エピソード00 始まりの物語:『磁気テープの鼓動《ビート》』
まだ二人が十五歳だった三年前の夏。
当時の陽葵は、葛飾区でも期待の新人探索者として注目され始めていた。最新の『運動エネルギー変換』スキルを持ち、中学生にして江戸川の浅層ダンジョンをソロで踏破するほどの実力。
だが、彼女は壁にぶち当たっていた。
「……あー、もう! 全然ダメ! 出力が頭打ちなんだけどぉ……」
冴羽時計店の作業場の隅。陽葵は愛用のハンマーを床に放り出し、律の作業机に突っ伏した。
律はルーペを覗き込んだまま、古い柱時計の歯車をピンセットで調整している。
「陽葵。道具に当たるなよ。じいちゃんに怒られるぞ」
「だってさぁ、りっちゃん。今の理論だと私の魔力量じゃこれ以上の重力加速は無理なんだって。鑑定士にも『君の限界はBランク止まりだ』なんて言われちゃうし……。あーあ、効率とか限界とか、ホントつまんない!」
律は手を止め、小さく息を吐いた。
彼には、陽葵の悩みが「現代的な数値の呪縛」に見えた。前世の記憶にある物語のヒーローたちは、いつだって「限界」なんてものを理屈を超えた一撃で粉砕していたはずだ。
「……これでも聴いて、その限界ってやつを一度忘れてこい」
律は棚から、祖父の宗治が試作したばかりの、魔素干渉型のポータブルプレーヤーを手に取った。中に入っているのは、ジャンク屋の片隅で見つけ出し、律自身が修復した一本の古いカセットテープ。
ラベルには『勇者王・メドレー』と走り書きがある。
「何これ? 骨董品? そんなの聴いても……」
「いいから。ヘッドホンを貸してやる。……ほら」
律が陽葵の耳にオレンジ色のスポンジが付いたヘッドホンを被せ、再生ボタンを深く押し込む。
――ガコンッ。
重厚な金属の作動音が響いた。
律の魔力がプレーヤーを介し、磁気テープに刻まれた「熱量」が、不可視の供給線となって陽葵へと繋がった。
野太いブラスセクションと地を這うようなドラムのイントロが、陽葵の鼓膜を叩く。
その刹那、陽葵の心臓が、歪んだ重低音のテンポと完全に同じ拍動でドクンッ! と激しく跳ね上がった。
律は目を見開いた。陽葵のスキル『運動エネルギー変換』が、律の放つ音圧の魔力と完璧に同調を始めたのだ。陽葵の全身から、マゼンタ色の猛烈な闘気が噴き出す。
「な、なにこれ……すごい、力が……止まらない……! りっちゃん、私ちょっと試してくる!」
「待て、まだ接続が――」
律の制止も聞かず、陽葵は作業場の床を爆音のビートで蹴りだした。
瞬間、有線の長さという「物理的な限界」を超えた跳躍により、プラグが本体からブチィィンッ!と力強く引き抜かれる。
作業場に残された本体のイヤホンジャックから、行き場を失った熱い音がシャカシャカと虚空に漏れ出した。
だが、すでにその肉体に『魂の駆動音』を刻まれた陽葵は止まらない。無音のヘッドホンを耳に当てたまま、弾丸のような速度で江戸川の土手へと爆走していった。
「くそっ、あいつ……!」
律は慌ててプレーヤーを掴み、長い脚を回して外へ飛び出した。
律の魔力が変調させた「音圧」は、プレーヤーの周囲に『場』を形成する。その範囲は約三十メートル。音波が魔力として伝播する、わずかコンマ一秒の遅延が許される限界距離だ。
律は必死に追いかけたが、加速スキルで走る陽葵には到底及ばない。
土手の向こう、訓練用防護壁の前で、陽葵がハンマーを大きく振りかぶるのが見えた。
だが、無情にも距離が開く。三十一、三十二メートル――。
スピーカーの指向性から外れるように、見えない魔力の供給線がぷつりと切れた。
「――えっ?」
土手の上で、陽葵の声が漏れた。
視界を満たしていたマゼンタの闘気が霧散し、陽葵の腕の測定器が非情な「限界値」を再表示する。
加速を失ったハンマーは力なく壁を叩き、ボフッ、という情けない音を立てて弾き返された。
「ハァ……ハァ……。だから、言っただろ……」
十数秒後、律は肩で激しく息を切りながら、ようやく陽葵の背後に辿り着いた。
一歩、また一歩と彼女に近づく。
その瞬間、陽葵の肩が跳ねた。
律が近づくにつれ、彼女の肉体の熱がじわりと蘇っていくのが、持ち主である律にも伝わってきた。十メートル、五メートル。手が届く距離まで詰めると、律は無言のまま、本体側面にあるボリュームノブを、カチリと最大までひねり上げた。
「ひゃあっ!? な、なにこれ、さっきより凄い……っ!」
耳を劈くほどの爆音。律が直接「音量」を上げたことで、パスを通じて供給される魔力が陽葵の細胞を極限まで加熱させたのだ。パチパチと音を立てて火花を散らす規格外のエネルギーに、彼女の腕の測定器がキチチと悲鳴を上げる。
現代の魔導理論が定めた『Bランクの能力基準値』を瞬時に置き去りにし、画面が明滅した次の瞬間には、非情なデジタル数値が【ERROR】を吐き出して完全にブラックアウトした。
「お前が一人で走っても、この『場』からはみ出せば意味がない」
律はノブから指を離し、ぶっきらぼうに告げた。
「このプレーヤーがアンプで、俺が電源。俺自身がそばにいないと、お前の出力は維持できない」
陽葵は、自分の腕の測定器と、律が握りしめているボロいプレーヤーを交互に見つめていた。
自分が近づくだけで力が戻り、指先一つで限界をゴミに変える。その全能感に酔いしれる陽葵の瞳が、律を捉えた。
「……そっか。これ、りっちゃんのそばにいないと、ダメなんだ」
陽葵がパッと顔を上げ、律の腕をがっしりと掴んだ。
「決まり! りっちゃん、あんたも一緒にダンジョンに来て!」
「……嫌だぞ。俺は職人志望だ。危ないところには行かない」
「ダメ! あんたがいないと、私の最高出力が出ないんだもん。あんたが隣でボリュームを上げて、一番近くで私を『爆音』にしてよっ!」
太陽のような笑顔で強引に距離を詰めてくる幼馴染に、律はたじろいだ。
同年代より頭一つ分大きい自分の体が、少女の勢いに押されて後ずさる。
「いい? りっちゃんは私の相棒兼、専属プロデューサー! 私が前で暴れるから、あんたは特等席でしっかり演奏を聴かせてよね!」
律は困ったように眉を下げた。だが、その指先は、まだ自分の魔力で熱を帯びているボリュームノブを、愛おしそうになぞっていた。
世界が、システムが定めた『Bランク止まり』なんて冷徹なデジタル数値を、このボロいアナログノブひとつで、いくらでも引っくり返して変調してやれる。職人として、これ以上の誘惑はなかった。
「……やれやれ。俺のそばは、耳栓が必要なほど騒がしいぞ」
それは拒絶ではなく、律なりの覚悟の表明だった。
「望むところだよ! そのノイズ、私が世界で一番のヒット曲に変えてあげるから!」
茜色に染まる江戸川の土手。
効率と数値に縛られていた一人の「主役」が、一人の「伴奏者」の腕を掴み、誰も見たことのない爆音のステージへと引きずり込んだ――。
二人が十五歳だった、あの夏の日の始まりだった。




