魔王城の戦い
「あの時、彼は知っていたのね?」
クライフは倒れ伏したライの傍ら地べたに座り込み、英雄奇譚に語られた精霊使いの姿を見上げていた。
いまの彼女言葉には、どの場面における『あの時』かを限定する要素は一つも加えられていなかった。だが、クライフはそれが魔王アーネスと三勇者との最後の戦についてであることを知っていた。
───長い睫に縁どられた緑の瞳に見下ろされながら、クライフは自分の身体が震えるのを自覚する。
まだ寒い季節ではなく、しかも炎のすぐ傍にいると言うのに手足はにわか氷のように冷え切って、ほんの少し前にワインや水で潤したばかりの口中もからからに渇き、飲んだ空唾にコクリと鳴る喉の音を聞く。
「クライフ、答えて。……レンスは呪いの事を知っていた。……そうなのね?」
怒りも失望も苛立ちも、感情の揺らぎすら見えぬほど、それは静かな声。
「ち、が……っ」
クライフの口から出かかった否定の言葉は彼が知る真実の前、儚く途切れる。
老王レンスは自分の死を間近、末孫に一つの秘密を打ち明けた。それは彼が魔王アーネスとの最後の戦いを前、魔王の持つ『死に際の呪い』を知っていたとの事実だった。
そう……レンスは呪いの存在を知っていたのだ。
後に思えば彼の耳にその情報が届いたのは、ダグダスやシャイアとの離間を狙った策略の一つだったのだろう。しかしレンスはその事実を二人には知らせず、自分がアーネスを討ち取ろうとの覚悟を決めていたのだが……。
「だからあの時、レンスの動きには躊躇があった……」
シャイアは在りし日の友レンスによく似た面差しを蒼白にする青年を目の前に、その時の事を思い出していた。
───あれは正真正銘、本当の意味で最後の戦いだった。
魔王アーネスの存在が確認されて以降戦線を支え続けた魔導王国カーデミオンが滅亡し、戦いの旗印はロドリア王国に引き継がれた。だが、その旗色は決して良いものとは言えなかった。
ロドリア王国を中心とした周辺国家が力を合わせ、なんとか辛うじて魔王軍の攻勢に抗ってはいたのだが、魔導王国の滅亡によりかの国が世界に誇った魔導技術と魔導士の育成機関が失わたのが原因。前線で損耗した魔導士の補充は滞り、しかも戦いの度に多くの犠牲者を出す最前線での死者が屍鬼として相手兵力となる不利も重なり、彼我の兵力差はじりりじりりと魔王軍側へと傾いて行く。
あと一滴の雨で決壊する堤防。魔導王国に続きもしロドリア王国までもが敗れれば、奔流のようになだれ込む魔王軍の魔物らに対抗する術もなく飲み込まれ蹂躙される。そんなギリギリの状態での起死回生をかけた最後の手段。それが三勇者の魔王との戦いだった……。
抵抗を続ける人類への止め。その機を伺う魔王軍に対し、ロドリア王国を中心とする周辺国家が総力戦を仕掛けたのは、魔王軍側からはじり貧となり飲み込まれるしか無い人間たちの最後の抵抗のように見えただろう。
たしかにそれが人族軍の最後の抵抗だったのは事実。だが、大々的に仕掛けた大攻勢の本体が『本当の戦い』の為の囮だったとは、魔王はもちろん大攻勢に参加した兵士らの殆どが知らぬ事であった。
人間やエルフ、獣人や亜人らが連合する人族と魔王配下の魔族、魔物軍の衝突は幾度も繰り返されている。しかし基本、魔王アーネス自身は魔王の城に在りその場を動く事は無い。
一説によれば魔王と言う存在はすべての魔物と繋がっており、魔王の意向は遍く魔の生物らに伝わり、同時に魔王の存在により魔物らはその能力や知能、魔力などが底上げされるのだとか。
逆に言えば魔王さえ倒してしまえば魔物の能力は下がり、魔王軍の統率も失われると言う事だった。
ロドリア王国が人族兵力の主導権を持つ以前、魔導王国カーデミオンが健在だった時代には、人族兵力は魔王の森の奥深く魔王の居城へと攻め入って魔族の首魁、魔王の首を狙って幾度かは城に潜入し、兵らが直接魔王カーデミオンと戦う場面もあった。
結果は現在を見れば明らか。魔王への刃は一歩届かず、アーネスは未だ魔物の王として君臨する。
カーデミオン滅びた後はロドリア王国へと戦いの主導が完全移行されるまでの混乱もあり、人族はただ魔物の群れに押される一方。それを防ぐだけで精一杯の状況が長く続いた。
幾度かは魔王を討たんと命を懸けて魔王の城目指す戦士もあったが、いずれも森から戻ることは無かった。
大兵力を持って魔王の森外苑へと攻め入り、それを陽動として五十名ほどの精鋭部隊が城へと潜入を図る。それを卑怯なやり口と呼べる余裕など既に人族には無い状態。
ダグダス、レンス、シャイアの三人はその精鋭達の中でも最も力ある戦士として、他の精鋭達を露払いの捨石に魔王の居城へと侵入を果たした。
濃厚な瘴気に半ば異界化した魔王城内へ入った時点、残っていたのは十一人。更に内二人の神官が心力すべてを使って城内へ結界を張り、それぞれに三人の護衛が付き添いダグダスとレンス、シャイアの三人を魔王を閉じ込めた結界の中へと送り出したのだった。
異形の魔王アーネスとの戦いは、持てる力の根こそぎすべてを出し尽くし絞り出して尚ぎりぎりの戦いであった。
リッチの中の最上種、デモンリッチを中核に大鬼の剛腕とズーの翼、ドラゴンの下肢持つキマイラリッチ。それが魔王アーネスの姿だ。
強力な魔法攻撃はデモンリッチの能力。そこに加えて大鬼の剛腕での攻撃やズーの翼による大風での攪乱、ドラゴンの尾から繰り出す攻撃は僅かにかすっただけで多大なダメージとなり命を削る。
底なしの魔力を誇る魔王ではあるが、魔法の発動には詠唱が必須。シャイアは一旦発動すれば精神力の消費で発現継続が可能な精霊魔法を使い、風の精霊の精霊を呼び出した。魔王アーネスのされこうべ周辺を無音にすることで魔法の攻撃発現を抑え込み、更には背に背負うズーの翼での攪乱を封じるのがその目的だった。
だが魔法を封じても魔王の剛腕と岩をも一撃の下に砕くドラゴンの尾は健在。
レンスの神聖魔法による強化剣が大鬼の両腕をかろうじて受け止め、魔剣士ダグダスの魔法剣の連撃でドラゴンの尾を切断したのはまさしく苦闘、死闘の末のこと。
アーネスの本体はデモンリッチ。一端は命を失った者ではあるが、キマイラであるドラゴンの下肢には命が宿っている為だろう。レンスの攻撃で尾を切断された痛覚が、本体たるデモンリッチを怯ませた。
少年じみたしなやかな四肢から神聖魔法の燐光を溢れさせ、レンスは覇気を込めて魔王アーネスの大鬼の腕を弾き飛ばす。赤い魔光が長い尾を引いて耐性を崩したアーネスの身体をよぎった。音の無い絶叫がされこうべの頭部から迸る幻聴を、シャイアは聞いた。
魔王アーネスの左腕、大鬼の野太い腕が魔導士の杖を手にしたままに宙に飛び、引き裂けた闇色のローブから暗黒を内包する肉の無い骨の胸部が覗いていた。
肋骨の間、本来なら心臓があるべき位置。そこに禍々しい魔力を帯びた魔核が暗く輝くのが皆の目に晒された。
あれを破壊すれば、この強大な力を持つ魔物の王の偽りの命を終わらせることが出来る。
数え切れぬ命を奪い、血まみれの足元に更なる生贄の血を求め続ける魔王と人族との戦いに終止符を打つことが叶う。
魔王アーネスの正面にはレンス、魔王の右側にダグダス。
いち早く体勢を立て直したのは正面に立つレンスだったが、アーネスの心臓……魔核を貫き通したのはレンスの青白く聖光帯びる大剣ではなく、魔王の心臓部とは逆側にいたダグダスの赤い魔光を纏わせた黒い魔剣の一振りだったのは何故だったのか。
戦いから数十年の時を経て、精霊使いは知ることとなった。
シャイアの目の前、戦友によく似た面差しを持つ青年が肩を震わせ歯を食いしばる姿があった。
あの魔王アーネスとの戦いから数十年。英雄王として名高いレンス老王が実権を自分の長子へと譲ったのは既に数年前の話だが、人々の前に彼が姿を現さぬようになったのは一年ほど前からのことだ。ロドリア王国内や周辺の国々から高名な治療師や薬師、そして神官らがナーウィック城へ招聘された事実は秘匿されていても、老王の容態の隠ぺいは実のところ完全な物にはなっていない。
風の噂。
最高位の精霊使い、シャイアの耳は風の小精霊の囁きを聞く。
彼女がロドリア王国の王都へと向かっていたのは、レンスの居城ナーウィックの周辺の小妖精から彼の容態の悪さを聞いたため。
「あの時レンスは呪いの事を知っていた……だから、今、クライフあなたはここにいる───」
実権は次の王へ委ねられており、更には王位の継承位の低い末孫とは言えクライフはレンス老王にもっとも可愛がられた孫なのだ。レンスの容態の芳しくないこの時期、いくら老王が魔剣士ダグダスの呪いの解呪を望んでいるとは言えクライフが魔王城へたった一人の随伴で向かうなど、不自然極まりない話であった。
後は、考えるもがな。
「───そうでもかければ王位継承権を持つ王子様がこんなところへ忍んで来るわけがないわ。……クライフ……貴方、レンスに聞いたのね?」
白い繊手が俯いたクライフへと伸ばされ、そっとその顎を持ち上げた。
緑の瞳に覗きこまれ、クライフの唇がわなないた。喉の奥で一度……二度、嗚咽に似た音を押し殺し、三度目。血の気を失った唇から、ようやく言葉が押し出される。
「お……お祖父さまは、長い間っずっと……ずっと苦しんでいたんだ……っ」
関節が真っ白になるほど拳を固め、激情を抑えて食いしばった歯の間からクライフは言葉を紡いだ。
シャイアがダグダスの呪いを解く術を探して旅だった後、レンスとてただ手をこまねいていたわけではない。この魔王の森や居城跡、魔王の腹心であった魔族の棲家や集落などには幾度となく調査隊が派遣された。
魔法や呪いの研究が盛んであった魔導王国カーデミオンの廃都、神の威光の残滓が残る聖都の旧神殿には予言を刻んだ石版が残る。すでにシャイアの探索の手が入った後であってもレンス王は探査の手を伸ばし、出来うる限りダグダスを宝石から元に戻す方法を探し続けた。
戦いの跡地、魔王城跡は魔王亡き後業火の中に崩れ落ち、残っているのはただ瓦礫と焦げ煤けた石柱群。この世界を揺るがす出来事を予言したと言う旧神殿宝物庫の石版も長い歳月による風化の為か、魔王アーネスに関する予言の部分が砕け崩れて解読は不能。
何もかもを見通す力を持つと語られた東国エズワズの巫女姫は魔王討伐前に没し、後継が受け継いだのは僅かばかりの占力のみ。ハイエルフの森奥深く、魔王に抗う力授かりし子としてシャイアを聖別したと言う世界樹も、呪いに関して黙して何も語らない。
……最後の望みと海を渡ってシャイアが訪ねた神々の叡知の書庫、精神と時との試練を乗り越えた者だけがたどり着けると言うアーカーシャの記録庫から届いた便りはレンス老王の希望を打ち砕く言葉を綴るものだった。
「……なのに、方法が見つからない。お祖父さまは今、死の床についているのに、どこにも……方法が、ない。……無いんだ!」
もとより、クライフは魔王城跡に解呪の為の方法を見つける可能性など信じてはいなかった。
ただ、死の床に侍り最後の時を座して待つことなど出来ず、尊敬し敬愛する祖父。英雄王として知られるレンス老王の悔悟と自責の念に苛まれながらの最期が耐えられず、少しでも希望が無いものかと幼馴染のライ一人を伴ってこの森へとやって来た。
未だ少年と青年の間の年若さとは言え、クライフは英雄と謳われるレンス老王の孫として教育され、将来は王国軍の上層へ立つべく鍛えられた青年だ。三勇者の一人シャイアの前、命を懸けての戦いを共に戦った仲間によく似たその青年が、堪え切れずその瞳に涙を溢れさせ身を震わせていた。
吟遊詩人であり精霊使いでもある女の瞳に悲しみの影が差す。
「レンス……可哀想な人」
あの時真実を話さぬままに見送った仲間、ダグダスの恋人でもあったシャイアへ卑怯な自分を知らさぬまま老い、黙して死出の国へと旅立とうとしているレンスの代理としてクライフはここにいる。
もっとも愛した末孫に唾棄すべき卑劣漢とそしられるのを覚悟の上、自分の死後に訪れるかもしれぬ精霊使いへ真実の伝言を託したレンスの気持ちを思い、シャイアの胸は重く塞いだ。
「……レンスの罪なんて、罪とは呼べない。呪いを解く、術は、あるのよ……」
形良い唇から、ぽつりとその言葉はこぼされた。
クライフはたった今自分の耳に届いたその言葉の意味を受け止められず、夜空にかかる三日月へと緑の瞳を向ける美しい横顔へ、ただ茫然とその目を見開く。
「私……レンスに逢わなければ」
冷たい月の光と暖かなたき火の炎の色。その半々に照らされた女はクライフに横顔をみせたまま、口中に耳慣れぬ言語を囁いた。
さわ……さわ……さわ……と、風がざわめく。
それが精霊魔法を行使する謡いである事に気づいたのは、風のざわめきが唐突に突風となり一瞬にクライフの目の前を吹き抜けてからの事。渦巻く風は橙色のたき火の炎の大部分を引きちぎり、クライフの視界を数秒奪って流れ去る。
ちぎり散らされた炎が突風の余韻を残しながらもとに戻った時、その場には先刻のまま地面に倒れ伏した騎兵姿の青年と、ロドリア王国の老王の孫だけが取り残されていた。
美しい吟遊詩人がいたはずの場からは彼女の姿も荷も、竪琴も、その存在を示すすべてが消え失せており、まるで暗い森の中に夢か幻かを見たかのよう。
暖かな橙色のたき火の周りは穏やかに静か。パチリと薪が小さく爆ぜるだけ。




