第57話 『誇り高き老犬が残した命を、深夜の雪山と筋肉で繋ぎ止めた話』
いつもの指定席でエールを煽っていると、酒場の重い扉が勢いよく開いた。
血相を変えて飛び込んできたのは、見知った顔の老冒険者だった。その震える腕の中には、ぐったりとした小さな毛玉が抱えられている。
俺はその毛玉に見覚えがあった。
あの雨の夜、限界を迎えていた『黒妖犬』が、最期の力を振り絞ってこの錆びた剣亭まで運んできた仔狼だ。相棒の死と引き換えに遺されたあの小さな命を、老冒険者は引退を撤回してまで育てると誓ったはずだった。
老冒険者は、カウンターの端で飲んでいた先生にすがりついた。
仔狼の息は荒く、遠目からでもわかるほど異常な熱を発している。
先生の顔つきが険しくなった。
「火熱病だ。放っておけば夜明けには死ぬ。助けるには、北の氷鳴り洞窟の最深部にある<氷霜苔>と、南の陽だまりの崖に咲く<太陽花>を、同時に煎じて飲ませるしかない」
老冒険者が絶望で膝から崩れ落ちた。
「夜明けまで数時間しかない……。わしの老いた足じゃ、片方に行くのが精一杯だ……! 相棒が命懸けで残してくれたのに、わしは……!」
見ていられなかった。
遠い田舎にいる孫の顔と、あの誇り高き老犬の最期の顔が、俺の頭の中で重なっちまったんだ。
俺はジョッキをドンと置き、立ち上がった。
「諦めるのは早えぜ、爺さん。足りねえ脚力は、俺たちの筋肉が補ってやる」
隣で石頭が、干し肉を齧りながら呆れたようにため息をついた。
「無茶を言いますな、筋肉殿。しかし……あの老犬の気高さは、私も嫌いではありませんでしたからね。仕方ありません、私が北の洞窟への道案内を引き受けましょう。足場が悪すぎますからな」
「なら、僕は南の崖へ夜の散歩と洒落込もうか。ちょうど少し運動したい気分だったからねぇ」
カウンターでワインを飲んでいた細いのが、ひらひらと手を振った。
◇
北ルートは地獄だったぜ。
最近の雪崩のせいで、洞窟の入り口は巨大な岩と氷で完全に塞がれていた。
「どけ、ゴド!」
俺は背中の剛斧を引き抜き、全筋肉を連動させて大岩に叩き込んだ。ドゴォォン!という轟音と共に、岩が砕け散る。筋肉に不可能はねえんだよ。
だが、そこから先も難所だらけだった。滑る氷の床に、暗闇。俺の右膝の爆弾が悲鳴を上げそうになった時、石頭がサッと前に出た。
「ここは氷が薄い。私の足跡を正確にトレースしなさい。壁の氷柱は脆い、振動を立てるな」
石頭の奴の目は本物だ。俺は上半身のブレを完全に殺すゆりかご歩行で、静かに、だが最速で氷の洞窟を駆け抜けた。
最深部で青白く光る<氷霜苔>をむしり取り、俺たちは全速力で街へ引き返した。
◇
夜明け前。
息を切らして診療所に飛び込むと、そこには信じられねえ光景があった。
細いのが、すでに<太陽花>を机の上に置き、先生が淹れたお茶を優雅に飲んでいやがった。
「遅いねぇ、二人とも。待ちくたびれたよ」
「お前……なんでそんなに早いんだよ! しかも服に汚れ一つねえじゃねえか!」
「南の崖は『陽だまりコンドル』の巣窟だからねぇ。生活魔法の<乾燥>を少し広範囲にかけて、空気をカラカラにしてやったのさ。喉を痛めた鳥たちは、僕に近寄りもしなかったよ」
相変わらずデタラメな奴だ。だが、これで材料は揃った。
先生が素早く薬を調合し、苦しむ仔狼の口に流し込んだ。
数分後。荒かった息が落ち着き、熱がスッと引いていくのがわかった。
仔狼はゆっくりと目を開けると、泣き崩れる老冒険者の手をペロリと舐めた。
「……おう。よかったな」
恥ずかしい話だが、その瞬間、俺は少しだけ泣いちまった。筋肉の目から汗が出ただけだがな。
◇
そして現在。
錆びた剣亭のいつもの指定席。少し離れた席では、老冒険者の膝の上で、仔狼がスースーと規則正しい寝息を立てている。
「いやあ、君の熱意には負けるよ。あのまま放置していれば、完全に燃え尽きていた命だからねぇ」
細いのが、いつものように薄気味悪い笑みを浮かべながらワイングラスを揺らしている。
「まあ、仔狼の熱もすっかり冷めたようだし、僕らも少しクールダウンしようじゃないか」
細いのが指をパチンと鳴らすと、奴のグラスの表面にうっすらと霜が張り付いた。
「へっ、冷たい酒なら親父に頼めばいいだろうが。まあいい」
俺は老冒険者と仔狼を起こさないよう、そっとジョッキを持ち上げた。
石頭も、細いのも、静かにグラスを寄せてくる。
「受け継がれた小さな命と、安らかな寝息に乾杯!」




