八年後 8
鶴川はその日、大学で一限目から三限目までの三つの講義を受講する予定になっていたが三限目が休講になったので、二限目が終わった昼過ぎに大学を出た。飲食店に寄って昼食をとることもなく電車に乗り自宅に向かったが、自宅近くの公園のベンチが丁度良い塩梅で木陰になっているのを横目で発見し、吸い寄せられるように歩み寄って座った。鶴川にとっての「丁度良い塩梅の木陰」を説明するのは少し難しいのだが、基本的には陽射しが強い日で、風は穏やかで、ベンチのある場所は絶妙な塩梅で陰になっているという条件が揃っていることだ。鶴川が頻繁に通っているその公園のベンチに座ると、とても長い榎の枝が頭上二メートルほどの高さから斜に垂れ下がるように伸びており、最も長い枝は鶴川の前方五メートルほどの位置まである。その先端は地面から一メートル三十センチほどの高さまで低くなっている。枝は鶴川の背後から無数に伸びており、極めて複雑に絡み合いながら多層的に天然の長い軒のように陽射しを遮断してくれる。しかも本物の軒とは違って隙間があるので、地面につくられる陰はベンチから遠くなればなるほど隙間の多い斑になる。ベンチのある場所は斑にはなっておらず完全な日陰なので、陽射しから守られながら、斑にきらきらと輝く地面の美しさと陽光に照らされ萌黄色に輝く無数の樹葉の美しさを同時に味わうことが出来るのだ。鶴川は、その葉の輝きを一人で眺めながら静かに未希のことを考える時間が好きだった。風は、完全な無風よりも少し吹いている方がいい。少し揺れている方が枝葉というのは圧倒的に美しく見える。それは人の心も同じだと鶴川は思った。さわさわと静かに揺れる心は美しいし、可愛らしい。しかし強風で押し曲げられた枝葉は痛そうに見えるだけだ。相手を自分の思い通りにしようとしたり、自分のものにすることだけを考えるような恋愛感情は少しも美しくない。さわさわと静かに揺れる枝葉は、太く丈夫な幹から伸びている。その幹のような強さを持っていなければ、誰かを静かに穏やかに愛し続けることは出来ないと鶴川は思った。本当はそれが出来るはずの人でも、愛する相手を間違ってしまうと、心が暴れて、おかしなことになってしまう。鶴川は、未希を好きになってから、いつも自分の心が穏やかなのを感じていた。例えば連絡が取れなくなったとき、悲しくはあるし後悔もするのだが、心の一番深いところは何故か安心して、落ち着いていた。鶴川はその理由を考えていて、『迷いが無いからだ』と気づいた。『あの人よりも好きになれる人はこの世にいないな』と心底確信すると、ある種の諦めのような心境になって、『ジタバタしても仕方ないから、会えなくても毎日、前向きに生きていこう』と気持ちは安定するのだ。もうひとつ鶴川が確信しているのは、『素敵な人を本当に真っすぐ愛した結果、不幸になった』ということは絶対に有り得ないということだった。ここでも、『自分の感情を押し付ける』『相手を自分の思い通りにしようとする』といった姿勢とは無縁であることが極めて重要になる。それは『真っすぐ愛する』ことから最も遠い、対極にある愚行だ。それは相手も自分も不幸にしてしまう。鶴川は、交通事故で小学生の娘を亡くした父親が書いた本を読んだことがあった。想像を絶するような辛さが伝わってくる本だった。鶴川は読みながら何度も泣いた。しかし鶴川は、それは『素敵な人を真っすぐに愛した人』が『不幸になった』事例であると言えるのか考えて、『違うのではないか』と思った。もちろん広義では『不幸』と言えてしまうのだろうけれど、狭義では、『想像を絶するほど辛い思いをしていること』と『不幸』は必ずしもイコールでは結ばれない。まして第三者がそれを『不幸』と言うのは絶対に違う。本当の不幸というのは、素敵な人の存在から発生するものではなくて、邪悪な存在から発生するものだと鶴川は考えた。人間は、素敵な人を失うと、とても辛い。素敵な人が周りにいなければ、そういう辛さを体験するリスクは無い。だから素敵な人がいるということは、ある意味で爆弾を抱えているようなものだ。大好きな人であれば、その人が風邪を引いただけで心配になって、辛い。「可愛い」という意味をもつ古文単語「かなし」が現代の「悲しい」と似ているのは、そう考えれば納得だ。だけど、その辛さは、『相手のことを想うからこそ生じた辛さ』なので、生来的に『素敵さ』を持っている。だから相手が素敵な人で、自分も間違った愛し方をしていなければ、少なくとも醜い辛さは生まれない。鶴川は陽光に輝く榎の葉を眺めながら、そんなことを延々と考えていた。




