第20話 潰れかけた場所から
祭りの熱が町から引いていくのに、四日か五日か、それくらいの日にちが要った。
紅白の布は、まだ軒先に残っていた。色が褪せて、もう、ただの古い布に見えはじめている。子供たちは、提灯を提げて走り回らなくなった。屋台の匂いも、とうに消えた。
町では、祭りの夜、壇の上で何かがあった、という噂が、しばらく流れていた。詳しく話す者は、いなかった。誰も、はっきりとは見ていなかったからだろう。
噂は、数日で消えた。祭りのあとの、よくある話の一つとして。
米櫃の底が、うっすらと見えるようになっていた。研ぐ量を、うまく加減できなくなっている。
行李の隅には、繕いかけの布が、針を刺したまま、放り込んである。いつからそこにあるのか、思い出せなかった。
竈の灰も、かき出していない。白く、積もっていくばかりだった。片づけていないのではない。片づけたところで、何が変わるのか、わからなくなっていた。
軒先の鉢に植えた草が、水をやられないまま、しなびて垂れている。誰も気づかない速さで、暮らしのかたちが、少しずつ、崩れていく。
潰れかけている。そんな言葉が、頭の隅で、ふと、鳴った。何が潰れかけているのか、自分でも、うまく、言えないまま。
うちの戸口だけは、あの夜から何も変わっていない。
燠さんは、あれきり、家の中へは入らなかった。縁側に小さな炉を作り、木の枝の杖を傍らに置いて、そこに座っている。声をかければ答える。自分からは、ほとんど喋らない。
「入ればいいのに」
一度、そう言った。燠さんは、首を横に振っただけだった。
「外の方が、性に合ってる」
嘘だとわかる言い方だった。それ以上は、聞かなかった。
「今日で、祭りから何日だったか」
聞くと、指を折りかけて、途中でやめた。
「さあな」
近頃は、そういうことが増えていた。日にちを忘れるくらいは、まだいい。疲れが、思っている以上に、深いところまで、入り込んでいるのかもしれなかった。
灯の手首の縁は、あの夜よりすこしだけ色が引いていた。それでも、いつもの澄んだ青には、まだ遠い。赤みが皮膚の内側に沈んで、燃え残りの炭のように居座っている。
毎朝、その縁に、水で冷やした布を当てた。灯は、じっと、されるがままになっていた。痛むかと聞くと、首を振る。
痛くはないらしい。ただ、熱だけが、いつまでも、そこに燻っていた。
灯は、袖を離さなくなった。市場でつまむ、あの軽い仕草ではない。歩くときも座るときも、布の端を指に巻きつけるようにして握っている。
米を研ぐときも、繕い物をするときも、指は離れなかった。片手で研ぎ、片手で灯を留めておく。不便だとは思わなかった。
三人分の椀を並べる癖が、いつのまにか、ついていた。燠さんの分は、縁側まで運ぶ。それでも、並べるときは、三人分、数えてしまう。
昼、繕い物をしていると、灯が隣に座って、針を持とうとした。指先が、まだ思うように動かないらしい。布に、うまく糸が通らなかった。何度も、やり直していた。
「私が、やるよ」
言うと、首を振った。
「これくらい、できる」
できていなかった。それでも、最後まで、私に渡そうとはしなかった。仕上がった布は、縫い目が曲がっていた。悪くない出来だと言うと、灯は、すこしだけ、口の端を上げた。
「澪」
「なに」
「あの人、また、来る」
毎日、同じことを聞かれた。答えは、まだ、持っていなかった。灯も、答えを求めているようには聞こえなかった。ただ、確かめたいだけなのだと思う。
ある朝、燠さんが、灯に、種火の埋め方を教えていた。
「熾すんじゃない。埋めるんだ。灰の中に、火種を、そっと沈める」
灯が真似て、灰をかき分けた。うまくいかず、火が消えかけた。
「急ぐな。焚き手の火は、燃やすためにある。俺のは、違う」
灯は、黙って、何度もやり直していた。その日、初めて、灯の口から、笑いに似た息が漏れるのを聞いた。
夕方、粥を運んだついでに、灯も縁側までついてきた。燠さんの隣に、すこし距離を空けて座った。
二人のあいだに、言葉はなかった。ただ、しばらく、同じ方向を見ていた。西の空が、赤く焼けていた。
谷で聞いた、あの話を、思い出しているのかもしれない。二人で一つの糸を持ったら、どうなるのか。誰も、答えを教えてくれなかった話。
聞けなかった。聞けば、何かが動いてしまう気がした。
あのとき、燠さんは、核心のところで、いつも、言葉を止めた。知らんでいい、と、それだけ、繰り返した。灯も、それ以上は、聞かなかった。
二人とも、聞かないことに、慣れているように見えた。
その日の夜、椀を下げに行くと、燠さんが、めずらしく、自分から口を開いた。
「昔、飼っていた犬がいてな」
脈絡のない話だった。黙って、続きを待った。
「腹を空かせると、決まって、俺の袖を、噛んだ。まっすぐ、飯の方へ、引っ張っていく。行き先を、間違えたことが、一度もなかった」
それだけ言うと、また黙った。何を言いたかったのか、聞かなかった。ただ、灯の、袖を握る指のことを、思い浮かべていたのだろうと、なんとなく、わかった。
夜更け、水を汲みに出たとき、燠さんが、独りで、炉の前に座っているのを見た。
手を、火にかざしている。焚こうとしている手つきだった。指先が、震えながら、伸びていく。
途中で、止まった。拳を握って、引っ込めた。
声をかけずに、家へ戻った。見なかったことに、した。
夜、布団を並べて敷いた。灯の指は、眠っても、袖を離さなかった。
ある夜、灯が、闇の中で、ふいに口を開いた。
「澪。もし――」
言いかけて、止まった。
「もし、なに」
「ううん。何でもない」
それきり、何も言わなかった。指だけが、いつもより強く、袖を握っていた。
何を言おうとしたのか、聞けなかった。聞けば、それが、現実になってしまう気がした。
燠さんの、あの炉の火が消えているのを見つけたのは、三日目の朝だった。
どんなに小さくても、絶やさない人だった。埋み火を、何十年も守り続けてきた人だった。灰をかき分けると、まだ、ほのかに温かい。けれど、火の色はなかった。
「今朝は、寒かったから」
聞くと、そう言っただけだった。灰の中に、また種火を落とす手が、前より遅かった。
夕餉に、粥を多めに椀へ盛った。縁側まで運ぶと、燠さんは、いつもより時間をかけて、それを食べた。噛む力そのものが、弱っているように見えた。
灯が、その様子を戸口の陰から、じっと見ていた。声はかけなかった。ただ、見ていた。
四日目の朝、粥をよそっていると、燠さんが、椀を受け取らずに、言った。
「――澪」
「なに」
「お前は、どうしたい」
手が、止まった。お玉から、粥が、一筋、垂れた。
「喰らうのか。捨てるのか。それとも」
言葉が、続かなかった。燠さんも、それ以上は、続けなかった。ただ、答えを、待っていた。
答えられなかった。何かを言おうとするたび、喉の奥で、言葉が、つかえた。
灯が、隣で、箸を持ったまま、じっと、こちらを見ていた。
沈黙だけが、長く、続いた。竈の火が、爆ぜる音だけが、やけに、大きく、聞こえた。
それきり、燠さんは、同じことを、二度とは、聞かなかった。
焚場のことは、誰も口にしなかった。位のことも。買い戻す約束のことも。
このところ、何も決められずにいた。喰らうことも、できない。捨てることも、できない。
かといって、他に何ができるのかも、わからない。ただ、日々を繋いでいた。繋いでいれば、いつか何かが変わる気がして。
変わらなかった。
夜、灯が寝入ったあとで、胸の内側に、そっと手を当てることが、増えた。
燈札の位置を、確かめるためではなかった。ただ、そこに、まだ、何も選んでいない自分がいることを、見届けるような仕草だった。
選ばないまま、時間だけが過ぎていく。それだけが、確かなことだった。
何かが、少しずつ削れている。誰も、それを口にしなかった。
五日目の夜、灯の様子が変わった。
夜半、一度、目が覚めた。灯が、寝返りを打ったせいだった。それだけだった。
息は、静かで、いつも通りだった。詰めていた息を、ゆっくり吐いて、また、目を閉じた。
次に、目が覚めたときには、様子が違っていた。
隣で、灯の息が、急に浅くなっている。
最初は、寝言かと思った。低く、途切れ途切れに、何か言っている。聞き取れない言葉だった。呼びかけても、返事はなかった。
手のひらを、額に当てた。
熱かった。
いつもの、灯の冷たさではない。搾られたあとの、あの、指先まで痺れるような冷たさとは真逆の熱だった。焚きすぎた炭のような、内側からの熱だった。
行灯を大きくした。
手首の縁が、赤く滲んでいた。あの祭りの夜よりも濃い赤だった。滲みは、もう、縁だけでは収まっていない。手首から腕の内側へ、細い筋になって伸びている。
喉のあたりにも、同じ赤が、うっすらと浮いていた。
指先が、白く光っていた。
行灯の火が、灯の息に合わせるように揺れはじめた。風は、どこにも吹いていなかった。
窓の外、遠く、誰かの家の軒先で、提灯がひとつ揺れているのが見えた。風のない夜に、その一つだけが、震えるように光を強めたり弱めたりしていた。
灯が、うわごとのように、何かを呼んでいた。名前とも言葉ともつかない、音の連なりだった。
肩を掴んで、揺すった。
「灯。灯、しっかりして」
目は、開かなかった。体だけが、小刻みに震え続けている。
水を汲んできて、布を浸し、額に乗せた。すぐに、生ぬるくなった。
手首を、両手で包んだ。熱は引かなかった。むしろ、包んだ指の方が、じわりと痺れはじめた。
借りの術を、思い出した。糸の向こうへ、そっと手を伸ばす。灯の熱を、すこしだけ、引き取ろうとした。
届かなかった。
いつもなら、指先に触れる、あの感触が、今夜は、なかった。灯の熱は、私の方を向いていない。もっと、遠くの、どこかへ向かって、暴れている。
灯の体が、弓なりに反った。喉の奥から、声にならない声が漏れた。
誰か、呼べる相手がいないか。考えた。
近所には、こんな夜更けに、頼れる相手など、いない。灯のことを知っている者も、いない。知られれば、それこそ、燈寺に、届けられてしまう。
一瞬、あの人影のことが、頭をよぎった。
あの人になら、止められるかもしれない。喰らってしまえば、この暴れは、収まるかもしれない。
浮かんだそばから、消した。それだけは、違う。
燠さんしか、いなかった。
その燠さんが、今、どこにいるのかさえ、わからなかった。
名を呼んだ。何度も。
「燠さん――」
戸口から、声を張り上げた。縁側の方に、火影が揺れるのが見えた。杖を掴む音。
応える声はなかった。ただ、影が、ゆっくりと、こちらへ動きはじめた。
遅い。
どうすればいいのか、わからなかった。手が震えていた。
燈寺に頼るという道は、初めからなかった。あそこへ連れて行けば、それこそ、灯を渡すことになる。
自分の胸に、手を当てた。
私の燈を、直に注げば。そう考えかけて、止まった。これは、焚いて足せば治るような、傷ではない。
灯の中で、何かが制御を失っている。私の熱を足したところで、火に油を注ぐだけかもしれない。
わからない。わからないことだけが、指の先まで伝わってきた。
外で、何かが倒れる音がした。杖が、地面に落ちた音だった。
振り向く余裕は、なかった。
胸の奥、裏地に縫い込んだ、あの燈札の位置に、指が動いていた。
いつのまにか、そこへ伸びていた。
使えば、何が起きるのか、知らない。知らないまま、指だけが、迷いのない動きで布の裏を探っていた。
凪の、燈札。
これを使うことは――
考えの途中で、手が止まった。止めたのは、自分の意志ではなかった。
骨ばった手が、外から、私の手首を掴んでいた。
燠さんだった。
息が上がっていた。杖は、外に置いてきたらしい。壁に手をつき、体を支えている。頬の肉が、また薄くなっているのが、行灯の灯りの下で、はっきり見えた。
「もう、いい」
低く、そう言った。前にも、何度も聞いた言葉だった。焚きすぎた私の手を止めるときの、あの言葉。今夜は、意味が違って聞こえた。
手首を、離した。その足で、灯の枕元に、膝をついた。手首を取り、色を確かめる。喉元にも、同じように、指を当てた。
しばらく、そうしていた。
燠さんの目は、灯を見ていた。長いあいだ、見ていた。
何かを、思い出しているような目だった。誰かの名を、口の中でなぞっているような。
聞かなかった。聞ける間ではなかった。
やがて、目を逸らした。逸らして、私を見た。
「もう、これしかない」
それだけ、言った。
自分の胸に、手を当てた。長いあいだ、それをする姿を、見たことがなかった。確かめるでも、隠すでもない、久しぶりに思い出したような手つきだった。
私の隣に、腰を下ろした。息を整えるだけで、しばらくかかった。
それから、私の手を取った。
節くれだった、乾いた手だった。焚くのをやめて、何十年も経つ手のはずなのに、その中に、途方もない重さが眠っている気がした。
握られた手と手のあいだに、糸が生まれた。
目に見える糸ではない。胸の奥から、まっすぐに伸びていく感触だった。灯と結ばれたときと、似ていて違った。
灯のときは、向こうから引かれるように結ばれた。今度は――
燠さんの方から、結びに来ていた。
初めてだった。この人が、誰かに、自分から糸を結びにいくのを見るのは。
灯と結んだ糸は、いつも、澄んで冷たい手触りがした。今度の糸は、違う。乾いた、木の皮のような手触りだった。
「――怖くは、ないんですか」
聞いてから、聞くべきではなかったと思った。
燠さんは、答えなかった。ただ、口の端が、わずかに動いた。笑ったのか、そうでないのか、わからない動き方だった。
熱が、来た。
胸の奥に、堰を切ったように流れ込んできた。焚場で相手の熱を受け取るときの、あの感触とは違う。もっと古い。
もっと重い。使われることを、ずっと、待ちくたびれていた熱だった。何十年も、誰にも渡されず、ただ、蓄えられ続けてきた。
熱の中に、いくつもの季節が重なっていた。数えきれないほどの、冬と夏。誰にも渡されなかった、長い年月の手触りだった。
自分の燈が、いつも、薄い刃のように細く尖っていくのに対して、この熱は、分厚く、幾重にも積み重なっていた。使われないまま、層になった時間だった。
一度も費やされなかった時間には、匂いがあった。乾いた、埃くさい、蔵の奥のような匂いだった。それが、今、目を覚ますように、動きだしていた。
どこかに、笑い声のようなものも、混じっていた気がした。若い日の、燠さんのものかもしれなかった。確かめるすべは、なかった。
受け取るだけでは、いられなかった。
己の中に残っている、わずかな熱を掻き集めた。誰かに渡すには、あまりに心もとない量だった。それでも、押し返すように、糸の中へ、押し出した。
燠さんの手が、一瞬、強く、握り返してきた。応えるように。
多すぎて、受けきれない。そう思った瞬間――
流れが、変わった。
私を通り抜けて、その先へ伸びていった。灯へ。
灯の手首の、赤い滲みが動いた。にじり寄るように薄まっていくのが見えた。喉の赤も、同じように引いていく。
指先の白い光が、和らいでいった。
呼吸が、すこしずつ深くなっていく。浅く、荒かったものが、ゆっくりと、規則正しいものに変わっていった。唇に、色が戻ってきていた。
行灯の火が、揺れを止めた。窓の外、遠くの提灯も、いつのまにか静かになっていた。
胸の奥で、何かが巡っていた。
燠さんから来た熱が、私を通って、灯へ渡って、そのまま消えるのではなく――薄く、ほんのわずかにだけ、戻ってくる感触があった。
この手触りを、知っていた。
焚場で、あの日。格上の相手に、借りることもできず、追い詰められて、糸の向こうへ何かを返そうとした。熱が行って、また戻ってきた、あの、名前のつけようのなかった感触。
名づけるなら、環、とでも呼ぶのだろうか。ふと、そんな考えが、頭を、かすめた。
あれと、同じだった。
あの夜は、二度と起きないはずの偶然だと、自分に言い聞かせていた。それは、違っていた。
起きなかったのではない。誰も、同じことを、もう一度、試そうとしなかっただけだった。
三人分の熱が、輪になって巡っている。その負担が、誰か一人だけにのしかかっている感じは、しなかった。
「これ、が――」
声に出しかけて、止めた。
燠さんの唇が動いた。
「二芯一灯だ」
それきり、口を閉じた。
谷で聞いた、あの言葉と、同じだった。あのときは、ただの、昔話だと思っていた。今、目の前で、それが起きていた。
「どうして――」
答えは、返ってこなかった。燠さんの目が、すこし遠くを見ていた。谷で、あの伝説を語るときの目だった。核心のところで、いつも止まる目だった。
今夜も、そこで止まった。
燠さんの体が、傾いだ。
支えようとした手に、力が、ほとんど返ってこなかった。軽い。人ひとりの重さとは思えないほど軽くなっていた。
胸の奥の熾火が、灯るのが見えた。ずっと燻るだけだった、あの、消えかけの火だった。それが、一度だけ、大きく灯った。
燃え盛る、というのとは違った。長いあいだ抑え続けてきたものが、最後に、正しい形で灯った。そういう灯り方だった。
燠さんの手が、私の胸へ、そっと乗った。何かを確かめているようだった。
温かかった。
「勿体ない、と……ずっと言い続けてきた」
声が掠れていた。
「一度くらい……惜しまずに、渡してみるのも……悪くない」
目を閉じた。閉じる前に、灯の方へ、もう一度だけ視線をやった。
灯が、目を開けていた。
いつからか、わからない。うわごとは止まっている。焦点の合った目が、燠さんを見ていた。
唇が、震えていた。声になるまで、すこし、時間がかかった。
「……燠、さん」
掠れた声で、それだけ呼んだ。
燠さんの目が、灯を捉えた。唇が、また動いた。
「――お前は、ちゃんと、持ちこたえた。それでいい」
声には、もう、ほとんど力が残っていなかった。それでも、はっきりと聞こえた。
燠さんの手が、杖を探すように宙をなぞった。そこに杖はなく、代わりに、灯の指先が触れた。
骨ばった手が、灯の頭に、一度だけ乗った。前にも見た仕草だった。
それから、力が抜けた。
胸の奥の、あの熾火が色を失っていった。
燻ってさえいない、ただの灰色に。
息は、もう上がっていなかった。上がる必要が、なくなっていた。
しばらく、動けなかった。灯も動かなかった。開けたままの戸口から、夜気が流れ込んで、いつもと変わらず冷たかった。
竈の上で、そういえば、と思い出した。夕餉の残りの粥が、まだ、鍋に入ったままだった。こんなときに、そんなことを考えている自分が、どこか、遠くにいるようだった。
膝の上に、燠さんの頭の重みが残っていた。軽いのに、これまでで、いちばん重く感じる。
その重みの向こうに、別の夜が重なった。
八年前。母が、私と凪を、火の中から連れ出して燃えつきた、あの夜。
残った時は、二人ぶんには足りなかった。
凪は、何も言わずに、自分の胸へ手を当てた。それから、その手を、私の胸へ重ねた。
温かくて、小さな手だった。
次の朝、同じ手は、もう冷たくて、私の時だけが、すこし長くなっていた。
あのときの手と、今、膝の上にあるものが、同じ場所で重なっていた。
同じ、重さだった。同じ、温度だった。
八年のあいだ、ずっと、重いものだと思い込んでいた。負わされた、荷物のようなものだと。
今、膝の上のこれは、荷物には、感じられなかった。
どちらも、渡す側は、何かを失った様子を、見せなかった。
どちらも、渡したあとの方が――
考えは、そこで途切れた。うまく言葉にならなかった。ただ、二つの夜が、同じ形をしていることだけが、はっきりとわかった。
まばたきを、した。
重なりが、そこで、ほどけた。膝の上に、あるのは、燠さんだった。凪では、なかった。
灯の手が、私の袖を探した。いつもの、あの強さだった。離すまいとする握り方だった。
握り返した。
しばらく、そうしていた。
外の色が、変わっていくのが、腕の隙間から見えた。夜の青が、すこしずつ、灰色に薄まっていく。
燠さんの体を、そのままにしておくわけにはいかない、と、頭のどこかで、わかっていた。それでも、体は動かなかった。灯も、動こうとしなかった。
二人で、ただ、燠さんを挟むようにして、座っていた。
鍋の焦げる匂いが、うっすらと漂ってきた。竈の火を、消し忘れていた。それでも、立つ気には、なれなかった。
灯が、そっと手を伸ばして、燠さんの頬に触れた。
薄くなった頬に、指先が沈むように触れる。
「あったかい」
前に、一度、聞いた言葉だった。あのときと、同じ響きだった。
今度は、意味が違う気がした。
灯が、そのまま、私の肩に、頭を預けてきた。倒れ込むような、力の抜けた預け方だった。
支えた。支えられる限り、支えるつもりだった。
これから先、何度、こうして支えることになるのだろう。数えるのは、やめにした。
どこかで、鳥が鳴きはじめた。今日という日が、いつもと同じ顔をして、始まろうとしている。
その、いつも通りの光の中で、燠さんの顔だけが、今までに見たことのない静けさで、そこにあった。
自分の手を、見た。震えは、いつのまにか、止まっていた。指先に、燠さんの熱の名残りだけが、まだ、燻っていた。
夜通し鳴いていた虫の声も、気づけば、止んでいた。
燠さんの口元に、目をやった。
皺の寄った、乾いた唇。動くはずのない、その形に――
燠が、最期に、笑った気がした。




