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第59話 『魔剣を求める剣聖が、親父の蟹割り包丁と極上のスープの前に屈服した話』

「錆びた剣亭」の看板娘である私の毎日は、個性的な常連客たちの注文を捌き、少しばかりの面倒事を片付けることで過ぎていきます。


今日の店内は、仕入れたばかりの『岩鎧蟹』を茹でる、磯の甘い香りに包まれていました。

カウンターの特等席では、いつもの三人組がもう出来上がっています。


「へっ、今日の蟹は一段と硬そうだぜ。俺の筋肉でも割るのに骨が折れそうだ」

「無駄な力みが多いのです、あなたの動きは。関節の隙間を狙えば造作もないこと」

「まあまあ。二人とも、美味しいものを前にして血の気を『滾らせる』のはやめようじゃないか」


ガンツさんとゴドさんが言い合い、フィスさんがニコニコとそれを宥める。いつもの平和な夕暮れです。

しかし、そんな穏やかな空気は、乱暴に開けられたドアの音によって破られました。


「この中に、伝説の魔剣を隠し持つ店主がいると聞いた!」


入り口に立っていたのは、派手な装飾の防具を身にまとい、腰に細身の長剣を差した若い男でした。自らを「旅の剣聖」と名乗るその男は、店の中を鋭い目つきで見渡し、厨房の奥で黙々と蟹の仕込みをしている父さんに狙いを定めました。


「見つけたぞ。その手にある分厚い刃……それこそが、どんな硬い魔獣の装甲も容易く断ち切るという伝説の魔剣『錆びた剣』だな! 我が名剣とどちらが上か、いざ尋常に勝負しろ!」


男が剣を抜き放ち、店内の空気が凍りつきました。

しかし、当の父さんは一切表情を変えず、まな板の上の『岩鎧蟹』に向かって、手にした無骨な蟹割り包丁を振り下ろすだけです。

ダンッ!という重い音と共に、鋼鉄のように硬い蟹の甲羅が、身を一切傷つけることなく綺麗に両断されました。


無視された剣聖は顔を真っ赤にし、剣を厨房に突きつけました。


「抜かないというのなら、貴様の土俵で勝負してやる! この剣聖の華麗なる剣技が、ただの料理人の腕に劣るはずがない! 料理対決だ!」


男は持参した食材を空中に放り投げると、自身の長剣で目にも止まらぬ連続斬りを放ちました。空中で薄切りにされた野菜と魚が、皿の上に花びらのように舞い落ちます。

確かにすごい剣幕ですが、客席で見ているゴドさんは呆れたようにため息をつきました。


「見ていられませんな、あの無駄の多い剣筋は。食材の繊維がズタズタに引き裂かれていますよ、全く」

「ああ。ただ速く振ればいいってもんじゃねえ。筋肉との対話が足りねえんだよ」


ガンツさんもエールを煽りながら鼻を鳴らします。


一方、父さんは対決の宣言など聞こえていないかのように、ただ静かに調理を続けていました。

割った蟹の殻をじっくりと炒めて香りを引き出し、濃厚な出汁を取る。一切の無駄がない、静かで洗練された動き。それはまるで、数え切れないほどの死線を潜り抜けてきた達人の、究極に研ぎ澄まされた体術のようでした。


やがて、男の作った華麗なカルパッチョと、父さんが作った熱々の蟹のビスクがカウンターに並べられました。


「ふん、ただの泥水のようなスープではないか。我が芸術的な一皿の足元にも……」


男は鼻で笑いながら、父さんのスープを一口すすりました。

その瞬間、男の動きが完全に止まりました。

持っていたスプーンが手から滑り落ち、カチンと音を立てて床に転がります。


「……なんという、深さだ。殻の旨味を最後の一滴まで引き出す、この完璧な刃筋……。私の剣技など、ただの表面をなぞるだけの子供の遊びだったというのか……」


男は膝から崩れ落ち、両手で顔を覆いました。

父さんが使っていたのは、伝説の魔剣でもなんでもない、ただ長年使い込まれただけの分厚い包丁です。しかし、その包丁を振るう父さんの「本質」を、男は料理を通して嫌というほど思い知らされたのでしょう。


剣聖を名乗る男は、何も言わずにふらふらと立ち上がり、自分の剣を杖のように引きずりながら店を出て行きました。

その後ろ姿を見送りながら、フィスさんが自分の前に置かれた蟹のビスクを上品に掬い上げました。


「あの剣聖さんの薄っぺらいプライドも、この深い海のようなスープの前じゃ形無しだねぇ。寄せては返す波のように、濃厚な旨味が口の中に広がっていくよ。あまりの美味しさに、僕も溺れてしまいそうだ」


店内には再び、穏やかな夕食の活気が戻ってきました。父さんは何事もなかったかのように、次々と常連客たちの注文を捌き続けています。


ガンツさんが、空になった大きなスープ皿をドンと叩き、ジョッキを高く掲げました。


「親父の無言の剣撃と、極上の蟹スープに乾杯!」


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