第55話 『厳格なる帳簿の隙間に、色褪せない愛と恥のポエムを挟み込んだ話』
帳簿の数字は、決して嘘をつきません。
一年に一度の棚卸し。この日は店を閉め、倉庫の在庫と台帳の数字を一桁の狂いもなく照合する、当店にとって最も神聖な儀式の日です。埃っぽい空気の中、私は羽ペンを走らせていました。
「お母さん、奥の棚の予備グラス、また三つ足りないよ」
埃まみれになったミナが、厨房の奥から声を上げてきました。
私は溜息をつき、先月の支出欄を確認します。ああ、やはり。フィスさんが店内で<洗浄>の魔法を暴発させた際、風圧で割れた分ですね。もちろん弁償金はきっちり頂きましたが、グラスの再発注にかかる手間賃までは請求し損ねていました。来月からは、魔法使いの器物破損には特別違約金を上乗せするよう、料金表を改定せねばなりません。
それにしても、この店は本当に経費が掛かります。
私はリストの次の項目に目を移しました。仕入れ帳です。
あの人が……いえ、店主が無言で買い付けてくる食材は、どれも常軌を逸しています。
『霜降りグリフォン』の卵、氷の洞窟でしか採れない『白雪茸』、そして極めつけは、行商人から言い値で買い取った『竜の牙』の塩漬け。
原価率を計算するだけで目眩がしそうになります。一般的な酒場の原価率などとうに超え、経営の常識からすれば完全な赤字事業です。
しかし、私は帳簿にバツ印をつけることはしません。
なぜなら、これらの異常な食材が提供する「本物の味」こそが、明日の命も知れぬベテラン冒険者たちを惹きつけ、彼らが落とす莫大な酒代と、情報、そして「この店は安全で上質である」という何にも代えがたい信用という名の利益を生み出しているからです。
初期投資としては高くつきますが、長期的なリターンを見込めば、極めて優秀な資産運用と言えます。全く、あの無口な料理人は、計算してやっているのか、ただの料理バカなのか。
「あれ? お母さん、これ何だろう」
木箱の底を整理していたミナが、一枚の古い羊皮紙を引っ張り出してきました。
それは、私たちがこの街で店を始めたばかりの頃の、古い仕入れ台帳の切れ端でした。インクもすっかり色褪せています。
ミナがその裏面をひっくり返し、不思議そうに首を傾げました。
「ええと……『お前の淹れるエールは、俺の血を熱くする。お前の冷たい眼差しは、どんな名剣よりも俺の胸を深く貫くのだ……』?」
読み上げられた瞬間。
「『……俺はこの剣を包丁に持ち替え、一生お前のために……』」
「ミナ。そこまでで結構です」
私が冷静な声で娘の言葉を遮ると、厨房の奥で、大きな肉の塊を刻んでいた店主の包丁がピタリと止まりました。
チラリと視線を送ると、筋骨隆々の巨漢である彼が、耳の裏まで真っ赤に染め、包丁をまな板に突き立てたまま石像のように硬直していました。若き日の彼が、私に贈ろうとして結局渡せなかった、不器用で粗削りな愛の詩。
三十年近く前の不良債権が、こんなところに眠っていたとは。
「ふふっ」
私は思わず、小さく吹き出してしまいました。
数字は嘘をつきません。年月が経てば、建物の価値は下がり、備品は劣化し、減価償却されていきます。
しかし、この紙切れに記された彼の青臭い想いだけは、どれだけ時間が経っても価値が目減りしない、当店にとっての純資産のようです。
私はその羊皮紙を丁寧に折りたたみ、いつも持ち歩いている『黒革の手帳』の、最も安全なページに挟み込みました。
「お母さん、それ捨てるんじゃないの?」
「いいえ。これも当店の大切な『備品』ですからね。大切に保管しておきます。将来、店主が予算の使いすぎで私の言うことを聞かなくなった時の、強力な交渉材料として」
私がそう言うと、厨房の奥から「ガシャーン!」と鍋が落ちる派手な音が響きました。
◇
その日の夜。棚卸しを終えて営業を再開した「錆びた剣亭」は、いつものように騒がしい常連客で賑わっていました。
カウンターの隅では、例の三人がいつものように飲んだくれています。
「いやあ、今日はなんだか女将さんの機嫌がいいねぇ」
フィスさんが、グラスのワインを揺らしながら薄く笑っています。
「店の中が、愛という名の見えない利益で潤っているようだ。僕の心まで温かい気持ちで満たされていくよ。グラスから溢れそうなくらいにね」
相変わらず、何を言っているのかわからないエルフです。
しかし、彼のその言葉の裏でほんのりと空気が揺らぎ、彼が立てかけていた杖の表面が、異常なほど艶やかに硬くコーティングされたのを、私は見逃しませんでした。防犯対策でしょうか。実害がなければ文句はありません。
「へっ、気でも触れたか、細いの。だがまあ、親父の飯が美味いから何でもいいぜ!」
ガンツさんが豪快に笑い、ゴドさんが「静かに飲みなさい」とたしなめる。
いつもの、全く利益を生まない不毛な会話。
ですが、今日ばかりは、彼らのツケの回収を明日まで待ってあげても良い気分でした。
私は帳簿を閉じ、カウンターの奥で顔を真っ赤にしながらひたすら肉を焼いている愛すべき店主と、騒がしい常連客たちを見渡しました。
「色褪せない備品と、少しだけ甘い当店の決算に乾杯!」




