未希と黒鍵
俺が休み時間に初めて二組を訪れたその日も、俺は国語クラブの活動を終えた後、未希と、途中まで一緒に帰った。それは、休み時間の訪問とともに習慣になっていった。全ての休み時間に俺と未希が会っていたわけではなく、一日に一回か二回だった。それでも、放課後も国語クラブの活動で一緒にいて、帰るときも一緒なわけだから、俺にとっては『幸せ過ぎる!神様ありがとうございます!』と言いたくなる状況だった。
そんなある日、俺が学校から帰宅していつものようにリビングのソファで本を読んでいると、姉の部屋からピアノの音が聞こえてきた。俺が住んでいる家は一軒家ではなくマンションなので、全ての部屋が同じ階層にある。そして姉の部屋はリビングから近かった。
俺は流れてきたその曲になんとなく耳を傾けているうちに、『この曲…めちゃくちゃ未希じゃないか?』と思い始めた。軽やかで弾むような可憐な音。とても可愛らしいのに、小悪魔的でもある。キャハハハと笑いながら、捕まえられないように逃げ回って遊んでいるような…。しかし同時に、とても繊細な部分も見え隠れする。寂しさを隠して笑顔を見せているような…健気さもある。とにかく、驚くほど未希だ。未希をピアノで表現したような曲じゃないか!
初めて聴いた曲だったわけではなく、聴いたことがある曲だった。姉がよく聴いている曲だ。確かショパンだよなこれ…子犬っぽさもあるけど、これは『子犬のワルツ』じゃなかったはずだ。え〜と…。
いくら考えても思い出せなかったので、俺は姉の部屋の前に行き、ドアをノックして応答を確認してから部屋に入った。
「ねえ、これ何ていう曲だっけ?」
「こっけん、だよ。憲法四十一条とは関係無いからね!」
「何の話だよ。こっけんて、どういう字?」
「色の黒に、鍵盤の鍵。ピアノって、白と黒の鍵盤で出来てるでしょ?その、黒い方ね。黒鍵。」
「なるほど…。ありがとう!今流してるやつって、MP3?CD?」
「CDだよ。中村紘子さんの。貸してあげようか?」
「ありがとう!」
俺は姉にCDを借りて、自分のパソコンに取り込んだ。『やった!これで、未希のテーマソングを好きなときに聴ける!』俺はそう思って、姉に感謝した。
俺はその日から、自分の部屋やリビングでよく『黒鍵』を聴くようになった。そして姉から「私はショパンを聴くときは絶対に中村紘子さんの演奏と決めている」という話を聞き、興味が湧いてきたので、様々なピアニストの『黒鍵』や『幻想即興曲』、『革命』『英雄ポロネーズ』などを聴き比べた。そして俺も姉と同じ選択をした。
他の人が弾く『黒鍵』は、未希だという感じがしなかった。不思議なのだが、中村紘子さんの『黒鍵』だけが未希なのだ。俺は人間の感性というのは本当に面白いもの、不思議なものだと思った。
そして、俺がここまで未希に惹かれてしまうのも、楽譜では表せないような、言葉では表せないような、この世界でたった一人、未希しか持っていない何かがあるからなのだろうと思った。
その『どうしても、この人じゃなきゃダメなんだ!』という想いと、姉が言っていた『どんなときも、自分の気持ちよりも相手の気持ちを優先する』揺るぎない優しさが重なり合ったとき、本当の、本物の『好き』が生まれ、それを種として「ことのは」つまり和歌や物語が生まれるのではないか…俺はそう思った。




