第1話 黒船、見積書を持ってくる
第1話
黒船、見積書を持ってくる
朝九時十三分。
PMCヤタガラス本社。
いつもなら誰かがコーヒーをこぼし、誰かが装備品の請求書を見て経理に怒られ、ホオズキが「これは必要経費」と主張している時間だった。
その日だけは、妙に静かだった。
大型モニターにニュース番組が映っている。
画面下には、大きなテロップ。
《GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL、日本法人設立》
誰も喋らない。
テレビの中では、空港へ到着した外国人幹部たちの映像が流れている。
黒塗りの車。
警備員。
報道陣。
そして企業ロゴ。
北欧神話を思わせる、鋭く洗練された意匠。
数秒の沈黙のあと。
隊員の一人が聞いた。
「……でかい会社なの?」
久世トウマが無言で端末を操作した。
テレビ画面が企業情報へ切り替わる。
「GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL。欧州を本拠地とする総合民間安全保障企業です」
売上高。
従業員数。
契約国。
海外拠点。
警備施設。
訓練センター。
保有車両。
航空輸送能力。
医療部門。
情報分析部門。
サイバー部門。
数字がずらずらと並んでいく。
ホオズキは三秒ほど見た。
「閉じていいよ」
久世はスクロールした。
さらに数字が出た。
「まだ一ページ目です」
「閉じろ」
「企業概要だけであと十一ページあります」
「閉じろって言ってるだろ」
黒崎が腕を組んだまま画面を見る。
「保有航空機……十九機」
ホオズキが振り返った。
「何に使うんだよ十九機も」
「飛ぶんだろ」
「それは知ってる」
久世が淡々と続ける。
「輸送機、ビジネスジェット、救難用回転翼機などです」
「うちにも航空戦力あるよ」
「何だ」
「レンタカー屋でハイエース借りる時、空港店を指定できる」
「航空要素が空港しかない」
さらにスクロール。
年間訓練費。
従業員向け保険。
海外派遣実績。
政府契約。
大企業契約。
国際機関との契約。
ホオズキの顔がだんだん嫌そうになっていく。
「これ、会社?」
「会社です」
「国じゃなくて?」
「会社です」
「軍隊じゃなくて?」
「会社です」
「本当に?」
久世が画面を見た。
「登記上は」
「その言い方やめろ。怖くなるだろ」
黒崎が低く言った。
「……面倒なのが来たな」
その言葉だけは、誰も否定しなかった。
*
同日午後。
都内ホテル。
GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL日本法人設立記者会見。
壇上に立ったのは二人。
CEO、エリアス・ヴァルベルグ。
銀髪。
短く整えられた髭。
左眼の義眼。
大企業の最高経営責任者というより、長い軍歴を経た司令官のような男だった。
だが話し方は穏やかだった。
その隣に座るのはCOO、イングリッド・ファルク。
濃紺のスーツ。
冷静な視線。
記者席全体を静かに観察している。
エリアスがマイクへ顔を近づけた。
「日本市場には、大きな可能性があります」
フラッシュが焚かれる。
「災害対応、企業警備、海外進出企業の安全確保、危機管理、情報分析。日本企業が国外で活動する機会は増えています。同時に、安全保障上の需要も複雑化している」
質問が飛ぶ。
「既存の日本企業との競争については?」
エリアスは少し考えた。
「競争は健全なものです」
穏やかな声だった。
「我々は、我々の強みを提供します」
別の記者。
「価格競争も辞さないという意味でしょうか」
「適正価格を提示します」
イングリッドが補足する。
「当社は世界各地の拠点、訓練施設、車両、装備、保険契約などを共有しています。それにより品質を維持しながら、運営コストを効率化できます」
その会見を、ヤタガラスでは全員で見ていた。
ホオズキがポテトチップスを食べながら言った。
「嫌な予感しかしない」
久世が聞く。
「どの部分で?」
「『適正価格』」
黒崎が頷いた。
「分かる」
経理担当も頷いた。
「ものすごく分かります」
ホオズキが指差した。
「ほら。大人が『適正価格』って言う時、大体ろくなことにならない」
経理担当が答えた。
「社長が『必要経費』と言う時も同じです」
「今、私の話じゃないだろ」
*
数週間後。
嫌な予感は当たった。
ヤタガラス会議室。
テーブル中央に一枚の資料が置かれている。
長年契約してきた企業の施設警備。
本社ビル。
研究施設。
役員移動時の警護。
海外渡航時の安全管理。
ヤタガラス設立初期から付き合いのある主要顧客だった。
契約更新に伴い、今年から競争入札が実施された。
当然。
グリムニルも参加した。
営業担当が口を開く。
「昨年度の当社契約額です」
スクリーン。
《年間契約額 120,000,000円》
一億二千万円。
ホオズキが腕を組む。
「うん」
次。
《ヤタガラス提示額 118,000,000円》
「二百万頑張った」
経理担当が即座に言う。
「これ以上は危険です」
「分かってる」
「本当に?」
「今日の私は分かってる」
そして。
次の数字。
《GRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL提示額 98,000,000円》
会議室が静まり返った。
ホオズキが数字を見た。
もう一度見た。
眼を細めた。
「……ゼロ、一個足りなくない?」
久世。
「足りています」
「税抜き?」
「条件は同一です」
「年間?」
「年間です」
「半年契約じゃなく?」
「年間です」
「誤植?」
「正式な見積書です」
ホオズキは椅子から身を乗り出した。
「赤字じゃないの?」
経理担当。
「向こうの規模なら黒字です」
「ずるくない?」
「規模の経済です」
「規模の経済は禁止できないの?」
「資本主義を禁止してください」
沈黙。
ホオズキは真剣な顔になった。
「どこに申請すればいい?」
「国会でしょうか」
黒崎が割り込んだ。
「やめろ。ニュースになる」
久世が資料を切り替える。
「単純に人数だけの問題ではありません」
画面に費用構造が出る。
車両。
制服。
装備。
訓練。
保険。
通信。
管理。
採用。
システム。
「警備員一人を一日配置する場合でも、その人間の日給だけ払えばいいわけではありません」
ホオズキが頷く。
「給料」
「それは変動費に近い部分です。それ以外に、仕事があってもなくても発生する費用があります」
「家賃」
「はい」
「システム維持費」
「はい」
「保険」
「はい」
「倉庫」
「はい」
「黒崎の食費」
黒崎が見る。
「なぜ俺だけ変動費扱いなんだ」
久世は無視して続けた。
「こうした固定費を、どれだけ多くの契約へ分散できるかが重要です」
グリムニル。
世界各地に数万人規模の人員。
大量購入される装備。
数千台単位で契約される車両。
全社共通の教育プログラム。
国際規模で契約された保険。
複数拠点で共有される管理システム。
一つの契約のために全部を用意する必要がない。
既にある巨大な仕組みの中へ、日本の案件を一つ追加する。
それだけだ。
久世が言う。
「例えば訓練プログラムを作るのに一億円かかったとして」
「高いな」
「例です」
「びっくりした」
「百人しか使わなければ、一人あたり百万円です」
「うん」
「一万人が使えば」
ホオズキが指を折り始める。
「ちょっと待って」
黒崎。
「一万円だ」
「今やろうとしてた」
「嘘つけ」
久世が続ける。
「これが規模の経済です。生産量、あるいは提供するサービス量が増えるほど、一件あたりの平均コストを下げられる」
ホオズキは資料を睨んだ。
「つまり向こうは、大盛り頼むと安くなるタイプの店」
「ものすごく雑ですが、方向性は合っています」
「じゃあうちも大盛りにすればいい」
経理担当が答える。
「人がいません」
「採用」
「金がありません」
「借りる」
「返済してください」
「飛行機買う」
「何の話をしてるんですか」
「グリムニル十九機持ってるから」
「対抗心で航空機を買わないでください」
「一機くらい」
「駄目です」
「中古」
「駄目です」
「セスナ」
「種類の問題ではありません」
久世がグリムニルの見積書を拡大した。
「もっと重要なのはここです」
契約条件。
勤務人数。
交代要員。
緊急時増援。
保険。
報告体制。
全部、ヤタガラスと同等。
場所によっては上。
安い。
しかも品質を落としていない。
黒崎が呟く。
「面倒だな」
「そうなんです」
久世は頷く。
「もしヤタガラスが九千八百万円まで下げた場合」
別の数字が表示される。
《年間営業損失見込 -14,700,000円》
ホオズキ。
「……見なかったことにしよう」
「駄目です」
「数字って消せない?」
「ディスプレイ上なら消せます」
「じゃあ」
「会社の損失は消えません」
ホオズキは椅子へ沈んだ。
「数字って融通きかないね」
経理担当が静かに言った。
「だから信用できるんです」
*
結果。
ヤタガラスは負けた。
正式通知は、驚くほど短かった。
《慎重に審査した結果、今回はGRIMNIR SECURITY INTERNATIONAL社へ委託することとなりました》
数年間続いた契約だった。
設立当初。
仕事が少なかった頃。
まだ装備も人員も足りなかったヤタガラスへ仕事を任せてくれた企業だった。
会議室に通知文が置かれる。
誰も冗談を言わない。
ホオズキも黙っていた。
黒崎が窓際で腕を組む。
久世が数字を見る。
売上が減る。
固定費は減らない。
事務所の家賃。
倉庫。
車両。
通信。
人件費。
保険。
契約が一つ消えても、全部が同じ割合で減ってくれるわけではない。
だから大口顧客を失うのは痛い。
とても痛い。
ホオズキがぽつりと言った。
「……安くすればよかったかな」
経理担当がすぐ答えた。
「赤字になります」
「でも仕事は残る」
「仕事を取るために毎年一千万円以上失う会社になります」
「忙しいのに貧乏」
「最悪です」
久世も言った。
「価格競争には限界があります」
「分かってる」
今度のホオズキは、本当に分かっていた。
グリムニルが悪いわけではない。
不当なダンピングでもない。
違法でもない。
むしろ正面から戦っている。
規模。
資本。
信用。
調達力。
効率。
全部、企業として積み上げてきた強さだ。
だからこそ厄介だった。
ホオズキは天井を見た。
「大企業って強いんだなあ」
黒崎。
「今さらか」
「知識としては知ってた」
「今まで何だと思ってた」
「社員が多い会社」
「その程度だったのか」
「本社ビルがでかい会社」
「小学生か」
「受付に美人がいる会社」
「偏見を増やすな」
その時だった。
電話が鳴った。
営業担当が出る。
数分話し。
顔色を変えた。
「緊急案件です」
全員がそちらを見る。
「海外出張中の企業役員宛てに脅迫状。本人は明日、現地から隣国へ移動予定。現地警察にも相談していますが、企業側が民間の警護と調査支援を希望しています」
ホオズキが立ち上がる。
「場所は」
国名が告げられる。
黒崎も立つ。
「準備する」
久世が端末を開いた。
「渡航便を確認します」
営業担当が続けた。
「一応、先方は最初にグリムニルへ連絡したそうです」
空気が止まる。
ホオズキ。
「……ほう」
黒崎。
「顔が悪いぞ」
「普通です」
「ものすごく嬉しそうだ」
営業担当が言う。
「グリムニルからは、状況分析と現地チーム手配に三日必要と」
「三日」
ホオズキが聞き返した。
「はい」
「相手、明日移動するんだよね」
「はい」
「三日後?」
「はい」
ホオズキは一秒考えた。
「じゃあうちが行く」
「いつです?」
ホオズキは壁の時計を見た。
午後二時十九分。
「今日」
*
そこからのヤタガラスは速かった。
というより、雑だった。
良い意味で。
会議室で検討。
稟議。
部署間調整。
承認。
担当者選定。
そんなものを全部一部屋で済ませる。
「黒崎、行ける?」
「行ける」
「私も行く」
「お前もか」
「久世」
「航空便確保しました。二時間後です」
「装備」
「準備中です」
「現地情報」
「今まとめています」
「契約」
営業担当が書類を持ってくる。
「先方から電子署名届きました」
経理担当が顔を出す。
「見積書!」
ホオズキが振り返る。
「後でいいだろ!」
「一番駄目です!」
「人が狙われてるんだぞ!」
「人を助けた後で請求額でもめるのを何回やれば学ぶんですか!」
ホオズキが止まった。
「……三回?」
「七回です」
黒崎。
「数えてたのか」
「経理ですから」
久世が端末から顔を上げる。
「概算見積もり作成しました」
経理担当。
「確認します」
ホオズキ。
「早く!」
「社長が値段を勝手に下げないなら早くできます!」
「分かった!」
「本当に?」
「今日二回目だぞそれ!」
十五分後。
契約成立。
三十分後。
車両出発。
二時間後。
空港。
その日の深夜。
現地入り。
役員の移動経路を変更。
ホテルの予約情報漏洩を確認。
現地警察と連携。
脅迫状の送り主を特定。
実際の襲撃計画があることまで判明する。
翌朝。
襲撃を未然に防止。
役員は無事。
任務終了。
現地企業の会議室。
依頼人の役員が、まだ少し青い顔でホオズキを見ていた。
「昨日の午後に電話したんですよね」
「はい」
「もう来てるんですね」
「来ました」
「普通……来られるものなんですか?」
ホオズキは考えた。
「飛行機が飛んでれば」
黒崎が横から言う。
「この女を基準にしないでください」
「何でだよ」
「他社が迷惑する」
役員が笑った。
緊張が少し抜けたらしい。
「グリムニルさんにも相談したんですが、最初にリスク評価をして、担当部署を決めて、現地法人と調整してからチームを出すと」
久世が頷く。
「合理的な手順です」
ホオズキも頷いた。
「正しいと思います」
黒崎がホオズキを見る。
「珍しいな」
「私だってそれくらい分かるよ」
「そうか」
「でも」
ホオズキは言った。
「今回は待てなかった」
役員が黙る。
ホオズキは肩をすくめた。
「それだけです」
*
帰国後。
ヤタガラス会議室。
ホワイトボードの前に全員が集まっていた。
久世が今回の案件を整理する。
「グリムニルの対応が遅いわけではありません」
ホオズキ。
「三日だよ?」
「世界企業としては普通です」
大規模企業には手順がある。
契約確認。
リスク評価。
法務審査。
現地拠点への連絡。
要員確保。
保険。
渡航手続き。
承認。
巨大な組織だからこそ、勝手には動けない。
一人の判断ミスが世界中の事業へ影響する。
だから仕組みが必要になる。
「規模が大きいほど、効率化できる部分があります」
久世が言う。
「ですが同時に、意思決定に時間がかかる場合もある」
ホオズキが腕を組む。
「うちは?」
黒崎。
「お前が勝手に決める」
「言い方」
久世。
「少人数なので情報伝達が速いです」
経理担当。
「良く言えば」
「悪く言うと?」
「社長室のドアを蹴れば決裁できます」
ホオズキ。
「蹴るな」
黒崎。
「ドアあったか?」
「あるよ!」
「いつも開いてるだろ」
「それでもドアはある!」
久世が続ける。
「ヤタガラスが価格でグリムニルに勝つのは難しいでしょう」
会議室が少し静かになる。
数日前なら、それは敗北宣言に聞こえた。
今は違った。
「だったら」
ホオズキが立つ。
「価格で戦わなきゃいい」
ホワイトボードの前へ行く。
ペンを取る。
きゅっ。
大きく書いた。
《安売り禁止》
経理担当がものすごい勢いで頷いた。
「賛成です」
「食いつくなあ」
「社訓にしましょう」
「そこまで?」
さらに。
その下。
ホオズキが書く。
《速さを売る》
黒崎が文字を見る。
「珍しくまともだな」
ホオズキが振り返った。
「失礼だな」
久世は少し考えてから頷いた。
「差別化戦略としては正しいです」
「難しい言い方するな」
「同じ商品を安く売るのではなく、他社とは違う価値を提供するということです」
「それなら最初からそう言え」
「経営用語です」
「経営者に分かる言葉で説明して」
経理担当が小声で言った。
「経営者なんだから覚えてください」
ホオズキは聞こえないふりをした。
大企業には、大企業の強さがある。
大量に買う。
大量に訓練する。
設備を共有する。
固定費を多数の契約へ分散する。
その結果。
安くても利益が出る。
小さな会社が真正面から価格で殴り合えば、先に倒れる。
だが。
小さい会社には、小さい会社の強さがある。
現場と経営の距離が近い。
判断が速い。
顧客の事情へ柔軟に対応できる。
昨日まで存在しなかった仕事へ、今日動ける。
ホオズキはホワイトボードを見た。
《安売り禁止》
《速さを売る》
「これで行こう」
黒崎が聞く。
「何がだ」
「グリムニル対策」
「二行しかないぞ」
「戦略はシンプルな方がいい」
久世が言う。
「少なくとも航空機十九機購入案よりは現実的です」
ホオズキが振り返る。
「まだ一機くらいなら」
経理担当。
「買いません」
「中古でも?」
「買いません」
「ヘリなら?」
「買いません」
「ドローン」
「それは用途を聞きます」
ホオズキの顔が明るくなった。
「おっ」
黒崎がため息をつく。
「話を広げるな」
その瞬間。
ニュース番組から聞き覚えのある名前が流れた。
《グリムニル・セキュリティ・インターナショナル日本法人は、本日より――》
ホオズキがリモコンを取り。
テレビを消した。
「今日はもう見ない」
久世。
「企業情報、まだ十一ページあります」
「消せ」
「日本法人の採用計画も」
「消せ」
「今年度投資計画」
「消せ!」
黒崎が少し笑った。
窓の外。
東京の街。
そのどこかで今も、多くの企業が見積書を作り、比較し、仕事を奪い合っている。
戦場には銃声が響く。
だが。
会社の戦場で最初に飛んでくるのは。
たいてい。
見積書だった。
――第1話 了




