第53話 『若造の勘違いを利用して、王都のエリートに極大の筋肉痛をプレゼントした話』
グラスの中で揺れる赤い液体は、まるで血のように美しいねぇ。
私は鼻先を掠める芳醇な香りを楽しみながら、カウンターの端で頭を抱えている若者を観察していた。
同じ街にある活気に満ちた大衆酒場、「陽だまりの樽亭」をねぐらにしている若手剣士のネイト君だ。彼は近頃、剣の振りがどうにもおかしいとひどく落ち込んでいる。
理由は至極単純だ。以前、ガンツの無茶苦茶な熱血指導によって強制的に引き出されていた肉体の限界突破――いわば筋肉の錯覚による一時的な向上効果――が切れ、ただ元の彼に戻っただけのこと。
ガンツは「筋肉の悲鳴が足りねえんだよ」と笑って済ませていたし、ゴドは「実力以上のものを望むからそうなるのです」と冷ややかに言い放っていた。
確かにその通りなのだけれど、一度でも高みに触れた人間にとって、そこから転げ落ちる感覚は絶望に等しい。壊れかけた玩具を見るのは、少しばかり退屈しのぎにはなるけれど、完全に壊れてしまっては面白くないからね。
「そんなに思い詰めて沈み込むことはないよ、ネイト君」
私は声をかけ、彼を連れ出して街外れの森へと足を運んでいた。
木漏れ日が落ちる、静かで開けた空間。修行にはうってつけの場所だ。
「僕と一緒に、少し深呼吸でもしようじゃないか」
「フィスさん……。でも俺、どうしてもあの時の太刀筋が……」
嘆く彼の言葉を遮るように、私は茂みの奥へと視線を向けた。そこには、不自然に揺れる葉の影と、隠しきれていない魔力の残滓があった。
「出ておいでよ。君も一緒にどうだい?」
茂みからビクつきながら這い出してきたのは、以前旧王都の下水道で酷い目に遭わせてやった、王都のエリート魔法使い君だった。どうやら、得体の知れない私の動向を監視する任務でも帯びているらしい。真面目なことだねぇ。
「ちょうどいい。ネイト君、君は周囲からの期待という重圧が、自身の剣を鈍らせているのさ。真の力というものは、もっとリラックスした状態から生まれる」
私は目を丸くしているエリート君に歩み寄り、その辺で拾った手頃な木の枝を無理やり握らせた。
「力を抜けば、自然と正解を引き寄せる魔法がかかるものさ。ねえ、エリート君。君の洗練された動きを見せてあげてくれないか?」
言葉と共に、私は指先でパチンと乾いた音を鳴らした。
会話の裏で密かに編み上げていた古代の術式が完成し、エリート君の身体に<重量増加>の魔法がのしかかる。
「ぐっ、がぁっ……!?」
突然、自身の体重と持っている木の枝が何倍にも跳ね上がったエリート君は、目を見開いて膝を突きそうになった。だが、私が笑顔で促すと、監視任務の手前、ここで無様な姿を晒すまいと必死に木の枝を振り回し始めた。
全身の血管を浮き立たせ、顔を真っ赤にして、プルプルと震えながらの素振り。端から見れば奇妙極まりない光景だが、ネイト君の目には全く違って映ったらしい。
「……なんという気迫。王都のエリート魔導師ですら、あんな目に見えない負荷を自らに課して、極限の脱力と肉体操作を試みているというのか……!」
ネイト君の瞳に、再び強い光が宿った。
「俺の努力は、まだ全然足りていなかったんだ!」
彼は勝手に開眼し、エリート君の横で猛然と素振りを開始した。
エリート君は助けを求めるような目で私を見ていたが、私は聞こえないふりをして空を仰いだ。
ああ、若者の純粋な思い込みというものは、どんな魔法よりも強力だねぇ。
◇
そして夜の「錆びた剣亭」。
カウンターには、見違えるように晴れやかな顔でエールを煽るネイト君と、全身の筋肉痛で小刻みに震えながら、両手でジョッキを抱え込むエリート君の姿があった。
「いやあ、今日はいい稽古をつけてもらいました!」
「ひぃ、ふ、ふぃ……」
エリート君はもはやまともな声も出ないらしい。限界まで筋肉を苛め抜かれたその姿を見て、ガンツは「おう、いい筋肉の震えだ! 喜んでるな!」と的外れな称賛を送り、ゴドは「……なぜ魔法使いが肉体を酷使しているのですか。全く意味がわかりませんな」と呆れたようにため息をついている。
私は自分のグラスを持ち上げ、彼らに向けて優しく微笑んだ。
「若者たちの目覚ましい成長と、美しい勘違いに乾杯!」




