想いを重ねて
部員達と話しているとき、少し離れた場所に青木先生がいるのを俺は見つけた。試合は観ていてくれたと思うが、一応「負けちゃいました」とひと言、報告しておこうと俺は思った。そして青木先生の方へ歩き始めたとき、後ろから俺を呼ぶ声がした。
「マサキ!」
振り返った。そこにいたのは俺の姉、鶴川美鈴だった。姉は笑顔だった。俺が生まれてから今までに見てきた姉の笑顔の中で、数え切れないほどの笑顔の中で、いちばん優しい笑顔だった。俺はその笑顔を見た瞬間、涙が溢れてきて止まらなくなった。もし近くに友達がいなかったら、俺は姉の胸に飛び込んで、わんわん声をあげて泣いていただろう。もし姉がいなかったら、俺はここまで国語を好きになっていなかっただろうし、勉強嫌いで遊んでばかりいる小学生になっていたと思う。国語の楽しさ、勉強の楽しさを教えてくれたのは間違いなく姉だった。そして何より、澄み切った心で勉学に励む人間は理屈抜きで格好いいということを教えてくれたのは、姉だった。勉強机に向かう姉の背中が、それを教えてくれたんだ。だから俺は今日、どうしても勝ちたかった。姉を喜ばせて、恩返ししたかった。だけど出来なくて、負けてしまって…それなのに、一点の曇りも無いような優しい笑顔で俺に声をかけてくれた。その姉の姿を見て、俺は溢れる涙をこらえることが出来なかった。
「ちょっと〜!なに泣いてるのよ!男の子でしょ?しっかりしなさいよ〜!精一杯頑張った結果なんだから、胸を張っていればいいのよ。十分、格好よかったわよ」
姉は明るく笑ってそう言った。そして嗚咽している俺の頭を撫でた。俺は恥ずかしくなって、「とっ、トイレ行ってくる!」と言って場を離れようとした。驚いたことに、そのときまた、誰かが俺を呼び止めた。
「あの、鶴川君…ですよね?」
振り返ると、会った覚えの無い大人の男性と女性が並んで立っていた。
「私、工藤未希の母です。娘から、いつも鶴川君のお話は聞いています。仲良くしてくださって、ありがとうございます」
え〜!み、未希のお母さん?俺はまず、『こんな、泣いた直後の顔を見られてしまって、恥ずかしい!』と思った。しかし、それは今更どうしようも無いので、とりあえず手で涙を拭って、背すじを伸ばし、
「こっ、これは!工藤さんのお母様と、お父様でいらっしゃいましたかっ!こちらこそ、未希さんには、いつも助けてもらい、感謝しておりますっ!未希さんは、本当に明るくて楽しくて…最高なのです!」
と、自分でも『何を言っているんだよお前は』と突っ込みを入れたくなるような挨拶をした。未希のお母さんは少し吹き出して笑ったが、とても感じの良い笑い方だった。
「未希は、うちに帰るといつも鶴川君の話ばっかりしているんですよ。国語クラブがとっても楽しいみたいで…。編入して未希が上手く学校に馴染めるか心配していたので、本当に感謝しているんです。ありがとうね、鶴川君」
「い、いえっ!とんでもございません!こちらこそ、大感謝なのであります!」
俺はケロロ軍曹みたいな口調になり、ひたすら恐縮していた。
「この大会に出ることが決まってから、あの子、『もう、いい加減に寝なさい』って言ってもなかなか寝ようとしないくらい、毎日夜遅くまで勉強していたんですよ。『国語クラブが大好きだから、絶対に部長を喜ばせたい!』って言って…」
お母さんは苦笑いしながらそう言った。俺はそれを聞いて、また涙が溢れてきた。『未希、ごめん…。未希がそこまでしてくれたのに、部長である俺があっさり負けてしまうなんて…本当にごめん』俺は心の中で未希に謝った。
俺が泣いているのを見て、未希のお母さんは「あらあら、ごめんなさい…私が余計なこと言ったから…」と少し慌てていた。俺は涙を拭った。そして右のお母様を真っすぐ見つめて、こう言った。
「いえ、教えてくださって、ありがとうございます。僕は負けてしまいましたが、未希さんには必ずいつか、恩返しをします。国語クラブのために、僕のために努力をしてくれたことに対する恩返しを」
未希のお母さんは静かに優しく微笑み、小さく頷いてくれた。そして姉と同じように、俺の頭を撫でてくれた。




