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八年後 5

 酒宴の席に戻った鶴川は、他の者達が様々な話題で盛り上がる中、ほとんど放心状態で卓上のジョッキを眺めていた。分厚い硝子にしがみつくように結露した(しずく)瑞々(みずみず)しく輝いていた。『きらきらしていて、綺麗だな…』そんなことを一人で考えていた鶴川に、今度は左隣りに座っていた高山隼人という男子大学生が話しかけてきた。

「あの…さっき徳永さんと話してたの聞いちゃったんですけど、鶴川君って本が好きなんですか?」

「えっ。あ、はい。でも、好きなジャンルが偏ってますし、同じ作品を繰り返し読むのが好きなんで、幅広く読んではいませんよ」

「そうなんですね。僕はトム・クランシーが好きなんですよ」

「えーと、『レッド・オクトーバーを追え』とか書いた人ですよね?」

「そうです。ああいう系統のものは読まないんですか?」

「いや、トム・クランシーは二つくらい、読み始めた経験はありますよ。ただ、いまいち入り込めなくて、途中で挫折しちゃいました。確か、国連のビルがテロリストに占拠される話です」

「ああ、それはおそらく『国連制圧』ですね。スティーヴ・ピチェニックとの共著のやつですね」

「あ、それですそれです。高山君は、『レッド・オクトーバーを追え』の映画は観ました?」

「もちろんですよ。ショーン・コネリー、アレック・ボールドウィン、あとスコット・グレンも出ていますよね」

「その三人は最高ですよね。僕はアレック・ボールドウィンなら『ザ・ワイルド』が好きなんですよ。観ましたか?」

「いや、それはちょっと、初めて聞いたタイトルです」

「主演はアンソニー・ホプキンスなんですけど、大富豪の役なんですよ。年老いた大富豪で、美しくて若いモデルの女性と結婚しているんです。しかしその妻が浮気をしていることに気づく。浮気相手がアレック・ボールドウィンです。大富豪から見るとアレック・ボールドウィン演じる男ロバートは、妻の浮気相手であると同時に、自分の別荘に呼んで泊まらせる友達でもある。…あの…ネタバレしちゃってもいいですか?」

「ええ、構いませんよ」

「もう一人、黒人の若い男の友達、スティーヴがいるんですけど、大富豪とスティーヴとロバート、三人が一緒に飛行機事故で遭難するんです。極寒のアラスカの山奥で」

「ほほう…」

「スティーヴは、熊に襲われて死んでしまいます。ロバートは、山中にあった無人の山荘で銃を見つけて、『ここで殺せば完全犯罪が可能だ』と考え、大富豪を殺そうとします」

「えっ、なんで殺そうと思ったんですか?」

「お金持ちに対する単純な嫉妬と、あとは彼の妻を完全に自分のものにするためでしょうね。でも、前者の方が大きかったと思います。彼は大富豪に向かって、『あんな美人があんたみたいな爺さんと一緒になったのは、何故だか分かるか?金だよ金!分かり切ってるだろ』と、言います」

「え〜!ひどいですね」

「その後も散々侮辱するのですが、銃を構えて後ずさりしたときに、山荘の持ち主が仕掛けておいた熊対策の罠に気づかず、穴に落ちてしまいます。瀕死の重症を負うのです。そして大富豪に向かって『助けてくれぇ〜、お願いだ』と懇願します」

「え〜!どの口が言ってんだ!」

「本当にそうですよね。でも大富豪は、迷うことなく彼を助けます」

「すごい人ですね!」

「そうなんです。彼は人に何をされても、絶対に怒らない。金目当てで寄ってくる人間にウンザリするような場面はありますが、それも静かにウンザリするだけです。ロバートは結局、穴に落ちたときの傷が原因で絶命しますが、死ぬ直前に大富豪に謝罪するんです。大富豪は一人だけ生き残って、救助されます。山荘に戻った大富豪はマスコミに囲まれ、『お友達はどうなったんですか?』と訊かれます」

「なんて答えるんですか?」

「『友達…そう、友達が私の命を救ってくれたのです』と答えるんです。俺はこの一言って、すごく深い意味があるなと思いました」

「どういうことです?」

「遭難した状況下で生き残るという目的を果たすうえで、正直言ってスティーヴもロバートも全然、役には立っていないんですよ。むしろ大富豪はめちゃくちゃ物知りという設定なので、サバイバルの知識も豊富で、二人を助けてばかりいたんです」

「じゃあ、なんで『救ってくれた』と言ったんですかね」

「スティーヴは熊が出没する前、怪我の手当をしてくれた大富豪に向かって『あんたって優しいな』と言っていました。ロバートの方は中盤では最悪な人間でしたが、最後は謝罪し、大富豪を励ましたんです。これはただ単に『反省してくれた』というだけのことでなく、大富豪にとっては、長い人生の中でやっと見つけた、ひとつの確かな輝きだったと僕は思うんです」

「なるほど」

「彼は他の人達から見ると、巨大な別荘、自家用ジェット機、美しい妻など、全てを手に入れた男のように見えていた。しかし彼は孔子みたいなところがあるので、別荘とかジェット機のような『物』は、ほとんど意味を持たないことを悟っていた。そうなると彼の人生に意味を与えてくれるのは妻ということになりますが、その妻には裏切られていた。そのうえ遭難して、普通ならヤケクソになるような状況です。しかし彼は賢人なので、常に『今、出来る最善のこと』をすることだけに集中していた。そして何より、どんなときでも思いやりの心を手放さなかった。自分を殺そうとした相手まで、穴から必死に助け出して、担いで、出来る限りの治療をしたんです。その結果、彼は、これまで手に入れてきた物とは全く違う、永遠に朽ち果てることのない輝きを手に入れたんです。それは、スティーヴやロバートとの絆です。その輝きを見ぬまま人生を終えていたら、大富豪の人生は妻に裏切られた辛さと、物質的な豊かさだけがある、虚しいものになっていたでしょう。そういう意味で、彼は『友達が私の命を救ってくれた』と言った。lifeには『命』だけでなく『人生』いう意味もあるでしょ?あの二人の友達は、命というよりも大富豪の『人生』を救った。僕はそう思うんです」

「なるほど…輝き、ですか。今日、ここにいるみんなも、それを求めて集まったのかも知れませんね」

 高山の言葉に鶴川は「そうですね」と答えて頷いたが、鶴川は既にその輝きに出会っていた。出会ったのは鶴川が小学六年生だったときで、場所は、成淵学院初等部のB棟の前だった。鶴川はあの日、陽射しを受けてきらきら光っていた樹々の葉の眩しさを思い出しながら、ジョッキの側面で結露した(しずく)の輝きを静かに見つめ続けた。

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