老王
華美壮麗、そんな言葉とは無縁。古い無骨な石組みで作られた城がロドリア王国の王都の中心に建つレンス老王の居城ナーウィック城だ。
静かな夜だった。
レンスは既に王としての実権を長子に譲っており、起居する場所も城の中心から奥庭の離れへと移動している。居を移した当初や彼の体調悪化時などには多くの人間が頻繁にここを訪れていたが、現在レンス老王の容態はある意味では安定していると言ってよい。病との戦いは終わり、今はただ治療師や薬師、神聖魔法による活性を定期的に施されつつ、訪れるべき死の時を先伸ばししているのが老王の現状。
夜半過ぎ。
死にも似たまどろみから目ざめた老王は柔らかな枕で身体を支え半身を起すと、いつものように枕元の小卓上から小さな箱を一つ自分の手元へと引き寄せた。
水気を失い骨張った手指が小箱の蓋を持ち上げる。軋み一つなく開かれた箱の中、姿を現したのは燃えるように紅い一粒の宝石。
それは三勇者の一人、魔剣士ダグダス。
寝室のすぐ外には警護の衛士や側仕えは居ても気配に敏い老王の眠りを妨げぬ配慮。現在周囲には必要最低限の人員しか存在しない。居室周辺は城の最奥にあり滅多な人間の入れる場所ではないが、それでも万が一を考えた結果、この小箱には高度な魔術処理を施されていた。
今はこうして『英雄王』の意志が尊重されてはいるが、国の宰相や幾人かの大臣、次期国王となる長子も内心この勇者の宝石を王国の宝物庫へ収めておきたいとの意向を持つことを老王は知っていた。
往時には魔王討伐の主役に選出される力を誇った三勇者の一人でも、今は老い、病み、衰え……後はただ死を待つだけの老人となったレンスではこれを護り切れるのかとの危惧はもちろん、彼らがこの宝石を城の奥深くしまい込みたいと考えるのは、これが三勇者の一人ダグダスの変じた物であるからこそ。
魔王の討伐は成され人族の危機は去った。英雄譚ならそこでめでたしとなるだろう。だが、現実の世界に物語のような『結末』は存在しない。世界はそのまま続いて行くのだ。
魔王討伐後、戦いに疲弊した人族が国力を回復し豊かさと平和とを恒常の物とするには周辺国の結束は必須だった。しかし戦火の爪痕深いあの当時、弱り切った国同士により傷跡少なく豊かな領土を求めての略奪の戦争が起きてもおかしくない状況が存在していた。
そんな中、ロドリア王国が戦時に続きその旗印として牽引、牽制役を果たせたのは魔王を打倒した三勇者の一人が治める国であったが為だ。
王国の末の王子として生まれたレンスには王となる心得など学ぶ機会もなく、最後の大攻勢でレンスの父王と王位継承位の高い兄達が命を落としていなければ、彼がロドリア王国の王位を得るなどあり得ない事態だった。
そんな人間を王として戴く国が、いかにして周辺国の牽引役となれたのか。
もちろん彼をもり立てる周囲の者らの力もあった。だが、何よりも大きかったのは魔王を討伐し人族に平和を齎した三勇者の一人としてのレンスの存在。
吟遊詩人の謳う三人の英雄、レンス、ダグダス、シャイア。彼らなくして人の世に先は無く、彼らこそが人族の未来の象徴。
ロドリア王国が戴くのはその三勇者の一人であるレンス王。そしてロドリア王国国王レンスの傍らには魔王によってその姿を宝石に変じられた魔剣士ダグダスがあり、彼を王へ託したのはダグダスの恋人でもあった三勇者の一人、精霊使いのシャイアなのだ。
レンス王が在り魔剣士ダグダスの宝石がある限り、このロドリア王国は三勇者に選ばれた国と見做される事になる。
レンス老王が命ある限り英雄王として王位に在り続ける事を求められているのは、ひとえに彼が三勇者の一人だから。
そのレンスが亡き後、周辺国の盟主たる王国の立場を守り続けるには勇者の宝石は欠かすことの出来ない要素の一つと王国の重鎮らは考えている。
あれを三勇者の存在の象徴として、宝物庫に収め、国の占有物であると諸外国へ知らせたいとの考えは、レンスにも理解できないわけではない。
だがこれは美しい宝石の姿をしていてもそれは仮の像。真実の姿は誇り高き魔剣士ダグダス。意志持つ個人の化身を、国の財の一部のように宝物庫に収めようなど許されるわけがない。
英雄譚から長い時が経った。あの魔剣士ダグダスの現身、この赤い宝石が戦後王として立つことになってしまったレンスを慮ったシャイアの温情によって預けられた物だとの恩義は、いまや政治の中に忘れられようとしている。
ヒュ……ヒュ……と微かな呼吸音がレンスの喉を震わせた。
間遠く雑音だらけの心音。小箱の蓋を開けた手指は持ち上げておく力もなく、上掛けに施された刺繍の上に力なく投げ出されている。自身に自覚は無いが、恐らくはその指先は血の気の通りの悪さに氷のように冷えている事だろう。命を繋ぐ呼吸も心音も、いつその働きを止めてもおかしくなかった。
この宝石は王国の占有物などではないのだとの周知、出来うる限りの根回しは行っていたが、それでも不安は残る。
老王が命汚く薬師や治療師、神聖魔法の使い手の力を借りてまで延命措置を施させているのも、自分の命があるうちに魔剣士ダグダスの宝石を渡すべき相手、三勇者の一人シャイアの手に彼を託さんがため……そして、なによりも自分の犯した罪を彼女に明かすまではなんとしても生きながらえたい。
もしもそれが叶わない時を考え末孫クライフに真実を伝えたが、やはり自分の口から唾棄すべき卑劣漢である自分の罪を語らず逝くのだけは避けたいとレンスは思う。
小箱の中、銀朱の絹の内貼りの上の宝石は透明で純粋な赤。燃え上がるように苛烈で真っ直ぐなダグダスと言う魔剣士の魂そのままの輝きで老王の瞳を射た。
あの時、魔王城へ討ち入る前に大攻勢を戦う父王と連合軍の総指揮を任されていた次兄の死と、このナーウィックの城に残っていた長兄が魔物の刺客の凶刃に倒れたとの知らせを伝令から耳打ちされた彼はの中から、呪いを受けても魔王を道連れに黄泉路を行くとの選択肢は消えた。
……いや、それは綺麗事だ。
最初から覚悟などしきれていなかったのだとレンスは知っている。若く強く、心にも体にも生命力の漲る年代にある人間が、死や死と同義の呪いを受け入れるなど容易いことではない。
あの時レンスは安堵した。自分にはロドリア王国を背負うとの責務があるのだ。それは呪いを回避する理由としては十分な物だ。だが同時、命を削る戦い日々二人の間に育まれた絆が引き裂かれるその様を看過する、その罪悪感に戦いてもいた。
魔王アーネスとの戦いの最中にはただ出来うる限りの力をもって戦うだけに心を砕いたレンスだったが、あの最後の瞬間に揺らいだ心は確かにただの恐怖からだった。ロドリア王国や戦いに疲れ果てた人々の安寧を支える王とならねばとの大義名分など、心の真実の前には何の役にも立たなかった。
ただ、恐怖に負けた。それを老王は知っている。
自分の卑怯さをレンスは骨身に沁みて知悉する。
だからレンスはダグダスが紅い宝石にされた後も、呪いの存在をしっていた事をシャイアに打ち明ける事が出来なかった。
だから千々に乱れて新たな戦いが起きかねない情勢を心配し、シャイアがレンスの手にダグダスの宝石を残そうと言った時にも、彼はロドリア王国を護るとの大義名分に自分の心を騙したままそれをありがたく受け取った。
魔剣士ダグダスが変じたのは燃えるように紅い、至高の宝石。もしも自分があの時呪いを受けたとして、こんな一点の曇りもない美しい宝石に変じる事はなかっただろう。
老王レンスの血の気無い唇に、苦い笑いの気配が過った。
ヒュ……ヒュ……ヒュ……と、微かに喉の奥を鳴らしながら老いたる王は紅い宝石から意識を周囲へと戻し、ふと気づいた。
やけに静かな夜だった。
奥庭にぽつんと建つ離れには、確かに人の気配は薄い。だが、あまりにも静けさが過ぎる。
真夜中と言う時間柄、世話係と衛士らくらいしか近くにいないのはもちろんだが、真冬ならいざしらず虫の音すらも聞こえないのはあまりにも不自然な事。
レンスは霞んで見えにくい老いた目を寝台そばの明かり取りの窓へと向けた。
天候も良くまだ暖かな時期。締め切った部屋の澱んだ空気を嫌う老王の為、窓はごく薄い紗に覆われるだけで開口している。仄かな月光に照らされて窓の外、離れを囲む奥庭の木々が葉を揺らす姿がぼんやりと見えていた。
なのに、どうしたことか葉擦れの音が聞こえてこない。
「───これは……」
割れて嗄れた声が静寂の夜気を震わせた。老王の視線の端で、寝台を覆う天蓋の紗がふわりと大きく揺らぎ、何者かが音もなく部屋の扉を開けて入って来た事を彼に知らせる。
「誰だ……?」
誰何の声が鋭さを持たなかったのは、居室へ踏み入った者が忍ばせる事のない足音を立てゆったりと歩んで来たため。
もとよりすでに王としての実権は長子へと移譲されている。今この時期にレンスへ刺客を差し向ける意味など存在はしない。
……そして、彼には『予感』があった。天蓋の紗幕を揺らし、肉の削げた頬を撫でる風には遠い過去の記憶をくすぐる気配があった。
「……さあ? 誰かしらね」
笑い含みの懐かしい声がレンスの耳朶を打つ。
白い繊手が風の先触れに揺らぐ紗幕を持ち上げ、幻想じみた美しい姿を老王の前に露わにさせた。
肩から背後に引き開けた暗色のフード付き外套の上、薄暗い室内を照らす白金の絹糸髪をさらりと流す立ち姿。
張りのある滑らかな肌も瑞々しく、恋人の呪いを解く術を探しに旅立った当時のまま、まるでレンスの記憶から切り出したように変わりの無い姿の精霊使いが一人、老い果てたレンスの前に微笑んでいた。




