3.馬を大切にする者
金髪の男はうっすらと目を開けた。
時刻は朝だった。背中に感じるのはここ最近の寝床であった安宿の硬いベッドや納屋の床、野宿の朝露に濡れた地面ではなかった。少し前に寝ていた地下牢の石の寝床でもない。
それなりに柔らかな寝心地のベッドだ。
地下牢以前に寝起きしていた最高級のものとは比べるべくもないが、人が安らかに眠るのには及第点のベッドである。
久しぶりにぐっすりと眠った男は体を起こして周囲を見回す。
木造りの簡素な寝室には男が寝ているベッドの他には箪笥と書物机が置かれていた。書物机と椅子の脚は猫脚になっていて、壁紙とカーテン小花柄だ。この部屋は女性用に設えたものらしい。
部屋を検分してから自分の全身を見下ろす。
身にまとうシャツは元々着ていたシルクのシャツから、綿のものに変えられていた。昨日妻となったスティーブが着替えさせてくれたようだ。
甲斐甲斐しい妻である。
布団をめくってみると、ズボンはそのままだった。スティーブは下を脱がすのは止めておいたようだ。
奥ゆかしい妻である。
上半身はさっぱりしていて、おぼろげだが着替えと同時にスティーブが拭いてくれたと記憶している。
「おい、脱がすぞ」とか「腕を上げろ」というスティーブの声を聞いたはずだ。足も拭かれたのではなかったか。
そう思い出して足をベッドから下ろすと、両足とも裸足でやはりさっぱりとしていた。
「…………」
じっと己の足を眺めた後、男は器用に足指を広げたり閉じたりしてみた。
全部の指がきちんと動く。
(治っているな)
この足も手と同じくどす黒く変色していたのである。途中から見るのが恐ろしくて靴は脱げなかった。ここにたどり着いた時はもう感覚もなかった。
左手薬指を見ると、この一ヶ月ほど男を苛んでいた指輪が大人しく嵌っていた。
(本当に朽ちるのだな。大したものだ)
魔法の存在は知っていたが、身を持って体験したのは初めてである。そしてもう二度と体験したくはない。
(まあ、良い経験ではあった)
そういうことにしよう。
一瞬、脳裏に泣いていた弟の顔が浮かぶ。気弱で押しにも弱かった弟。だが一丁前に野心も恋慕もあったらしい。あとおそらく嫉妬も。
「…………」
男は気持ちが暗澹としてきたので弟の顔を追いやった。
ここで指輪を嵌められた経緯を思い出しても辛いだけだ。今の自分にはまず、休息が必要だろう。
男はとりあえずゆっくりと立ち上がった。小さな目眩が起こり、目を瞑ってそれをやり過ごす。
体が朽ちてゆく恐怖を思いだして震えそうになり、ゆっくりと呼吸した。
大丈夫、この目眩は疲労と空腹からきたものだ。もう指輪の魔法からは解放されているのだ。
やがて目眩が治まる。男はベッドの脇に水差しとコップを見つけて水を飲んだ。
これも用意したのはスティーブなのだろう。
抜かりない妻である。
男はベッドの足元に自分の履いていたブーツが揃えられているのにも気付き、それを履いて寝室の窓に近寄った。ここは二階のようだ。
下から鋭く空気を切る音がするので視線を下げると、家の前にスティーブがいた。屈強な茶髪の男は木刀で素振りをしていて音はそこからだ。
その太刀筋にはぶれがなく、体にも安定感がある。
「騎士だったと言っていたな」
ぽつりと呟く。
素振りの様子からブランクは感じられない。引退したのは最近なのだろうか。
しかし、マルガリータの引受人であった伯爵はスティーブは十年ほど前からこの村の外れで暮らしているはずだと言っていた。
伯爵は国王の印入りの手紙をちらりと覗かせただけで、男のことを王宮が遣わせた役人だと思い、ペラペラとマルガリータについてしゃべってくれたのである。
(あれは助かったな)
どんどん体が朽ちていく恐怖でそれどころではなかったが、伯爵はこちらの様子に気づかないほどに慌てていた。
情報を全て引き出した後、男はマルガリータについては、適当な時間が経ってから亡くなったと報告をしろと伝えて伯爵家を辞した。
そうして大急ぎでスティーブのいる村を訪ねてきたのである。
そこで回想を終え、男はスティーブへと視線を戻す。やはりその素振りはかなり堂に入っていた。
(引退してからも鍛錬を欠かさなかったのだな)
スティーブは騎士に誇りを持っていたのだろう。立派なことだ。
(天はまだ私を見放してはいないようだ)
マルガリータの直系の子孫が頑健な男であることは幸運だった。
女にはこの運命は酷であったろうから、男の良心も痛んだだろうし、いろいろと厄介事や心配事も生じたに違いない。
だが素振りをする妻は屈曲な男だ。そして伯爵によると独り身らしい。見ず知らずの男を怪しみながらも助けるあたり、お人好しでもあるようだ。
(今日はいろいろ聞かれるだろうな……)
それにどこまで応えるべきだろうか。
男はまずはスティーブに挨拶をしようと部屋を出て階段を下りた。
❋❋❋
「おはよう、ハニー」
爽やかに声をかけられてスティーブが動きを止めると、戸口にもたれる格好で、昨日いきなりぶっ倒れた金髪の男がひらひらと手を振っていた。
「おはよう、ダーリン」
まだ名も知らない男だ。向こうがハニー呼びを継続しているので、こちらもとりあえずダーリン呼びで挨拶を返す。
額に滲んでいた汗を袖で拭うと、男に近づき状態を確認した。相変わらず顔色は悪いが昨日よりマシなようだ。
「水は飲んだか?」
「飲んだよ、ありがとう」
「必要そうなら薬師のとこに連れて行くが」
「それは必要ない」
「飯は食えそうか? 食えそうなら何か用意する」
「空腹ではある。ここのところ、まともな物を食べてなかったので消化に良いものでお願いしたい」
「分かった」
男を追い越して家へと入る。家は玄関を入ってすぐが居間だ。
スティーブは続けて入ってきた男に顎をしゃくってテーブルに付くように示した。素直に席についた男を置いてキッチンに向かう。
ミルクとパンでパン粥を作って出してやると男は「記念すべき初のハニーの手料理だね」などと言いながら優雅な手つきで完食した。
男の醸し出す雰囲気は完全に高位貴族のそれだが、粗末なパン粥は平気なようだ。
「大変美味しかったよ。もう一杯いただけるだろうか」
甘い微笑み付きで催促され、お代わりも作ることになる。
「まず、名前を聞いてもいいか?」
男が二杯目のパン粥を食べ終わり茶をすすりだした頃、スティーブはそう切り出した。
「偽名でも構わない」
付け加えると男が笑う。
「本当に話の分かる妻だね。ふむ……名前はフェリクスという」
金髪の男フェリクスは少し迷った後にそう名乗った。
「フェリクス……ね」
フェリクスはここステアリス国の初代国王の名で、男の子によく付けられる名前である。初代国王は英雄王とも呼ばれ未だに人気があるので、人気にあやかろうと歴代の王にも何人か同じ名前がいる。
今の第一王子もフェリクスで、貴族の子息にも平民にもその名は多い。おそらく偽名だろう。
「フェリクスと呼べばいいか? それともフェリクス様?」
「なぜ“様”を付けるのかな?」
「なぜって、あんた、どこからどう見ても貴族だろ。しかもかなり高位じゃないのか? 出会いが衝撃的すぎて敬語も飛んでたが、言葉遣いも直した方がいいいか?」
スティーブの言葉にフェリクスは己を見下ろす。
「今、着ているのはかなり質素なシャツなのだが」
「かなり質素で悪かったな、俺のシャツだよ。着てるもん云々じゃなくて、雰囲気と身ごなしで分かるんだ」
「……そうか、態度もできるだけ砕けたものにしているのだが、難しいものだな」
フェリクスは顎に手をあてて考えだした。その様子もやたら優雅である。
(貴族だな)
それが従者も連れず、魔法付きの指輪を嵌められてふらふらとこんな辺鄙な場所まで来ている。禍々しいものとはいえ魔法の道具を保有しているなんて、家門は歴史ある名家に違いない。
そんな家門の者が一人でスティーブを訪ねてきた。絶対に曰く付きである。しかもよくないやつだ。
「かなり薄汚れてもいるのだが……髪もばさばさだ」
フェリクスが自身の長めの髪をつまんで言う。ついでに匂いを嗅いで「うむ」と眉を寄せた。臭いらしい。
「ばさばさだろうが、臭かろうがだな」
「臭いは傷つくよ、ハニー」
「…………とにかく、それでも分かるんだ。大体、あんたは顔だって整いすぎだ」
「顔? でもハニーもなかなかの男前だと思うよ」
「それはどうも」
男に、それも美形の男に顔面を褒められても嫌味にしか聞こえない。「あんたは次元が違う」と続けるとフェリクスは再び考え込んだ。
「……顔はさておき。明らかに高位貴族に見えるならフェリクス呼びは目立つかもしれない。私のことはそのまま“ダーリン”と呼んでくれ。言葉もそのままでいい」
「ダーリンの方が目立つだろ」
「フェリクスで目立つよりはいい」
「なら他の名前にしろよ」
そう提案すると、フェリクスはぱちくりと瞬いた。
「今さら他の名前を考えるのもね……とにかく、面倒事に巻き込まれないようにダーリンで通してほしい。念の為に私も君のことはハニー呼びのままにしておこう」
まるで追われているかのような物言いに、スティーブは顔をしかめた。
「…………なあ、あんたは何かしたのか? 罪人か? それなら早めにここから」
「罪は犯していない」
スティーブの言葉を遮って、フェリクスはきっぱりと言い切った。
「天に恥ずべきことは何もしていない。敗れたのが罪だと言うなら仕方ないが」
「……お家騒動か?」
貴族の跡目争いは時に物騒だ。
「そんなものだ」
「指輪もそれで?」
「私を追いやった奴は私を殺せなかったが、私を消したかったのだよ」
「よく分からんが……罪を犯していないなら話さなくていい」
「罪を犯していない、は私の主張だが、信じるのかな?」
「そうだな」
「なぜ?」
フェリクスが探るような目で見てくる。スティーブはがしがしと頭をかいた。今から言う理由は少々頼りないと自分でも分かっているのだ。
「……あんたの馬」
「馬?」
「疲れてはいるようだが、それなりに状態がいい」
現在、スティーブのヤギと一緒にいるフェリクスの馬スラッシュは毛艶もよく、しっかりと愛情を持って水と食糧を与えられていたのが分かった。
フェリクスが着ていたシャツはボタンの螺鈿が全て剥がされていて、換金したのだと思われる。それだけ困窮していたのにきちんと馬に手をかけていたのだ。
馬しか移動手段がなかったのもあるだろうが、スラッシュの鬣は丁寧にブラッシングもされていて、フェリクスは自分より馬を優先していたようだ。
「あんたは馬を大切に扱っていた。そういう余裕は罪を犯して逃げていたのならないように思う」
「動物に優しい犯罪者はたくさんいるよ」
「知っている。知っているが、人は極限状態で本性が出る。瀕死でも馬に優しくできたあんたは悪人ではないのだろうなと思った」
「お人好しだと言われないかい? ハニー」
「言われるが、それで酷い目に遭ったことはないぜ。ダーリン」
ニヤリと笑って言い返すとフェリクスも笑う。
「ふふ、スラッシュに優しくしておいてよかったよ。私を裏切らなかったのは彼女だけだから、拠り所にしていたのもあるけどね」
つまりフェリクスは馬以外の者には裏切られたのだ。
「あんた、歳は幾つだ?」
不意にそう聞いてしまった。
「二十三だ」
「若いな……」
スティーブは自身が騎士を引退することになった二十六歳の時を思い出す。
若かったスティーブは必要以上に傷つき、すっかりヤケになって辛い日々を送ったのだ。
三十八歳になり、ずいぶん擦れてしまった今なら、もう少し上手くやり過ごしただろうが当時は無理だった。
フェリクスはあの時のスティーブより更に三つも若い。
「…………」
何と声をかけたものかと迷っていると、フェリクスは眉を下げた。
「家のことはそっとしておいてくれると嬉しいね」
「元々触れるつもりはない。こっちはしがない平民だ、貴族の家のきな臭い事情なんて知らない方がいい」
場合によっては知っているだけでとばっちりを受けたりもするのだ。知らないふりをするよりも、知らない方が安全だ。
「私もそう思う」
フェリクスの同意にスティーブは頷き、少し身を乗り出した。
「さて、ここからが本題だ。あんたはどうして俺の祖母、マルガリータを知っていた? しかもマルガリータと結婚とはどういうことだ?」




