第21話 流れが、還る
鍬の刃が、土に食い込む音だけが、続いた。
裏の丘、木の根方を選んだ。灯が、そこがいいと言った。理由は聞かなかった。土は冬の名残りでまだ硬く、掘るたびに、腕の付け根が鈍く痛んだ。
空は、灰色だった。雨には、ならなかった。ただ、重たく、垂れ込めていた。
穴の深さを、何度も、目で測った。これくらいでいい、というところが、わからなかった。灯が、もういい、と、先に言った。
燠さんが杖にしていた、あの木の枝を、盛った土の上に立てた。それだけの弔いだった。経も、花もなかった。ただ、しばらく、二人でそこに立っていた。
風が、木の枝を、かすかに揺らした。
土を、手のひらで、押し固めた。冷たかった。爪の間に、土が入り込んだ。それを、洗い流す気には、しばらく、なれなかった。
燠さんの荷物は、驚くほど、少なかった。着替えが一枚。研ぎ石が、ひとつ。
それだけだった。杖のほかには、何も、残さなかった。
惜しんで、惜しんで、それでも、手元には、何も、残らなかったのだと思った。最後に、全部、くれてしまったから。
それでいいのだと、思うことにした。そう思わなければ、立っていられなかった。
それから、幾日か経った。数えるのは、いつからか、やめにした。
縁側の、あの小さな炉の跡は、灰になったまま残っている。もう誰も、そこへ火を熾さない。炉のそばの地面には、杖を立てかけていた跡が、寄りかかった形の窪みになって残っていた。
日ごとに、日が、すこしずつ、長くなっていくのがわかった。季節が、動いている。燠さんのいない世界でも、それは、止まらなかった。
夕餉の椀を並べるとき、いまだに、指が三つ数えようとする。二つで、止める。
燠さんが、いつも座っていた場所に、誰も、座らなくなった。空いたままの、その場所を、避けるように、二人とも、すこし、位置をずらして座るようになっていた。
灯の手首の縁は、ほとんど、いつもの青に戻っていた。ほとんど、というのが正しい。夜になると、時折、薄く赤みが差す。
長くは続かない。数えるほどの瞬きのあいだだけ。気づかないふりを、二人とも、していた。
夜、灯が、声を殺して泣いているのを、一度、聞いた。聞こえなかったことにした。灯も、気づかれていないと、思っているようだった。
朝になると、いつもの顔に、戻っていた。何も、なかったことのように、前を向く。そのやり方を、灯は、もう、知っているようだった。
灯は、変わっていた。
どこがとは、うまく言えない。飯を食べる。針を持つ。水を汲む。
することは、前と同じだった。ただ、ひとつひとつの間が違う。前は、何かに急かされているような動きだった。
今は、急がない。止まらない。まっすぐ進む。
声も、変わった。前は、語尾が、いつも、小さく萎むように消えていった。今は、最後まで、はっきりと届く。
袖を離さなくなっていた、あの指が、いつからか、離れていた。
昼下がり、灯の姿が見えないことがあった。捜すと、丘の、あの木の根方に、しゃがみ込んでいた。
何をしているふうでもなかった。ただ、盛った土の、いちばん盛り上がったところを、じっと見ていた。近づくと、気配で気づいたはずなのに、振り向かなかった。
声はかけなかった。すこし離れた場所で、同じ方向を、しばらく見ていた。
木の枝の杖が、風で、かすかに傾いていた。灯が、手を伸ばして、まっすぐに直した。それだけのことに、ずいぶん、長い間がかかった。
夜中、目を覚ますことが、増えていた。
隣を見ると、灯が、起き上がって、座っていることがあった。月明かりの中、自分の手首を、じっと見ている。何をするでもなく、ただ、見ている。
声をかけると、いつも、同じことを言った。
「眠れないだけ」
それ以上は、聞かなかった。布団に、また、横になる。灯も、しばらくして、横になる。その間、何を考えていたのか、聞かないままだった。
ある朝、水を汲みに、灯が一人で出ていった。呼び止めようとして、やめた。戻ってきたとき、桶からこぼれた水の跡が、土間に、まっすぐな線を描いていた。迷わず歩いた証だった。
二日前の夜、それが、いつもより長く続いたことがあった。
手首の赤みが、いつもの瞬きでは、消えなかった。数を、十、数えても、まだ、そこにあった。喉元にも、うっすらと、色が差した。
指先も、かすかに、白く光っていた。あの、祭りの夜と、よく似た兆候だった。
灯は、何も、言わなかった。声も、上げなかった。それが、かえって、指先を、冷たくした。
しばらくして、色は、引いた。何ごともなかったように、灯は、また、眠りに落ちた。私だけが、朝まで、目を開けていた。
それから、また、夜が来た。粥を、二人分だけ、椀によそった。
灯は、しばらく、湯気を見ていた。箸を、持たなかった。
「澪」
「なに」
「今夜、あの人を、呼ぶ」
箸が、止まった。
「呼ぶって」
声が、うまく続かなかった。
「待つのは、もう、飽きた」
短く、灯は言った。飽きた、という、その言葉が、こんなに重く聞こえたことはなかった。
「あの人、また来る、って。ずっと、澪に聞いてた。答えのない問いを、澪に、押しつけてただけだった」
灯は、椀を両手で包んだ。あたためるような、確かめるような、いつもの仕草だった。
「燠さんは、待たなかった。一度に、くれた。惜しまずに、って言ってた。私も、そうする」
「危ないよ」
声が掠れた。
「祭りの夜じゃない。あの人が、今度は何をするか」
「なんで、今なの」
聞かずには、いられなかった。
「燠さんが、逝ったから、じゃない」
灯は、首を振った。
「それも、あるけど。……ずっと、そうだった。誰かが、来て、私を見て、それで決める。奪うか、匿うか。私は、いつも、決められる方だった」
椀の中の粥が、湯気を、あげなくなっていた。
「今度は、私が、決める番」
言葉が、出てこなかった。灯の言う通りだった。決めるのは、いつも、誰か、他の者だった。燈寺が。
澱見が。あの人が。灯自身が、その輪の中に、入ったことは、一度もなかった。
「でも、危ない、って」
「わかってる」
灯の声が、澪の言葉に、かぶさった。
「でも、待ってるだけじゃ、また、あの縁が赤くなる。今度は、間に合う人が、いないかもしれない」
それは、そうだった。手首の、あの赤い滲みのことを思った。長くは続かない、と自分に言い聞かせてきた、あの瞬きの間のことを。次に来るとき、それが瞬きだけで済む保証は、どこにもなかった。
手が、灯の腕へ伸びかけた。掴んで、止めようとする、いつもの動きだった。
途中で、止めた。
止めたのは、自分だった。
止める権利は、私にはない。そう思った。灯の終わり方は灯のものだと、前に、灯自身が言っていた。今、灯が選ぼうとしているのは、終わり方ではなく――たぶん、初めて、その逆のことだった。
「澪は、ここにいて」
灯が言った。
「前に出なくて、いい。今度は、私がやる」
「見てるだけなんて」
言いかけて、続かなかった。
「見ててくれれば、それでいい」
見ているだけ、というのが、こんなに難しいことだとは、知らなかった。
これまで、ずっと、誰かのために動いてきた。動くことでしか、自分を保てなかった。灯が、自分で決めて、自分で動こうとしている今、私にできることは、何もない。何もしないということが、これほど体に力を要ることだとは、思わなかった。
灯は、そう言うと、椀を置いた。立ち上がり、袖を、まくった。手首の薄い筋を、隠さずに晒す。前はいつも隠していた場所だった。
誰かに掴まれる場所。取られる場所。今は、ただ、そこにあった。
喉元も、同じだった。襟を、すこし、緩めていた。
しばらく、二人で、何も言わずにいた。竈の火が、ぱちりと爆ぜた。
夕餉のあと、灯が、私の後ろに座った。
「髪、梳かせて」
珍しい、申し出だった。いつもは、私が、灯に、してやることだった。
黙って、背を向けた。灯の指が、髪をとく。ゆっくりとした、丁寧な手つきだった。
指が、時折、止まる。理由は、聞かなかった。
「澪の髪、灰色のとこ、増えた」
「そう」
「増えても、いい。……減らないより、増える方が、まだ、いい」
どういう意味か、聞き返さなかった。灯の指が、また、動きはじめた。
三つ編みに、してもらった。子供の頃、母に、してもらった、あの結い方と、すこし似ていた。灯は、そのやり方を、知らないはずだった。それでも、似ていた。
夜になるのを、二人で待った。
行灯の火を、灯が、しばらく見つめていた。何を思っているのか、聞かなかった。聞けば、何かが変わってしまう気がした。その気がするのも、もう、慣れたものだった。
やがて、灯が、喉に指先を当てた。
触れるか触れないか、そのくらいの軽さだった。もう片方の手で、手首を、そっと包む。同じ場所だった。
何度も見た、あの仕込まれた仕草と、同じ場所。脅されて差し出す、あの動きと。
けれど今夜、誰も脅していない。
灯が、自分で、そこに触れていた。
その姿を、忘れないだろうと思った。震えては、いなかった。まっすぐな背筋だけが、そこにあった。
灯の肩が、かすかに、震えていた。
支えようと、手を伸ばしかけて、止めた。今夜だけは、支えなくていい。そう、自分に言い聞かせた。
目を閉じた。
しばらく、何も起きなかった。行灯の火だけが、ゆっくりと大きくなったり、小さくなったりを繰り返していた。息を数えるように、私も、灯の呼吸に、合わせていた。
窓の外、遠くで、何かが動いた気がした。
見ると、屋根の向こう、いくつもの家の軒先で、提灯が揺れていた。ひとつやふたつではなかった。風のない夜に、いちばん近い軒先の提灯が、瞬きを強めた。
呼応するように、ふたつ、みっつ、と、隣へ伝わっていくようだった。それだけで、あたりが、ふっと静まりかえった。
何が起きているのか、わからなかった。ただ、届いたのだということだけは、わかった。声にならない声が、町じゅうの、名も知らない誰かの灯りにまで、届いてしまったのだということが。
灯が、目を開けた。
「呼んだ」
短く、それだけ言った。息が、すこし浅かった。頬には、うっすらと汗が浮いていた。
「大丈夫」
聞くと、頷いた。それ以上は、何も言わなかった。肩を貸そうとすると、いいと、押し返された。自分の足で、戸口まで、歩いた。
待った。どれくらいの間だったか、わからない。竈の残り火が、ひとつ爆ぜた。それだけの時間だったのかもしれないし、もっと長かったのかもしれない。
灯の手を、握った。冷たかった。いつもの冷たさとは、すこし違う、乾いた冷たさだった。
冷えた匂いがした。淀んだ水の匂い。
戸口の向こう、夜のいちばん暗い場所に、人影が立っていた。
燈を持たない、人影。輪郭が、じわりと濃くなっていく。闇そのものが、人の形に、集まってくるような現れ方だった。
灯が、私の隣に、並んだ。庇うでも、隠れるでもなく、ただ、並んで。
澱――
「――呼んだのは」
声は静かだった。責めるでも、驚くでもない。ただ、確かめるような口調だった。
「お前か」
「私」
迷いのない声だった。
「こんなふうに、呼ばれたのは」
澱の目の奥で、何かが、揺れた。
「初めて、だ」
誰に言うでもない呟きだった。数百年のあいだ、見つけられる側では、あっても、呼ばれる側では、なかったのかもしれない。そんな気が、した。
それから、人影は戸口を越え、内と外のちょうど境で、立ち止まった。
「ここが、お前の巣か」
答えを待つ口調ではなかった。ただ、見回していた。竈、行灯、灯の、まだ乾いていない繕いかけの布。
何もかもが、初めて見るもののように、澱の目に映っていた。竈の焦げた匂いを、確かめている。鼻先が、すこし、人めいて動いた。
視線が、私へ動いた。
「――お前とも、久しいな」
答えなかった。答える気になれなかった。
澱の口の端が、わずかに動いた。笑ったのか、そうでないのか、わからない、あの動き方だった。
それから、澱の目が、私の後ろ、縁側の方へ、動いた。
「――一人、減ったな」
低く、そう言った。
「あの、熾火のような、男」
何も、答えなかった。答えれば、何かが崩れる気がした。
澱は、それ以上、何も言わなかった。ただ、しばらく、縁側のあたりを、見ていた。それから、視線を、私へ戻した。
「温もりとは、どんな感じだったか。……もう、聞かんでおこう」
目が、また灯へ戻った。
「まだ、辛抱を続けているのか」
「辛抱じゃ、ない」
灯が、先に言った。
澱が、片手を、ゆっくりと上げた。差し出すような動きだった。指先に、何も持っていない。
声が、出かかった。やめてと、言いかけた。
灯の肩が、かすかに、こちらへ動いた。動くな、というふうに。声は、喉の奥に、留まったままになった。
「今からでも、遅くはない。抱えているものを、私が引き受けてやれる。楽にしてやれる。我々は、似ている――」
「似てない」
灯が、首を振った。
「あんたは、奪う。燠さんは、くれた。似てるわけ、ない」
「くれる、というのも」
澱が、言葉を探すように、間を置いた。
「奪われることに、慣れた者には、区別が、つかんこともある」
「ついてる」
灯は、間を置かずに、澱を見た。
「今は、ついてる」
澱が、口をつぐんだ。考えている、間だった。長く生きた者が、ひどく単純なことに、初めて気づいたときの沈黙に、似ていた。
「もう、いい」
灯が、一歩、前へ出た。
「もう、隠れない」
声は震えていなかった。
「否むだけじゃ、足りないと、わかった。私――欲しいの」
喉に当てた指に、力がこもった。
「生きたい。澪と。――澪を、死なせない」
その声を、忘れないだろうと思った。今までに、聞いたことのない、灯の声だった。
「欲しがれば」
澱が、静かに言った。
「欲しがるほど、失うのが、怖くなる。それでも、いいのか」
「いい」
迷わなかった。
「怖くても、欲しい方を、選ぶ」
喉と手首の、薄い筋が、光を持ち始めた。
見たことのない光り方だった。搾られたあとの灰がかった痺れの色を、はるかに超えて、広く、明るかった。
澱の目が、細くなった。
「――お前が」
言葉が、そこで止まった。
澱の胸のあたり――燈と呼べるものの、ないはずの場所で、何かが動いた。長いあいだ澱み、渦を巻いていた、あの色のない重い塊。それが、初めて、揺れていた。閉じていた何かが、内側から、押し開かれていくようだった。
――環、と、あの夜、名づけかけたものが、今、目の前で、ひらいていく。そんな感覚があった。
幾つもの、季節の重なりが、そこにあるのが、見える気がした。誰かから奪った冬。誰かから奪った夏。
数えきれないほどの、他人の歳月が、色を失ったまま、積み重なっていた場所。それが今、一枚ずつ、剥がれるように、ほどけていく。
澱は、その場から動かなかった。動けないのか、動かないのか、わからなかった。上げた手だけが、そのまま、宙に残っていた。
「これ、は」
誰に問うでもない声だった。
私は、灯の手を探していた。指先が触れた瞬間、わかった。
灯の輪郭が、薄くなっている。何かが、灯の中を通り抜けて、外へ伸びていっていた。引き込まれてくる方向と、押し出されていく方向が、同時に動いていた。
支えていないと崩れ落ちてしまいそうな、頼りなさだった。それでも、灯の足は、しっかりと、床を踏みしめていた。
部屋の中の、あらゆる小さな光が、呼応していた。行灯の火が、大きく跳ねた。竈の残り火が、色を変えた。壁の影が、脈打つように、伸び縮みした。
窓の外、遠くの提灯が、いっせいに、強く瞬いた。ひとつではなかった。数えきれないほどの光の粒が、屋根の向こうから向こうへ、次々に応えていくのが見えた。町ぜんぶの灯りが、一度、大きく息を吸い、それから、ゆっくりと、揺れを鎮めていった。
耳の奥で、何かが鳴っていた。音とも呼べない、低い震えだった。床が、かすかに震えているような、そんな感覚もあった。
気のせいかもしれなかった。確かめる余裕は、なかった。
消えてしまうんじゃないか。指先が、冷たくなった。
喰らうことは、できない。ここには、喰らう相手が、いない。誰かの時を奪って、それで灯を繋ぎ止めることは、できない。
なら、捨てるしかないのか。
胸の裏地に縫い込んだ、あの燈札に、指が動きかけた。使えば何が起きるのか、知らない。それでも、指だけが覚えている、あの動きだった。
止めた。自分で。
これは、渡す時じゃない。妹の時間を、また、誰かの代わりに、差し出す時じゃない。
溢れてくる熱を、握り込もうともした。もっと引き寄せて、抱え込んで、離さないように。――それも、違うと、わかった。抱え込めば、灯じゃなく、澱と同じになる。
喰らわない。捨てない。ただ、握る。
勿体ない、と、ずっと言い続けてきた人がいた。最後の最後に、それでも、惜しまずに渡してみるのも悪くない、と笑った人が。
その人の分まで、惜しんではいけない、と思った。
それだけが、今、できることだった。
代わりに、灯の手を握った。強く。
己の残っている熱を、掻き集めようとはしなかった。ただ、そうしていた。それだけだった。
握った指から、何かが動いた。多いとも少ないとも言えない、私のいつもの小さな燈が、灯の方へ流れていくのがわかった。押し出したのではない。灯へ、というより、灯と同じ方向へ、運ばれていくような動き方だった。
そうしていた時間の長さは、もう、覚えていない。ただ、つないだ手だけが、ずっと、そこにあった。
澱の姿が、揺らいでいた。輪郭の内側から。
緩んでいく。崩れるというより、ずっと強張っていた何かが、ゆっくりと力を抜いていくように。長い、長い時間をかけて、そうなったものだった。数百年ぶんの、硬さだった。
「――ああ」
声が漏れた。今度は、はっきりと聞こえた。
「やっと、か」
その声には、怒りも、恐れも、滲んでいないように、聞こえた。長く止めていた息を、初めて吐き出すような声だった。
澱の内で渦巻いていた、あの重い澱みが、色を失っていく。薄まって、消えていく。
その、すぐそばで。
私と灯の、二つの小さな燈が、一本の糸の上で、まだ燃えていた。消えていく彼の光と、並んで。
胸の奥、あの札のあたりが、ひとつ、あたたかくなった。
見る余裕は、なかった。それでも、そこにあたたかいものが灯ったことは、わかった。布越しに、淡い光が、一度だけ、確かに、透けて見えた。
澱の姿が、輪郭を失っていく。そこに在ることを、ゆっくりとやめていくようだった。
消える間際、澱の目が、一瞬、何かを探すように揺れた。遠い昔、忘れてしまった誰かの顔を、思い出そうとしている目だった。それを見つけられたのかどうか、私には、判じようがなかった。
「――ああ……やっと、」
最後に聞こえたのは、それだけだった。
人影が消えた。冷えた匂いも、一緒に引いていった。
部屋の中が、急に静かになった。行灯の火が、いつもの、ささやかな大きさに戻っていた。竈の残り火も、いつもの色に。
窓の外、遠くの提灯の揺れが、少しずつ収まっていく。町が、また、いつもの静かな夜へ戻っていくのがわかった。どこかで、誰かの笑い声が、聞こえた気がした。何も知らない、いつもの、誰かの声だった。
呼吸の仕方を、忘れていたことに、そこで、初めて気づいた。ゆっくりと、息を吸い込んだ。竈の焦げた匂いと、夜気の冷たさが、肺の奥まで届いた。
手のひらに、灯の脈が、はっきりと伝わってきた。速く、確かな鼓動だった。
顔を見た。灯の頬に、色が戻っていた。手首の縁も、赤みが消えている。
いつもの、澄んだ青さだけが、そこにあった。指先も、もう、光ってはいなかった。ただの、いつもの、冷たい灯の指だった。
生きている。
その、ただそれだけのことが、こんなに確かにわかったのは、初めてだった。
自分の胸に、手を当てた。いつもと同じ、変わらない拍だった。減っても、増えてもいない。
膝から、力が抜けた。灯も、同じように、その場に、座り込んだ。それでも、握った手だけは、互いに離さなかった。
灯が、私の顔を見た。何か、言おうとして、やめた。ただ、握った手に、力を込めた。
それだけで、十分だった。
――お前は、まだ、何も、望んでいないな。
いつか、澱に、そう言われたことがあった。
違う。
声が、勝手にこぼれた。
「――嫌だ」
喉の奥から、押し出されるように。
「死にたくない」
灯の手を握る力が、強くなった。
「私も、灯と、生きたい」




