八年後 9
その日の夜、鶴川マサキは両親と夕食を済ませたあと、リビングルームのソファで本を読んでいた。すると姉の美鈴が帰宅し、ダイニングの椅子に座り一人で夕食を食べ始めた。美鈴は大学を卒業し、今は私立高校の国語の教員をしていた。今日のように姉の帰宅が遅いときは、両親やマサキは先に夕食をとることが慣習になっていた。もちろん父親の帰宅が遅いときも、同じようにしていた。
マサキはダイニングに歩み寄り、美鈴の横の椅子に座った。美鈴は自分で温め直したビーフストロガノフをスプーンで口に運びながら、マサキを一瞥した。
「どうしたの?」
マサキは、公園で考えていたことを姉に語って聞かせた。美鈴は何度か頷きながら黙って聴いていた。聴き終えると、
「不幸というのはシンプルに言うと『幸せではない状態』ということだから、マサキが言う広義の不幸の方が本来の意味だと思うよ。でも、マサキの言いたいことも分かる。だけど現実の世界では、マサキが言う『邪悪な存在』っていうものの有無は境界線が曖昧で複雑だから、明確に分けられるものではないんじゃないかな。例えば、もし私が飲酒運転で家族の誰かを奪われたら、もちろん言葉では言い表せないくらい腹が立つだろうし、殺してやりたいって思うかもしれないけど、極端な話、その運転手が幼少の頃から親に『飲酒運転くらい当たり前なんだから、お前も将来やれよ』ってずっと言い続けられてきた人だったとしたら、親の責任も大きいよね?あと、例えば建築基準法を遵守して造られた建物だったとしても、地震で外壁が剥がれて落下する可能性はある。それに当たって死んでしまった場合、『邪悪な人』はいないのに、不幸は発生してることになるんじゃない?やっぱりすごく難しいんだよ。善悪とか、幸・不幸の境界線っていうのは。それが起きる前にあれこれ考えていても、圧倒的な現実の前に立たされたら、きっと、それまで考えていたことはただの言葉遊びにしか思えなくなるよ」
マサキは姉の言う通りだと思った。言う通りだと思いながら、人生相談に来たファンの女性に対して直接的な助言は何も与えず、ただ「そんなら死なずに生きていらっしゃい」とだけ言った漱石はやっぱり凄いなと思った。人間はみんな、それぞれ複雑で簡単には説明出来ないような状況の中で、必死に生きている。だからこそ大切なのは根掘り葉掘り事情を聴いて詳細を把握し論理的にまとめた助言よりも、ただ、ふんわりと優しく包みこむようなひとことの方が響くんだ。AIが得意なのは前者で、人間にしか出来ないのが後者なのではないか。「そんなら死なずに生きていらっしゃい」とだけ答るのは、AIにはなかなか難しいだろう。しかし、不可能ではないかも知れない。人間が生み出したものである以上、可能性はあるはずだ。マサキはそんなことを考えた。
「とにかくね、マサキ」
美鈴はマサキの目を真っすぐ見た。
「頭で考え過ぎちゃダメだよ?心で感じて、想って、それから少し考えるくらいが丁度いいんだから。心の上に頭は乗せられるけど、頭の上に心は乗せられないよ」
マサキは美鈴の言葉を聴いて、自分がこれまで読んできた文学作品の中で本当に好きになったものは、確かに『心の上に頭を乗せたもの』ばかりだと思った。マサキは頷いて、「姉ちゃん、ありがとう」と言った。




