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第56話 『数百年前の凍りついた約束を、いつもの酒場で静かに溶かした話』

記憶というのは、澱んだワインの底に溜まる檻のようなものだ。普段はボトルの底で静かに眠っているけれど、不用意に揺らせば、あっという間に過去の色で全体を濁らせてしまう。


「錆びた剣亭」の穏やかな夜。(ボク)はグラスの中で揺れる赤い液体を眺めながら、そんな感傷に浸っていた。

隣ではガンツが相変わらず骨付き肉に齧り付き、隊長(たいちょー)が呆れた顔でグラスを傾けている。いつも通りの、愛すべき退屈な時間。

しかし、その平穏は、一人の薄汚れた行商人がマーサの元へ持ち込んだガラクタの山によって破られた。


「女将さん、この年代物の革袋なんてどうだい? 掘り出し物だぜ」


カウンターに置かれたその薄汚れた革袋を見た瞬間、(ボク)の心臓は文字通り凍りついた。

見間違えるはずがない。それは数百年も昔、(ボク)自身が吹雪の山に置き去りにした、忌まわしい地図が入った袋だった。


「なんだい、その小汚い袋は。うちの店には不釣り合いだねぇ。ただのガラクタじゃないか」


(ボク)は努めて平坦な声を作り、笑い飛ばそうとした。

しかし、数百年という時間は、(ボク)が施した封印を脆くしていたらしい。行商人が袋の口を緩めた瞬間、中からボロボロの羊皮紙が滑り落ち、カウンターの上に広がった。

途端に、店内の空気が急激に冷え込んだ。


「おいおい、なんだ急に……息が白いぞ」

ガンツが身震いし、愛用の斧に手を伸ばす。隊長(たいちょー)も即座に立ち上がり、周囲を警戒した。


羊皮紙から青白い冷気が立ち昇り、店内の空間を歪めていく。

そこに浮かび上がったのは、見渡す限りの銀世界。そして、雪の斜面を這い上がる巨大な魔物、『白銀の雪崩熊』の幻影だった。幻影とはいえ、放たれる冷気と殺気は本物だ。


『世界の果てを見に行こうぜ、フィス!』


冷たい風の音に混じって、懐かしい声が(ボク)の耳を打った。

ああ、思い出したくもなかった。

彼は、人間の探検家だった。短命な種族のくせに、誰よりも好奇心に溢れ、(ボク)を強引に未知の旅へと連れ出した、愚かで愛すべき男。

彼と共に「世界の果て」を記すはずだったこの地図は、あの雪山で途絶えた。突然の雪崩と魔物の襲撃。(ボク)の魔法でも、彼の脆弱な肉体を守り切ることはできなかったのだ。

主を失った無念と(ボク)の深い後悔が、この地図に呪いを定着させてしまったのだろう。


「下がれ、客たちを避難させろ! 幻影だが、実体を伴い始めているぞ!」


隊長(たいちょー)の鋭い指示が飛び、ガンツが幻影の魔物に向けて斧を振り下ろす。しかし、刃は冷たい霧をすり抜けるだけで、決定打にならない。

二人の戦う背中を見つめながら、(ボク)は杖を握りしめた。

いつまでも、過去の亡霊に彼らを付き合わせるわけにはいかない。これは、(ボク)自身の不始末だ。


 ◇


「ガンツ、隊長(たいちょー)、そこをどいてくれないか」


(ボク)はゆっくりと立ち上がり、冷気を放つ地図の前に歩み出た。


「君たちの見事な連携には、いつも心が温かくなるよ。でもね、過去の未練なんてものは、ただの燃えカスさ」


杖の先を、カウンターの上の羊皮紙に向ける。


「いつまでも抱えていたって、何も救われはしない。さあ、そろそろ灰に還る時間だよ」


パチンと、(ボク)は指を鳴らした。

練り上げた魔力が解放される。

杖の先から放たれた古代魔法<焼却>の青白い炎が、音もなく地図を包み込んだ。

幻影の魔物が悲鳴を上げて融解し、雪山の景色が炎に舐められて崩れ落ちていく。最後に、あの探検家の男の幻影が、(ボク)に向かって少しだけ笑って、消えたような気がした。


一瞬ののち、店内の冷気は嘘のように消え去り、カウンターの上には一握りの黒い灰だけが残された。


「……何が起きたのかは聞きませんが、随分と冷や汗をかかされましたよ、フィス君」

「全くだぜ。なんだってあんな厄介なもんが店に出たんだ。筋肉が冷えて縮んじまったじゃねえか」


文句を言いながらも、二人はそれ以上(ボク)を追及することはなかった。彼らは、他人の過去の重さを知っている。深く踏み込まないのが、この店で共に飲む者たちの流儀だ。


「ごめんよ。少しばかり、昔の落とし物が出てきただけさ」


(ボク)は静かに息を吐き、カウンターに座り直した。

無言でガストンが差し出したのは、いつもの冷えたワインではなく、スパイスを効かせた温かいホットワインだった。その気遣いが、少しだけ心に沁みる。


(ボク)は湯気の立つグラスを持ち上げ、呆れ顔の悪友たちに向けて優しく微笑んだ。


「溶けて消えた古い約束と、今を共に生きる悪友たちに乾杯!」


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