9.古い日記
薪の風呂に入った翌日。朝からスティーブの家を宿屋の女将ナズナが訪ねてきた。
「忙しいとこすまないね。昨日は泊まりの客がいなかったから時間があってね。お邪魔させてもらったよ」
ナズナは五十過ぎのふくよかな女性だ。招き入れるとちょこちょこと歩いて居間の椅子にどしんと座った。
ちょうど朝食を終えたところだった居間にはフェリクスもいて、ナズナはちらちらとそちらを窺う。
フェリクスは「私は外そうか」と席を立ちかけ、ナズナは慌ててそれを止めた。
「いや、頼みがあるのはあんたなんだよ。いとくれないかい」
「私?」
自分で自分を指さすフェリクスにナズナはうんうんと頷くが、すぐにぱっとフェリクスからは目を反らして俯いた。
その顔は少し青く、フェリクスを怖がっているようだ。ナズナに限らず、ヘラー村の人達はフェリクスに対して大体こういう反応をする。
元は貴族だったらしいフェリクスを警戒しているのだ。
困ったように眉を下げるフェリクスに代わり、スティーブはナズナの向かいに座って聞いた。
「こいつに頼みってなんだ?」
「その、スティーブのとこのお客人は身分のある方だと聞いてさ。もしかしたらこれが読めるかと思って持ってきたんだ」
ナズナがエプロンのポケットから出したのは小さく古ぼけた日記帳だった。
「日記?」
「義母のヘレンの日記なんだよ」
「ヘレンさんの? 亡くなってもう十年くらい経つだろ?」
「そうなんだけど、半年くらい前に遺品整理をしてたら奥から出てきたんだよ。ほら、裏に義母の署名があるだろ。それでこれは古語で書かれてんだ」
ぱらりとナズナは日記をめくる。そこにはスティーブでは読めない字で何やらびっしりと書き込まれていた。
「読めねえな」
「そうなんだよ。古語らしいってことは分かるんだけど、学がないからさっぱりでさ。それで、そのぅ、お客人なら読めるかと思って」
ちらとナズナがフェリクスを見る。
スティーブと一緒に日記を覗き込んでいたフェリクスはそんなナズナににっこりと微笑んだ。
「確かに古語のようだね」
「やっぱり! 読めるのかい?」
「読めるよ。でもレディの日記を読むのは気が進まないね」
「レ、レディ……」
義母がレディ呼ばわりされてナズナはもじもじしたが、すぐに必死な様子でこう続けた。
「事細かに読んでもらいたいわけじゃないんだよ。何となく中身が知れればいいんだ。主人がすっかり気落ちしてんだ。可哀想でさ」
「トマスさんが気落ち? なんでだ?」
スティーブは首を傾げる。
母親が古語で日記をつけていた、のどこに落ち込むポイントがあるのだろうか。
「義母は町の大きな商家の出身だろ? お嬢様だったらしいんだけど義父と結婚する前に恋人がいたんだってさ。もちろんその恋人とはちゃんと別れて義父と結婚したらしいんだけどね……その恋人は義母の詩の先生で、古い詩の訳もしてたんだって」
ヘレンは恋人に古語も習っていたのだと言う。
そんな古語で書かれた日記だ。
日記を見つけたナズナの夫トマスは、自分の母は誰にも知られないように、自身の思いを吐露していたのかもしれないと考えた。
トマスはひょっとしたら母は父以外の男をずっと想っていて、我慢していたのではないか、と悩んでいるらしい。
酒が入る度にこの日記を取り出しては「なんて書いてあるんだろうなあ。おふくろ、我慢してたのかなあ。俺を産んだこと、後悔とかしたのかな……」とくよくよしているのだとか。
「せめて内容が分かれば、少しはいいかなと思ったんだよ」
「なるほどなぁ」
つい最近、スティーブも祖母に対して“自由がなかったんじゃないか”“幸せだったんだろうか”と複雑な思いを抱いたところだったので共感してしまう。
祖母に対してでも、あんな風にしんみりした気持ちになったのだ。母となればそれはもっと大きいだろう。
「この村で古語を読めたのなんて、マルガリータさんくらいだろ? 昔は義母と古典の詩を読み合ったりしてたよねえ。町まで行って探せば読める人も見つかるだろうけど、時間も伝手もないしさ」
ちらり、ちらりとナズナはフェリクスに視線をやる。
「うーん……」
フェリクスは眉を下げて微笑んでからそっと日記を手に取った。
「流し読みでざっと目を通すだけにしておくけど、いいかい?」
「そ、それはもう! それで十分だよ!」
「では、失礼するよレディ」
フェリクスは日記にそう声をかけるとぱらぱらとページをくりだした。
長いまつ毛に縁取られた青い瞳が文字を追ってゆっくりと動く。それは時々立ち止まり、また字を追った。
窓からの風に長めの金髪がはらりと揺れ、日記を読むフェリクスの邪魔をする。フェリクスは目は日記に落としたまま優雅にそれを耳にかけた。
「…………」
スティーブとナズナはそんなフェリクスをぼんやりと見つめた。邪魔をしてはいけない気がして無意識に息を潜める。
(……ん? ここ俺ん家だよな?)
自分の家の居間が、何やら静謐で高尚な空間になった気がしてスティーブは部屋を見回した。
大丈夫、そこはいつもの見慣れた居間だった。
やがて、フェリクスは最後のページらしき箇所で小さく瞬いた後、日記帳を閉じた。
「ど、どうだったい?」
緊張の面持ちになるナズナにフェリクスはにこりと笑んだ。
「ヘレンさんは、素直で明るい方だったのかな? 文章がとても生き生きとしている」
「笑い上戸でいっつも笑ってたよ。嫁の私にも優しくてね、いびられたことなんてないんだよ。孫にもよくしてくれてねえ。だからこそ、あれが我慢してのものだったらと主人は気にしているんだよ」
「ご夫君に心配することはないと伝えてあげてくれ。他愛もない日常を綴った日記だよ」
「そうなのかい!?」
「古語を忘れないためにつけていたんじゃないかな」
フェリクスが日記をナズナに返し、ナズナなほっとしながらそれを受け取った。
「はあ〜、やれやれ、よかったよ。これであの人も悩まなくてすむね」
「お役に立てて何よりだ」
「ありがとう! 本当に助かったよ! お礼をしなくちゃいけないね! スティーブも一緒に今夜はうちの食堂で夕食を奢らせてくれないかい? うんとご馳走にする…………あ、でも、お口に合うかは分からないけどさ」
顔を輝かせたナズナは勢い込んで礼について提案してから、高貴な様子のフェリクスが田舎の村の宿の食事を喜ぶはずはないと思ったようだ。しゅんとして最後の言葉を付け加えた。
「それは嬉しいな。是非お伺いしてもいいだろうか?」
だがフェリクスがそう返事をして、しょんぼりしていたナズナはちょっと元気を取り戻した。
「い、田舎料理だよ」
「スティーブが出してくれる食事はどれも美味しいのだよ。ヘラー村は土がいいのかな、野菜が瑞々しくてね」
「そうかい! それならうちも負けてないはずだよ! じゃあ、今晩、待ってるね!」
そうしてナズナはるんるんで帰っていき、スティーブはフェリクスのお陰で豪勢な夕食をたべられることになった。
「あの様子だときっといい肉出してくるぞ。なんか俺は役得だな」
弾む足取りで遠ざかるナズナを見送りながらスティーブは夕飯への期待が高まる。
「ふふ、そうだね。楽しみだ。少々、罪悪感はあるがね」
「罪悪感?」
聞き返すとフェリクスは妖しい笑みを浮かべた。
「日記には本当は愛の詩が綴られていたのだよ。相手は先生。おそらく元恋人だろう」
「えっ、だってお前さっき、他愛のない日常って……」
フェリクスは涼しい顔で真っ赤な嘘をついたようだ。
「日記はとても素直で飾り気のない文章で書かれていた。勢いがあり、何度も同じ言い回しが出てきていたし、自己陶酔の雰囲気もあったからヘレン嬢があれを書いたのはとても若い頃じゃないかな。嫁いですぐくらいの心情なのだと思うね。そんなもので彼女が残りの半生を我慢していたと判じるのは間違ってはいないだろうか」
「うーむ、それは、そうだが…………」
しかし、第三者が“我慢してなかった”と言い切るのは釈然としなくてスティーブは沈黙する。
「更に日記には添削が付いていた。ところどころ綴りや言いまわしの間違いが指摘されていてね。あれはひょっとしたらハニーのお祖母様ではないかな。ヘレン嬢はかなり明るい方だったようだし、古典詩を読み合いながら若気の至りをお祖母様に見せて笑い合ったのではないだろうか」
「婆ちゃんと……」
「当初は未練があったにしろ、日記をお祖母様に見せて教材の一つとするほどには恋は昇華されていたのだろう」
「それならそう言ってやればいいんじゃないか」
「日記の内容を話した後に、それを告げても信じてもらえないよ。私は彼らに信頼されてるわけでもない。それならと、簡単な嘘にした」
「うーむ……そうか、まあ、そう、かなぁ」
フェリクスの言い分に納得はできたが、スティーブは一抹の寂しさを感じた。
この貴族然とした男は自分に対しても簡単な嘘をついているのだろうか。
「ナズナ嬢のご夫君と胸襟をわって話せるほどになれば、真実を告げてもよいかもしれないけどね。あと、ハニーは私を信じてくれているようだからハニーに嘘をついたことはないよ」
スティーブの心を読んだのか、さらりとフェリクスが付け足す。
「そ、そうか」
「安心したまえ」
「はいはい」
「あ、そうだ。日記の最後には添削者の筆跡でユーモラスな詩が書いてあってね。要約すると、初恋が実っても大したことはないが悪くはない、という内容だった」
「それは、つまり」
「お祖母様の初恋は叶ったようだね」
そう言ったフェリクスはぱちりとウインクをしてきた。




