第5話 金町・水元ダンジョン
トコトコと、どこかノンビリした電車の揺れが二人の身体に伝わってくる。
柴又駅から京成金町線に乗って、わずか一駅。住宅街のすぐ裏手を掠めるように走るローカル線の車内は、平日のブランチタイムということもあって、のどかな空気に満ちていた。
その座席の片隅で、律は長身の身体をこれでもかと小さく縮め、一心不乱に手元を動かしている。
指先にあるのは、一本の古いカセットテープ。真ん中の小さな穴に六角鉛筆を突っ込み、キュルキュルと手動で弛みを巻き取っているのだ。
「――ね、みんな。これが今日のりっちゃん。電車の中で一八八センチがこれやってるの、ちょっと面白いでしょ?」
隣で、声を潜めながら配信をしている陽葵が、そう言ってカメラを律に向けた。画面の向こうのチャット欄が、楽しげな速度で流れていく。その耳元には、今日もイヤホン型同調機がぴったりと収まっている。
『また鉛筆でなんか回してるww』
『令和の時代にカセットの巻き戻し完全手動は草』
『昨日の切り抜きから来たけどこのレトロニキほんと好きw』
『てか切り抜き、BGMの音質だけ異常に良くてビビったんだけど誰が編集してんの?』
『っていうか車内からの配信とかシュールすぎるだろ』
「陽葵、勝手に映すな。……それから、これは巻き戻しじゃない」
律はルーペこそ外しているが、手元を見つめる横顔は柴又の時計屋にいる時と全く同じ「職人の目」だ。
「磁気テープの巻き癖を均一にするための大事な『慣らし』だ。これを怠るとサビの『立ち上がり』がコンマ数秒ズレる」
低くてぶっきらぼうな、だが良い声が車内に響く。
陽葵はカメラにぐっと顔を寄せ、車内の迷惑にならないよう、楽しげに声を潜めて囁いた。
「はい、職人さんのこだわりが入りましたー! というわけでみんなお待たせ! わずか一駅のプチ遠征して、お隣の金町にある『水元公園ダンジョン』に向かってまーす! 陸がアップしてくれた切り抜き動画、たくさんの再生ありがとね!」
画面には、昨夜の動画への感想が今も次々に書き込まれている。
『大泥棒ステップ最高すぎw』
『バフかかった陽葵ちゃんの質量バグってる』
『曲がめっちゃよかった!』
『家電がヤバかったからボス討伐感謝!』
『昨日、新宿の某クランが時給計算で揉めてるの見て病んだけど、この二人の配信マジで癒やされるわ』
おかげで、平日の午前中だというのに、リアルタイムの同時視聴者数もこれまでのアベレージを遥かに上回る数を示していた。
ガタゴト、と小気味よい音を立てて電車が速度を落とす。終点、京成金町駅だ。
「よし、到着! ここから水元公園まではバスで行くよ。りっちゃん、置いてっちゃうからね!」
「……待て。頼むから駅前で急に走り出すのだけはやめてくれ」
改札を抜けると、駅前には探索者向けの近代的なショップが立ち並び、地元・柴又よりも少しだけ「現役の戦場」に近い熱気が漂っている。そんな中を、コンパクトに折り畳まれて背嚢に収まった相棒の大型ハンマー――『ひまわり壱号』を背負った陽葵が、弾むような足取りで歩いていく。
律は腰のベルトに特製のカセットプレーヤーを固定し、ホルダーに入ったプラスチックケースの硬質な感触をそっと指先で確かめた。
今回のために厳選したカセットテープたち。
魔力を温存し、道中の移動をスムーズにするための「移動用」、深い泥濘を切り抜けるための「機動重視」、そして最奥のボスを仕留めるための「最大出力」――。
その中の一本を、親指で静かになぞる。
どんな戦況になろうとも、最適の「音」を最高のタイミングで叩き込む。
バスの窓から見える葛飾の街並みを眺めながら、律は気づけば、自分の心臓がこれから始まる戦いのリズムを刻み始めているのを静かに感じていた。
◆
京成バスの終点から少し歩くと、視界がぱっと開けた。
そこには、都内最大級の水郷景観を誇る水元公園が広がっている。……もっとも、十五年前の「侵食」以来、その美しい景観の半分は、魔素が揺らめくダンジョン領域へと変貌していた。
「――はい、というわけで到着しました! 『水元公園ダンジョン』入り口です!」
バス停から飛ばしていたドローンに向かって陽葵がピースサインを作る。背景には、天を突くようなメタセコイアの森。かつての都民の憩いの場――広大な小合溜周辺は、今や魔素を孕んだ深い霧が立ち込め、一歩踏み込むたびに重い泥が靴底を掴む「深い泥濘の回廊」へと姿を変えていた。
境界の歪みに足を踏み入れる直前、律はいつものように腰の筐体を操作した。
ボリュームは移動用の『1』。
ガチャリ、と再生ボタンを押し込む。
――サァー……。
微かなヒスノイズと共に、壮大な旅の始まりを告げるトランペットのメロディが流れだす。
周囲の魔素を中和し、ドローンの電波状況を守るための「防壁」の展開だ。
まだ難易度が低いエリアなこともあって、近隣から来た初級探索者パーティーがピクニック気分でまばらに活動していた。
「……平和だな」
「でしょ? 一層はね。あ、あそこにいるのは金町の若手チームかな。おーい、お疲れ様でーす!」
陽葵が気さくに手を振る。向こうも「あ、陽葵ちゃんだ!」「例の時計屋ニキもいるぞ」とザワついている。
律はそれには応えず、無言で周囲の魔素濃度を測るように目を細めた。ここは江戸川よりも水気が多い。湿った空気が、肌にまとわりつくような独特の重さを持っている。
「――っ、来るよ。三時の方向!」
陽葵の警告と同時に、水面が爆ぜた。
飛び出してきたのは、一メートルもある巨大な淡水ガニ――『マッド・キャンサー』が二体。巨大なハサミをガチガチと鳴らし、泥を撒き散らしながら突っ込んでくる。
「挨拶代わりだね。……せーのっ!」
陽葵は地を蹴った。
背負った『ひまわり壱号』を流れるような動作で引き抜き、空中で一回転。雄大なオーケストラのクレッシェンドに合わせて遠心力を乗せた一撃が、一体目のカニの甲羅を文字通り「粉砕」する。
砕け散る甲殻を背景に、ドローンカメラへ一瞬だけ「めっ」と悪戯っぽくウィンク。
着地と同時に、もう一体のハサミを横への素早いステップで回避。
「よい、しょっとぉ!!」
曲の小節が綺麗に切り替わるジャストのタイミング。返しのスイングで二体目の側面を捉え、そのまま向こう岸の岩場まで吹き飛ばした。無駄のない、洗練されたアタッカーの動きだ。
『陽葵ちゃん、強いんだよな』
『江戸川の1~2層のボスなら、レトロニキのバフなしでソロで倒せるからな。面構えが違う』
『カニさん一撃w 合掌w』
チャット欄の盛り上がりを横目に、陽葵はハンマーを肩に担ぎ直した。
「ふふーん、今のなら余裕のよっちゃんだよ!」
陽葵は少しだけ胸を張り、カメラに向かってドヤ顔の死語を放つ。
律は一歩遅れて歩み寄ると、砕け散ったカニの残骸から転がり出た魔石を拾うと、ハンカチで泥を拭って背嚢のフロントポケットに滑り込ませる。
自分の足元を見下ろしていた陽葵が、小さく眉をひそめる。引き抜いたブーツの底には、水元特有の重く粘り気のある泥がべっとりと絡みついていた。
移動用のバフがあってもなお、このまとわりつくような重み。足場の整った江戸川と違い、フットワークを鈍らせる泥の感覚を受け、陽葵は「……思ったよりも、足場が厄介かも」と小さく舌を出した。
そんな相棒の様子に、律は小さく苦笑する。
律は背嚢を背負いなおし、静かにメタセコイアの深い霧の奥を見据える。
今はまだ大したことはないが、さらに足場を奪われる階層に進めば、限界を超えた『爆音』が必要になる時が来る。
律はホルダーにあるスモークブラックのカセットテープに思いを巡らす。
重い泥を吹き飛ばし、この水郷のステージを『軽快に滑走』するための、疾走感に満ちた前世の旋律――このエリアの悪路を想定して選んできた、環境適応の一本だ。
これを起点に、最奥のボスまでどう音を繋ぐか。
その戦場を脳内でシミュレートしながら、律の胸の奥では、まだ見ぬ強敵を迎え撃つための前奏が、静かに、けれど熱い重低音で鳴り始めていた。
「さあ、サクサク行こう! 次は一層のボスだよ!」
陽葵の明るい声が、水面に小さな波紋を広げていった。




