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自宅にて 1

 俺はその日、帰宅してからリビングルームのソファに座り、キッチンで夕食の支度をしている母親がたてるトントントン…という小気味よい音を聞きながら、未希のことを考えていた。

 俺は「未希のことを考えていた」と書いたが、より正確に書くと、そうではない。考えようとしなくても、胸の奥からとめどなく溢れてくるのだ。そのときに俺は胸が苦しくなるのを感じるが、その苦しさは、誰かのことを心の底から愛しく、大切に想ったときにしか生じない苦しさだと俺は直感的に分かった。   

 そうであれば、その苦しさは病気の苦しさのようなものとは違い、取り除こうとするべきものではないと俺は思った。これから先、未希と離ればなれになり、会える見込みがないような状況に置かれたとしても、俺はこの苦しさを静かに、優しく抱きしめて生きていきたいと思った。そうすれば、少なくとも半分くらいは「未希と生きている」と言えるんじゃないか?もしかしたら、半分ではなく、まさにそうであると言えるのかも知れない…俺はそんなことを考えていた。

 出会って間もないのに、離ればなれになったときのことを考えている自分に対して俺は、『なんで、そんなこと考えているんだよ、バカだな』と自分で突っ込みを入れた。なぜ、そんなことを考えてしまうのか…おそらく、あまりにも大切で、あまりにも大好きで、離れるのが怖いからだろう。

 離ればなれになるのは怖いが、もしそうなったとしても、俺は動揺してアタフタするような男にはなりたくないと思った。現実を受け入れ、穏やかに、静かに、未希の幸せを祈りたい。そして、いつか未希と奇跡のような再会をすることを夢見ながら、生きていきたい。そのまま年老いて死んでいったとしても、結構素敵な物語じゃないか…などと俺はバカなことを考えていた。

 父親がバスルームから出てきて、「マサキ、風呂、いいよ」と言ったので、俺は黙って頷き、バスルームに向かった。入浴後、俺は両親と姉と四人で夕食を食べた。

 俺の姉は美鈴という名前で、いま中学三年生だ。「みすず」という名前は、俺と同じように本が好きな父が、詩人の金子みすゞから取ってつけた名前らしい。金子みすゞは幸せな人生を送ったとは言い難い人なので母は反対したらしいが、父は真剣な顔で「金子みすゞから名前を取ることを、縁起悪いみたいに言わないでくれ。俺は金子みすゞの詩が大好きなんだ。金子みすゞはきっと、『私の分の幸せも、分けてあげる』と言ってくれるさ。大丈夫、幸せになれる」と説得したらしい。母親はその話を俺に聞かせて、「あの人って本当に頑固なのよ」と少し呆れながら言った。俺にも、そういう頑固さはあるような気がしていた。

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