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それから一刻が経った。
「どうしたんだ、メイ、顔色が悪いぞ。」
酔ったゲルツが陽気に話しかけてきたが、メイは蒼白のまま、答えない。
宴はお開きとなり、セイケの重役たちに見送られて、太子たちは亀山から対岸への渡しの船に乗るため、船着き場に並んでいる。
その先頭に立つのは、いつも通り、第一太子であるゲルツだ。それは半ば、兄弟間の暗黙のルールとなっていた。
しかし、今晩は駄目だ、とメイは思った。あの会話。間違いなく、普通のものではない。メイは、あの二人の会話に、陰謀、の臭いを嗅いだ。
しかし、かといって、証拠もなしに、天下の豪商であるセイケが陰謀を張り巡らせているなど言い立てることなどできない。ましてやメイは、少年の、それも何の後ろ盾も持たない亡国太子だ。誰も彼の言うことは信じないだろう。
物陰で会話を聞いて酒場に戻っていらい、メイはずっと、そのことを考えていた。誰かに頼ろうにも、カネンも、アシムも、クミルですら、ここにはいない。対岸の近衛の詰め所で待っているのだ。
「メイ、本当に大丈夫か? まさか、はやり病にかかったんじゃないだろうな?」
そう、心配する、ゲルツの顔が、目の前にあった。その顔が――髭の濃い、成熟した男の顔が、ショウの街の『司』を担っていく男の顔だと思うと、メイのこころは決まった。
――とにかく、やってみることだ。
「そうなのです、兄さん。」
メイは、さも気分が悪そうに、声を細くしていった。
「気分が悪い。たぶん、酔ったのだと思います。」
「酔った。酒を飲んだのか。」
「違います。この亀山です。セラルの大川に浮かぶこの小島は、さながら小さな船のようで、その上にいると、ぐらぐらと波に揺られているような気がします。」
「おまえは、案外に繊細なんだな。」
ゲルツは呆れたように言って、メイはすがるように言った。
「兄さま、お願いです。わたしは一刻も早く、この島から出たい。どうか、渡し船の順番を、わたしと入れ替えていただけないでしょうか。」
メイがそう言ったのは、ゲルツが船に乗り込む直前。
ゲルツは苦笑していった。
「いいとも。順番を譲ろう。しかし、おまえ、まだまだ鍛えねばならんな――」
「ありがとうございます。」
メイはそう言って、急いでゲルツが乗る予定だった、小舟に乗った。そのことに、セイケの警備兵たちは、誰も気が付かなかった。
メイの乗った渡し船を操縦する男は船着き場でメイとゲルツのやりとりを見ていたから、船に乗り込んだこの少年はさぞ病弱なのだろうと思った。
だから、その少年が、船が島を離れてしばらくして、話しかけてくる声を聞いて、おや、と、思った。その声は病弱とは程遠い、強さと、覚悟のようなものがあった。
「おじさん、泳ぎはうまいですか?」
「泳ぎ?」
変なことを聞く子供だな、と思いながら、小舟の操縦士はこたえた。
「まぁ、達者じゃなけりゃ、こんな仕事はしていないさね。」
「それなら、聞いてください。」
そう言って、少年は真剣な目で、男にこう言った。
「この船は、間もなく襲われます。」
「はぁ?」
「聞いてください――そのときは、おじさんはすぐに逃げて、対岸まで泳いでください。そして、アシムか、カネンか、クミルでもいい。誰かを見つけて、こう伝えてください。セイケ商会と、赤髪のオジンが、つながっている、と。かれらは、第一太子であるゲルツ兄さんを、亡き者にしようとしている。」
「なにを、坊ちゃん、ヘンなことを言うもんじゃないよ。」
操縦士は呆れていった。
「それに、襲われる、たって、どうするんだよ。この上流はいまも、あんたの街の兵と、セイケの雇った兵士とが、警戒している。襲うにも、下流からこの川を上るのは無理だし、上流からやってくる不審な船は全部、止められちまう。」
「敵は、泳いでやってきます。そういう訓練を受けたものです。」
どうも、想像力が豊かすぎる坊ちゃんだな。そう思いながらも、なんとなく気になって、操縦士はひょいと、川の水面の方を覗き込んだ。
そして、船の側面に張り付き、顔を見上げて、いまにも船に上ってこようとする人影と、目が合った。
「う、わ、わ」
操縦士は夢中で舵を切った。船が回り、その人影は振り落とされそうになり、うめき声をあげる。
操縦士は、てじかな櫂棒を手に取って、船に張り付いている人影を叩き落そうとした。
しかし、操縦士が突きだした櫂棒をかえってその人影はつかみ取ると、ぐいと引っ張り、
「うひゃああああ」
と、言う叫び声とともに、ざぷんと操縦士は川の中へと落ちていった。
入れ替わりに船に上がってきた人影は悪態をつく。
「くそっ、何が操縦士は何も知らない、だ。予期していたかのようにおれを見つけたじゃないか。手間をかけさせやがって……」
そう言いながら、人影はかぶっていた覆面を取り、ギラリと背に負った刀を抜き出すと、船の中の人影に向き直る。
「さて、ゲルツ、赤髪の首領のところまで、僕につきあってもらうぞ。ソラなんかを選んだのが、運のつきだった……」
そこまで言ってから、声は途切れる。
人影と、メイの目が合った。メイは覆面をとったものの顔を見て、あっと、叫んだ。
その人影の声に、メイは聞き覚えがあった。どこで聞いたかと言えば、アシムと出会った衛兵試験の道場で、かれに対して打ち込むときの叫び声。
男は、ヨシン。そのヨシンは半ば、放心した様子で言う。
「どうしてここに、亡国太子が?」
メイは黙って、それでも恐怖は少年の臓腑を満たし、その体は震えていた。
夜のセラル川を漂流する落葉のように、二人を乗せた船はゆるゆると下っていった。




