勇者の宝石
最終話『勇者の宝石』及び『終章』同時投稿。こちらが最終話になります。
「シャイ……ア……」
レンスは昔と変わらぬ姿で現れた戦友を目の前に、半ば己の正気を疑いながらその名を口にした。
「久しぶりねレンス。招かれてたわけじゃないけれど勝手にお邪魔させてもらったわ。この国も随分平和になったものね……」
夢幻のようにふらり先触れも無く現れはしたが、レンスは過去に馴染み知った気配を感じた。これが死に瀕しての夢ではないかとの惑いに揺れた老王の心が俄かに現実を取り戻す。
「お、おお……夢では、ないな……?」
レンスの知るシャイアなら、ここが王城だとは言え平和に浸りきった兵らの目と耳を欺くことなど造作も無いこと。周囲の音が遮断されたのも、彼女の行使した精霊魔法によるものだろう。
寝具の上、柔らかな枕でようやく身を支えて起きあがる老王の声は震えを帯びて弱々しい。
彼女の目の前にいるのは王国の王との立場に相応しい立派な寝台の上、刺繍の上掛けの中、絹の夜着に身を包んだ、骨と皮ばかりの老人だった。
シャイアが王国を旅立った時のレンスは彼の末孫、クライフ王子と同じ金茶色の髪を持っていた。その髪も今は艶を無くした白髪となり、王国の将来への責任と展望をともに光として宿した瞳は白い濁りを帯びている。
「老いたわね……レンス」
思わず口をついたシャイアの呟きに、老王の口許を空しい笑みが過った。
「時が、経った……」
彼らにとっては命がけの現実であった魔王討伐も、今は英雄奇譚となって人々の娯楽の席に謳われる。
レンスのひび割れた声は苦い色を含んで響いた。
「……そうね、エルフも人間のようには行かないもの。私にとっては一瞬……でも、永かったでしょう貴方には」
寝台の端に腰を下ろしながら応える声もまた、レンスとは違う苦さを帯びた。
魔王城での戦いを共に戦った頃、彼らの外見年齢にさほどの開きは無かったが、今は「種」の違いが二人の生きる時を大きく隔てた。
エルフの中にも長命な事で知られるハイエルフ。シャイアは今なお若い娘の姿を保ち、寝台に力なく身を横たえるレンス老王の顔に浮かぶのは、既に『死相』と呼べるもの。
この様子では来し方を懐かしむ余裕もないだろう。
彼に残された時間の短さに胸を塞がれながら、シャイアは本題へ切り込む為の口を開いた。
「───魔王の森で、クライフ王子に出会ったの。若いころの貴方にとても良く似ていたわ」
シャイアの言葉に骨ばった肩がビクリと揺れる反応を見せた。
小箱に掛かっていたレンスの手の微かな震えは今や大きく、口ひげと白髯に覆われた口許から零れる嗚咽を抑え込もうと伸ばされた時には、誰の目にも明らかなほどとなっていた。
クライフが魔王の森へ出かけているなど思いも寄らぬ事だった。だが今この時期、王族の一人が魔王の森へいる不自然にシャイアが気づかぬ訳はなく、ましてそれをわざわざこうして口にしたのにも意図が無いわけがない。
考えられるのはただ一つ。彼女は真実を知ってこの城へとやって来たということだ。
「シャイア……キミが私を断罪してくれるのか……」
つ……と、老いた王の血の気無い頬を涙の雫が溢れて落ちた。
「いいえ───そうじゃない。レンス……ダグダスはね、知っていたの。呪いの存在も、それがどんなものであるかも全部承知の上、魔王に剣を向けていたのよ」
ロドリア王国の王族レンス。ハイエルフ氏族の一部族出身のシャイア。
三勇者のうちの二人まではその出自が世間に知られているが、残る一人の魔剣士ダグダスの氏素性を証憑する者はない。
それはダグダス本人が自らについて語らなかったのに加え、当時の戦況が出自などの些事を気にする余裕が無いほど状況が逼迫していた事に起因した。
彼に関する巷間諸説の中、最も有力とされているのは滅亡した魔導王国との関係だった。
左右両の手でダグダスが操る双剣は、魔力を刀身に帯びさせた魔剣。
魔導王国カーデミオン滅亡の後、彼ほどに魔力量豊富にしてその操作に長けた魔剣使いなど存在しない。むしろ旧魔導王国との関係が全く無いと言った方が不自然だろう。
ダグダス本人が人間としての像を失い、カーデミオン王家の歴史が国家の滅亡と共に散逸した今、殆どの人間にとって確認の術も無いことだが、誰よりも魔剣士と密接で厚い関係を築いたシャイアにはダグダスの口からその巷説が真実であると聞く機会が幾度もあった。
三勇者の一人、魔剣士ダグダスは魔導王国カーデミオンの王家所縁の人間であり、魔王アーネスもまた、旧魔導王国と関わり深い者であった事を彼女はダグダスより知らされている。
その滅亡の時までの間、幾度も魔王城まで攻め入りアーネスと直接刃を交わす機会を得た魔導王国と深い縁ある者ならば、魔王の呪いを知っていてもおかしくはない。
「……最後の戦いの前にダグダスは言っていたわ。『レンスには切らせない』貴方にはロドリア王国の王族として荒廃した国を立て直す義務があるからって」
「やはり……私のせいで、ダグダスは……」
「いいえ、貴方のせいじゃない。レンス、あれは罠だったの。貴方に呪いの事を教えた予言者はアーネスの手先だったのよ。私達の結束と戦いの決意を揺らがそうと仕掛けられたものなの。だから───」
「だが、私は……この国を言い訳に、彼に、犠牲を強いて……。自分だけが……今もこうしてのうのうと……」
繊手を伸ばしてそっと触れた夜着の下、レンスの肩は生者の物とは思えぬ骨と皮ばかりの感触。高ぶる感情からか彼の身体は震え、乱れた呼気には風を切るように耳障りな異音が混ざる。
「『ダグダスの意志を無にしないで』……そう言っても貴方の苦しみは……癒える事がないのね、レンス」
あの時から今こうして死の床につくまで、この戦友は悔悟の中に時を生きて来ていた。
もしも魔王の森でクライフに出会いレンスの苦しみを知らずにいたら、シャイアは彼に真実を伝えることなくいるつもりでいた。
だが、レンスはシャイアだけでなくダグダスにとっても大切な友人だったのだ。このまま何も知らずに自分だけを責め続けて死出の旅へ送り出す事など、出来はしない。
……たとえそれで自分がどう思われようとも。
「だけど、もし本当はダグダスを元の姿に戻す方法があるともし言ったら……どうかしら」
「……まさ……か、本当に?」
若かりし日、上等な香茶の色と同じ澄んだ紅茶の色をしていたレンスの瞳が、今はその色味の上に薄濁りの膜を纏わせ見開かれた。
「嘘じゃない、方法はあるの。……レンス、ダグダスの宝石はその小箱の中ね? 彼の宝石を私に渡して頂戴」
トネリコの小箱から取り出された紅い勇者の宝石手の中に、精霊使いはそれを両の瞳で見下ろした。
夜半、月明かりと寝台側に僅かばかりに灯された角燈だけの光源の下、魔剣士ダグダスの宝石は澄んだ輝きを放っている。一点の曇りもなく燃えるように紅いその宝石は、在りし日の魔剣士そのもの。誰よりも苛烈にして清廉な生きざまをそのまま抽出し凝めたような宝石をその手に、シャイアは胸の高鳴りを覚えた。
「……ああ、なんて綺麗なのかしら。まるでダグダスの心そのままの色ね」
初々しい恋に心揺らす少女のように緑の瞳は潤みを帯び、呟く声は微かに震える。
彼女が呪いを解く術を探しにロドリア王国を旅立ってから、既に五十と余年を数える歳月が流れていた。片やのダグダスは魔王の呪いに人の像を失くした姿ではあるが、これもまた、恋人同士の『再会』の場面と言えるかもしれない。
本来ならばここに水を差すなど野暮極まりないものながら、黙して場を見守るにはレンスに残された時間は少なすぎるもの。
「シャイア……ダグダスを、早く……」
苦しい息の下、戦友の解呪を掠れる声で絞り出した老王の目は、笑みを湛える精霊使いの横顔をぼんやりと捉えた。寝台が微かな軋みを発し、ほっそりとした肢体が立ち上がる揺らぎを彼に伝える。
「ねえレンス。私、ダグダスを愛していたわ。今も……愛しているわ」
死が二人の間を分かつその瞬間まで、共にあり続けようと心に誓った最愛の半身。シャイアにとってのダグダスは、五十と余年の時を経て尚、当時のままに変わらぬ恋人だった。
「ふふ……うふふふふ」
掌の中の宝石を見つめながら、シャイアの唇から零れたのは抑えきれない笑い声。
「シャ……イア……?」
霞む視界の中ながら、精霊使いの尋常ならざる様子に不審の呟きを漏らす老いた友の前、笑みを刻んだ唇が歪んだ。
「貴方は馬鹿だわレンス。いくら貴方が望んでも、ダグダスは元の姿になんて戻らないのに」
繊手の中に恋人の宝石を大事に包み、愛おしそうに頬を寄せながらシャイアは笑う。
「だって……『呪い』はダグダスを愛し、愛された者……『私』の流す一滴の血と涙で解かれるって言うのよ? でもね私、涙なんて流せない。だって悲しくなんてないんだもの」
眉根を寄せ、困ったように小首を傾げる姿は魔王の城で互いに命を預け合ったあの記憶のままの戦友でありながら、その面に浮かんでいるのは、レンスの知らぬ女の表情。
「ダグダスは酷い人よ。彼ね、最初から呪いを解く術も知っていたの。……あの人、私を試したんだわ。私の心をね、試したのよ。ねえレンス、人間に恋をしたエルフは不幸よ。永い時を生きるハイエルフはもっと悲惨。愛した人がほんの一瞬きの間に老い、死んでゆく様を見る事になるのだもの」
言葉を紡ぐうちシャイアの唇から笑みは抜け落て、ただ苦し気な歪みだけがそこに残った。
暗く狭窄した老王の視界にあるのは、両手に恋人の宝石を包み込み唇を震わせる女の姿。
「───それでも……私、あの人と一緒に生きたかった。 そしたら私、ダグダスとの記憶だけを胸に……ゆるゆると朽ち果てるまで生きて逝こうと、そう……思っていたのに……っ」
と。
シャイアは肩を震わせ喉の奥から絞り出すように言葉を吐き出す。
愛する人の声を聞き、語り合い。時に口づけを交わしその熱を感じ、時の流れに抗うことなく最愛の相手を見守り続け、その最期の瞬間までを共に生きられたのなら───と、絞り出される慟哭の言葉。
ハイエルフにとって人の生涯などほんの瞬きの間に終わるモノ。だがその短い時間の間、幸運が味方すれば寡産なエルフ族であっても子を成す可能性もあったのだ。
人間との混血種はハイエルフほどの寿命は持たない。しかし、それでも最愛の相手との子を産み育てる幸せをシャイアが得られないとは限らなかった。
だがあの当時は魔王アーネスとの戦いの最中、状況は子を成す事など許そう筈もなく、そうこうするうちに彼女は知ってしまった───自分の永い一生の時間、愛する相手を側に置く方法を。
「私───涙なんて流せない。だって……悲しくなんてないんだもの。だって、ね……ダグダスはここにいるじゃない?」
もしもレンスが何も知らずにいたのたなら、シャイアは彼の人生が終わった後にダグダスを迎えに来るつもりでいた。そうすればダグダスは伝説の宝石の勇者としてレンスの想い出の中、凄烈な生き様を生きた魔剣士として瑕疵なくその印象を残せただろう。生きている間に彼の呪いを解くことが出来なかった悔しさがレンスの中に燻ったとしても、未だ解呪の方法を探すシャイアの存在に希望を繋ぎながら彼は人生を終える事が出来た筈だ。
だが、もうこうなってしまった今、どうすることも出来ない話。
激情からの震えがシャイアの上を去り、レンスの眩む視界の中には透明な笑みを浮かべる女が一人。
「レンス、ね……分かったでしょ? 貴方の裏切りなんて、裏切りのうちに入らない。だから……ねえ、私の事を恨んで頂戴」
ざらざらと雑音混じり。壊れかけの心臓の鼓動が今の老いたレンスの身体の許容を超えて脈動する中、薄暗い室内に精霊使いの白金の髪と外套がふわりと翻った。
急速にシャイアの気配が失われるのは気配遮断の魔法の行使がなされたせいだろう。
彼女の姿が老王の視界から消えたのは光の精霊術の影響が先か、それとも命の限界を迎えたレンスの視界が失われたのが先か。
「シャ……イ、ア……っ」
『待ってくれ』と続く筈だった言葉は老王の喉の奥、肺腑から溢れ出した血で打ち消され、消えた気配を追って差し伸ばされた手は豪奢な寝台の上掛けの上に力なく投げ出されて落ちた。枯れ枝のようなその手は血の気無く、深夜、寝所を見回る治療師が訪れた時には既に老王の命の炎は消えかけており、翌日の日が昇る頃、偉大なる英雄王の死を悼む弔鐘がロドリア王国の王都に高く低く鳴り響くこととなった。
三勇者の一人が世を去って以降、ロドリア王国で魔剣士ダグダスの宝石を目にした者は無く、また、精霊使いシャイアの姿を見た者も無い。




