者: 甕星 慶(ミカボシケイ)


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20/21

第20話 潰れかけた場所から

祭りの熱が町から引いていくのに、四日か五日か、それくらいの日にちが要った。


紅白の布は、まだ軒先に残っていた。色が褪せて、もう、ただの古い布に見えはじめている。子供たちは、提灯(あかり)を提げて走り回らなくなった。屋台の匂いも、とうに消えた。


町では、祭りの夜、壇の上で何かがあった、という噂が、しばらく流れていた。詳しく話す者は、いなかった。誰も、はっきりとは見ていなかったからだろう。


噂は、数日で消えた。祭りのあとの、よくある話の一つとして。


米櫃の底が、うっすらと見えるようになっていた。研ぐ量を、うまく加減できなくなっている。


行李の隅には、繕いかけの布が、針を刺したまま、放り込んである。いつからそこにあるのか、思い出せなかった。


竈の灰も、かき出していない。白く、積もっていくばかりだった。片づけていないのではない。片づけたところで、何が変わるのか、わからなくなっていた。


軒先の鉢に植えた草が、水をやられないまま、しなびて垂れている。誰も気づかない速さで、暮らしのかたちが、少しずつ、崩れていく。


潰れかけている。そんな言葉が、頭の隅で、ふと、鳴った。何が潰れかけているのか、自分でも、うまく、言えないまま。


うちの戸口だけは、あの夜から何も変わっていない。


(おき)さんは、あれきり、家の中へは入らなかった。縁側に小さな炉を作り、木の枝の杖を傍らに置いて、そこに座っている。声をかければ答える。自分からは、ほとんど喋らない。


「入ればいいのに」


一度、そう言った。燠さんは、首を横に振っただけだった。


「外の方が、性に合ってる」


嘘だとわかる言い方だった。それ以上は、聞かなかった。


「今日で、祭りから何日だったか」


聞くと、指を折りかけて、途中でやめた。


「さあな」


近頃は、そういうことが増えていた。日にちを忘れるくらいは、まだいい。疲れが、思っている以上に、深いところまで、入り込んでいるのかもしれなかった。


灯の手首の縁は、あの夜よりすこしだけ色が引いていた。それでも、いつもの澄んだ青には、まだ遠い。赤みが皮膚の内側に沈んで、燃え残りの炭のように居座っている。


毎朝、その縁に、水で冷やした布を当てた。灯は、じっと、されるがままになっていた。痛むかと聞くと、首を振る。


痛くはないらしい。ただ、熱だけが、いつまでも、そこに燻っていた。


灯は、袖を離さなくなった。市場でつまむ、あの軽い仕草ではない。歩くときも座るときも、布の端を指に巻きつけるようにして握っている。


米を研ぐときも、繕い物をするときも、指は離れなかった。片手で研ぎ、片手で灯を留めておく。不便だとは思わなかった。


三人分の椀を並べる癖が、いつのまにか、ついていた。燠さんの分は、縁側まで運ぶ。それでも、並べるときは、三人分、数えてしまう。


昼、繕い物をしていると、灯が隣に座って、針を持とうとした。指先が、まだ思うように動かないらしい。布に、うまく糸が通らなかった。何度も、やり直していた。


「私が、やるよ」


言うと、首を振った。


「これくらい、できる」


できていなかった。それでも、最後まで、私に渡そうとはしなかった。仕上がった布は、縫い目が曲がっていた。悪くない出来だと言うと、灯は、すこしだけ、口の端を上げた。


(みお)


「なに」


「あの人、また、来る」


毎日、同じことを聞かれた。答えは、まだ、持っていなかった。灯も、答えを求めているようには聞こえなかった。ただ、確かめたいだけなのだと思う。


ある朝、燠さんが、灯に、種火の埋め方を教えていた。


「熾すんじゃない。埋めるんだ。灰の中に、火種を、そっと沈める」


灯が真似て、灰をかき分けた。うまくいかず、火が消えかけた。


「急ぐな。()()の火は、燃やすためにある。俺のは、違う」


灯は、黙って、何度もやり直していた。その日、初めて、灯の口から、笑いに似た息が漏れるのを聞いた。


夕方、粥を運んだついでに、灯も縁側までついてきた。燠さんの隣に、すこし距離を空けて座った。


二人のあいだに、言葉はなかった。ただ、しばらく、同じ方向を見ていた。西の空が、赤く焼けていた。


谷で聞いた、あの話を、思い出しているのかもしれない。二人で一つの糸を持ったら、どうなるのか。誰も、答えを教えてくれなかった話。


聞けなかった。聞けば、何かが動いてしまう気がした。


あのとき、燠さんは、核心のところで、いつも、言葉を止めた。知らんでいい、と、それだけ、繰り返した。灯も、それ以上は、聞かなかった。


二人とも、聞かないことに、慣れているように見えた。


その日の夜、椀を下げに行くと、燠さんが、めずらしく、自分から口を開いた。


「昔、飼っていた犬がいてな」


脈絡のない話だった。黙って、続きを待った。


「腹を空かせると、決まって、俺の袖を、噛んだ。まっすぐ、飯の方へ、引っ張っていく。行き先を、間違えたことが、一度もなかった」


それだけ言うと、また黙った。何を言いたかったのか、聞かなかった。ただ、灯の、袖を握る指のことを、思い浮かべていたのだろうと、なんとなく、わかった。


夜更け、水を汲みに出たとき、燠さんが、独りで、炉の前に座っているのを見た。


手を、火にかざしている。焚こうとしている手つきだった。指先が、震えながら、伸びていく。


途中で、止まった。拳を握って、引っ込めた。


声をかけずに、家へ戻った。見なかったことに、した。


夜、布団を並べて敷いた。灯の指は、眠っても、袖を離さなかった。


ある夜、灯が、闇の中で、ふいに口を開いた。


「澪。もし――」


言いかけて、止まった。


「もし、なに」


「ううん。何でもない」


それきり、何も言わなかった。指だけが、いつもより強く、袖を握っていた。


何を言おうとしたのか、聞けなかった。聞けば、それが、現実になってしまう気がした。


燠さんの、あの炉の火が消えているのを見つけたのは、三日目の朝だった。


どんなに小さくても、絶やさない人だった。埋み火を、何十年も守り続けてきた人だった。灰をかき分けると、まだ、ほのかに温かい。けれど、火の色はなかった。


「今朝は、寒かったから」


聞くと、そう言っただけだった。灰の中に、また種火を落とす手が、前より遅かった。


夕餉に、粥を多めに椀へ盛った。縁側まで運ぶと、燠さんは、いつもより時間をかけて、それを食べた。噛む力そのものが、弱っているように見えた。


灯が、その様子を戸口の陰から、じっと見ていた。声はかけなかった。ただ、見ていた。


四日目の朝、粥をよそっていると、燠さんが、椀を受け取らずに、言った。


「――澪」


「なに」


「お前は、どうしたい」


手が、止まった。お玉から、粥が、一筋、垂れた。


「喰らうのか。捨てるのか。それとも」


言葉が、続かなかった。燠さんも、それ以上は、続けなかった。ただ、答えを、待っていた。


答えられなかった。何かを言おうとするたび、喉の奥で、言葉が、つかえた。


灯が、隣で、箸を持ったまま、じっと、こちらを見ていた。


沈黙だけが、長く、続いた。竈の火が、爆ぜる音だけが、やけに、大きく、聞こえた。


それきり、燠さんは、同じことを、二度とは、聞かなかった。


焚場(たきば)のことは、誰も口にしなかった。位のことも。買い戻す約束のことも。


このところ、何も決められずにいた。喰らうことも、できない。捨てることも、できない。


かといって、他に何ができるのかも、わからない。ただ、日々を繋いでいた。繋いでいれば、いつか何かが変わる気がして。


変わらなかった。


夜、灯が寝入ったあとで、胸の内側に、そっと手を当てることが、増えた。


燈札(ひふだ)の位置を、確かめるためではなかった。ただ、そこに、まだ、何も選んでいない自分がいることを、見届けるような仕草だった。


選ばないまま、時間だけが過ぎていく。それだけが、確かなことだった。


何かが、少しずつ削れている。誰も、それを口にしなかった。


五日目の夜、灯の様子が変わった。


夜半、一度、目が覚めた。灯が、寝返りを打ったせいだった。それだけだった。


息は、静かで、いつも通りだった。詰めていた息を、ゆっくり吐いて、また、目を閉じた。


次に、目が覚めたときには、様子が違っていた。


隣で、灯の息が、急に浅くなっている。


最初は、寝言かと思った。低く、途切れ途切れに、何か言っている。聞き取れない言葉だった。呼びかけても、返事はなかった。


手のひらを、額に当てた。


熱かった。


いつもの、灯の冷たさではない。搾られたあとの、あの、指先まで痺れるような冷たさとは真逆の熱だった。焚きすぎた炭のような、内側からの熱だった。


行灯を大きくした。


手首の縁が、赤く滲んでいた。あの祭りの夜よりも濃い赤だった。滲みは、もう、縁だけでは収まっていない。手首から腕の内側へ、細い筋になって伸びている。


喉のあたりにも、同じ赤が、うっすらと浮いていた。


指先が、白く光っていた。


行灯の火が、灯の息に合わせるように揺れはじめた。風は、どこにも吹いていなかった。


窓の外、遠く、誰かの家の軒先で、提灯がひとつ揺れているのが見えた。風のない夜に、その一つだけが、震えるように光を強めたり弱めたりしていた。


灯が、うわごとのように、何かを呼んでいた。名前とも言葉ともつかない、音の連なりだった。


肩を掴んで、揺すった。


「灯。灯、しっかりして」


目は、開かなかった。体だけが、小刻みに震え続けている。


水を汲んできて、布を浸し、額に乗せた。すぐに、生ぬるくなった。


手首を、両手で包んだ。熱は引かなかった。むしろ、包んだ指の方が、じわりと痺れはじめた。


借りの術を、思い出した。糸の向こうへ、そっと手を伸ばす。灯の熱を、すこしだけ、引き取ろうとした。


届かなかった。


いつもなら、指先に触れる、あの感触が、今夜は、なかった。灯の熱は、私の方を向いていない。もっと、遠くの、どこかへ向かって、暴れている。


灯の体が、弓なりに反った。喉の奥から、声にならない声が漏れた。


誰か、呼べる相手がいないか。考えた。


近所には、こんな夜更けに、頼れる相手など、いない。灯のことを知っている者も、いない。知られれば、それこそ、燈寺(とうじ)に、届けられてしまう。


一瞬、あの人影のことが、頭をよぎった。


あの人になら、止められるかもしれない。喰らってしまえば、この暴れは、収まるかもしれない。


浮かんだそばから、消した。それだけは、違う。


燠さんしか、いなかった。


その燠さんが、今、どこにいるのかさえ、わからなかった。


名を呼んだ。何度も。


「燠さん――」


戸口から、声を張り上げた。縁側の方に、火影が揺れるのが見えた。杖を掴む音。


応える声はなかった。ただ、影が、ゆっくりと、こちらへ動きはじめた。


遅い。


どうすればいいのか、わからなかった。手が震えていた。


燈寺に頼るという道は、初めからなかった。あそこへ連れて行けば、それこそ、灯を渡すことになる。


自分の胸に、手を当てた。


私の(ともしび)を、直に注げば。そう考えかけて、止まった。これは、焚いて足せば治るような、傷ではない。


灯の中で、何かが制御を失っている。私の熱を足したところで、火に油を注ぐだけかもしれない。


わからない。わからないことだけが、指の先まで伝わってきた。


外で、何かが倒れる音がした。杖が、地面に落ちた音だった。


振り向く余裕は、なかった。


胸の奥、裏地に縫い込んだ、あの燈札の位置に、指が動いていた。


いつのまにか、そこへ伸びていた。


使えば、何が起きるのか、知らない。知らないまま、指だけが、迷いのない動きで布の裏を探っていた。


(なぎ)の、燈札。


これを使うことは――


考えの途中で、手が止まった。止めたのは、自分の意志ではなかった。


骨ばった手が、外から、私の手首を掴んでいた。


燠さんだった。


息が上がっていた。杖は、外に置いてきたらしい。壁に手をつき、体を支えている。頬の肉が、また薄くなっているのが、行灯の灯りの下で、はっきり見えた。


「もう、いい」


低く、そう言った。前にも、何度も聞いた言葉だった。焚きすぎた私の手を止めるときの、あの言葉。今夜は、意味が違って聞こえた。


手首を、離した。その足で、灯の枕元に、膝をついた。手首を取り、色を確かめる。喉元にも、同じように、指を当てた。


しばらく、そうしていた。


燠さんの目は、灯を見ていた。長いあいだ、見ていた。


何かを、思い出しているような目だった。誰かの名を、口の中でなぞっているような。


聞かなかった。聞ける間ではなかった。


やがて、目を逸らした。逸らして、私を見た。


「もう、これしかない」


それだけ、言った。


自分の胸に、手を当てた。長いあいだ、それをする姿を、見たことがなかった。確かめるでも、隠すでもない、久しぶりに思い出したような手つきだった。


私の隣に、腰を下ろした。息を整えるだけで、しばらくかかった。


それから、私の手を取った。


節くれだった、乾いた手だった。焚くのをやめて、何十年も経つ手のはずなのに、その中に、途方もない重さが眠っている気がした。


握られた手と手のあいだに、糸が生まれた。


目に見える糸ではない。胸の奥から、まっすぐに伸びていく感触だった。灯と結ばれたときと、似ていて違った。


灯のときは、向こうから引かれるように結ばれた。今度は――


燠さんの方から、結びに来ていた。


初めてだった。この人が、誰かに、自分から糸を結びにいくのを見るのは。


灯と結んだ糸は、いつも、澄んで冷たい手触りがした。今度の糸は、違う。乾いた、木の皮のような手触りだった。


「――怖くは、ないんですか」


聞いてから、聞くべきではなかったと思った。


燠さんは、答えなかった。ただ、口の端が、わずかに動いた。笑ったのか、そうでないのか、わからない動き方だった。


熱が、来た。


胸の奥に、堰を切ったように流れ込んできた。焚場で相手の熱を受け取るときの、あの感触とは違う。もっと古い。


もっと重い。使われることを、ずっと、待ちくたびれていた熱だった。何十年も、誰にも渡されず、ただ、蓄えられ続けてきた。


熱の中に、いくつもの季節が重なっていた。数えきれないほどの、冬と夏。誰にも渡されなかった、長い年月の手触りだった。


自分の燈が、いつも、薄い刃のように細く尖っていくのに対して、この熱は、分厚く、幾重にも積み重なっていた。使われないまま、層になった時間だった。


一度も費やされなかった時間には、匂いがあった。乾いた、埃くさい、蔵の奥のような匂いだった。それが、今、目を覚ますように、動きだしていた。


どこかに、笑い声のようなものも、混じっていた気がした。若い日の、燠さんのものかもしれなかった。確かめるすべは、なかった。


受け取るだけでは、いられなかった。


己の中に残っている、わずかな熱を掻き集めた。誰かに渡すには、あまりに心もとない量だった。それでも、押し返すように、糸の中へ、押し出した。


燠さんの手が、一瞬、強く、握り返してきた。応えるように。


多すぎて、受けきれない。そう思った瞬間――


流れが、変わった。


私を通り抜けて、その先へ伸びていった。灯へ。


灯の手首の、赤い滲みが動いた。にじり寄るように薄まっていくのが見えた。喉の赤も、同じように引いていく。


指先の白い光が、和らいでいった。


呼吸が、すこしずつ深くなっていく。浅く、荒かったものが、ゆっくりと、規則正しいものに変わっていった。唇に、色が戻ってきていた。


行灯の火が、揺れを止めた。窓の外、遠くの提灯も、いつのまにか静かになっていた。


胸の奥で、何かが巡っていた。


燠さんから来た熱が、私を通って、灯へ渡って、そのまま消えるのではなく――薄く、ほんのわずかにだけ、戻ってくる感触があった。


この手触りを、知っていた。


焚場で、あの日。格上の相手に、借りることもできず、追い詰められて、糸の向こうへ何かを返そうとした。熱が行って、また戻ってきた、あの、名前のつけようのなかった感触。


名づけるなら、環、とでも呼ぶのだろうか。ふと、そんな考えが、頭を、かすめた。


あれと、同じだった。


あの夜は、二度と起きないはずの偶然だと、自分に言い聞かせていた。それは、違っていた。


起きなかったのではない。誰も、同じことを、もう一度、試そうとしなかっただけだった。


三人分の熱が、輪になって巡っている。その負担が、誰か一人だけにのしかかっている感じは、しなかった。


「これ、が――」


声に出しかけて、止めた。


燠さんの唇が動いた。


二芯一灯(にしんいっとう)だ」


それきり、口を閉じた。


谷で聞いた、あの言葉と、同じだった。あのときは、ただの、昔話だと思っていた。今、目の前で、それが起きていた。


「どうして――」


答えは、返ってこなかった。燠さんの目が、すこし遠くを見ていた。谷で、あの伝説を語るときの目だった。核心のところで、いつも止まる目だった。


今夜も、そこで止まった。


燠さんの体が、傾いだ。


支えようとした手に、力が、ほとんど返ってこなかった。軽い。人ひとりの重さとは思えないほど軽くなっていた。


胸の奥の熾火(おきび)が、灯るのが見えた。ずっと燻るだけだった、あの、消えかけの火だった。それが、一度だけ、大きく灯った。


燃え盛る、というのとは違った。長いあいだ抑え続けてきたものが、最後に、正しい形で灯った。そういう灯り方だった。


燠さんの手が、私の胸へ、そっと乗った。何かを確かめているようだった。


温かかった。


「勿体ない、と……ずっと言い続けてきた」


声が掠れていた。


「一度くらい……惜しまずに、渡してみるのも……悪くない」


目を閉じた。閉じる前に、灯の方へ、もう一度だけ視線をやった。


灯が、目を開けていた。


いつからか、わからない。うわごとは止まっている。焦点の合った目が、燠さんを見ていた。


唇が、震えていた。声になるまで、すこし、時間がかかった。


「……燠、さん」


掠れた声で、それだけ呼んだ。


燠さんの目が、灯を捉えた。唇が、また動いた。


「――お前は、ちゃんと、持ちこたえた。それでいい」


声には、もう、ほとんど力が残っていなかった。それでも、はっきりと聞こえた。


燠さんの手が、杖を探すように宙をなぞった。そこに杖はなく、代わりに、灯の指先が触れた。


骨ばった手が、灯の頭に、一度だけ乗った。前にも見た仕草だった。


それから、力が抜けた。


胸の奥の、あの熾火が色を失っていった。


燻ってさえいない、ただの灰色に。


息は、もう上がっていなかった。上がる必要が、なくなっていた。


しばらく、動けなかった。灯も動かなかった。開けたままの戸口から、夜気が流れ込んで、いつもと変わらず冷たかった。


竈の上で、そういえば、と思い出した。夕餉の残りの粥が、まだ、鍋に入ったままだった。こんなときに、そんなことを考えている自分が、どこか、遠くにいるようだった。


膝の上に、燠さんの頭の重みが残っていた。軽いのに、これまでで、いちばん重く感じる。


その重みの向こうに、別の夜が重なった。


八年前。母が、私と凪を、火の中から連れ出して燃えつきた、あの夜。


残った時は、二人ぶんには足りなかった。


凪は、何も言わずに、自分の胸へ手を当てた。それから、その手を、私の胸へ重ねた。


温かくて、小さな手だった。


次の朝、同じ手は、もう冷たくて、私の時だけが、すこし長くなっていた。


あのときの手と、今、膝の上にあるものが、同じ場所で重なっていた。


同じ、重さだった。同じ、温度だった。


八年のあいだ、ずっと、重いものだと思い込んでいた。負わされた、荷物のようなものだと。


今、膝の上のこれは、荷物には、感じられなかった。


どちらも、渡す側は、何かを失った様子を、見せなかった。


どちらも、渡したあとの方が――


考えは、そこで途切れた。うまく言葉にならなかった。ただ、二つの夜が、同じ形をしていることだけが、はっきりとわかった。


まばたきを、した。


重なりが、そこで、ほどけた。膝の上に、あるのは、燠さんだった。凪では、なかった。


灯の手が、私の袖を探した。いつもの、あの強さだった。離すまいとする握り方だった。


握り返した。


しばらく、そうしていた。


外の色が、変わっていくのが、腕の隙間から見えた。夜の青が、すこしずつ、灰色に薄まっていく。


燠さんの体を、そのままにしておくわけにはいかない、と、頭のどこかで、わかっていた。それでも、体は動かなかった。灯も、動こうとしなかった。


二人で、ただ、燠さんを挟むようにして、座っていた。


鍋の焦げる匂いが、うっすらと漂ってきた。竈の火を、消し忘れていた。それでも、立つ気には、なれなかった。


灯が、そっと手を伸ばして、燠さんの頬に触れた。


薄くなった頬に、指先が沈むように触れる。


「あったかい」


前に、一度、聞いた言葉だった。あのときと、同じ響きだった。


今度は、意味が違う気がした。


灯が、そのまま、私の肩に、頭を預けてきた。倒れ込むような、力の抜けた預け方だった。


支えた。支えられる限り、支えるつもりだった。


これから先、何度、こうして支えることになるのだろう。数えるのは、やめにした。


どこかで、鳥が鳴きはじめた。今日という日が、いつもと同じ顔をして、始まろうとしている。


その、いつも通りの光の中で、燠さんの顔だけが、今までに見たことのない静けさで、そこにあった。


自分の手を、見た。震えは、いつのまにか、止まっていた。指先に、燠さんの熱の名残りだけが、まだ、燻っていた。


夜通し鳴いていた虫の声も、気づけば、止んでいた。


燠さんの口元に、目をやった。


皺の寄った、乾いた唇。動くはずのない、その形に――


燠が、最期に、笑った気がした。


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