八年後 1
『未希へ届け!』という小説をそこまで書いて、大学生になった鶴川マサキは原稿用紙の横に鉛筆を置いた。ややこしいので少し説明を付け加えるが、今、皆さんが読んでいるこの文章を書いているマサキは、大学生ではない。更にもっと後の鶴川マサキである。
『…なんでこうなった、この小説。ド下手くそだとか、そういう技量の問題だけではない気がする。精神の問題だ。この主人公、そもそも何かと言うとすぐ泣いて、男らしくないんだよな。こんなんで未希に好かれるわけないだろ』
自分が書いた作品の主人公をそう罵りながら、鶴川は原稿用紙を鞄に入れた。今日は冬真と夜、食事をすることになっているので、読んでもらおう。あいつなら、忖度無しで率直に感想を述べてくれるだろう。確か今日の一限目の講義はあいつも取っているから、そのときに渡して、夜までに読んでおくよう言い添えよう。鶴川はそう考えた。鶴川マサキと阿川冬真は、同じ大学に通っていた。
「全部読んだよ。う〜ん…この主人公、つまり君だけどさ、いまいち共感出来ないんだよね。泣き過ぎだし、なんかシスコンっぽいし。ボクの描き方も、ちょっとなぁ。ボクはもっとキリッとしていて格好いいはずでしょ」
そう言って、阿川は皿の上のお好み焼きを口に運んだ。
「お前のどこに『キリッと』要素があるんだよ。それはいいとして、主人公については俺も同感だ。読んでいると、それこそ『もっとキリッとしろよ、お前』と言いたくなる」
「でしょ?それにしても…工藤さんが突然転校して、連絡取れなくなってから随分、経つよね。まだ彼女のことを想い続けてるの?」
「俺にとっては、時間が経ったからどうこうっていう問題じゃないんだ。俺も、もし工藤さん以外の人を好きになることが出来たら、こんなに悩まずに済むのにな…と正直、思うよ。でも、俺の心に浮かぶのはいつも彼女の笑顔と、笑い声なんだ。何も意識しなくても、自然に浮かんできて、気がついたらいつもその人のことを考えている。それが、好きっていうことだろ?俺は自分の気持ちに正直に生きたい」
「工藤さんが心にいる限り、他の女性に恋をするなんて、無理ってわけか」
「そうだ」
「一体一人の男が、一人以上の女を同時に愛する事が出来るものでしょうか」
「出来るわけない。えっと…それ、夏目漱石だよね?」
「うん。『明暗』だよ」
「ただ、俺は工藤さんには絶対に迷惑をかけたくない。だから、俺は小説を書いて生きていくことにしたんだ」
「彼女をヒロインにした小説?」
「うん。そうすることで、彼女と生きているような感覚を得ることが出来るし、同時に、いつか彼女に読んで貰えるかも知れないという希望も持つことが出来る。もちろんそのヒロインが彼女であることは彼女にしか分からないように配慮する」
「なるほどね…」
そう言って阿川はジョッキを手に取り、ビールを喉に流し込んだ。そして卓上の注文用タブレットを手に取り、次に注文するものを選びながら、こう言った。
「お前がそうしたいなら、そうすればいいさ」
「俺は、工藤さんをヒロインにした小説を書こうと考え始めた頃、なんとなく漱石の『硝子戸の中』を手に取って、久しぶりに読んだんだ。そうしたら、漱石のところに人生相談に来た女性の言った台詞が、そのまま今の俺の気持ちであることに気づいた」
そう言いながら鶴川は鞄から『硝子戸の中』を取り出し、栞を挟んでおいたページを開いた。そして台詞の部分を指差しながら阿川に見せた。そこには、こう書いてあった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というものの為に段々薄れて行くのが怖くって堪らないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくって堪らないのです」
「ああ、覚えてるよこの部分は。漱石はこの場では、何も言わなかったんだよな。ボクはそこに漱石の誠実さを感じたよ。普通なら、何かとりあえず言っちゃうもんな。だが漱石は『私の力でどうする訳にも行かない程に、せっぱ詰まった状況である事も知っていた』と書いている。知っていたから黙っていた」
阿川の言葉に鶴川は頷いた。
「そうだ。そして見送りに外へ出て、『先生に送って頂くのは光栄で御座います』と女に言われた」
「うん。漱石は、『本当に光栄と思いますか』と真面目に尋ねた」
「『思います』と返答した女に漱石は、『そんなら死なずに生きていらっしゃい』と言ったんだ」
「その一言で、女性はどれだけ救われただろうな」
「そもそもこの女性、漱石の作品を『大抵』読んでいたほどのファンだからな。嬉しかっただろうな」
「上辺だけ繕ったような助言を一切せずに、別れの間際にふわっと包みこむような優しい言葉をかける漱石…さすがとしか言いようが無いね」
鶴川と阿川は、小学生の頃からこうして夏目漱石や川端康成、谷崎潤一郎などについて語り合ってきた。そういう仲だから、鶴川は阿川に対しては自分の様々な想いを正直に打ち明けることが出来た。そして阿川は漱石や川端康成と同じように、最小限の言葉しか返さなかった。だからこそ鶴川は阿川のことを信頼していた。
食事を終えた二人は、少し酔った状態で駅に向かった。それぞれの自宅は逆方向にあったので、改札を通り抜けた二人は別々の電車に乗って帰る必要があった。
「冬真、今日は楽しかったよ。また飲もうな」
「俺も楽しかった。なあ、マサキ。お前の小説、いつか工藤さんに届くといいな」
「ああ。でも俺は、もし彼女が見つけて『迷惑だから書くのはやめて下さい』と言ってきたら、謝罪して、すぐに全てを削除するつもりだ。何があっても、俺は全て受け止めて、前を向いて生きていく。彼女に『もう私のことは忘れて下さい』と言われたら、俺はどんな努力をしてでも忘れてみせる。それがどんなに悲しい努力でも、やり遂げてみせる」
鶴川がそう言うと阿川は、
「マサキ。お前は今日は飲み過ぎだよ!そうやって格好つけるのが、お前の悪い癖だ!」と言って笑った。
「格好つけてるんじゃなくて、格好いいんだよ俺は!」
二人は笑いながら手を振って、別々のホームへ降りていった。




